酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

村上春樹「騎士団長殺し」

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…先週だったかな。深夜、泥酔状態で(いつもだ。)「騎士団長殺し」読み終えた。
で、その夜、寝ながらあれこれ考えていた。

さくっと言ってしまうとあんまりおもしろくなかった。
が、いざこう言ってしまうとやっぱりおもしろくないわけではなかった、とも言わなくてはならない気がする。

要するに消化不良なんだが、ねじまき鳥とか1Q84みたいな力技の激烈な物語の面白さ、精密に構築されたテクスト構造の洗練。そういう要素に欠けている。ひたすら理屈っぽい。ひとつひとつは興味深い要素のモチーフのさまざまをてんでんに投げ出している印象。

もともとこういう傾向を持っている作家であり、そこが絶妙のテクストの揺らぎと深みとダイナミクスをつくりだす技でもあるんだけど、ちょっとこれはバランスが悪いのではないか。

う~ん。というか、激越な思いの熱さ、感情や問題意識を冷静な論理や理屈や淡々とした気取りでカヴァーしている感じが透けて見えるのが魅力なんだけどな、この人。そのキモである「熱さ」「痛み」が今ひとつ重みを以て伝わってこない。心が共振しない。それぞれの最初は雑多なように見えていた数々のモチーフが、その熱さのエネルギーによって物語の流れの中で収斂していく、というあの魅惑、あの感動、あの物語のエキサイティングな面白さがない。理屈で盛りすぎの印象を与えてしまう。


…ということで、(というか単に気力能力の低下のせいかもしれないけど)感想を書く気にもなれなかったんだけど、一応せっかく読んだんだしね、備忘録の意味をこめてメモ的に書いておこうかと。

 

とりあえず、前提メモ。作品中の「女性」モチーフについて。
(メモなので飛ばし読みしてください。)

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(人生の、心身共に分かち合う唯一のパートナー「妻」、喪失、失われたものを示す「妹」(コミチ)、そして、性的パートナーとしてというよりは、その具体を超えた、より霊的な意味を色濃く持つ、第三の女性、「少女」(秋川まりえ)。(1Q84のふかえり、ねじまき鳥の笠原メイ等に共通する少女巫女的なイメージを持つ(一般社会に適合していない身勝手なアドレッセンス)。)

(共通するのは、美しい愛しい大切な異性のイメージ、よきもの大切なもの永遠に不可知な神秘なものとしての女性一般の象徴としてののモチーフ。)(この三人がさまざまのペルソナをまとった三位一体となって、すべての女性というイデアを示しだしている。)

 

(これは「騎士団長」としてあらわれた、集合的無意識界に通ずる権力に結び付いたイメージを持つ「イデア」とはまったく異なる。寧ろその対極をなすものとしての、極めて個的に守られたところにある常に純粋で透明なイデアである。)

ちょっと泉鏡花「由縁の女」の女性たちの構図を思い出した。主人公由縁の女たち。そのすべてがそれぞれの魅力と美しさをもち主人公を愛するが、道行きのなか彼女らとの関わりをめぐりながら主人公が行きつくのは、彼にとっての女性のイデア、永遠の女神、ファムファタルとしてのお楊さんであった。

春樹作品も、女性遍歴に関して言えば、このような構造を持っているのかもしれない。過剰な性描写のこだわりは、他者との肉体と精神の接点のありかたをあえて露骨な比喩表現で示していると考えることもできるからだ。様々な女性との関わりを経て、妻、永遠に追い求め続ける究極の他者としてのパートナーへ行きつこうとする物語のひとつの流れ。

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さてさて。

この作品、参考に、ちらっとAmazonでの書評を覗いたら、辛口の評価の中に、さもありなんというのも多かったですな。

う~ん。そうだよなあ無理ないよなあそう思うの、って思ったり。

 

…で、でもさ。ふと心づいたんである。これは、この巨匠が今更この不器量さを感じさせるこの作品は、もしや。

いびつで中途半端で作品としての開発途上性を確信犯的に(意図的に)提示しているのではないか。

画家である主人公が、未完成であることを、今は描き上げてはならない絵のことに固執している、このモチーフは作品自体の「今途上にあることの正しさ」に重なっているようにも思えるのだ。そう考えるとこれはちょっとおもしろいかもしれない。(単品としては評価できないものだとしても、春樹文学研究の一環として、この先の彼の作品傾向を想定するという仮定の上で。)

作品のあらゆる場所で示されているサインがある。
「時間を味方につける」
「今完成させてはいけない(できるという確信はあっても)」
「言葉や概念ではなく、フォルムとしてのそのものを取り出す」

そして、結局は、概念としてのイデア界、非日常的な幻想や芸術家や免色などの特殊な生活をする人々の世界ではなく、意味を保留した非常に庶民的な(人生をかけた仕事としての、芸術を追う絵画を保留し、生活のための肖像画をテクニックとして量産し続ける生活という)現実界の日常に回帰することにこだわってゆく。

究極の女性としてすべての「女性というイデア」の要素を秘めた妻を取り戻すことの意味が逆説的にここに帰着してゆく、その決意のようなものが作品の取りあえずの結末である。

(けれど、最後の最後に、未来と可能性を秘めた不可思議の結果(夢の中での性交による妊娠)の娘にイデア(騎士団長)の存在を「本当にいたんだよ」と教え込んでゆく。これもまた決意である。あの非日常の日々を決して否定しない。抱え込んだまま、敢えて保留しているのだ、という意思表示である。)(これは、日常というものの非日常性、すなわち日常から逸脱した冒険から回帰して、その過程を経て初めて得られる、読み直され、止揚された形での新しい日常を意味している。)

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モチーフの面から言えば、イデアとメタファーの奇妙なキャラクターとしての擬人化。(騎士団長と顔なが)これも試み、冒険だ。

また、今まで、謎めかしておくことで神秘のヴェールをかぶせていた「ムコウガワの闇」に、何らかの形を与えてみる試みのひとつとして、あえて陳腐さをまとわせるというテクニックを試している。

この試みは随所に見受けられる。

非難の対象とされてきたタカビーな気取りにあえて俗っぽさを添加するような。例えば、完璧な免色がゴミ捨てをする姿の発想、免色の贅を尽くした住まいや一流のフランス料理と主人公がスーパーマーケットで選ぶ食品、クラッカーにケチャップをつけて飢えをしのぐシーン(今までの春樹作品ではありえなかった)、銀色のジャガーと白いスバル、中古のトヨタカローラワゴン、巫女的な少女の持つショップの景品のプラスティックのペンギンの携帯ストラップ。そして、主人公が妻を取り戻し子を持つ、というラストの設定。

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まあね、とりあえずとにかく今までの村上作品に現れてきたモチーフ、節操がないほどに総出演てんこ盛りだ。

理由もなく妻に捨てられる主人公、井戸の底に閉じ込められる恐怖、身体の組成を支配する水(ねじまき鳥)、害をなすものとしての旅先の謎の男女(「女のいない男たち」の「木野」を思いおこさせる。)、妻の病としての浮気、面食い欲望(「女のいない男たち」「独立機関」の「ヤツメウナギ的思考」のなかにいる女性の論理を超えた病としての欲望)己の内部に潜む闇、現世で力をふるう宗教団体。戦争の傷跡、その暴力の残虐な描写。それによって「損なわれたもの」が残されたものの闇と傷あととなって、物語を動かしてゆく。異界にある大いなる謎の力、謎の存在、そこからしみだして形象化してくるようなリトルピープル(「1Q84」)的存在。時空の論理を超えた異界、その夢の中の性交によって現実に妊娠する女性。

 

だが、繰り返す。

ここでは、今までのそれら「春樹モチーフ」を非常に不器用な、乱暴なやり方でごたまぜに扱っているような印象を受けるのだ。今までの作品よりもすべての結びつきが論理ではなく直観(異界的なるもの)に支配される割合が異様に高い。いわゆるシンクロニシティの重なり。

言ってしまえば展開がイージーである。よくわからないけど都合よくメッセージがあって、異界での冒険と試練があって、そこで主人公の心は内面を見つめ未来を思い、そこを乗り越えて帰還すると現実界での問題は既に解決し、生まれ変わった新しい世界となっている。まるで銀河鉄道の夜のジョバンニだ。

それ自体善でも悪でもないイデア。(この意味は非常につかみにくい。が、一貫して春樹作品に見え隠れするモチーフだ。)(羊をめぐる冒険やねじまき鳥、1Q84では戦争を生み出す権力やそれと結びついた新興宗教的なるもの「悪」の顔をしたもの)(要するに現世のイデオロギー的なるものに繋がる。)

これの形象化した存在(騎士団長)を殺害することによって、メタファ(顔なが)が現れ、メタファの発生する源泉、隠蔽された無意識界、意識・観念以前の有と無の狭間の観念世界に入る手立てを得る。(失われた少女を再び見出すため。)ここで主人公は、いわば、意識をもって意識を超えようとする。その矛盾を超えようとする。(無意識界に接しているために必然的に意識崩壊の危機を孕みながらの冒険になっている。)

絵画を描くときの、概念的な意味を超えて本質を、そのものを掴み描き出そうとする主人公の葛藤をこの冒険はなぞっているようにも思える。概念化してしまうイデアを超え、その先の本質へ。

(これは、以前のここでの記事「散文と詩歌」でエンデ「果てしない物語」で述べた知と芸術と個に関する記述をもまたなぞっているものである。「全知の声の存在ウユララに行きつくための三つの関門、その最後の門を通る条件が「何も望まない」「知ることをも望まない」ことであり、ファンタージェンを救うための知を得ようとするアトレーユがそれを望まないために記憶を失った状態になる、個を放棄することによってそれが成就する、というエピソードはこの意味で非常に示唆的である。」)

 

そして、総括としてこれはそれらすべての問いと答えへの絶えざる欲動を絵画と音楽の中に封じ込め、また個と時代を超えてそれを見出しつづけようとする、その可能性を示し出す主張である、と。

 

これは、限られた論理としての構築物ではなく、投げ出されたかたちでの異界とのメディア、野生の思考を呼び出す記号としての芸術論の試みなのかもしれない。

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…ファーストインプレッション、こういう感じかなあ。春樹の作品史において、何かの転回点であることは間違いないような気がする。

とりあえず相変わらず激しい春樹節な文体であることは、確かです。単品としては、特に入門としては、絶対にお勧めできない、ということだけは言っておこう。