酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「宵山万華鏡」森見登美彦

宵山万華鏡

宵山万華鏡

 2011元旦、岩塩ランプの下、森見登美彦宵山万華鏡」読了。

 う〜ん、よかった。面白かった。

 幻惑を、見事な計算と構造によって構築する、万華鏡幻想小説。世界の外側も内側も、時空の構造も、ウソもホントもくるくると万華鏡の風景、祭りの中の迷宮。


 …とにかくお見事、と、感服するのが、読者を幻惑世界へと引き込む、この緻密に計算された万華鏡的物語構造構築の巧みな手腕なのだ。互いに微妙にずれながら反射しあい、響きあう、モチーフと登場人物。
 その視点の作り出す物語と真実の在り処は、固定することなく、ずれ続け、揺らめき続ける。ひとつひとつのモチーフの煌きが、迷宮としての世界像をかたちづくりながら、固定化しようとする現実を破壊する。そうして、ダイナミクスとしての祝祭空間を成立させる。


 作品の全体像、章立て構成としては、京都の、宵山の祭りの一夜を巡るオムニバスのようなかたちで、中篇が六話、収められている。

 序章としての「1・宵山姉妹」と、終章の「6・宵山万華鏡」は、宵山の夜、姉妹がはぐれてそれぞれ迷子になる、という同じ出来事、同じ登場人物を、二人の姉妹の視点を入れ替えて、鏡のように正反対にした形で描いている。まるで学術論文のよう精緻な論理展開。…現実世界の宵山世界の入り口としての「1」から、幻想世界に迷い、その世界構造を肯定した上で、その「向こう側」死の世界に取り込まれた者と、危うく帰還する者、出口へと辿りついた者を描き分けた「6」の結末へと、すっきりまとめあげた構成である。

 まず、前半部、「1・宵山姉妹」「2・宵山金魚」「3・宵山劇場」は、あくまでも現実の側に立脚し、幻想的な風景が描かれても、最後には、これは夢、幻想だった、お芝居だっだ、というオチのつけられるレヴェルでの、洒落たディレッタント小説、或いは青春小説のような味わいの中篇群となっている。

 しかし後半部、「4・宵山回廊」「5・宵山迷宮」「6・宵山万華鏡」に至り、物語の立脚点は鏡像のように反転、読者は現実の風景から滑り落ち、ひっくり返されて完全に足を踏み外し、幻想が現実を凌駕する、すべての要素がカオスに投げ込まれた極彩色の祝祭空間、本格的な迷宮に引き込まれることとなる。


 …あらすじとしては、前半部「2・宵山金魚」は、変わり者の友人、乙川に騙され、彼の仕掛けた幻想的な祝祭的極彩色の舞台と役者たちの演技の中で巻き込まれる藤田という余所者の視点から描かれ、宵山祭の奇妙な法則と幻想に取り込まれて翻弄される眩暈と恐怖に、読者を無理なく誘い込んでゆく。オチとしては、大掛かりな悪戯だったとして、ほんのりとした奇妙な可笑しみを残して完結する、ディレッタントなオトナの小説、な印象。

 「3・宵山劇場」は、その一夜のために、乙川に依頼されて、宵山幻想舞台を演出した演劇学生たちの舞台裏の人間関係などが中心の青春小説的なドラマである。何しろ、役者や小道具、ディレクター役、それぞれ登場人物の人物造形、キャラクターが何とも魅力的で、引き込まれてしまう。これだけで完結した、充分魅力的な中篇だ。

 …が、全体の中のパーツとしてみれば、これは、読者を幻惑装置の中に誘い込む先触れ、軽いウォーミングアップであると同時に、「幻想は全部つくられたお芝居だったんだよ。」の種明かしとしてのひとつの立脚点を設置する役割としての章である。「1・宵山姉妹」で、妹の幻惑された幻のひらひら遊ぶ金魚のような浴衣の女の子たちの、彼女のその体験が、「夢オチ」だった、と読めるように。この両義、この微妙に危うい狭間のバランスによって、世界は不安定性を獲得してゆくのだ。


 そして、舞台転換、後半部。

 「4・宵山回廊」「5・宵山迷宮」は、「1・宵山姉妹」「6・宵山万華鏡」そして、「3・金魚」と「4・劇場」のペアの関係を踏襲した、同じ出来事を別の登場人物の視点で語るスタイルをとるペアである。(この作品は、全体として、主として三つの出来事を二つずつの視点の切り口で語る、2かける3、の、シンメトリなスタイルをとっている6章立ての構成なのである。)

 「4・宵山回廊」は、この作品の全体の中で、形式的な構造の上からも、そして物語の内実という面から言っても、この作品全体の中枢を成しているのではないかと思われる。

 非常に重要な、幻想と異界への、完全な反転のための章、ということだ。
 第二章、三章で、劇場、作り物の小道具や役者たちのお芝居であったはずの異界空間が、終章に到って、いつの間にか本当に「向こう側」へと到るためのメディアとなって機能してしまう、その反転が、既にここで仕掛けられている、ということもできるだろう。


 宵山の一夜、この祝祭空間でひらひらと赤い金魚のように浴衣を閃かせて戯れ駆け回る少女たち、彼女らによって異界へと誘われ、神隠しで「向こう側」へと失われしまう幼い娘の物語。

 残された者の喪失の悲しみが、あまりにも痛ましく切ない。この章も、もちろん、これだけ読んでも、優れて完結した中篇として成立しているものだ。

 取り返しのつかない、その喪失の瞬間を、その夜の一日を、残された父は繰り返し、抜け出せなくなる。時間はその日のままに、止まってしまう。その心理が、宵山の一日を毎日繰り返す、時間のポケットに入り込むというこのSF的展開の物語となって展開している。

 ラストシーンでは、失われた娘を追って、自身もまた天上へと、異界へと、恐らく「あちら側」死の世界へと赴くことを選び、長い繰り返しの一夜を抜け出す父が描かれる。その痛ましさと不思議な幸福感が、祝祭の喧騒の中の一脈の静寂となって、胸を打つ。


 …この物語を外側から包み込む視点が、「5・宵山迷宮」である。外側から眺める、顔なじみの画廊店主「柳さん」の視点。

 それは、読者に、物語の状況を外側から客観視する視点を提供すると同時に、その、繰り返す時空の異界に巻き込まれてしまった、物語の内部にとりこまれてしまった柳さんの体験を共有させる仕掛けともなっている。
 そうして作品の仕掛けに巻き込まれた読者によって、ここに、異界>現実社会のバランスが、完成する。


 …「向こう側」とは何か。

 現実の秩序を破壊する、宵山祝祭空間の切り開く、めくるめく万華鏡の景色、その「向こう側」。
 そこでは、個は個として存在しない。浴衣の女の子たちは、みな同じ顔をしている。アイディンティティの失われた、世界と一体化した存在、神と一体化した存在、…祭りの化身、「宵山さま」である。

 その女の子のひとりが呟く。「みんなで一人、一人でみんな」と。
 一であり、多でもある、全体性の矛盾を止揚する、ダイナミクスの内にのみ存在しうる、祝祭空間の象徴。
 それは、「向こう側」、死と未生以前、カオス、無、というその真理と、「こちら側」への具象を繋ぐ、メディアとしての祝祭の時空なのだ。


 …「4・宵山回廊」で、15年前に7つの従姉妹どうしだった京子と千鶴の「姉妹」、ここでは、失われる京子と、残される千鶴の物語が描かれている。彼女らは、繋いだ手を離してしまったために、「向こう側」へと取り込まれ、「失われる」。

 だが、現在の時間、序章と終章の二人の姉妹の物語は、その「繋いだ手を離してしまった姉妹」、過去の物語を踏襲しながら、異界の誘惑に日常の力をもって打ち克つ姉、そしてその力によって、危うく日常生活へと取り戻される妹が描かれている。

 「向こう側」に取り込まれてしまった者は、15年の歳月を経て、その父をも「あちら側」へと誘う存在となる。これが、3章と4章で描かれる、作品のひとつの軸を成す物語である。

 そして、この、失われた過去を清算するために再度失われてゆく者を描く宵山の一夜の物語を下地にして、同じ一夜の時空を重ねながら、危うく連れて行かれそうになりながらも「こちら側」へと踏みとどまる存在、その、逆ベクトルを描きながら作品全体を包み込む大枠が、序章と終章の「姉妹」の物語である。

「手を離すと、向こう側へと失われてしまう。」という姉妹のモチーフが、ここに重なる。


 さて、ここで、この作品に繰り返し登場する狂言回しは、乙川、そして、柳さん、だ。
 乙川は向こう側への「狂」へのベクトルを受け持ち、柳さんは、逆ベクトル、「日常へ、秩序へ」、「こちら側へ」のベクトルを受け持つ対称を成す。

 柳さんが、現在の小さな姉妹に送る警告「(祭りの中で)手を離しては駄目だよ。」は、作品の中に繰り返されし織り込まれているものだ。

 二つの物語の、その重なりなりながらずれてゆく万華鏡のような物語対比によって、宵山空間は、真実とお芝居を反転させながら、きらきらと万華鏡のようにきらめき、世界を多層に、豊かに、美しく、そして恐ろしく禍々しいものに、こちら側と向こう側が危うく力バランスを反転させ続ける祝祭空間として成立する。

 バランスを崩すと、取り込まれてしまう。
 その異界への魔力、魅力に耐えながら、自らが祝祭を盛り上げ、演じ、登場人物となってゆく、その忘我に、酔う。


 失われなかった者たち、日常現実世界に戻ってきた姉妹は、一度離してしまったその手をしっかりと握り合い、一見関係のない、次のバレエの発表会の話をする。

 舞台の只中に踊るバレエの表舞台と楽屋についての、この会話。

 この、舞台と楽屋のモチーフを、祝祭空間と芝居の舞台の暗喩のように重ねる示唆的なラストの仕掛けもまた、秀逸であるといえよう。

「彼女たちは、客席から見るバレエよりも、幕の陰から見るバレエの方が好きであった。それはなんだか神秘的に見えた。いつの日にか、自分たちもああいう風に踊れるようになり、あの光景の中に溶け込んでいるのだと思うことが、彼女たちをわくわくさせた。」

 

…イヤとにかく、登場人物のキャラクター造形が、皆、何とも魅力的なのだ。可笑しく、哀しく、愛しい。
「ペンギンハイウェイ」もおもしろかったからなア。森見登美彦、いろんな作品、読んでみたい。