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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

追記・三好達治

これの続きである。

もちろんこの風景に意味を付加していってもよい。風景は、或いはイコンは、ただそのものであると同時にさまざまの意味の表徴であってもよいからだ。

ほのぼのと茜さす、百の梅の蕾。
そのたおやかな美しさ。

立ち昇る幻か、その記憶の風景と現実の春とは混じりあいその区別を無意味なものとする。

嘗て現実にあった出来事が、現実としては二度と還らないものとなり、…そのリアリティは失われ、忘れられ、永遠にそこに手は届かない。

けれど、それは悼まれ愛おしまれ崇敬されることによって抽象のフィールドに投げ上げられるのだ。それは、外側からは閉ざされながら、こんなにも無限に広がる内部に開かれる。深く広く可能性を持った尊い風景となる。失われることによって得られる、ロマンティック・イロニイ。テクストとなったときそれは個人の具体の風景を超越したものとして「開かれる」。

百の蕾、百の記憶、百の思い出。その豊かさは、己自身であり、その人生の価値そのものである。一つ一つの小さな蕾は、一つ一つの記憶の風景である、と考えてもよいかもしれない。一つ一つ花開いたとき、その風景は再び生き直される、可能性。

…そんな、蕾である。いつでも永遠にこれから花開く初々しい季節の、その蕾。

失われたとき始まる、永遠の、はじまりの季節。

C・S・ルイス「ナルニア国物語」を思い出す。
創造主アスランが世界のはじまりの歌を歌う、創世期のシーンだ。(ルイスはゴリゴリのキリスト教徒である。)その歌が響いている間、すべては種となり、生まれ、成長する柔らかな生命力となる力を持つ。

永遠の、はじまりの季節。永遠の、可能性の季節。

そして、その世界、ナルニアは、この世を捨てたとき得られる異世界として設定されている。


ナルニア国物語のラストは、永遠の生命、輝かしいイデアに移行する主人公たちの至福のはじまり、そしてこの世側での死なのである。(「約束の地」だな。)なんなんだこの童話は。

 

 *** *** *** 


…達治のこの詩は、そんな意味構造の可能性も持っているのかもしれない。

だがもちろん、それは一つの付加的な意味づけに過ぎない。描かれる風景はただまずはなんの意味も持たない梅の蕾だ。その無意味、虚無、空虚、真理。

そう、真理。

真理という空白のまわりに、真善美のすべてがある。


テクストの示しだす風景は、それが既に失われたものであるという虚無を示すものであり、決して取り戻せないものであることを意味する。しかしそれは同時に、嘗て存在したのだという事実の永遠の存在を心の中に生きさせる、表徴することができるよすがでもあるのだ。

情感と切なさは、そのようなその相反した磁場の結節点に顕れるイメージがこれほどに「うつくしい」風景であるということへの感動から生まれてくる。

 

うつくしさ、美の意味とはそのようなものなのかもしれない。


それ自体意味は持たず、あらゆる時空のあらゆる場面において、そこに適合した論理を構築する力。詩とは、そのような「野生の思考」を生み出す記号である。