酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

冬虫夏草 梨木果歩

冬虫夏草

読了後、タイトルを鑑みる。
やはりしみじみと意味深い。

これは、単に主人公たちの会話に出てくる話題、ひとつの珍奇な生命の在り方を間に合わせの切り貼りタイトルにもってきた、という意味あいなのではない。

帯のコピーには本文のこの部分が抜き書きされている。「自然の猛威に抗いはせぬが心の背筋はすっくと延ばし、冬なら冬を、夏なら夏を生きぬこうとするする真摯な姿だった。人びとも、人間(ひと)にあらざる者たちも…」

この世と異界の境目の緩やかな世界の中、ゆるやかに流れる主人公の日常を描く前半部、そして非日常要素を色濃くしてゆく旅の道行の後半部。この作品は、その道中のさまざまのエピソードを章ごとにオムニバスのように綴ってゆく。一見、ただとりとめもなく語る日記のように。

が、「冬虫夏草」このタイトルの持つ象徴性に気付いた時、それが全篇をくっきりとひとつの力強い主題にまとめ上げているものであることに気付くのだ。



自然の中で生命の連鎖「食うこと」に関する概念への洞察に、深く透徹した構造を見抜く眼差しを感ずる作品だ。


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冬虫夏草とは、一種の寄生キノコである。コウモリガの幼虫に産み付けられた胞子が冬の間その内臓を食い破りながら菌糸を増殖させ、幼虫が蛹になったときに丁度体表を浮き破って子実体、つまり目に見えるキノコの形として背中から伸びてくる。…なんとも不気味な寄生のスタイルを持つ菌類だ。冬には虫の姿であったものが、夏にはキノコとなっているかのように見えるのでこの名がある。

これは論理的に言って、単純に幼虫はキノコの菌床とされている、と考えるのがまあ順当であろう。

だがこの作品の中で主人公はこの生態を「異類婚、糸状菌の悲劇的な恋愛」などというディレッタント風のロマンス小説の発想のネタの話題として取り上げたりしている。

一見ふざけたディレッタント趣味、単に一種のユーモアの趣向であるかのような挿話である。

だが、生死を超えたところ、自己というアイデンティティの枠組みの概念をひっくりかえすものとしての恋愛というスタイルの発想。ここには、自己と他者の関係性の在り方の相剋と孤立に「生命体としてひとつのものとなる」という発想をしかけるパラダイム変換が実は既に仕込まれている。

「ひとつになる」手段としての「恋愛」と「生死」と「食」の概念の構造的な関連へのまなざしである。

「食べてしまいたいほど可愛い」という食と愛の関連は一般的ですらある。ひとつになりたい、ひたすら純粋な相手への思いの強さによるこの「食うー食われる」関係への関連への倒錯にはしかし、己のエゴ、自我、アイデンティティを乗り越える唯一の道筋がメタファとして示しだされているのではないだろうか。

或いは、「食べてしまいたいほど可愛い。」と「食われてしまってもいいほど愛している。」というエゴの反転が、反対なのではなく、ひとつの現象の表裏に過ぎないという感覚を可能とする場。

それは、主体と対象の枠組みの区別を自ら望んで無化する、自己への固定化したアイデンティティの枠組みを捨てる、恋愛から愛にいたる止揚の場、特殊な意味のフィールドなのである。



狭い己の枠に固執する利己、業、罪業を乗り越え超越した視線を得る術への示唆。
すなわち、巨きな世界、生態系(食うー食われる)の構造の中の己の位置づけを認識することを、個体の側からの視点、官能、感情の本能から解釈する恋愛をメディアとした構造に重ね、変換させる発想である。構造を同じくしてフェイズ(相)を変えるという理論の発想だ。


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たとえば、日常の中、花鳥風月、四季の移ろい、自然の風物への風流を豊かな情趣をもって穏やかに描いただけように見える、庭のモリアオガエルのエピソードがある。

孵化して池にダイビングしようとするオタマジャクシを狙い、生まれた途端のその生命を食らったときのイモリの充足、食による至福、恍惚の表情 ー このとき、主人公の脳裡には、気になる女性から指で飴を口中に押し込まれた瞬間総身を貫いた甘みの感触が鮮烈な官能をもって重ねられてくる。

そのときの己の感情を何であるかを判断しかねていた彼は「やはりうれしかったのだと、ここでようやく認知することであった。」と納得する。食による官能と恋愛の官能がぴたりと重なっている。

食と恋愛、生命の根源。それは他の生命との関わりによって生きる、その、「罪」というよりは「業」と呼ぶべき生命の在り方。ここには、生の官能(性に限らない)、命そのものの悦びを贖う原罪という構造への洞察を感じ読み取ることができる。


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このように、この作品では一貫して、残酷なほどの「非人情」(漱石)の自然の生態系を描きながら、並行して「食」の発想の繋がりによるさまざまの愛の物語、人生ドラマが描かれている。その風景の中での「食」のひとつひとつへの丁寧な描写は、生命の連鎖(食物連鎖)に伴う現象がひとつひとつ、身体的に満たされる喜び、官能であり、同時に人間の繋がり、愛の満たされる喜びのドラマである二重のフェイズを持っていることを示している。

…イヤ何しろ郷土の人々の暮らしに根差した独自の郷土料理の描写が、実においしそうなのだ。


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例えば、旅に出る前の伏線として、隣りのおかみさんの実家の習わしである郷土料理としての柿の葉寿司がある。普通の柿の葉寿司は緑の若葉を用いる大和路の名物だが、吉野から紀伊にかけての陰国の方では、紅葉した柿の葉を用いて、晩秋にもこの柿の葉寿司をつくる。その微妙な季節の風味を描き出す、簡潔にして見事な描写。


旅の中でふるまわれる料理もそれぞれの土着の食である。それはそして人間や動物、物の怪の類の織り成す生命のドラマの中に組み込まれた強烈な印象を持つ。

おいしそう、味わってみたい、と思わせる魅力、それは心身に摂取される生命力、世界との交感、己が生命の世界全体に連なることを感ずるための大地のパワーを力強く宿したものなのだ。そしてそれは同時に丁寧な料理するひとの手、人間的なレヴェルでの社会的世界との関わり、ありがたさ、感謝の念とも重ねられている。

主人公は道行の中で、自然の中の生命の連鎖、その恵みと犠牲、人の思い、命そのものや他者への慈しみ、手間ひまのかかった、そのひとくちひとくちを、生命を、「おいしさ」として大切に心身で喜び味わう。


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蜂の巣から取り出す風景から関わる、甘辛く炊いた、或いは塩味で炒った蜂の子。


慣れない山歩きで疲れた主人公にふるまわれる、水溶きのメリケン粉を平たく焼いた皮に餡を包んだあん巻き。
「黒砂糖の餡の、どっしりした甘みが脳天を弛緩させるようだ。」

太くて短い蕎麦とそれに絡んだ汁が素朴で、私は食べながら感動した。(わしが打って、婆さんがゆがいた、先生が帰らはったらすぐ、汁に入れる段取り。)

朝食には麦飯にたくあん、里芋の味噌汁、川魚の煮たもの。

むかごご飯、干し鮎を戻して炊いたもの、里芋の煮付け、セリの浸し物。すかんぽ。


客にも仲居にも怪しげな妖怪変化の入り混じる怪しげな山の宿で供される郷土食のそれぞれもまた味わい深い。

「汁椀と飯椀、漬け物に和え物。飯には子持ちの魚が炊き込んであった、食むと、その小さな卵が、小口切りにされた
ネギに絡み合って口のなかで歯応えよく弾けるのが心地よかった。」雷のへそ、ツル、「たのし」(たにし。泥を吐かせて茹で塩もみ、だし汁で煮てから砂糖醤油で煮詰める。)


最終目的地、イワナの夫婦の営む宿の食は以下のようなものであった。

炊き立ての飯に、何やらの茸の味噌汁、菜っ葉の漬け物や梅干し、小魚の焼き干しなど。




そしてまた、イワナの夫婦の営む宿でのイワナ料理という不気味な共食いのテーマがここには色濃く影を落としている。食物連鎖による生命のエネルギイの流れ。

人と動物と異界の者たちの領域をないまぜにしてゆきながら、山を奥へ奥へ、秘境へと進み、次第に人界から異界へとステップを踏んでゆく段取りが、作品の構造の中でじわじわと仕掛けられてきている。そして、遂に主人公の旅の目的地、イワナの宿に辿り着いたこのシーンは、既に近代の常識を離れた夢の中を語るかのような幻想領域を描き出すことになる。



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…旅は、土着の神、この世とあの世、そしてそのどちらでもないぎりぎりの境界領域としての「神域」への道行きであった。水の道、風の道の行き合う霊山へ。

人の世と水や大地を繋ぎ統べる神々は、人界と動物、もののけの振幅、境界線が曖昧に崩れて行ったその先に根ざしている。また、下位のイワナから河童へ、そして上位の龍という神の領域へ。

ぬるぬるとした無表情、人に化けかけた奴らを捕獲し食物とする奇妙な非人情、残酷ですらない淡々とした捕食。そこには、個々の小さなドラマを超越した大いなる世界の調和に恭順しているかのような感覚、分裂した主体の…いわば神の眼差しへの梯子がかけられている。

主人公が龍のカケラを渡したとき、イワナとなった夫婦、(或いは人間に化けたものであったイワナだったのか)妖しい中間領域にいた夫婦は、大きな救い、悦びの表情と共に別の存在のかたちへと昇華してゆく。

非人情、残酷さを、かなしみながらあきらめに似たかたちで乗り越えたアンビヴァレンツの均衡の上に初めて想定されることができる、世界の基盤に満ちている慈愛と調和の確信へ。

ここでの生態系「食う、食われる」を、「変化する生命の形」としてとらえる眼差しである。


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「では、家の池の縁で日がな一日、皿となって陽に当たっているのは、あれは「別の形状」を生きているというわけなのか。そうやすやすと「先の形状」を手放せるものなのか、しかしそうやって「先の形状」に未練を持たず、「今の形状」を誠心誠意生きることが、生きものの本道なのやも知れぬ。年を経た河童の誠心誠意なのだと思えば、生きとし生けるものへの、しみじみとした「仲間意識」もでてくるというものである。」

この河童の生態、これが、「冬虫夏草」というタイトルの示す「生きるかたち」の変化のメタファだ。



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さて、旅の中で怪しげな者たちの活躍と同時に語られている人間界の方のドラマである。

向学の意志を無視され、継母によって幼いまま知らぬ土地へ嫁がされた娘の一生。

初めての子を産もうとするとき過重労働のために胎の子ともども激しく苦しみぬいて命をおとしたまだ娘のような若い女性の幽霊、それを失った家族や周囲のひとびとの悲しみ、個の魂を慰め開放し「向こう側」へ送りだそうとする集落の儀式。

旅でゆきあうひとびとの人生の様々は、狐狸妖怪精霊神の類とも絡み合いながら、自然の営み、「冬には冬の、夏には夏の」、ただ運命をささやかな喜びや苦渋を受け入れるのみの命たちの姿だ。

心も身体も環境と宿命によって変化を余儀なくされ、アイデンティティは守られず砕かれ翻弄され流転する。だがそのときのそれぞれの形態をひたすらにひたすらに受け入れ、精一杯日々を、生命を生きる。

換言すれば、何かに、或いは運命に「食われ続ける」。

…そして、そのときはじめて、己でないもの、己の外部の生命をも己の一部のように感ずる巨きなものの一部である帰属感がすなわちアイデンティティであるような、寧ろ宗教的な世界観の中に生きる現象が救済のかたちとして見えてくる。

キリスト教の言う、「砕かれた自我、魂」。仏教を思わせる利己と利他の合一。イドのあるところにエゴをあらしめよ、と説いた哲学、フロイト的心理学。


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形態を変える、「別の形状」を生きる、ということが、アイデンティティの崩壊や他者との関わり、混じりあいとどう関係してくるか、それを「愛」と「食う食われる」の関係に、(恍惚と官能をメディアとして)生態系と人間社会、人界と異界、それらのフェイズを類似構造として重ねてみせる。


  

それは、あらゆる運命を超えたひとつの「救済」への道筋を提示する。

「さまざまの己」アイデンティティの枠を超えることも恐れない、ただ真摯に生きる生命としての己を自覚するとき、「仲間意識」が生まれる。利己、という概念が意味をなさなくなる。


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ラスト、愛犬ゴローとの再会を果たした読後感もよく、全てを含包した日常へと螺旋を描いて回帰してゆく。万感の思いを心に畳みこみ、ぱたんと本を閉じる。

…おもしろうございました。

冬虫夏草

冬虫夏草