酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

立春

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立春
夜明けがだんだん早くなる。

澄んだ朝、世界をももいろに染め上げるうつくしい朝陽の光と影を眺めながらきゃべつを刻み、キヨシロの叫んだ自由のことについて考えていた。(口ずさんでいたのは中島みゆきの「歌を~歌おう~心の限り~愛を~こめて~あなたのために~♪」。)

「♪短いこの人生で一番大事なもの、それはオレの自由、自由、自由~!!!」
「♪きたねえこの世界で一番きれいなもの、それはオレの自由、自由、自由~!!!」

いつも考えていた、ロックの形式で偽悪的に叫ばれるこの自由ってのは何なんだろうな、と。

その衝動とは。

 

なんだかどこかそれは両面性をもっている気がしてずっと心にひっかかっていた。偽悪に流れることなく考えるべきところにある、輝きと闇の。喜びと苦しみの感覚。

シェイクスピアの「Fair is foul, and foul is fair.♪」を持ち出すまでもなく。
(キレイは汚い、汚いはきれいと訳されてるけど、原文のが意味の広さがわかりやすいね。)

…で、ことんと思いついた。
こないだ読んだ柄谷の思想での「原遊動性U」。
(記事はこちら)

そうだ、アレだよ、アレ。柄谷がタナトスのひとつの解釈としてみせた純粋にして無機的な志向性、運動性としてとらえられる人間の「原遊動性U」回帰運動の概念。あらゆるシステム内に遍在するすべての人間の中の徹底した解放、自由にして平等なるものへの志向性。

両義という全体性をあの概念でイメージできて、何となくスッキリ。
日々新しく日はまた昇る。春はまた来る。

生きねば。


(昨日、豆はまかなかったが春を呼ぶ鬼の絵本は読んだ。)
なかなかよいのだ。こみねゆらさんのうつくしいイラストに彩られた茂一久美子さんの「魔法のたいこと金の針」春を呼ぶ太鼓の練習をする可愛い小鬼君に頼まれて魔法の金の針で太鼓の皮の修理をする仕立て屋さん。四季の彩りを暖かな自然の不思議で彩る美しい絵本。

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節分の小鬼君の話で好きなのはコレだな。
富安陽子さん「2月のおはなし 鬼まつりの夜」

節分の夜、鬼ごっこするものよっといで、と歌う窓の外の子鬼にとっつかまったケイタは、ケイタオニにされて鬼祭りに連れて行かれる。本来「鬼は外」と悪役にされて家から追い出される役割の鬼たちを、闇から外へと解放される年に一度のとびきり素敵なお祭りとして読み替え、鬼を追い出すのではなく冬を追い出し春を呼び込む生命世界全体のお祭りに仕立て上げた素敵な鬼たちの節分物語。本当にこのひとのお話はあたたかく快くおもしろい。

しあわせなハリネズミ

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寂しい。

ということで、私は考えた。
今私を私たらしめているものは、己のこの在り方を恥じる気持ちだけである。

この矛盾の中にしか私の存在はないのだ。
苦しみも喜びも誇りも一つの存在としてこのダイナミクスの中にある。

これが本日の総括としての論理的帰結である。
(そして今一番憎いのは匿名の正義ヅラどもである。例えばそれは不倫でモラハラのクズっぷりで評判になった芸能人への批判的な気持ちよりそれに傷ついた苦労人妻女優への同情よりも(そりゃものすごいあるけど)あれこれと正義に酔って他者を裁き踏み込みコメントしてる匿名の一般人たち。(こういうの理解できん。何故私生活を裁こうとするのだ。裁く者は裁かれなくてはならないだろう、普通。聖書によると。)私をほんの少しのあやまちでぶっ飛ばして両足を不自由にした暴走自転車よりへの怒りよりも、…論理的に破綻した矛盾した言説、論点ずらしすり替えながら恫喝による物言いによって私を侮辱した電話口の向こう側、国家権力のかさをきた脳たりん警察官の誠意のなさとその在り方の仕方のなさの中にある世界と、なによりもそれにまるめこまれた自分なのだ。あらゆるものに甘えようとした自分なのだ。)

昨今考えていたこと、見田と柄谷の考えのこと、様々の災難、限りない寂しみや恥ずかしさや自己嫌悪や絶望や欲望や、周囲の人々の優しさや本や音楽やココアや珈琲や愛すべき街の風景や、絵本。

「しあわせなハリネズミ藤野恵美)」(今読んだから)、論理的でさびしさにも気付けないハリネズミ君と生きる喜びと前向きのキャラクターモグラ君、いい人正義づらでハリネズミ君を一層傷つけるカワウソ君、素直な優しさのうさぎさん。それぞれ誰も悪くない。それからドクター・フーのめちゃくちゃな娯楽としての面白さ。これは切ない。己が己であることを問うという祈りの娯楽。(第七シリーズに入ったぞ。)

 

私は何にも間違っていないし生まれなければよかったと思ったことはない。
(けれども生まれなければよかったと叫びたい。心にもなく、いや心にいっぱいになって。さっきから私はにんげんのこの矛盾のことを言っているのだ。)

そして感情的帰結としては冒頭の一言である。

寂しい。

 

寂しさとは死に至る病である。
ひとはこれを避けるためにこれをあらゆるものに転化して生きている。敵意やハリネズミになることや憎悪や正義ヅラや恥知らず根性に転化してゆく。そうでなければ芸術や宗教や愛や自己犠牲や、いろんなそんなもの。神に己の心の本質的な汚らしさを見せられた世界一の義人は耐えられず失神したという。聖書によるとね。これは寂しさとは結局同じものなのではないかしらんと私は思っている。

これにまともに向き合って生きられるひとはいないという意味からだ。
漱石の「こころ」のKが自殺し、そして先生が自死を選ぶ理由の本質は、ここにまともに向き合ったことによる、

…のではないかねい。
とにかくねえ、はよ足なおしてお祓いしてどうにかして日々を生きるんだよ自分。

「戦後思想の到達点 ~柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る」

インタビュアー大澤真幸による対談集であり、柄谷行人見田宗介の入門書としてふさわしいという紹介文。ううむそういうことなら、この二人の組み合わせだったらとりあえず目を通さなければならんだろう、やっぱり。

大学時代、ということはつまり我が人生根幹に近い部分において、大きな影響を受けた思想家のものだから。

忘れてしまってはいるけれど、思想スタイルのベースには残っている、おそらく脳内の古い地層の中に。 

ということで、電車の中、さらさら流すつもりで開く。
(この類の文章というのはさらさら流すというのが一番難しいような気もするんだが、だんだん流し方のコツもつかめてくる。欲張らないことだ。)

頑張ってさらさら文章の表面を撫でる。

 

週末の午前中、空いた中央線車内に正月みたいな青空の光が反射して、座った椅子はふかふかとあたたかい。私は少し幸福になる。

懐かしい思考スタイルのベースに触れる。脳内で何かが反応してきらきらとあたたかく輝きだす。

そうだ、宮沢賢治夏目漱石にハマったのはこういう人たちがいたからだったのだ。何かを読むということの可能性に目を開かせてくれたのは、世界の豊穣と自由への解放の、そのわくわくするような気持ちへの一つの方法を教えてくれたのは。

徒に難解であったりするとも思う(特に柄谷行人)、そういうとこは読み飛ばす。今わからんもんはわからん。合わないとこは合わない。心の中にわからなさの森を消化することなくそのまままるごと抱えておく。…大体前提となる教養、知識が圧倒的に足りないからね。もうワシは高校生や大学生ではない。

だけど、なんというかな、ベースとなっている思考スタイル。
これなんだよ、これさえしっくりくるものであれば、なんか絶対納得できるんだ。些末なところでのあれこれは別次元だ。何かを考えるときの基本姿勢、発想の、その展開の方向性。志向性。これさえしっくりくるものであれば、しっかりと語り合える、言葉が通じるところにいる、という感覚を持つことができる。

 *** ***

ということで、どっこいしょ。

編者、インタビュアー大澤真幸による二人の思想の大雑把なイントロ紹介の序章から、第一章「『世界史の構造』への軌跡、そして『日本論』へ」。柄谷行人

ワシャ学生時代国文学専攻でしたからノ、柄谷行人はとりあえずまず「近代日本文学の起源」を読んだワケです。で、これが大層面白かったので、「畏怖する人間」とか「意味という病」とか一生懸命読んだんだけど、現在きれいさっぱり忘れていることはもちろんロンロン論を俟たない。

が、思い出すことができる。

…そう、漱石の読み方だったのだよ、漱石作品の、劇的ストーリーとしての構成の破綻の、その必然という視点。確かね、まずこれがものすごく面白かった。

漱石作品の中では、そのストーリーの流れを損なうかたちで、存在論的な問題系がぐいっと頭をもたげてくる。それが大きな存在のマトリクスの大海、無意識から攻撃してきて「意識と自然」の問題系を浮上させるために作品は劇としての構成を破綻させてしまう、という構図。

それは「行人」での「頭の怖ろしさ」と「心臓の怖ろしさ」という描写に端的に示される。…「頭の怖ろしさ」とは理性のレヴェルでの怖ろしさ、一般的な漱石研究で取り上げられるような意識における倫理的なレヴェルでの葛藤である。が、その「怖ろしさ」の外側に潜む存在論的な「心臓の怖ろしさ」、という二重構造を彼は読み取るのだ。

これが目からウロコ納得のワクワクの面白さ。

すべてがそこからコトンコトンときれいに繋がってくる。漱石作品の構造の深淵が見えてくる。

柄谷理論の根幹を成す構造、例えばここで彼のマルクス読解に如実に示されるような、「生産様式」ではなく「交換様式」に着目した、というその視点と繋がってくる。

すなわち、これは畏怖の対象としての「他者」の発見なのだ。或いは、コミュニケーションの非対称性というどうしようもない必然。他者の発見とはそういうことなのだ、という。…それはまた「こころ」での言葉と真実のどうしようもないズレの感覚、そのいたましい切なさ、理不尽ともつながってきて…

まあこんなとこだな、他にも難解な理論がズラズラ語られてたけど、それはさまざまのフィールドへの応用、各論に過ぎない。これだけ思い出しただけでワシはとりあえずもういい。

因みにこの発想はいつぞや後輩君から紹介されて読んだ「贈与と交換の教育学~漱石、賢治と純粋贈与のレッスン・矢野智司」(記事はここ)に直結してたから、この著者もきっと柄谷行人から影響を受けてるんじゃないかのうとか思ったんだな、ちょっとね、まあそれはオマケ。ただやっぱりあちこちで思想のミイムは繋がっている。シンクロニシティだか必然だか。よくわからんがそんなのはどっちだっていいのだ。

全ての論理の自己矛盾やトートロジーの解決法としてソクラテスの手法に活路を見出す論理の流れとかもね。おんなじ感じなんだよな、実に。

 *** ***

第二章。「近代の矛盾と人間の未来」

見田宗介の章。こっちの方がやっぱりしっくりと読みやすく肌に合う。優しい。そして易しい。シンプルでわかりやすいということは寧ろ明晰であることの証明であると私は思っている。(私の脳内に見田理論の回路ができあがってしまっているせいやもしれぬが。)好きである。このひとのおかげで私は賢治にハマったのだ。「宮沢賢治~存在の祭りの中へ」ものすごいおもしろさであった。そして「気流の鳴る音」。卒論も修論もこの論理基盤から拵えた、ような気がする。(忘れた。)

暗愚、闇と牢獄としての自我、牢獄としての「意味」をとらえる感覚は、その外側への輝くような解放の高次元の論地を開く。私のこの感覚は、原則的に見田理論に基づくものであり、例えばこのときの賢治詩(春と修羅・小岩井農場)分析の記事にも示されていると思う。

で、まあ逆にいうと、このインタビューで特に理論的に目新しい収穫があったというわけではないんだが、見田宗介個人的な体験なんかと理論を結び付けた「肌触り」の感覚、これが大層意義深い収穫だった。戦後にすべての秩序が崩壊したときの、そのときの子供に目に映った廃墟の風景の、むしろ「爽快な解放感」として感じられたその「森羅万象はすべて空である」という意味をなすもの、「すべてはフォルムを失ったマテリーとなっている」(p118)或いは6歳で母を失った「喪失」の原感覚、中学生の時のエゴイズムへの絶望の感覚のエピソードによるニヒリズムへの論理に対するアプローチの手つき、その感覚のことや。各理論を構築したその原動力になった個人的背景みたいなものネ。

この個的感覚は全て集合体として社会学的理論にも歴史と背景の時系列的必然があるというその感覚に拡大される。個であることと集団であることの共存。

あとの専門的なことも、きっと知ってれば知ってるほど深く面白く感銘深いものであるとは思うけど。週末数時間でやっつけて流しただけで情けないから、せめてコレもう一度読み返さねばという思いもそりゃあるけど、ウン。わからなさの森に飼っておくよ、とりあえず。

 *** ***

終章、全編を通じてだけど、編者大澤真幸の、すべてをきれいにつなげまとめるこの手つきが秀逸なんだなあ、きっと。

柄谷の、ノマド的なイメージを持つ原初にして最終形の概念、社会システムの中に仕込まれた「交換様式D(原初共同体的互報的贈与への高次元での回帰)」のイメージ、その鍵を握る自由と平等への欲動。

それは寧ろ無機的な志向性、運動性としてとらえられる人間の「原遊動性U」回帰運動の概念である。(柄谷はフロイトのいう「タナトス」をも無機への欲動としてのこの原遊動性への回帰運動として解釈する。)自由にして平等。

これが見田においては他者の二重性(敵と味方、相克と相愛)の同時性として自我の枠の牢獄から解放されたかたちで喜びとともに他者を受け入れる多義性、多様性、ポリフォニイ、交響するコミューン的なものへの回帰という方法論となって両者は重なってゆくものとなる。自由と解放と牢獄的なる世界の愛と歓びによる共存。

柄谷の言う、原初交換様式A(共同体的・互報的贈与関係)への高次元での完成系仕様とされる理想概念としての交換様式Dが、世界史のあらゆる交換法則的な局面(交換様式B…支配ー服従《保護》《略奪と再分配》)(交換様式C…貨幣と経済)において遍在する「原遊動性U(共同体からの自由、まったき平等)への欲動」が実現するある種の仮定された高次への理想であることを明確に認識することは、世界経済の閉塞と収奪と抑圧の構造からくる軋轢、そしてそこからくる戦争回避への方法を模索するためのひとつの手がかりとなり得る、十分に。

ここは実に難解にして実に単純なところだ。

大澤は二者の目指すところを双方の用語を融合させた「交響するD」という言葉によってまとめて見せる。柄谷にとっての(漱石から読み取ったものである)独自の「自然」とは、『自分に始まり自分に終る『意識』の外に広がる非存在の闇』(柄谷行人著・意識と自然~漱石試論)として定義される。(p220)柄谷によるこの「闇」の読解を見田の「存在の祭りの中へ」の賢治論によって展開させるとそれは反転という可能性に開かれるものとなる。恐怖の対象であり反転させると喜びの源泉ともなる、「輝く闇」としての両義の自然が見えてくるのだ。

そして、それは、大澤により、ドン・ファンの言葉を引いた「夜明けの光は世界と世界の間の裂け目だ。それは未知なるものへの扉だ。」から、「この裂け目は、<他者>がその二重の謎によって自らのうちに穿つ~(中略)それはわれわれを自由へと導く窓である。」と本書をシメる言葉となっているのである。

とにもかくにも、両者に共通するキイはあらゆる認識における「意味への疎外」の発見だ。見田における「コントロールされた愚」根を持つことと翼をもつことの同時性は、根を全宇宙として認識すること、というシンプルなまとめ、展望ではあるけど、極めて普遍的にして現代的なダイバーシティの意識が他者、他集団との関り方の理論の構造、図式化には具体的な問題を思考する上で非常に助けになるものであることを私はほのかで新鮮な驚愕とともに再認識する。普遍とはまあそもそもそういうものなんだけど。

 

…なんとなく、また春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が読みたくなってきた。「世界の終わり」の側の世界で、主人公が仕事として、来る日も来る日もただひたすら図書館で死体の頭蓋骨を読むシーン。あのイメージ。

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何故子供の本ばかり読むのだろう

感性が子供なんである。
別に気取っているわけではない。精神的な成熟度もそれに準じているし、よく天才神話に言われるようにそこに付随した突出した才能などがあるわけでもない。

成長しそびれただけだ。まあ要するに単なる落伍者である。
皆最初は私と同じくらい字を書くのがヘタだったのにいつの間にか同じように汚い字を書いているのは私だけになったし皆同じように子供の本を読んでいたのにいつの間にか子供の本ばかり読んでいるのは私だけになった。それだけのことだ。

皆が平気でわからないものに順応し変化してゆくのが私には理解できなかった。
大学時代普通に友達タメ口だったのに、社会人になってほんの1~2ヶ月経ったら「社会人用語」をまきちらすようになった友人やなんかも怖かった。独特の抑揚で独特の権力を絡めた物語を紡ぎ出している人種のグループに属することを主張するターム。壁ができているような気がした。ふざけているのかと思った。人間は使う言葉で己の主体をも変容させてしまっていることを自覚できない。(だがそれが生物としての本来と言っても別にいいような気もする。順応できない者が規格外品なのだ。隣組から排除される。その時どきのその場における正義の絶対を疑ってそこにのっかれない者は不幸だ。)

…だけど、それだけじゃないんじゃないかと思って、ときどき一生懸命その理由を考える。
文学とは言っても、なんというか、童話、詩のジャンル、それから青春小説というかそのあたりまでの匂い。それ以上の成長を拒否する、ということは。

大人になることへの拒否、何かを他者に関わって背負うこと、アンガージュマンへの恐怖と拒否である。

拒否から飛翔、逃避はアドレッセンスの特徴だ。
それはまた分かれ目でもある。ミッション。

で、通常は「オレも若かった。」的な「成長」ルートが成功事例のお約束として用意されている。

…だが、ただそのときの疑問や反発の心を封印しあざ笑う、また次の世代をつぶすためのプログラムを引き継ぐための「大人」へ仲間入りし魂を封印させることなくそこから回帰する、螺旋を描くのが本当の大人、というのかもしれない、と思うのだ。

つまりそのミッションは、ネクストジェネレーションとしての可能性を秘めた卵として用意された年代なのではないか、と。その大量の卵は孵ることなくことなくつぶされるプログラムが社会には用意されている。個をつぶす抑圧に対し、反抗疑問革命を叫ぶ心を保ち続ける不適合型は社会の負け組として排除される、が、そのうちごく少数は天才として開花し、子供のままの鋭さを主として文芸やアートの分野で花開かせる。これは双方テーゼかアンチテーゼかの二者択一の論理地平にある。現行社会を適度に息抜きさせながらキープするシステムの内側である。

だがしかし、そのような特殊なかたちではなく、第三の道があるのではないか。大切なのは、社会対故人、或いは若者対大人という二項対立、その矛盾を引き受けながら否定しながら社会的自己、というようなものを選び取り確立してゆく強さなのではないかと思う。そして目をふさがないままの、魂を外部に半分置き続ける強さを保ち続ける力が知性なのだ。知性とは、目をふさぐことなく耐え続ける強さと優しさの別名であり、人間性の膂力のようなものなのではないかと思ったりする。緩やかな革命、保守としてのリベラル…大人になりたい。

そしてたとえどんな形で年老いていようとも、魂の底には幼いころ頃刻み付けた世界の不思議やうつくしさに満ちた物語を、避難場所として保ち続けたいと思うのだ。生まれたこと祝福され愛されたこと祈ったこと喜んだこと。未来を無限に、世界を無限の意味に感ずる想像と創造の心の源泉。

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居酒屋は大人の楽しみ(近所の居酒屋大変楽しい。)

 

年の瀬2019 演劇と空気

28日、西荻の喫茶店のマスターのツイートにストンときた。(この方のつぶやきにはストンとくることが多い。不便な場所だけど不思議な味のある雰囲気のお店で、一回だけ珈琲飲みにお邪魔したことがある。)

「この年末になると漂う空気は演劇に通じるものがあるなと思いました。派手な演出は一切していないのに舞台上の空気が一変する、あの感覚に似ています。みんな演じてるんですね、年末を。」

集団の意志、大気中にただようココロ、見えない法(ダルマ)。集団の個々がつくりだしながらその総体が個々の要素を遥かに超えたベツモノとしての「要素+α」となるゲシュタルト構造、それは既に社会的な超越神の意志、のようなものだ。

圧倒的な抑圧をも生み出すこの「空気」と呼ばれる不可思議なモンスターについて考える。そのとき時空間=世界はその空気という法そのものなのだ。演劇によってつくられる空気(時空間=世界)の創造というシステム。どこか大衆(吉本隆明の言う権力に抗する力となり得るピュアな生活力、生命力としての大衆、オルテガのいうポピュリズムと権力に通ずるものとしての物語のかさぶたとしての大衆、その両極を結ぶ可能性。)に通ずるものがある、その怪物性と崇高さと。ただ純粋な「力」を生み出す「構造」として。

で。
とすると。

一般に言う空気(空気読めよとかそういうの)を「演劇」という概念によってとらえようとするとき。
演劇の概念がさまざまに世界全体に応用されてくる。役者という要素、舞台、ハコという設定状況のこと。劇場は劇場であり、唯一の普遍の全体のといった、真理、ではない。ある限定された一つの恣意の約束ごとの中に構築されたひとつのハコなのだ。その中で役者は空気を乱さずその劇を完遂させ劇場を保ち続けるために各々の役割を演じなければならない。だが劇場は複数ありその外側はその法には支配されない。…世界はみな演劇だ。(宮澤賢治「詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画(中略)巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」⦅農民芸術概論綱要⦆が思い出される。人生とはそのまま劇場の舞台である、と。)

うううまく言葉がみつからないがおもしろい。
また曼陀羅網が見えてくるようだ。世界に論理構造の網の目が躍動しきらめいて開示されてゆくような感覚。その「ストン」がはろばろと無限に広がってゆく。

さまざまな宗教や芸術や学問や文学哲学自然科学、それらの知性がそれぞれさまざまな論理で言い表そうとしてきた世界の構造がすべてきれいに響き合い繋がって見える気がするこの瞬間が一番わくわくするんだ。まだ言葉にならない空間的なものとして浮かぶ、自由と解放に繋がるこの感覚。

さあお正月劇場をほどよく踊る阿呆になろう。
作り上げられたときその中でそれは真実なのだ。

実家で両親とあれやこれやお正月準備して、紅白や第九で年越し、荘厳な初日の出、正月みたいなばかみたいに非日常な青空(正月だ)がらんと空いた街、澄んだ空気、黒豆と栗きんとんと昆布巻き、鰤の入った柚子や三つ葉の香るお雑煮なんか非常に盛り上がる。

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冬はつとめて。黎明の空、ピンと空気が張り詰めて奇跡のように美しい。

「某」川上弘美

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ある日突然、気が付いたら存在していた。
病院で気が付く。そしてそこにいた奇妙な医師の指導のもとに、治療と銘打たれた「アイデンティティ確立」という目的に向かってさまざまな年齢性別を「演じながら」生活してゆく。

 *** ***

2019年秋の新作である。

…やはり川上弘美はおもしろい。どうして面白いか考えるのも面白い。
そして作品ごとにどんどん変容を遂げてゆく、冒険している、という印象がある。己の打ち立てた独自の世界の型の中にすら収まってゆくことなく、つまり職業作家として確立されたスタイルに安住し甘んずることなく、次々と新境地を開拓していこうとする作家としての魂のエナジイ、ライフワークを抱えた人間の、それ。

どの作品の頁を開いても、その文体ベースは確かに川上弘美カラーではありながら作品ごとにそれぞれが非常に手ざわりの違う世界観を以て広がってゆく。

なんと言えば良いのだろう。デビュー時からほぼ長編はすべて追って読んでいると思うのだが、歴史を刻んでゆくごとに作家としての円熟への思いとは別に、彼女の捉えようとする世界の全体像が構造として浮かびあがってくるような気がする。無限の不可知の闇或いはカオスの宇宙に浮かび瞬く沢山のロゴス世界、そのあえかな輝きの曼荼羅網、インドラの網、静かに明滅する有機交流電灯の風景。

で、最近の傾向というのが、それが一つの作品の中にオムニバス的な章立てをされて多数ー総体の関係が凝縮してきている、ということ。つまり、川上作品総体の構造モデルがひとつの作品の中に次元を下げたかたちで顕わになった世界像を示している、というような。

それぞれ個々の作品世界、ロゴスとコスモスから成る世界一つ一つとは、カオスの闇に浮かぶその曼陀羅の一つ一つの灯火。(作品世界《一つの作品に凝縮されている場合にはそれは一つの章に仮託されるスタイルをとる。》)のひとつひとつがその灯火に対応するものとしてある。)それぞれが闇とカオスに深く彩られているからこその健気な光としての生命、存在、コスモスなのだ。

ナウシカのラスト・クライマックスシーンの科白思い出すようだなこりゃ。…人間が浄化の神として未来に向けてプログラムしたもの、すべての人間のあやまち、闇と汚濁、滅びを忌避し払拭しようとする永遠の清浄な光の未来を提案するラスボス・知性体プログラムAIと、闇と光と滅びをともに抱え、すべてを生きようとするナウシカは対峙する。「お前は危険な闇だ。」「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ!!すべては闇から生まれ闇に帰る」)(ちなみに私はナウシカに全面的には賛同しない。)

川上氏の作品は、そのままその世界の個別の光の多様を渡り歩く冒険としての読書行為がしくまれているものであり、すべてがそのあえかな輝きの頼りなさ矮小さそのものを愛しむ祈りに身を浸す行為となっている。(「愛し(かなし)」という言葉は古語においてかわいい、しみじみといとしく思うという意味であった。いとしい、かなしい。この二つの感情はもともとひとつのものであったのか?…その関係性をしみじみと私は考える。)個別世界とその関係性から成るトータルの関係を探る言葉のかたち。

…まあね、とりあえず当たり外れがある、と言ってもよい。初期の方が好き、とかこの路線はあんまり、とか、いろいろ好みも別れてくるだろうと思う。とにかく敢えて文学として様々な冒険、試みをしているような気がする。

 *** ***

この作品は読み始めて、まず、あ、「大きな鳥にさらわれないよう」の系列に連なる手ざわり、と感じた。(レビュ記事アップしております。こちら。)人間とは、個とは、アイデンティティとは一体そもそもなんなのか、どうして今わたしたちはこのようであるのか?その疑問を、その外部、即ち内部のコモンセンスとして塞がれた限定された視点や感覚をもたない、人間ではない生命を仮定することによってその複数の多様な視座から根本的に問うてゆく。

一見異端であるようでいて、根源的な問題意識としては「私とは何か」という命題に真っ向から立ち向かう生真面目なほどに正統派な文学だ。

文体が鼻についちゃったらダメだろうな、とは思うね、確かに。春樹もそうだから。(そりゃあもう春樹の文体の臭みには定評がある。ピカである。)そこんとこは危うい。個性的な癖にどうしても鼻につかない文体は漱石だけなんじゃないかという気がする、個人的には。そしてだが川上弘美のこの作品の文体はどこか漱石を彷彿とさせるところがあると私は思う。シンプルなのだ。視線がまっすぐなのだ。疑問の抱き方がシンプルにして論理的。何かにおもねる心によって歪められることのない、オブセッション、圧力を伴った論理の物語に惑わされることのない無垢な視点。ついには非論理に至る、禁じられた論理の限界に挑む果てない疑問。言葉はその自己矛盾の露呈する臨界点、前提とされている物語の基盤を探り当てようとただシンプルに問い続ける、ソクラテスみたいにさ。「理屈っぽいキャラクター」にそれを仮託してみせて会話の中で茶化してみせたりするのが一種あざといテクニックだったりするんだけど。

外国人が日本人を不思議がることによってはじめて己の国民性を、その独自性を初めて対象化して知ることができる、というような原始的な構図。その手法として人間以外の生命体の視点を仮定するためにSFやファンタジーの形をとったものが「大きな鳥に…」だった。この作品(「某」)もその構図を持つ。まあね、イマココの現実社会という作られた物語世界にとらわれないために、これを対象化する役割を担った異界設定という構図は幻想文学として割とスタンダードなものではある。

オーソドックスな言い方をすれば、それは異界からの視点を取り入れイマココを「異化する」(ロシア・フォルマリズム)という構図であり、構図の原型としては実は今までの氏の文学のスタイルとまったく変わらないのだが、やはり個別的スタイルとしての冒険を孕み、独自の味わいをもったものとなっている。

…まず大前提として、各章が個々の様々の人間のドラマをあぶりだしてゆく物語としていちいちおもしろい。ミクロの視点からも、それを統合し鳥瞰するマクロの視点からも常に同時に双方から作品を鑑賞する現場が生まれる極めて巧みな構造をもっている。

で、それがふわふわとしたこの独特の文体、ヒューモア感覚に包まれて展開しているものであってだな。そしてその根底にあるもの、致命的に魂を刺し貫く力、抗いがたい氏の作品の魅力とは、だな。

…世界にひたすらに瀰漫する、たまらない切なさ、寂しさ。
存在の持つ原罪のようなかたちをした寂しさ。その不条理の切なさ。

それは、それがここでは存在の痛みを救済する唯一の方法論として提示されているものなのではないかと私は思う。作品世界のその果てた先にどのような生き方を選んでゆくか、登場人物たちの生き方に託して。…なんとも非常に逆説的なんだが。

自己或いは他者の、存在(自己或いは他者、愛する者すべて)としての「個」が失われる死と喪失の寂しさ、恐怖。それを超克してゆく手立てがこの読書行為には孕まれている。非常に切ないのは、耐えきれない、痛ましいほどのあきらめや寂しさが否定されることもできず瀰漫されたまま、ただおおきなものへと止揚されてゆく、矛盾すべてを包摂してゆこうとするこの作者独自の物語スタイルによる。

誰一人として定型化された悪役やつまらない人間はいない。ただ彼らは全員が等しく作品の紡ぐ言葉の中にまっすぐに分析されてゆく。非情なまでに冷徹なまでにまっすぐな知性をもって。さまざまの角度をもった複数の主体の複眼によって。決して作者の超越目線から正邪や真贋を決めつけぶったぎられるのではなく。問い合い続ける対話によって浮かび上がってくるものを読者が掬い取る、「読書の現場」の共同作業がおこなわれる。

そしてこの作品においてその構造とは、主人公が、語り手としての主体自体が次々と変幻するものである、つまり主体そのものがひとつのものでありながら章ごとに切り替わってゆく、年齢性別性格すべてを変化させる力を持った人間ではない存在「誰でもないもの」である、という奇妙な設定という方法論によってなされているのだ。ルーツがない。理由がない。気がついたら既に存在していた、なんの記憶もなくただぽかんとしてそこにいた主人公。…巧みな構成だ。存在の不条理。

そこからすべてが始まり、(彼ー彼女)の物語は各章ごとに平等にひらたく読者の前に開陳されてゆく。投げ出されてくる。次々と名前、性別、年齢、国籍を変えてゆく。嘗て己自身であったものを内面からも裁くことのできるそのときどきの章の焦点主人公、主体。それは個々の章における人間模様の物語、そこに生み出される圧倒的な切なさ、あふれるような熱い思いのエナジイと共にあり、内面からと外面から、双方から語られることとなる。

丹羽ハルカ。野田春眠。山中文夫。
マリ。ラモーナ。片山冬樹。ひかり。みのりーひかり。

作品の章毎に同一でありながらの他者性を帯びながら語り手は変化している。

ラスト。
主人公・ひかりは他者である恋人みのりのために死に、みのり(彼もまた人間ならざる「変化する者」の一族である)は変化して性別を変え、ひかり(に似たもの)となって己の中でさまざまにひかり的なる存在と語り合いながら、眼前の世界を眺めている。

語り合う。その喪失への寂しさとあきらめを喪失ではなく己の中のその「喪失」に見えるものによって自分が自分であることを得たことを、そしてそれが人を愛し己を愛し世界を愛することの同時性として得られたものであることを。

「『ひかりは、しあわせだった?(中略)あたしは今、けっこうしあわせかもよ。』」

嘗てみのりという少年であったものは、存在としてみのりでもなくひかりでもないあたらしい「みのりーひかり」として共に生きるひかり的なるひとりの女性としての存在となり、過去を背負ったままこれから広がるジン・テーゼとしての未来と日常を思いながらただ広がり流れる世界の風景をながめている。そのたくさんの物語を抱えたまま、未来の新しい恋のことなど考えている。

終わりと始まり、いつもながらその不思議な光にみたされた、さまざまな解釈に開かれたラストシーンである。(この読後感が非常に好きなのだな自分。投げ渡されたものは頁から上げた瞳に映る世界を意味で満たす。)

自己犠牲と自己(エゴ)確立の物語を共に否定したところ、…止揚したところにあるのがこの結論としての私・あなた・世界の関係性、その存在のかたちなのだ。お互いの存在、アイデンティティの枠組みが崩壊し溶けあってしまう「あいとそんざいのかたち」。

或いはそれは自己幻想、対幻想、共同幻想。瀰漫する、愛。死によって繋がれる生、受け渡される、愛のバトン、そのかたちの成立する過程を描く物語。

…この構造を見出したとき存在は存在として完成する。同時に、それは「死と他者を内在させることによってしか成り立たない個の生」として描かれている。虚無と闇とカオスの海に浮かぶ意味と光の世界構造の「体感」。他者の中に生きる、他者が己となる、その自己崩壊による自己実現という矛盾。この矛盾を描くことによって表現される愛と存在のかたち。関係性としての存在論、文学的相対性理論とも呼ぶべきもの。…これがこの作品の物語のダイナミクス、主人公としての語り手が「誰でもない者」から「あたしはあたしになった」へのジャンプを成立させた意味=物語である。

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とにかくね、ラスト近く、みのりとひかりの愛の日々の描写は圧巻ヨ。
川上弘美節炸裂。幻想の、夢幻の道行にも似た二人の生活と会話は、かぎかっこをいれない会話体と本文の溶け合いやひらがなの多用、夢の中をゆくような混濁したシーンの明滅の技術によって見事に溺れさせてくれる。時空を飛び越え超越したところにある閉じられた近未来を思わせる世界。死へのお約束フラグたちまくりの世界の果てや終末の予感に彩られた、涙が出そうな切なさに満ち、同時に笑ってしまうほど圧倒的な恋と愛に満たされた日々。 

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タイトル「某」はこの作品のラストにひとことだけひらりと閃く作品読解のための手がかりの光だ。

それは、嘗て同じ「誰でもない者」の仲間であったが、命を狙われたために敢えて器としての肉体を捨て、ただ純粋な認識主体として、VR、ネットの海の中に消えていった津田(ホセ)の呼び名としてひかりが選んだ呼称である。

「誰でもない」「某」であった主人公が「ひかり」となる、その輪郭を得て、すなわち死すべき「有」であることを得て、幸福に「死」をも「得た」物語を際立たせるために対比されるもの、
哀れな、万能の、不死の、究極の「誰でもないもの」。

死をもたないものはアイデンティティとしての生をも持たない。

この津田はもうもちろん、アレだよね。「攻殻機動隊」のアレ、草薙素子。ネットの海に消えていった者。純粋な認識主体としてのみ在る者。計算されうる情報の中のみ存在するAI。

人間存在とは、魂とは、知性とは、両者は一体どのように分離されうるのか、というこのテーマに両者は通じている。どちらも、一見相反する方向性の志向の主張をしているようでいて、訴えてくる問題意識は共通している。(「攻殻機動隊」では素子の言う「ゴースト」がキイ・ワードだ。情報から、計算からどうしてもはみ出すもの。これによってどうしてもどうなっても素子は素子という存在として生きられる存在となっている。他者の中にも。)

…その共通問題意識「私とは、世界とは?」。
それは銀河鉄道のジョバンニが「あなたのほんとうにほしいものは一体なんですか」と問うた問いと実はまったく同じものだ。古今東西、人間の問うものは、変わらない。どうしても、割り切れない、問い続けなければならないものから未来は拓かれる。希望も、破滅も。

じいん。

 

…このレビュは総論だ。自分のためのメモ。読んだ人にしかわからないメモ。
これから各章ごとに各論として構造分析、総論を裏付けしてゆくことはできるはずだ。まだまとまらないふわふわとした綿雲のような考えのカタマリが先に見える。だけどさ、実際プロの研究者でも学生でもないからさ、いつもいつも、おっつかないんだ、いつも。だから、せめてもの深夜の酔いどれ書き散らし。(読みたいもの、読み返したいものだらけだけど、もうその力が自分にはないのがかなしい。)(文学は長く、人生は短い…というより私の生命と魂が枯渇しているのだ。カラッポの魂は生ける時間を持てない。)可能性として私の感じたことの手がかり、標本だ。自分が考えたことをなかったことにしないために。


書くことは、生きること。
読むことは、生きること。