酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

妄想

荻窪の小さなワンルームで、するんと背の高いあのひととさまざまの考えを一生懸命語りあっていた時代のことを思いだした。

とても大切な思い出なのに普段はしまいこんで忘れているんだな。

…いや、そういうかけがえのない時間を重ねてきた、その上で現在が成り立っているという豊かさをこそ私はきちんと把握しなくてはならないし、それは、崖っぷちに立たされたと思ったとき、自分を支えてくれる唯一の、最後の望みの綱になってくれるものとしてある。

 

Y君と私は、ふたりとも二十歳そこそこで、同じ大学に通っていた。

彼はウチのすぐ近所に越してきて、私は夜になるとよく家を抜け出してあの部屋に遊びに行った。近所のコンビニに一緒に行って夜中のおやつを買って帰ったりして、何だかままごとのように楽しかった。(私はかぼちゃプリンが好きで彼はチーズ蒸しパンがお気に入りであった。)土日には一緒に街をほっつき歩いて買い物につきあったり喫茶店でケーキを食べたリ(吉祥寺のレモンドロップは当時からあったんだぜ。あの頃は井の頭公園口のお店だった。多奈加亭もチェーンなんかになってなくて、とっても素敵なかぼちゃケーキがあったし、ゆりあぺむぺるは当時から白ワインとスイーツのマリアージュなんていう洒落たことしてた。)、朝には待ち合わせて学校に一緒に行ってみたり、日常のちいさなくだらないことでたくさん笑ったり。若さのもつ尊大さで人生について偉そうに議論したこともあったのだ。本当に忘れていた。

麦酒の味を教えてくれたのも彼だった。それまでおいしいとか習慣的に飲みたいとか全く思ってなかったのに、あれこれ飲み比べにつき合わされてたりするうちにすっかり麦酒なしでは生きられない身体に。(アル中への手ほどき…感謝すべきところか抗議すべきところか…。)

泣き虫のあのひとの純粋さに大層驚いたこともある。最後にみたあの人の顔は、私がさよなら、と言ったとき、目を真っ赤にしてほろほろと泣きだした、あのやわらかな泣き顔だった。あの顔のことなんかを今なんだかつるつると思い出している。私は泣くことはできなかった。どうしてかわからない。寂しいことよ、とは、確かに思ってたんだけどな。

で、もう少しで世界が滅ぶんだったら、或いは自分の人生が終わるんだったら、どうする?なんて話をしたことがある。確か二人で彼の淹れてくれた珈琲を飲みながらだったと思う。日曜の夕暮れ時。

「今もってるカネ全部きれいに使い切る。今まで我慢してたやりたかったことぜんぶやるな、オレ。」

…なんてことを言うから、なんだかものすごい陳腐でつまらないなあと当時未熟な私は思ったんだけど、今、実は自分が彼とまったくおんなじことを考えてるということに気付いて愕然としているんである。(それで思い出したんだけど。)

我々は皆大抵、日々が続くという前提のもとに、普段のこの日常に支えられ、また、閉じ込められている。明日を守るために明日破滅しないために社会的立場を守り暮らすために節約したり我慢したりして置かれた場所で分相応に生きようとしているのだ。

けど。

心のどこかで、ここからポンと抜け出して限りなく自由になりたい、と、いつだって思っている。何もかもから逃げ出して。(問答無用に不可抗力な力ですべてをぶっ壊してくれる、ゴジラのあの圧倒的な破壊っぷりに痺れる快感をおぼえる原理。縛るものに対する破壊への衝動はこの自由への憧れからくる。)

夕暮れの最後のひと切れの中を遥かに光りゆく飛行機を見上げて、あれに乗ってドコカに行きたいなあ、とか、電車に乗っていて、このままふと出奔してしまいたいなあ、とか。

それがあたかも貨幣経済に関した陳腐で通俗な欲望に帰結してしまうものであるかのように感じてしまうことの切なさは、深く人間の業に関する寂しさである。と同時に、一見非の打ちどころのない合理的な貨幣経済制度による社会が、どこか決定的な歪みの源となる構造をそれ自体もっていることを示唆している。その圧倒的で暴力的な魔力、束縛力は、人の本来もっている「ほんたうに大切なもの」を問い続ける力を曇らせるものなのかもしれない。とてもとても個別的なただ「それ自体」でだけであるはずのものを、代替可能であるかのような記号に還元してしまおうとするメディア構造の力。

 

さて、ということで。

煩悩満載最後の望みプラン。

とにかく何にしろ断捨離しなくちゃ動きがとれないな。業にまみれた我が人生、せめて後に残るケガレの痕跡を少しでも減らしておきたい。

で、ほんのしばらくまったくのひとりの自由になってみたい。何にも脅かされることなく怯えることのないところに生きてみたい。そうして、行きたかったところ、やってみたかったこと、我慢してたこと。…しかしねえ、憧れだったあの店のあのケーキ食べておこうとか、もう一度、懐かしい友人たちとあれやこれや遊んで笑ったり話し合ったりしておこうとか。せいぜい、その程度。あと、旅。圧倒的に、これ。旅だ。持ってるお金がからっぽになるまでひとりでひっそり。日当たりのよい明るい部屋を選んで日を暮らし夜を明かす。そこではきっと今日常の中で読めなくなっていた本や漫画がちゃんと読める。今家にたまっている積読を抱えて行って何にも邪魔されず心配もせず読みふけるんだ。ふらっと映画館に入ったりとかもね。そして考えたこと好き勝手にいっぱい書き残して。

…いずれにせよ、時間とお金と身分と、あらゆる身体性に心が縛られて抑圧されてきた、小さな小さなことどもが降り積もって致命的になったココロノコリたち、山積物。本当はいつだってできることなのに。或いは、心の中にきちんと小さな永遠の日曜日を持っていたら。…ただ勝手にひとりで牢獄に入って、頑張って生きている眩い人たちを羨んでいた。

 

…いよいよとなったら(このときはすぐに来るだろう)、怖さや痛みが麻痺するように酒をたらふく飲んで泥酔してから湯を張ったバスタブに入り、鋭利なナイフでぐっと内側に向けた手首を切る。このやり方が、お湯の中に血液がどんどん流れだしていくから確実だという。服は着たままでいよう。そして独り言をぶつぶつとつぶやきながらそのまま眠ればいい。

まあしかしこれもまたその後の陳腐で悪趣味なお昼のメロドラマや安手のB級サスペンスホラー映画みたいなシーンだなやと想像したらやんなっちゃったよ。己の最後が驚くべき残虐さと醜悪さと陳腐さ、そのあじきなさに彩られたかたちで締めくくられるってのも…まあそんなもんか。(ちなみに私はホラーやスプラッタは大嫌いだ。好んで怖い思いをしたがる輩の気が知れぬ。映画はおめでたいハッピーエンドに限る。世界は脳天気なお花畑であるべきだ。)

つまりだな、この陳腐ないやらしさは、第一発見者になる彼、私を追いつめたあのひとのこの後の人生を一生その風景のトラウマでダメにしてやる、とか考えているところからくるワケだな。「こころ」のKを気取ってたりさ。とりあえずこれは、無力な自分の身をかけた精一杯の復讐。窮鼠というのはこういうやりかたでしか猫を噛めないものなんだ。それにしてもなんて穢れた根性なんだろうねこういうのって。我ながら。

…だけど本当に、こんな風に憎みたくなかった。本当に本当だ。私があのひとを攻撃したことはない。(わざわざそうやって労力を割く価値もないと思ってたわけなんだが。)ただそっと逃がしてくれればわざわざ執拗に攻撃しにこないでくれれば。…そりゃね、諸悪の根源は、ひとをばかにしている私の傲慢さなんだからさ。それはわかってる。

ああ、自分で自分の首を絞めなくちゃいけなくなっちゃったのは、どうしてなんだろうなあ。

愚かさと甘えと、矜持と。

だけどとりあえず今日、私は生き延びて、その今日の分の幸せをたっぷり受けとって、感謝と祈りの心持ちで眠れたりするのです。

ああ、幸せだ。

おやすみなさい、サンタマリア。