酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

読書会「なめとこ山の熊」

大学院のゼミの後輩君が眩いほどの行動力の持ち主で、自宅をサロンにしてさまざまなイベントを催している。 

なんだか私と誕生日一緒とか好きな歌手が一緒とか編み物をたしなむとか(彼女は副業でオーダーメイドドレスのブランドなんか立ち上げてちゃった手作りプロなんだけど。)奇妙にあれこれ符号が一致してて、前世では姉妹だったのではという疑いがもたれているひとである。(背はすらりと高くて社会性に富み行動力があって公共心があって優しくてまっすぐでやたらといい人で、っていうとこが全く違うので、光の面を彼女が、暗黒面を私が受け持ったかたちである。)そして高校の先生も母校の大学の講師もやっちゃうし洋服の個展なんかも開いちゃうものすごいひとなんである。 

…あれ?やっぱり一緒なのは誕生日だけですね。なんとかとスッポン。
(月もスッポンも好きである。どっちもうまそうだ。) 

まあとにかくその彼女が自宅イベントで、こないだから賢治の作品を読むっていうテーマの読書会をシリーズで開催されておられるんである。

今度月末土曜日には第二回、取り上げる作品は「なめとこ山の熊」。 

…第一回が、「アメニモマケズ」だったんだよね。

両方、私の苦手な、というかひたすら苦い、苦しい、重苦しい。賢治作品の中ではヒジョーに重要ではあっても、自分個人的にはどうもあんまり好きじゃないやって言いながらプイと目を背けたい、苦苦苦なケンジ・カテゴリー。

非常にざっくりとした簡単なイメージでこのケンジ・カテゴライズについて説明してみよう。


賢治作品では岩手の土着性と奔放なユニバーサリティの両極が不思議な形で融合している。それはすなわち現実としての岩手の生活のなまなましい厳しさから心象のイデア的概念、ファンタジックな理想郷イーハトーブを両極とした距離を示しているわけなんだが、ワシはとりあえずその単純な二項対立でさくっと分けて言ってみると、現実から逃れていこうとする翼の部分が好きなのだ。

はじけてぶっとんでゆく新しもん好き未来派野郎賢治の超ー仏教的にしてラディカルな「意味以前」のマトリックス・パワーが好きなのだ。言ってみれば優れてナンセンシカルに見える、ひたすらただ「このように見えて仕方がない」、目的性の失われた解放された意味の戯れのように見えながらトータルなダルマに貫かれた美しい構造世界の中に遊ぶ姿に惹かれるのだ。痛ましいほどのしがらみや罪業の苦しみからの開放への、飛翔への祈りをも含め。それは賢治作品すべてに瀰漫する「祈り」の中でも、ただひたすらおめでたいこどものようにまっすぐな希望の側面を、理不尽への悲憤慷慨や倫理や自己犠牲のような無辜へのゆがんだ欲望に引き付けられた思想性やイデオロギーの物語からのがれた形で保存している。

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アメニモマケズは賢治にとってはまず作品ではなく苦渋なリアルに満ちたメモであったと考える方がとりあえず妥当だと思っているし、(まぎれもなく賢治テクストであるという意味ではもちろん作品ではあるのだけど。)なめとこ山の熊もしゃべる熊や舞台などファンタジックな要素でできあがっているといえばそうなんだが、土着性、具体性の要素が強く、ゴリゴリと押し出されているテーマはなまなましく痛ましい搾取と殺戮の悲劇である。町ー山、商人ー漁師、経済至上主義ー自然、搾取する側とされる側。もちろんそれをひっくり返す仕掛けは、その懐の深い豊かな力とたとえようもない美しさ、熊と漁師のかなしい絆の描き方の中にしっかりと書き込まれてはいるんだけど。

そう、とにかくやっぱり賢治は全体性として賢治。あんまり~とか言って決めつけたまま目をふさいでいるのもナンだし、と読み返してみた。「なめとこ山」。

 

…やはりキツい。今個人的に精神が弱っているせいもあって胸が痛くなるほど辛くなった。

そしてだけど、忘れていた、あるいは新たに感じた。その文章の魅惑、そのうまさ。文体の素晴らしさ。描かれる風景の土着ならではのなまなましさと透明な美しさを一体のものとして貫いてゆく豊かさ、ものすごいエネルギイに満ちた個性、力強い美しさ。ラストシーンの圧巻。

ううむ。私の基本姿勢は変わらない。だが凝り固まった記憶の思い込みに修正を加えながらきちんと読み直す価値は、その醍醐味は十分にある。

 

読書会なあ、ちいとなあ、行ってみたいなあ。ドラえもん、どこでもドア…