酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」再読に際して(文字の大きさ云々)

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先週書き綴ったものから)

冷たい雨の日曜日。

朝の悲しさと絶望、身体は眠く怠く痺れ魂も暗く沈む。どうなることかと思ったけど、午後、懐かしい街、私は昼下がりのカフェにいた。

座り心地のいいソファ、仄暗い落ち着いた照明、古い音楽。
各々の時間を包まれた人々の静かな気配、珈琲の香り。

この熱い一杯は魔法だ。手を暖め胸の奥に灯を灯し心を暖めてくれる。祈るような優しい音楽の向こう側に時代の見た夢のことを思いながら目を瞑る。そしてここに住んでいたころ読んだ本を読み返す。

自分の物語、本の中の物語は重層して私の魂はふわふわと漂いだす。自由になる。過去の方向だ。…だけど未来はここにあったのだ。閉ざされた世界の終わりの話を読み、そのひとりの安らぎに共振しながら身を沈める。

  *** ***

(今日だ。)
何故子供向けの本の方が大人向けのものよりも大きな文字なのか。視力は寧ろ老眼になってゆく大人よりも子供の方が遥かに優れているはずである。

学生時代読んだっきりの「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」、古い文庫を再読しようとして、文字の小ささに閉口した私は、ふと疑問に思った。(もしやこれは生まれて初めて抱いた疑問やもしれぬ。)

それは、文字の形状および語彙を惰性によって読み取る、つまり予めインプットされた脳の既存データから構成されたアルゴリズムによって読書がなされているということと関連があるのだろうか、聴覚的要素を中心に置くことなく視覚的要素から情報をダイレクトに読み取るバイパス回路の発達とか。その発達は、ある程度予想と正確なプロセスの省略の能率化を含む…云々。子供はそのトレーニングが不足しているためにまだその脳内データベースを活用するアルゴリズムが十全に機能しない。‬文字の形状から音韻や意味を取り出す恣意として構成された意味ネットワークからくるテクストを、そのマニュアルを最初から丁寧に参照しながら追ってゆかねばならない。初心者マーク付きの丁寧な運転だ。

そして人間は言語をまず音韻から習得する、というプロセスがある、という、識字率が異様に高いこの国では普段忘れられてがちな言語構造について。

(そしてそもそも明治の言文一致運動がおこる以前には、書き言葉と話し言葉というのは言語として「異なるもの」だったのだ。基本概念からして違う。)(この辺りに関してはここでも言及した。)

文盲、というが、普通に話すことができるのに文字を読めない人間の率というのは世界ではものすごく高いし、日本でだってつい最近までそうだった。そう、つまり読むという行為は純粋に実生活における具体性・身体性からは完全に遊離しながら、観念としてはそれに直結している奇妙な精神活動なのだ。

吉本隆明が何かの文芸批評の文章の中で読書行為に対し「脳内で半ば音韻化しながら」という表現を使っていた。この「半ば」というところがミソである。

そう、逆に大人にはひらがな、すなわち表音文字だけの文章は非常に「読みにくい」。意味が取りづらくなる。子供レヴェルとおなじになるんである。脳内で音韻から意味を立ち上げるプロセスに立ち返ってやりなおさねばならん。逆にいうと、読み方がわからなくても意味が分かる、という表意文字漢字の特質が「書き言葉」の特質として音韻の要素について考えさせてくれる。いわゆる速読テクニックに関わる領域の作業を行っている。インデックスに従って既知の要素から物語を組み立てる思考法になっているのだ。パターンからの組み合わせなのだ。あらかじめ与えられた(インプット済みの)データからの新たな構築。

…ここから浮かび上がってくるもの。

…うむ、そう、これはなんというか、発想というか構造の基礎が実にAIなんだな、感覚的に。書くこと、読むことにおいてオリジナリティ或いは想像ひいては創造とは何か、という定義づけテーマにまでひろがってしまうが。

AIにない人間にだけあるその先のレヴェルとしては、クオリア、というのだろうか。情報の蓄積が一つの飛躍を孕んで様々な統合レヴェルにおける個的観念を発生させているところがある。たとえば先の吉本隆明の「半ば」という言はその構造について触れたものであると考えられる。身体性から観念性への、そしてその統合へのなだらかなステップ。

各感官からくる官能がその統合に至る道筋が読書という行為に含まれる、その読書行為の構造。物語論と関わってくる。語る、語られる。ということと書く、読むという行為の領域の重なる部分と決別される部分と。そして、データの統合に過ぎないAI領域からの飛躍、プラスαしたWHOLE。…これはおそらくナラトロジーの領域にかかってくる。

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この、ラングとパロールエクリチュールとの絡み合う言語構造をその豊かさを、私は考えながら感じながら、その本を、昔の春樹をできるだけ丁寧に読んでいた。三月名残雪の土曜日。

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風景、料理や食べ物のこと、その丁寧な描写、独特の気取った比喩表現に込められたもの、そして音楽。できるだけ丁寧に味わいたいと思った。感官を研ぎすまし。そこにこめられたものを。

作品クライマックスに近く、ダニー・ボーイがでてくる。慌てて探して聴く。

…そしてやっぱりラスト、主人公が最後の意識の中で聴き続けるボブ・ディランメドレーを聴きながら読み終えたんである。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。

私自身も発売リアルタイムで読んだ当時ほど共振し陶酔できていないかもしれないし、時代や文体の臭みとかなんとか、ツッコミどころ満載であったとしても、やっぱりこの作品にこめられた真摯な心の蠢きの断片にはかけがえのない魅力がある。

そして、当時は読了後熱烈に続編を希望したが、今は、その切り落とされた物語の向こう側の形がないままでもあってよいし、あったとしても「それはまた別の物語だ。」(エンデ「はてしない物語」)っていう風に思う。いや書いて欲しいけどね。今彼があの続きを書くんならどういう形になるだろう。

そして続いて読みたくなったのはさらにさかのぼって「羊をめぐる冒険」なんである。懐メロならぬ懐本、なんかこれって己自身の人生の総括にかかっているような気もせんでもないが。

*** ***

肝心の作品内容に関しては思うところが多すぎて、全く触れなかったけど、ちょっとだけ備忘録。春樹作品の中の女性は大きく「他者」としてくくられてもよいのではないか、という思い。そして、これはすべては己の中の物語なのではないかと。「世界の終り」パートの僕、「ハードボイルドワンダーランド」パートの私。そして、世界の終りの僕の影は羊をめぐる冒険の中での鼠を想起させるものがある。

これは、「さまざまなエクリチュールが異議を唱え合う(ロラン・バルト)。」という存在としての矛盾に満ちた己という不可視のテクストの提示としての作品であり、ラストの在り方とは、それらをすべて他者へ、外部へと投げ渡した形になっている、というものなのではないかと。ハードボイルドワンダーランドでの私は移行を死として受け入れ、すべてを赦し祝福し愛おしみ哀しみながら意識を投げ渡し、世界の終りでは、己の影に、己の作り上げたがんじがらめの自我の安寧の牢獄「壁」からの外部への脱出を託して、牢獄を作り上げた責任を引き受ける。図書館の女の子、という他者、外部への愛をその救済への祈りとして。投げ渡したその先は、常に構築され続ける物語として、おそらくはほとんど読者に投げ渡されたメッセージとなっているのだ。

モチーフとしては、図書館、象工場。(象の墓場)春樹作品のなかでの象、の持つ意味は、そのイマージュは、意外とプレテクストの所以が面白そうだ。(インタヴューしてみたいものである。)

パンデミック

世の中コロナである。

パンデミックってどうして起こるんだろう。
現代ではインフォデミックとかいわれてたりするんだが。

社会全体が総立ち、な、このわさわさの緊迫感。東日本大震災以降こういうリアリティは結構如実にはなってきてたんだけど。フラフラッぷりに拍車がかかってどんどん土台が崩れてゆく雰囲気。(雰囲気は「空気」であり実感とリアルを呼ぶ。)

まあねえ、人間をおバカにして貶めるものはダメにするものはひたすらに己の恐怖と不安なのだな。昨日と違うもの、未知なるものへの恐怖。どんな恐ろしいことがあっても不思議ではないのだという感覚。恐怖がヒトを狂わせる。このとき人類の力強い脳足りんは遺憾なくその能力を発揮し盲目的な破壊活動を開始する。個人レヴェルから組織レヴェルまでずずずい~っと。それは共振している、同じものだ。

マスク買占めに続いてインフォデミックによる完全な人災、ヲイ、昭和のオイルショックかよのトイレットペーパー買占め。(確かにアレがいきなりなくなると思ったとたん問答無用の恐怖に襲われる。現代日本殆どすべての家庭においてそうであろう。うむうむ。実に確かに。)カップラーメン的なる非常食や缶詰米類まで品薄になっているという。(ウチの母も「缶詰安売りしてたからついでにいっぱい買っといたの。重かったワ~。なんか何があってもなんとなくしばらく安心ヨ。」)

人類の歴史に進歩の文字はない。

社会のあらゆる層に跳梁跋扈する妖怪は流言飛語にデマに差別にイジメに陰謀説、破壊残虐、無知蒙昧ダブルスタンダードへの無自覚或いは恥知らず精神の招く阿鼻叫喚。

そしてけれどその泥の中にきらめく蓮の花のように高貴でうつくしい英知の輝き。純粋で圧倒的な優しさとひとびとの連帯と日常へのタフネス。

いつも楽しみにしてるカルディの珈琲試飲もサーティワンの試食も魚屋恒例のマグロの解体ショー即時販売会(実に血なまぐさく残酷なショーではある。食肉人種が人間でこれをやったらとか一瞬想像したら卒倒しそうになった。)も中止、小中学校いきなり全国休校とかもうひっくりかえったが、図書館も二週間閉鎖とかもうね、(まあ一番危ない感じはする。古本屋とか図書館はただでさえ。だけど劇場やライブがダメで満員電車とパチンコ屋は健在てなんなんだよ。)政策に正解というものはない。どこかになにかのしわ寄せと不都合は来る。

でもさ、

でもさ、政治がこんなにもいきなりむりやり末端の毛細血管から社会の機能をみんなとめてしまおうとする状況ってホントに生まれて初めてな気がする。細胞が壊死してしまうのではないか。そう、アワアワ慌てて安直に末端からシメる。シメやすいとこからシメる。お上のやることが今何もかもへたっぴいな感じがしていけない。SNSという情報と多様な精神文化のるつぼの怖さを近視眼で脳味噌がアップデート不能に老齢化したお上はやっぱりあんまりわかってない。ダイバーシティの肌触りをわかっていない。他者への敬意、畏れというものを。

…とにかくねえ、すべての層において恐怖心ばかり煽られて人心が荒れるのだ。お上が本来まずおさえこまねばならぬのはここだ。人心が荒れればもう世の中どんな信じられない愚かで残酷なアンビリーバボーナンデモアリの下地はバッチリだ。

前述したが何しろ一番怖いのは、「この先何が起こるのかわからない。」未知という恐怖と不安によるパニックなのだ。それらはすべて寂しい不信と蒙昧からくる。

「権力」に、ジャーナリズムとお上に求められるのは、その本来であるところの人間の誠実さと真摯さである。

真摯さとは合理のことである。大衆にゆるぎない信頼に足る感覚を与える人間性は基本である。能力を発揮すべきはそのスタート地点からだ。アタマと心がまっすぐでマトモであるということ、両親の愛に包まれた幼稚園児のレヴェルくらいに。

実はウイルスより何よりも怖いのは人心が荒れることなのだ。無理が通れば道理は引っ込む、人心が荒れればお上もアワアワする。アワアワしないでまず初動でこれを押さえるのが有能なお上なんだと思うんだがな。ノブレスオブリージュ、権力をもつ資格。(無能なトップがあるとき実務のしわ寄せを食うのはおそらく官僚レヴェルの層なんだろなーなどと思ったりする。シン・ゴジラの物語思いだす。カップラーメンで風呂にも入らず徹夜のひとたち。)過労に疲労困憊。ここでひっこむのは冷静沈着。出張ってくるのは集団的ヒステリー、感情的な諍い。連携の悪さ。孤立する個々の情報、細胞間の血流が滞れば末端の個々の細胞は無能っぷりを引き出され能力は壊死してゆく。現場の声を聞く耳を持たないお上とメディアの社会ではもっとうまくできるはずのこともうまくいかなくてこじれることになる。人間社会のあほらしくて悪いことは結局みんなそこからやってくる。ひとりひとりみんなおバカになるからだ。そして人心というのは結構たやすく荒れる。私の精神なんぞなんかもうカナリヤのようにいの一番に荒れるレヴェルにあるのでよくわかる。

シンガポールの大統領の演説、真摯であること誠実であることが眩い。ニュースになってた。

これ。https://note.com/kanikana/n/n49894138904d

イタリアの小学校の校長先生の学校がコロナ休校になるとき生徒にあてて書いた手紙もニュース。なんか両方とってもマトモでこのマトモがニュースになるってなんかなあ、な気もするけどなんか安心するんだな、ニュース。

https://www.asahi.com/articles/ASN316KWHN31UHBI02W.html

心に響くのはどうしてかな。考える。無理が通って道理がなくなってるわけじゃなくてちゃんと生きてるんだよ、のサイン。そして、子供らに向けたマトモなメッセージはすなわち未来に向けた希望と祈りであるから、なんじゃないかな。

彼はイタリアの文豪マンゾーニが、ペストが流行した様子を19世紀に描写した国民的文学作品「いいなづけ」の一節を紹介しながら説いてゆく。

「社会生活や人間関係を「汚染するもの」こそが、新型コロナウイルスがもたらす最大の脅威だ。」
「「目に見えない敵からの脅威を感じている時は、仲間なのに潜在的な侵略者だと見なしてしまう危険がある」」

「外国人に対する恐怖やデマ、ばかげた治療法。ペストがイタリアで大流行した17世紀の混乱の様子は、まるで今日の新聞から出てきたようだ」

こっちのが具体的で詳しいか。(朝日新聞は無料は途中までしかないんだ。)

大体な、映画なんかでも普通怖い宇宙人が襲来したら責任なすりあったりいがみ合ったりしてないで地球人全員団結して立ち向かうんだよ、細かいあれこれは一時的にでもこの際全部「置いといて」さ。敵味方なく知性教養良識行動力勇気フル活動にふりしぼって提供し合って助け合って楽しく協力しあって共通の敵と闘って、あとのゴタゴタは後回し、なアタマにしないとちきうじん全滅やん。まず自分の安全圏護るのはアタリマエだけど、それを守りながらさ。知性とココロの問題よ。差別とかイジメとか論外でしょう。

でさ、学校休校になったこの機会にこそ文学を読め、と。自分のアタマで考えろ、と。さすが校長先生だな。そうだ、教育者は教育者のできることを精一杯。

だとしたら、科学者や研究者、医者に期待するのは、彼らの誇りである。できることを、その専門を精一杯。ただまっすぐマトモに、精一杯。

政治家や大臣たちは彼らの専門をマトモに精一杯。…で、統括のプロでしょう、彼らってさ。国としてオーガナイズするとこの。

それぞれの立場が垣根を取りはらいツーツーに合理的に連携し合ってマトモに協力し合えば人類は信じられないくらい今とは比べ物にならないくらい素晴らしくスピーディに問題解決を見出してゆけるのではないだろうか。聞く耳を持つこと相手の専門を敬うこと敬いあうこと。同じ人間としてすべての人民を侮らないこと。

それはそれぞれがそれぞれの専門に、誇りを持ち喜びをもつ、それぞれの頭でたゆまず考え続ける個の生き方のスタイルであり、またそれは実は社会集団の中の員としての、ひいてはその集団の品格、命の力、誇りと尊厳のスタイルとなる。うつくしいナショナリズムの本質はそこに在る、ような気がする。

メディア、すなわち統括するものとしての政府とジャーナリズムが正しく機能すれば、末端の、現場の細胞レヴェル、すなわち自治体レヴェルはその機能をいかんなく発揮することができる。個性として、人間性の延長として。ジャーナリズムを操作し政権闘争に明け暮れ、人間を信頼せず信頼させない、真摯さを感じさせない答弁、権力が忖度を強い「何かが起こったとき」その責任を末端にアウトソーシングするお上なんてのは本来からいえば真逆のスタイルなんではないんかね。何のためにお上は、法は、あるんかね。わからん。

自治と細胞同士の連携プレー、その専門レヴェルとオーガナイズレヴェル、その社会活動は生命の流れのように全体のホメオスタシスな平和と日常という健康、その回復に向けて機能することができる。)

…ということで、ニュースはあれこれとびかうんだけど、例えばお仏蘭西の合理性を刺し貫いたマトモっぷりには時折恐れ入るのだ。
日本の大臣のやりくち、記者会見なんかとどうしても比べてしまうよな、やっぱ。

https://www.designstoriesinc.com/panorama/olivie-veran-tv/

みんなが知りたいことに率直に。ピシッと答える頼もしさ。
専門家のレヴェルなんて日本だって負けてないはずなのになあ。

 

 

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大体ねえ、ライム絞ってラッパ飲みするとやたらとお洒落でうまいコロナビールの売り上げが名前のせいで風評被害にあってるとかもう現実とは思われません。あなおそろしやナンデモアリ。

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…で、というのとはそれほど関係ないんだけど、昨日私は我がバイブル、とっときのエリクサー、安房直子さん開いてしまったのだった。

これがな、やっぱり救われちゃうんだよな、まだじいんと効いている。護ってくれる。「北風のわすれたハンカチ」やはりいい。そして「小さいやさしい右手」。これはなんだか本当に泣きそうになるのだ。いつもいつでも。

このかなしみが救いとはどういうことぞ。理不尽、どうしようもなさ。
けれどもっともっと巨きなものに贖われている罪、祈り。

残酷を圧倒的な優しさで包む。残酷は残酷でなくなる場所へ。うつくしいとはどういうことぞ。

とかね。
哀れなちっぽけな自分のこの汚らしく穢れた罪もおおきなものに赦されてよいのやもしれぬ、という感覚なのではないかねい。ひたすら絶対的に赦されていればひたすら絶対的に赦すことができる、のやもしれぬ、とかさ。ようわからん。とりあえず効くからとりあえずそれでいいのだ。そしてこの気持ちが万人の中にあればもしかしてなにもかももっとうまくいくのに、というようなことを思う。

 *** ***

ということで、古い春樹も読み直している。(関係ない。)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。読み始め、当時はあんなにおもしろかったのに、もうこりゃアカン、この文体の臭み、もう耐えられんという感覚。…だったけど、入り込んでゆくと慣れてくる。

いや~やっぱり面白いよ、すごいよ、最近のよりずっと面白いと思う。上巻を読み終えた。
(このまま下巻にいくかね、と思ったけどほかに読まねばならんが入り込んできたので中断するかも。)主人公が白アスパラと牡蠣の燻製の缶詰を空けてウヰスキー飲むシーンがあったんだけど、普段は生のグリーンアスパラ派なんだがおんなじことしたくなった。春樹作品は丁寧な食べ物の描写も好きなんだよな、おいしそうで。

春が来る。まだきちんと青空の日曜日がある。
無力な自分、ただ騒ぎが穏やかに収束する日を祈るよ。

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立春

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立春
夜明けがだんだん早くなる。

澄んだ朝、世界をももいろに染め上げるうつくしい朝陽の光と影を眺めながらきゃべつを刻み、キヨシロの叫んだ自由のことについて考えていた。(口ずさんでいたのは中島みゆきの「歌を~歌おう~心の限り~愛を~こめて~あなたのために~♪」。)

「♪短いこの人生で一番大事なもの、それはオレの自由、自由、自由~!!!」
「♪きたねえこの世界で一番きれいなもの、それはオレの自由、自由、自由~!!!」

いつも考えていた、ロックの形式で偽悪的に叫ばれるこの自由ってのは何なんだろうな、と。

その衝動とは。

 

なんだかどこかそれは両面性をもっている気がしてずっと心にひっかかっていた。偽悪に流れることなく考えるべきところにある、輝きと闇の。喜びと苦しみの感覚。

シェイクスピアの「Fair is foul, and foul is fair.♪」を持ち出すまでもなく。
(キレイは汚い、汚いはきれいと訳されてるけど、原文のが意味の広さがわかりやすいね。)

…で、ことんと思いついた。
こないだ読んだ柄谷の思想での「原遊動性U」。
(記事はこちら)

そうだ、アレだよ、アレ。柄谷がタナトスのひとつの解釈としてみせた純粋にして無機的な志向性、運動性としてとらえられる人間の「原遊動性U」回帰運動の概念。あらゆるシステム内に遍在するすべての人間の中の徹底した解放、自由にして平等なるものへの志向性。

両義という全体性をあの概念でイメージできて、何となくスッキリ。
日々新しく日はまた昇る。春はまた来る。

生きねば。


(昨日、豆はまかなかったが春を呼ぶ鬼の絵本は読んだ。)
なかなかよいのだ。こみねゆらさんのうつくしいイラストに彩られた茂一久美子さんの「魔法のたいこと金の針」春を呼ぶ太鼓の練習をする可愛い小鬼君に頼まれて魔法の金の針で太鼓の皮の修理をする仕立て屋さん。四季の彩りを暖かな自然の不思議で彩る美しい絵本。

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節分の小鬼君の話で好きなのはコレだな。
富安陽子さん「2月のおはなし 鬼まつりの夜」

節分の夜、鬼ごっこするものよっといで、と歌う窓の外の子鬼にとっつかまったケイタは、ケイタオニにされて鬼祭りに連れて行かれる。本来「鬼は外」と悪役にされて家から追い出される役割の鬼たちを、闇から外へと解放される年に一度のとびきり素敵なお祭りとして読み替え、鬼を追い出すのではなく冬を追い出し春を呼び込む生命世界全体のお祭りに仕立て上げた素敵な鬼たちの節分物語。本当にこのひとのお話はあたたかく快くおもしろい。

しあわせなハリネズミ

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寂しい。

ということで、私は考えた。
今私を私たらしめているものは、己のこの在り方を恥じる気持ちだけである。

この矛盾の中にしか私の存在はないのだ。
苦しみも喜びも誇りも一つの存在としてこのダイナミクスの中にある。

これが本日の総括としての論理的帰結である。
(そして今一番憎いのは匿名の正義ヅラどもである。例えばそれは不倫でモラハラのクズっぷりで評判になった芸能人への批判的な気持ちよりそれに傷ついた苦労人妻女優への同情よりも(そりゃものすごいあるけど)あれこれと正義に酔って他者を裁き踏み込みコメントしてる匿名の一般人たち。(こういうの理解できん。何故私生活を裁こうとするのだ。裁く者は裁かれなくてはならないだろう、普通。聖書によると。)私をほんの少しのあやまちでぶっ飛ばして両足を不自由にした暴走自転車よりへの怒りよりも、…論理的に破綻した矛盾した言説、論点ずらしすり替えながら恫喝による物言いによって私を侮辱した電話口の向こう側、国家権力のかさをきた脳たりん警察官の誠意のなさとその在り方の仕方のなさの中にある世界と、なによりもそれにまるめこまれた自分なのだ。あらゆるものに甘えようとした自分なのだ。)

昨今考えていたこと、見田と柄谷の考えのこと、様々の災難、限りない寂しみや恥ずかしさや自己嫌悪や絶望や欲望や、周囲の人々の優しさや本や音楽やココアや珈琲や愛すべき街の風景や、絵本。

「しあわせなハリネズミ藤野恵美)」(今読んだから)、論理的でさびしさにも気付けないハリネズミ君と生きる喜びと前向きのキャラクターモグラ君、いい人正義づらでハリネズミ君を一層傷つけるカワウソ君、素直な優しさのうさぎさん。それぞれ誰も悪くない。それからドクター・フーのめちゃくちゃな娯楽としての面白さ。これは切ない。己が己であることを問うという祈りの娯楽。(第七シリーズに入ったぞ。)

 

私は何にも間違っていないし生まれなければよかったと思ったことはない。
(けれども生まれなければよかったと叫びたい。心にもなく、いや心にいっぱいになって。さっきから私はにんげんのこの矛盾のことを言っているのだ。)

そして感情的帰結としては冒頭の一言である。

寂しい。

 

寂しさとは死に至る病である。
ひとはこれを避けるためにこれをあらゆるものに転化して生きている。敵意やハリネズミになることや憎悪や正義ヅラや恥知らず根性に転化してゆく。そうでなければ芸術や宗教や愛や自己犠牲や、いろんなそんなもの。神に己の心の本質的な汚らしさを見せられた世界一の義人は耐えられず失神したという。聖書によるとね。これは寂しさとは結局同じものなのではないかしらんと私は思っている。

これにまともに向き合って生きられるひとはいないという意味からだ。
漱石の「こころ」のKが自殺し、そして先生が自死を選ぶ理由の本質は、ここにまともに向き合ったことによる、

…のではないかねい。
とにかくねえ、はよ足なおしてお祓いしてどうにかして日々を生きるんだよ自分。

「戦後思想の到達点 ~柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る」

インタビュアー大澤真幸による対談集であり、柄谷行人見田宗介の入門書としてふさわしいという紹介文。ううむそういうことなら、この二人の組み合わせだったらとりあえず目を通さなければならんだろう、やっぱり。

大学時代、ということはつまり我が人生根幹に近い部分において、大きな影響を受けた思想家のものだから。

忘れてしまってはいるけれど、思想スタイルのベースには残っている、おそらく脳内の古い地層の中に。 

ということで、電車の中、さらさら流すつもりで開く。
(この類の文章というのはさらさら流すというのが一番難しいような気もするんだが、だんだん流し方のコツもつかめてくる。欲張らないことだ。)

頑張ってさらさら文章の表面を撫でる。

 

週末の午前中、空いた中央線車内に正月みたいな青空の光が反射して、座った椅子はふかふかとあたたかい。私は少し幸福になる。

懐かしい思考スタイルのベースに触れる。脳内で何かが反応してきらきらとあたたかく輝きだす。

そうだ、宮沢賢治夏目漱石にハマったのはこういう人たちがいたからだったのだ。何かを読むということの可能性に目を開かせてくれたのは、世界の豊穣と自由への解放の、そのわくわくするような気持ちへの一つの方法を教えてくれたのは。

徒に難解であったりするとも思う(特に柄谷行人)、そういうとこは読み飛ばす。今わからんもんはわからん。合わないとこは合わない。心の中にわからなさの森を消化することなくそのまままるごと抱えておく。…大体前提となる教養、知識が圧倒的に足りないからね。もうワシは高校生や大学生ではない。

だけど、なんというかな、ベースとなっている思考スタイル。
これなんだよ、これさえしっくりくるものであれば、なんか絶対納得できるんだ。些末なところでのあれこれは別次元だ。何かを考えるときの基本姿勢、発想の、その展開の方向性。志向性。これさえしっくりくるものであれば、しっかりと語り合える、言葉が通じるところにいる、という感覚を持つことができる。

 *** ***

ということで、どっこいしょ。

編者、インタビュアー大澤真幸による二人の思想の大雑把なイントロ紹介の序章から、第一章「『世界史の構造』への軌跡、そして『日本論』へ」。柄谷行人

ワシャ学生時代国文学専攻でしたからノ、柄谷行人はとりあえずまず「近代日本文学の起源」を読んだワケです。で、これが大層面白かったので、「畏怖する人間」とか「意味という病」とか一生懸命読んだんだけど、現在きれいさっぱり忘れていることはもちろんロンロン論を俟たない。

が、思い出すことができる。

…そう、漱石の読み方だったのだよ、漱石作品の、劇的ストーリーとしての構成の破綻の、その必然という視点。確かね、まずこれがものすごく面白かった。

漱石作品の中では、そのストーリーの流れを損なうかたちで、存在論的な問題系がぐいっと頭をもたげてくる。それが大きな存在のマトリクスの大海、無意識から攻撃してきて「意識と自然」の問題系を浮上させるために作品は劇としての構成を破綻させてしまう、という構図。

それは「行人」での「頭の怖ろしさ」と「心臓の怖ろしさ」という描写に端的に示される。…「頭の怖ろしさ」とは理性のレヴェルでの怖ろしさ、一般的な漱石研究で取り上げられるような意識における倫理的なレヴェルでの葛藤である。が、その「怖ろしさ」の外側に潜む存在論的な「心臓の怖ろしさ」、という二重構造を彼は読み取るのだ。

これが目からウロコ納得のワクワクの面白さ。

すべてがそこからコトンコトンときれいに繋がってくる。漱石作品の構造の深淵が見えてくる。

柄谷理論の根幹を成す構造、例えばここで彼のマルクス読解に如実に示されるような、「生産様式」ではなく「交換様式」に着目した、というその視点と繋がってくる。

すなわち、これは畏怖の対象としての「他者」の発見なのだ。或いは、コミュニケーションの非対称性というどうしようもない必然。他者の発見とはそういうことなのだ、という。…それはまた「こころ」での言葉と真実のどうしようもないズレの感覚、そのいたましい切なさ、理不尽ともつながってきて…

まあこんなとこだな、他にも難解な理論がズラズラ語られてたけど、それはさまざまのフィールドへの応用、各論に過ぎない。これだけ思い出しただけでワシはとりあえずもういい。

因みにこの発想はいつぞや後輩君から紹介されて読んだ「贈与と交換の教育学~漱石、賢治と純粋贈与のレッスン・矢野智司」(記事はここ)に直結してたから、この著者もきっと柄谷行人から影響を受けてるんじゃないかのうとか思ったんだな、ちょっとね、まあそれはオマケ。ただやっぱりあちこちで思想のミイムは繋がっている。シンクロニシティだか必然だか。よくわからんがそんなのはどっちだっていいのだ。

全ての論理の自己矛盾やトートロジーの解決法としてソクラテスの手法に活路を見出す論理の流れとかもね。おんなじ感じなんだよな、実に。

 *** ***

第二章。「近代の矛盾と人間の未来」

見田宗介の章。こっちの方がやっぱりしっくりと読みやすく肌に合う。優しい。そして易しい。シンプルでわかりやすいということは寧ろ明晰であることの証明であると私は思っている。(私の脳内に見田理論の回路ができあがってしまっているせいやもしれぬが。)好きである。このひとのおかげで私は賢治にハマったのだ。「宮沢賢治~存在の祭りの中へ」ものすごいおもしろさであった。そして「気流の鳴る音」。卒論も修論もこの論理基盤から拵えた、ような気がする。(忘れた。)

暗愚、闇と牢獄としての自我、牢獄としての「意味」をとらえる感覚は、その外側への輝くような解放の高次元の論地を開く。私のこの感覚は、原則的に見田理論に基づくものであり、例えばこのときの賢治詩(春と修羅・小岩井農場)分析の記事にも示されていると思う。

で、まあ逆にいうと、このインタビューで特に理論的に目新しい収穫があったというわけではないんだが、見田宗介個人的な体験なんかと理論を結び付けた「肌触り」の感覚、これが大層意義深い収穫だった。戦後にすべての秩序が崩壊したときの、そのときの子供に目に映った廃墟の風景の、むしろ「爽快な解放感」として感じられたその「森羅万象はすべて空である」という意味をなすもの、「すべてはフォルムを失ったマテリーとなっている」(p118)或いは6歳で母を失った「喪失」の原感覚、中学生の時のエゴイズムへの絶望の感覚のエピソードによるニヒリズムへの論理に対するアプローチの手つき、その感覚のことや。各理論を構築したその原動力になった個人的背景みたいなものネ。

この個的感覚は全て集合体として社会学的理論にも歴史と背景の時系列的必然があるというその感覚に拡大される。個であることと集団であることの共存。

あとの専門的なことも、きっと知ってれば知ってるほど深く面白く感銘深いものであるとは思うけど。週末数時間でやっつけて流しただけで情けないから、せめてコレもう一度読み返さねばという思いもそりゃあるけど、ウン。わからなさの森に飼っておくよ、とりあえず。

 *** ***

終章、全編を通じてだけど、編者大澤真幸の、すべてをきれいにつなげまとめるこの手つきが秀逸なんだなあ、きっと。

柄谷の、ノマド的なイメージを持つ原初にして最終形の概念、社会システムの中に仕込まれた「交換様式D(原初共同体的互報的贈与への高次元での回帰)」のイメージ、その鍵を握る自由と平等への欲動。

それは寧ろ無機的な志向性、運動性としてとらえられる人間の「原遊動性U」回帰運動の概念である。(柄谷はフロイトのいう「タナトス」をも無機への欲動としてのこの原遊動性への回帰運動として解釈する。)自由にして平等。

これが見田においては他者の二重性(敵と味方、相克と相愛)の同時性として自我の枠の牢獄から解放されたかたちで喜びとともに他者を受け入れる多義性、多様性、ポリフォニイ、交響するコミューン的なものへの回帰という方法論となって両者は重なってゆくものとなる。自由と解放と牢獄的なる世界の愛と歓びによる共存。

柄谷の言う、原初交換様式A(共同体的・互報的贈与関係)への高次元での完成系仕様とされる理想概念としての交換様式Dが、世界史のあらゆる交換法則的な局面(交換様式B…支配ー服従《保護》《略奪と再分配》)(交換様式C…貨幣と経済)において遍在する「原遊動性U(共同体からの自由、まったき平等)への欲動」が実現するある種の仮定された高次への理想であることを明確に認識することは、世界経済の閉塞と収奪と抑圧の構造からくる軋轢、そしてそこからくる戦争回避への方法を模索するためのひとつの手がかりとなり得る、十分に。

ここは実に難解にして実に単純なところだ。

大澤は二者の目指すところを双方の用語を融合させた「交響するD」という言葉によってまとめて見せる。柄谷にとっての(漱石から読み取ったものである)独自の「自然」とは、『自分に始まり自分に終る『意識』の外に広がる非存在の闇』(柄谷行人著・意識と自然~漱石試論)として定義される。(p220)柄谷によるこの「闇」の読解を見田の「存在の祭りの中へ」の賢治論によって展開させるとそれは反転という可能性に開かれるものとなる。恐怖の対象であり反転させると喜びの源泉ともなる、「輝く闇」としての両義の自然が見えてくるのだ。

そして、それは、大澤により、ドン・ファンの言葉を引いた「夜明けの光は世界と世界の間の裂け目だ。それは未知なるものへの扉だ。」から、「この裂け目は、<他者>がその二重の謎によって自らのうちに穿つ~(中略)それはわれわれを自由へと導く窓である。」と本書をシメる言葉となっているのである。

とにもかくにも、両者に共通するキイはあらゆる認識における「意味への疎外」の発見だ。見田における「コントロールされた愚」根を持つことと翼をもつことの同時性は、根を全宇宙として認識すること、というシンプルなまとめ、展望ではあるけど、極めて普遍的にして現代的なダイバーシティの意識が他者、他集団との関り方の理論の構造、図式化には具体的な問題を思考する上で非常に助けになるものであることを私はほのかで新鮮な驚愕とともに再認識する。普遍とはまあそもそもそういうものなんだけど。

 

…なんとなく、また春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が読みたくなってきた。「世界の終わり」の側の世界で、主人公が仕事として、来る日も来る日もただひたすら図書館で死体の頭蓋骨を読むシーン。あのイメージ。

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何故子供の本ばかり読むのだろう

感性が子供なんである。
別に気取っているわけではない。精神的な成熟度もそれに準じているし、よく天才神話に言われるようにそこに付随した突出した才能などがあるわけでもない。

成長しそびれただけだ。まあ要するに単なる落伍者である。
皆最初は私と同じくらい字を書くのがヘタだったのにいつの間にか同じように汚い字を書いているのは私だけになったし皆同じように子供の本を読んでいたのにいつの間にか子供の本ばかり読んでいるのは私だけになった。それだけのことだ。

皆が平気でわからないものに順応し変化してゆくのが私には理解できなかった。
大学時代普通に友達タメ口だったのに、社会人になってほんの1~2ヶ月経ったら「社会人用語」をまきちらすようになった友人やなんかも怖かった。独特の抑揚で独特の権力を絡めた物語を紡ぎ出している人種のグループに属することを主張するターム。壁ができているような気がした。ふざけているのかと思った。人間は使う言葉で己の主体をも変容させてしまっていることを自覚できない。(だがそれが生物としての本来と言っても別にいいような気もする。順応できない者が規格外品なのだ。隣組から排除される。その時どきのその場における正義の絶対を疑ってそこにのっかれない者は不幸だ。)

…だけど、それだけじゃないんじゃないかと思って、ときどき一生懸命その理由を考える。
文学とは言っても、なんというか、童話、詩のジャンル、それから青春小説というかそのあたりまでの匂い。それ以上の成長を拒否する、ということは。

大人になることへの拒否、何かを他者に関わって背負うこと、アンガージュマンへの恐怖と拒否である。

拒否から飛翔、逃避はアドレッセンスの特徴だ。
それはまた分かれ目でもある。ミッション。

で、通常は「オレも若かった。」的な「成長」ルートが成功事例のお約束として用意されている。

…だが、ただそのときの疑問や反発の心を封印しあざ笑う、また次の世代をつぶすためのプログラムを引き継ぐための「大人」へ仲間入りし魂を封印させることなくそこから回帰する、螺旋を描くのが本当の大人、というのかもしれない、と思うのだ。

つまりそのミッションは、ネクストジェネレーションとしての可能性を秘めた卵として用意された年代なのではないか、と。その大量の卵は孵ることなくことなくつぶされるプログラムが社会には用意されている。個をつぶす抑圧に対し、反抗疑問革命を叫ぶ心を保ち続ける不適合型は社会の負け組として排除される、が、そのうちごく少数は天才として開花し、子供のままの鋭さを主として文芸やアートの分野で花開かせる。これは双方テーゼかアンチテーゼかの二者択一の論理地平にある。現行社会を適度に息抜きさせながらキープするシステムの内側である。

だがしかし、そのような特殊なかたちではなく、第三の道があるのではないか。大切なのは、社会対故人、或いは若者対大人という二項対立、その矛盾を引き受けながら否定しながら社会的自己、というようなものを選び取り確立してゆく強さなのではないかと思う。そして目をふさがないままの、魂を外部に半分置き続ける強さを保ち続ける力が知性なのだ。知性とは、目をふさぐことなく耐え続ける強さと優しさの別名であり、人間性の膂力のようなものなのではないかと思ったりする。緩やかな革命、保守としてのリベラル…大人になりたい。

そしてたとえどんな形で年老いていようとも、魂の底には幼いころ頃刻み付けた世界の不思議やうつくしさに満ちた物語を、避難場所として保ち続けたいと思うのだ。生まれたこと祝福され愛されたこと祈ったこと喜んだこと。未来を無限に、世界を無限の意味に感ずる想像と創造の心の源泉。

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居酒屋は大人の楽しみ(近所の居酒屋大変楽しい。)

 

年の瀬2019 演劇と空気

28日、西荻の喫茶店のマスターのツイートにストンときた。(この方のつぶやきにはストンとくることが多い。不便な場所だけど不思議な味のある雰囲気のお店で、一回だけ珈琲飲みにお邪魔したことがある。)

「この年末になると漂う空気は演劇に通じるものがあるなと思いました。派手な演出は一切していないのに舞台上の空気が一変する、あの感覚に似ています。みんな演じてるんですね、年末を。」

集団の意志、大気中にただようココロ、見えない法(ダルマ)。集団の個々がつくりだしながらその総体が個々の要素を遥かに超えたベツモノとしての「要素+α」となるゲシュタルト構造、それは既に社会的な超越神の意志、のようなものだ。

圧倒的な抑圧をも生み出すこの「空気」と呼ばれる不可思議なモンスターについて考える。そのとき時空間=世界はその空気という法そのものなのだ。演劇によってつくられる空気(時空間=世界)の創造というシステム。どこか大衆(吉本隆明の言う権力に抗する力となり得るピュアな生活力、生命力としての大衆、オルテガのいうポピュリズムと権力に通ずるものとしての物語のかさぶたとしての大衆、その両極を結ぶ可能性。)に通ずるものがある、その怪物性と崇高さと。ただ純粋な「力」を生み出す「構造」として。

で。
とすると。

一般に言う空気(空気読めよとかそういうの)を「演劇」という概念によってとらえようとするとき。
演劇の概念がさまざまに世界全体に応用されてくる。役者という要素、舞台、ハコという設定状況のこと。劇場は劇場であり、唯一の普遍の全体のといった、真理、ではない。ある限定された一つの恣意の約束ごとの中に構築されたひとつのハコなのだ。その中で役者は空気を乱さずその劇を完遂させ劇場を保ち続けるために各々の役割を演じなければならない。だが劇場は複数ありその外側はその法には支配されない。…世界はみな演劇だ。(宮澤賢治「詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画(中略)巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」⦅農民芸術概論綱要⦆が思い出される。人生とはそのまま劇場の舞台である、と。)

うううまく言葉がみつからないがおもしろい。
また曼陀羅網が見えてくるようだ。世界に論理構造の網の目が躍動しきらめいて開示されてゆくような感覚。その「ストン」がはろばろと無限に広がってゆく。

さまざまな宗教や芸術や学問や文学哲学自然科学、それらの知性がそれぞれさまざまな論理で言い表そうとしてきた世界の構造がすべてきれいに響き合い繋がって見える気がするこの瞬間が一番わくわくするんだ。まだ言葉にならない空間的なものとして浮かぶ、自由と解放に繋がるこの感覚。

さあお正月劇場をほどよく踊る阿呆になろう。
作り上げられたときその中でそれは真実なのだ。

実家で両親とあれやこれやお正月準備して、紅白や第九で年越し、荘厳な初日の出、正月みたいなばかみたいに非日常な青空(正月だ)がらんと空いた街、澄んだ空気、黒豆と栗きんとんと昆布巻き、鰤の入った柚子や三つ葉の香るお雑煮なんか非常に盛り上がる。

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冬はつとめて。黎明の空、ピンと空気が張り詰めて奇跡のように美しい。