酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

PAPA

日曜の朝、明るい日の光のあふれる縁側に一式広げて、座布団に座り込んだ父は自慢のカメラ道具の手入れをしていた。ビクターの犬のマークのくっついたステレオからは重厚なクラシック。これも自慢のレコードコレクションだったんだな。こんもりと小ぶりな樹々の茂った小さな庭を背景に、すべては金の光に縁どられていた。

私はその風景が好きだった。

朝もやがけぶるような記憶の向こう側、幸福な日曜の記憶である。

 *** ***

年末、実家に帰ったら父が年賀状のあて名書きをしているシーンに遭遇した。パソコンの印刷機でもできるんだけど、毎年宛名だけ愛用のモンブランの万年筆で一枚一枚書いているんだという。ゆっくりと、インクつけつけ書いている。さながら明治大正の文士である。

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…ふうん、実はわが父、意外とスタイリッシュというかクラシックなこだわり持ってたりするんだな。

「そう言えば、パパ昔蔵書印ってもってたよね。職人さんに拵えてもらったっていう立派なやつ。」

と言ったら、あるぞ、と持ってきて、その辺の時代小説文庫本に押して見せてくれた。(最近炬燵で時代小説ばっかり読んでるらしい。母がもっと教養のあるもの読んでくれればいいのにとこぼしていた。TVは時代劇、歌は演歌、本は時代小説である。)(古い洋画や西部劇、イーストウッドやメリルストリープなんか好きらしい。そして実は古いルパンやジャングル大帝なんかも好きなのを私は知っている。母との初めてのデートは「101匹わんちゃん」だったという。)

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そうしてそれから、そのころの世相のことやなんかぼちぼちと話してくれたりしたのだ。

あれれ、と、そのとき私は不意に周りの風景の時空がずれてゆく感覚を覚えた。物語の時空が現在に繋がり重なってゆく。既に終盤にさしかかっている父の、その歩んできた人生の。遷り変わる時代の。

父の物語。

そういえば、今まで、あまりなかったんだな、父の思い出話聞く機会っていうのは。

 *** ***  

冒頭の日曜朝、記憶の中の風景のリアルに関しては不確かである。脳のねつ造やもしれぬ。たくさんの記憶の積み重ねが合成され一枚の写真へと結実したもの。…あれは朝食の後だったろうか、前だったのだろうか。

日曜の朝ごはんは遅くて、そうしてご馳走だった。ウィークデイの朝はせわしなくて、メニューもトーストやシリアルだったけど、日曜の朝だけは家族四人でゆっくりと遅めの朝食膳を囲んだ。(夕食もね。カレーライスにレモン水、サザエさん観ながら。)炊き立てのご飯に豆腐や若布のお味噌汁、ほうれん草のおしたし、しらすやネギ、生卵に海苔に大根おろしごってりフルヴァージョンの納豆、甘い甘い母特製のたまごやきにたっぷりの焼きのり、魚の干物にきんぴらごぼう、高野豆腐、たくさんの母の手料理が並んだ、旅館の朝みたいなご馳走だった。

大体が、日曜の朝というのは幸福な時間帯なのだ。

小学校入学前と後の記憶のミクスチュアである。
私の人生はまだ始まったばかりといってよい程度には新しいものであり、そのとき未来は考えるべくもなく当たり前に無限であった。世界もまた果てしなく無限に広がるべき可能性そのものであり、それ以外の意味をもたなかった。そう、未来と世界が無限で限りない、無尽蔵の豊穣としての資源であった贅沢な時空なんである。

父がカメラのお手入れをしているその時間は、家族皆が同じ家の中で安心してそれぞれ好き勝手に個の時間を堪能している多様性と一体感のその距離感、そのゴールデンなバランスの表出した時空の象徴として私の中にある。満ち足りた休日のはじまり、安定した日常のセーフティネットに支えられた束の間の迷子、それでもそれはやはり嘘ではない、個の時間の自由。休日の自由。読書や未来を夢見る遊びにふけり、異界とつながるコドモの無限のファンタジーワールドの想像力を育む時間。非日常と孤独の深遠につながる個の意識。おぼれないための命綱をつけたままの魂の飛翔の自由、それは解放、可能性の無限というレイヤーを意識の下に育ててゆく。あたたかく守られたままの意識というその矛盾を内包したままの。

ムーンライダーズ鈴木博文の歌う歌「幸せな野獣」で「無理やり(Hey、hey♪)自由を着て愛を脱ぎ/結局(Heyhey♪)いつからか金縛り♪」っていう歌詞があるんだけど、そう、確かに愛と自由は相反するものであるが、それでも、ある意味卑怯な形であっても、こんな風に止揚することだってあっていいのだ。できるのだ。

 *** *** 

大学に入学が決まった春休みのことである。

いろいろ節目なんだ、とハナイキ荒くした私は新しい人生のステージを新しく設定すべく、とりあえずあれこれと部屋を整理した。で、押し入れを探っていて父の段ボールを発見したんである。主に父が大学生だった頃の文庫本やなんかを詰めたものだった。へえ、こんなの読んでたんだ。と、おもしろそうなものを探して漁っていたら、一冊のノートがそこにまじっていた。

日記である。

へええ。

そりゃあもちろん読むでしょう。
…熟読した。

まあね、それほど大したことが記録されていたわけではないんだけど。今はもう具体的な内容は忘れてしまったんだけど。でも。

父の丁寧だけど少しクセのある字で几帳面に書き記された内容は、時代の匂いを色濃く映した、当時の大学生の世相や、その一人だった父の、私の知らない一人の若者の言葉で世界が紡がれていた。 

不思議な気持ちだった。
父は私が生まれたときから大人でパパだったから、パパではなかった時のひとりの人間、ひとりの若者であったパパという現実感はもう、なんといえばいいだろう、考えようとすると世界が分岐してしまうのだ。これはもう別の時空の別の物語。

私の存在していない世界という現実、その設定からして私の存在をすでに超越しているのだからそれは蓋し当然であるともいえる。

ひとつおぼえている。
父の母、私のお祖母ちゃんに関しての記述だ。

 

父は高校卒業前の引っ越しの関係で転校がうまくいかず高校を卒業していない。大学検定を受けて大学に入学した。当然浪人して予備校に通っていた。

当時家は裕福だったわけではなく、祖母は苦労して父を大学に入れるべく奮闘してくれたらしい。その苦労を思う記述を書き連ね、「僕はこれからお母さんにうんと孝行しなくちゃあいけないんだ。」などとジョバンニのような口調でその日記を締めくくってあったのだ。

父は、そんな風な「気恥ずかしい道徳的な正論」を人に向かってしゃあしゃあと語るにはシャイすぎる人である。どちらかというと、ちょっとひねくれたようなものいいで、強がったり悪ぶったり斜に構えてかかる。権力をかさにきた態度が嫌い。自分が上にいて正しい人間であることを振り回して威張ったり逆に責任を持ったりする「大人」であるようなことを恐れる、という印象がある。また上におもねって出世しようとするような心根を最も恥とするような漢気を愛する、いわゆる在野精神を根底に持っている。出世しないタイプである。そして思うにこれは彼が時代劇を愛好する所以である。

…だから私はこの文章に驚いたのだ。

若い時は違っていたのだろうか。社会人になってスレてしまったのだろうか。或いは日記という場所だけに表す秘密の告白めいた一つの本音としてのエクリチュールなんだろうか。わからない。いずれにせよ、思うにこれはエクリチュールの本質としての神秘である。

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私は大人になってから(イヤ精神的にはお子ちゃまのままですが)実は父とは折り合いが悪かった。今、家を出て年月が経って始めてその父の若い頃のさまざまを少しずつ聞く機会を持てたのだ。

来し方行く末を思うこの年末年始、儀礼、お正月、家族。その歴史や物語、巡る螺旋のような一年のサイクル、さまざまの絆の確認と再創造。

 人間として、父としてのたくさんの物語のことを、なるべくたくさん聞いておきたいという思いを持った。私の中にその遺伝子を新たに移植したい、父を個として成り立たせているもののその成り立ちと、自分につながるものとしてそのルーツと分岐点を、私を私として成り立たせている成り立ちと物語の複合の構造、世界との繋がりとあり方の無限の多元宇宙の豊かさとして認識してみたい。すべてはその有機的な関係性の構造の中で支えられ暖かく包まれ、セイフティネットにまもられている…そんな曼荼羅な物語の豊穣の中に存在してみたいなどと思ったりしたのである。

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お正月ってのはそういう特別な思いを抱くレイヤーを常に日常の上位に置いておくための、新鮮な非日常のために巡る儀礼時空間なのだ。古今東西の文化共通の、プリミティヴな、或いは根源的な機能として。…多分ね。

ちょっとダンディでスタイリッシュ、当時の洒落者っぽい嗜好の一つ、父のかっこいいサイン。子供の頃、これ、憧れて自分もサラサラっと書けるようになりたいなと思ったものだった。字がヘタで、いくら練習しても自分にはこんな風なのはできなかったけど。

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11月補遺・吉田篤弘備忘録

11月週末のあの日の補遺である。
メモに残っていたのでメモのままとりあえず。今年もそろそろ終わっちゃうしね、心残りがないようにアップしといちゃおう。

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週末は吉田篤弘「雲と鉛筆」と、ふと図書館で手に取ってしまったのでついつい再読してしまった安房直子「山のタンタラばあさん」に救われた。(安房直子さんは私のバイブル、私の切り札なのだ。おいそれと使ってしまってはいけないような気がしている。手垢をつけてはいけない気がしている。)(賢治は構わないのだ。あれはひたすら手垢をつけまくってごりごりにいじくりまわしてこそ。)

吉田篤弘ディレッタンティズムは、基本的におもしろい。

このおもしろさは、だけどそこに完全に同意できないところにあるのかもしれない、などとも思う。

頁を開く。
う~ん、同意、いいなあ、いいなあ、この「モノ」への思い、「物(モノ)」から「魂(モノ)」への振幅から「モノガタリ」をうみだしてゆくような、言語との戯れから意味を見出してゆくような世界との戯れとしての感覚を持つ言語センス、などと思いながら読み進めてたら、あれれ、と不意にかわされるところがある。言葉の表層の微妙さにこだわるからこそズレてくるところがある。おそらく同じことを言いたいんだろう、と思うから、この言語センスのズレから見えてくるテーマが「おもしろい」ところであったりするのだ。「私ならこれをこう言うぞ」「こう見るぞ」などというムラムラとした思いが湧いてくる。(なんだかんだ言って世界観、みたいなのが好きなんだけどね。)(彼の描く「街」の風景だ。ここに住みたい、と思うような。)

例えば。
「見つける。」と「気づく。」は違うのだと作中登場人物「人生」は主張する。(「人生」は眼鏡屋の息子のニックネームだ。いつも「人生とは」と珈琲屋で一説ぶち上げたがるから。)

「AがいいのかBが正しいのか答えを見つける」がテーマだ。

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「だから、答えは出ない。AでもありBでもある。僕はね、答えがふたつあるものにこそ本当のことが宿っていると信じている。だから、これはこの先、何度も考える価値がある。ただし、答えはどこまでも出ない。答えなんて見つけない方がいいんだよ。」

「でも、どうしてか、みんな見つけたがる。どうしてだろう?」(p67)
「そこに『見る』という言葉が使われている以上、その対象物は自分に含まれていないと思う。『見つけた』と口にした瞬間、見つけたものは自分の外にあると確定される。つながったんじゃない。むしろ、つながっていないことがわかった寂しい瞬間なんだよ(中略)人生には、『見つける』ではなく、もっといい言葉がある。『気づく』という言葉だ。そいつはたいてい自分の内側からピンッと音をたててあらわれる。」「『見つけた』ものは自分の外にしかないが、『気づいた』ものの多くは自分の中にある。」(p68)

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多分、ここで私の感じたことと「人生」が感じたことは同じことだ。だが、私はそこにただ「構造」を発見する。わたしにとって世界を感ずることとは世界の構造を感ずることなのだ。そしてここで論点は、自分の外側と内側、主体と世界の関係性、アイデンティティの枠組みの捉え方の違いのところにある。

この文章を読んで私が発見する私の考えは、自分の外側に「見つける」こととそれが自分の外側でなく内側にあると「気づく」ことの区別とそれこそが二者択一的な価値観のもとにあるものであるとツッコむところ、差異の発見による一方の「優位性」ではなく寧ろ「同一性」という可能性のところにある。(作者吉田は、ここに相反する性質としての内外の「区別」をすがすがしさとともに発見している。だがそれはそれ自体がその二項対立の平面の地平にあるということの露見であるともいえる。論理の上では。…多分感じている構造の喜びとしては既に同一なのだが。)このときここで内側と外側の区別は消失する。閉ざされた自我が外側に裏返る。(解放される。)そういう可能性だ。外側と内側の区別が消失する世界と自分とのかかわり方の「発見」(気づき)。
この視点を導入すれば、「人生」が感じた違和感であるところの「世界と自分の分断」が、逆説的に「世界と自分との合一(主体と客体の合一)」という矛盾からの止揚にたどり着くためのきっかけとなる。アイデンティティの解体→再構築、孤独と閉塞の枠どられたエゴから解放された自我へ、二項対立→止揚の論理構造、個と世界が同一である芸術の理想、どちらも否定されず飲み込まれもせず、同時に自在に流動し変容する意味存在でありうる場所、多様と唯一が同じであり、イデアであるところの、そんな柔らかな自我への跳躍の発見である。「見つける」が能動的、支配的、意志的なものであり「気づく」が自然発生的で向こう側からやってくる自発、その「啓示」である性格をもつこともここでは大いに関係があるのだが。

(テクストは、文学とは、常に作者を乗り越えたところへ跳躍するための可能性そのものだ。)

その発見は、あたかも宗教的な悟りのように、いくどでも失われ、いくどでも再発見されるタイプの、アボリジニたちの言うドリーム・タイム、西田幾多郎の主張する無瞬間の永遠。発見した瞬間だけ存在する、(主体は世界に含まれるものであり、世界はまた主体に含まれているものである、その四次元的関係性の成立するところ。)そのたびに創造されるオリジナルにして普遍の時空間であり、またそのような存在としての、世界としての自分である。演奏されている時だけ存在する音楽空間、読書の現場にのみ生成され続ける永遠、テクストの向こう側。

これが「発見される世界構造」という「できごと」だ。
…って思うんだよね。イヤホントにさ。

11月、12月

11月。

朝の天気雨が上がった後、便りが届いた。
銀杏が色づき始めた駒場の街で、金と緑の朝陽の木漏れ日の中を歩いているよ、と。
「気持ちのいい季節だね、今日もがんばろ、なんて気持ちになるよ。」

そうか。

私は、晩秋の低い朝陽が辺り一面に金緑のひかりを降らせるまばゆい朝のカプセル、その黄金に輝く銀杏並木の風景を思い浮かべた。そのひかりにふちどられて枯葉を踏みながら歩く自分を感じた。カサカサと音がする。枯葉の匂いが立つ。風景に包まれている。

ふいと美というものについて考えた。うつくしいとはなんなのか。

そうだ、ああ、それをまるごと返信として彼女に伝えよう。
そんな考えの周辺のことを。

そう、考えたのだ。
その便りの中の昧爽の歓びの正体のことを。またそれを表現しよう、伝えようという衝動の持つ意味のことを。

時間と空間と世界と主体がひとつであるというその認識=感覚。美と呼ばれるものが真善美と並び称されるものが、実は三位一体としてひとつのものであるということができると悟る瞬間の永遠、その感覚の周りを言葉は巡る。己の枠を超えて伝えたいという衝動をもそれは内包している。

主体と客体が融合したところにある、次元の超越。その、世界と一体であることを体感する場所のことを美と呼ぶのではないか。

草枕」での漱石の芸術観を思い出す。対象と一体となること、主体の無化による芸術の成立、という、これはひとつの命題だ。(ここで美は芸術は、学問や科学と呼ばれるアカデミズムと両輪をなし、(それと等価であり)ともに真理、宗教と三位一体としてイコールである。)

そしてそれらは必ず「表現」されなくてはならない。
それは、書かれなくては「なかったこと」になってしまうのだ。

 *** ***

私は朝のニュースを眺め、あれこれと社会の難しい問題を語る人たちの議論を眺め、そのいちいちの真面目さにいちいちうなづいて困っていたところだった。
もっとも惨たらしい事件は人為により、あらゆる問題の難しさはすべて人的災害、人為であることによる。

めんどくせえなあ。

天災はすがすがしいほど圧倒的で難しさの入り込む余地はない。人はみな最も純粋に容赦なく、そして美しい生死を認識したものとして原初の生命に戻ることができる。この上なくシンプルで、難しいことは何一つない。非常にそれは残酷であり、けれどそして例えば太陽の輝き、海の青さ、生命の歓びという美の恩寵(美とは生命の歓びであると仮に定義しておく。)も、友愛の義の純粋も実はそのうらがえしであり、アナロジーとして等価である。絶対性なのだ。(友愛や正義に関して言えば、それは物語であり、ただ祈りに過ぎないものなのではあるが、また祈りであることによって実存からの真実でも有り得ると私は思っている。)

めんどくさくて難しい。
難しいのは嫌いだ。世界はもっともっと簡単であってよい。己の無力と無能が全く苦痛の意味をなさないところであってよい。

みんながそんな風に思えばさ、もしかしたら、もっとゲンジツは簡単で有り得るんじゃないかと思う、もっともっともっともっと。

クリスマスソングを聴きながら思う、11月を思い出す12月。

天災だろうと人災だろうと、招かないで済むことになるはずだと思う。
あらゆる難しい考えはそのうつくしい「簡単」に行き着くためにある。

ジョン・レノンが歌ったように、12月に殺された彼が歌ったように。(オレ、この歌のキヨシロヴァージョンも好きよ。)(リンクのyoutube、レノンのあと、キヨシロが歌ってるよ。)

IMAGINE。

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漱石忌

毎年12月8日には、太平洋戦争開戦の日であることととジョンレノンが狙撃された彼の忌日であることをしみじみと思い出す。

8月の壮大なセレモニーが行われる、あの惨劇に向かった戦争がはじまったこの日は誰も何も言わない、意外と知られていないので、ひとりひっそりと想像する。レノンの周りの人々、そしてニイタカヤマノボレ、トラトラトラの周りの人々。時代の匂いのこと。

底冷えのする静かな12月、奇しくもその日がレノンが銃殺された日であることを何かの符号の一致のように毎年考えてしまう。

何にしろ、なんだかココロは「戦争と平和」。
始まりと終わり、夏と冬、戦闘モードと平和モードの変遷。殺戮。過去と現在、未来のつながり。すべては人の心の中にあったもの。それが拵えあげたモード、さまざまに拵えあげられる歴史というもの。

 

そして翌日は、さらにひっそりと、漱石忌

大学時代、私がハマったのは、問答無用にまずは力技でヤラれてしまう漱石と賢治である。

文学部の中ではハナで笑われてしまうような、ミーハーで浅はかであると思われてしまうような嗜好ではあるんだが、正直言って実際そうなんだから仕方がない。(周囲の人間はもっとツウ好みの渋い文学部マニアック指向の嗜好をもっていた。普通の人は知らないだろう、読んだことないだろう、というような、教科書の文学史で名前だけ知ってるような。専門家らしくて学者さまぽくて憧れるけど羨ましいけど仕方ないものは仕方ないのだ。)

全然全く畑違いの二人ではあるが、共通している点を挙げるとすれば、いわゆる当時の「文壇」とは距離を置いていたということ、漱石は、だから文学史的には「余裕派」とかいうところで独自の理知的な文学として、他とは離れて置かれた場所に分類される。要するにものすごい個性的過ぎて分類できないのだ。賢治や漱石のキイ・ワードは「異端」。(鴎外もそう、「高踏派」とか言って、まあ当時主流であった自然主義とはまったく縁を持たない、それに影響されないところにあったということで。私は鴎外はさっぱりわからんし好きになれないしおもしろくない。正直言ってどこがいいのかさっぱりわからない。美文である(そして達筆である)(字の美しい人間には共感できないというジンクスのような思い込みが私にはある。)ということしか良さがわからない。とりあえず一生懸命読んでみても「だからなんなんですか」としか感想がでてこない。…読み込んでないせいなんだろうけど。)(私のゼミの恩師は漱石より鴎外の方に惹かれておられたが。)

で、二人とも、(賢治と漱石)戦後の教科書で育った我々にとってはまるで近代文学を代表するかのような世界的な文学者、文豪としての英雄的偉人という常識のようなイメージが持たれている。その秘密ポイントは教科書や戦後教育のとこにあるんじゃないかという気もするんだけど。

で、学者とか専門家とか一部の愛好家だけじゃなくて、ジャンルを超えたところでの一般人に熱烈なファンが多い。

一般人の人生を大きく揺さぶる力を持った一般人のための英雄なのだ。アカデミズムの塔にたてこもる文学者のためだけのものでなく。生活し思想する、その日常の中での人間の感性に訴えるところにある普遍性。文学のアルケー。(初心、ってことなんじゃないかねい、その持つパワーの源泉、思うに。アルケーって語感は。)(中沢新一的解釈)

でもまあ天才は天才。

誰もが思うけど誰も言葉にできなかったところを言葉にして見せたという天才。りんごが大地に落ちることにショックを受けたニュートンみたいな素直な感性を持っていた天才。

で。

まったくちがうんだけど、実際どこがどう違うのかな、ととりあえず考えてみた。彼の忌日に。そしてひねくりだした。

ざっくりメモ。

宮澤賢治は感性寄りで、夏目漱石は論理寄りである。
いわゆる右脳と左脳で、賢治が右脳、漱石が左脳。

だけどね、ベースはやっぱり共通なのだ。幻想の「現実」という物語の枠組みの恣意性を見極め超越し、個と集団、理知と感性が一つであるフィールドに二人とも足を突っ込んでいる。「異界・幻想もの」への傾向がその共通点を示している。賢治の方がより「向こう側」にイっちゃってる。漱石はそこに憧れながら壁を越えられないところで激しく苦しむ。そしてアカデミズムとは実はそこのところから生まれるものであると私は思っている。芸術論、文学論。

私は賢治よりも漱石にシンパシーを感じるのだ。ものすごく痛ましい。が、ものすごく面白い。私にとって賢治はまばゆい驚愕の対象であり漱石には共振するところにいる。賢治の方が天才と言えば天才であり、「向こう側」への感性に素直なのだ。詩人。言葉は彼にとってふわふわと踊る世界をつなぎとめるくさびとしての性格が強い。だが漱石は言語によって論理を構築する。…彼の幻想は美しい。「夢十夜」や「倫敦塔」のロマンチシズムはたとえようもなく深く美しい。…それは苦くて重い大人の悲しみからくるから深いのだ。子供の感性を持ちながら大人の楔を打たれ逃れられない者。

だが賢治のもつ美しさは違う。純粋な喜びだ。子供の喜びなのだ。だから、憧れる。

 

ざっとね、そんなことを考えた。忌日だから。なんとなく思ってたこと。これから考えられそうなネタになりそうなこと。

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今年のミッションだったラ・プレシューズのモンブラン。栗だった。メレンゲもクリームもとってもよかった。感動した。これで安心して今年を終えることができる。

 

「コンビニ人間」村田沙耶

こないだ、ポヨンと音がしたので見てみたら、

「『コンビニ人間』という本がある。感想を教えろ。」
という丁寧なメッセージが我がiPhone君に入っていた。

知らんがな。

「じゃあ読め。」

知らんがな。

…しょうがないなあ。
芥川賞をとったらしいのでちいとネットでの評を眺めてみる。
ふうん。読んでみるか。

これもご縁である。最近決まったジャンルや作家以外のものはなかなか手が出ないのでご縁は運命と受けいれることにした。

 *** ***

コンビニ人間」村田沙耶

2016年芥川賞受賞作。

読者レビューページなんかをさあっと眺めてみると、大まかな共通の感想として代表的な表現としては「サクッと読めるけどモヤモヤが残る。」。

で、とにかく「おもしろい」と。
読了して、あれこれ納得した

 

おもしろくない。
おもしろいけどおもしろくない。

うまいな、と思う反面、この、何とも読後感の悪いからっぽのあじきなさはどこから来るのか。さくさくと口当たりはよくうまい味付けがなされているのだが後味は妙にやにっこく人工的でからっぽ。胃の腑に落ちるまでもなく大した毒にも薬にもなりゃしない。

確かにおもしろいという意見はとってもわかるのだ。
さくさく読める文字通りのおもしろさ、気の利いた乾いた笑いにも似たアイロニックで鋭い感性、時代を映す、きちんとしたオリジナルな視点、その表現の巧さ。

そう、巧さ。
時代の問題意識を映し出すものとしての「新しさ」、新鮮さ。


で、問題の焦点としては、その読後感としての「モヤモヤ」なんである。
ここに考え語る価値がある。(「試験に出ますよ~」な感じ)これは問題意識であり、問題提起への読者としての反応であるから、落とされた爆弾に対しての。

「普通」と「普通でないもの」を分別し異質を排除する現代日本の社会のありかたを、排除される側を徹底的に戯画化することによって排除するその周囲の人間をも併せて戯画化する。人並みの情緒、感情を持ち合わせない主人公古倉恵子と、社会的にも人間的にもどこからどう眺めても最低最悪底辺のクズ男白羽(この評は今まで触れた感想のなかで全読者に共通である。)の組み合わせはうまい。

…だが、この白羽が、実は出てくる登場人物の中では一番リアルに人間臭いのだ。社会の圧力やさまざまの不条理、そしてさらにいえば、それに根差している己自身に苛立ち、適応もできず、逃れることもできずただ苦しむ者。苦しみが己に向かわずひたすら己を正当化し、他者を責め攻撃する方向に向かう凡人。…このリアリティには笑ってしまう。こういう「男性」って別に底辺じゃなくても多いのだ。ペダンティックに論理を振り回しているようでいて、その実まったく論理が通っていない、己の都合に合わせて、くるくると矛盾してゆく。要するに脳足りんのひねこびた幼児性に満ちたエゴイストである。周囲の価値観にがんじがらめにとらわれもがいてさまざまの価値観と論理の間で惑い、己のアタマを持たず、都合の良い論理を探しながらただ振り回されているだけだ。これを周囲の「まとも」な人間は、キモい、と切り捨てるだけだが、主人公古倉恵子は全く情緒と感情を欠いた合理性でもって非常に冷徹に分析し論理的なツッコミをいれる。ここがアイロニックで小気味よいところかもしれない。

そうして、サイコパス古倉恵子、結局社会的に「使える者」として受け入れられ存在を認められる喜びと安寧をもってコンビニ店員のプロトコルをもって適応し生きてゆく道を見出す「非人間」的な主人公に対し、リアルな「人間」白羽はひたすら破滅するだけの哀れな不適合不良品的なる存在となって別れてゆく。

カリカチュアとして見え透いて鼻につく主人公のサイコパス強調のエピソードも多いのだが、さすがにぐっとくる感性は時折きらりと閃くように鋭い。

ビジネス街のコンビニエンスストアに向かう、その生活感を欠いた朝の風景をナマの人間性が死にゆく街として愛しむ感覚に私は共感するし、主人公の感情を欠いた冷静な分析は率直にしてシンプル、可笑しみがある。「何かを見下している人は、特に目の形が面白くなる。そこに、反論に対する怯えや警戒、もしくは、反発してくるなら受けて立ってやるぞという好戦的な光が宿っている場合もあれば、無意識に見下しているときは、優越感の混ざった恍惚とした快楽でできた液体に目玉が浸り、膜が張っている場合もある。」p63

…新入りコンビニアルバイトの白羽が店長に叱られて「け、コンビニの店長風情が、えっらそうに」と呟いたときの分析法開陳である。(この状況設定自体がほとんどギャグではあるが。)

「差別する人には二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。白羽さんは後者のようだった。(中略)まるで私みたいだ。人間っぽい言葉を発しているけれど、何も喋っていない。」p64

白羽のノータリンぶりを余すところなく描写しているのではあるが、とりあえず、この作品、個人的には、めいっぱい批判したい、否定したい心で一杯になる、アンビヴァレントに満ちた、これは何だろう、割り切れない、キモチワルイ、そう思わせる意味でこの爆弾には価値がある。

主人公をまったくの透明な情緒のない宇宙人のような人間として設定し、この無色透明な「鏡」によって社会を成立させている透明な論理性だけ映し出すと、奇妙な滑稽さがあぶり出されてくる。周囲を映しこむ魔法の鏡のような主人公設定の手法である。周りの「普通」の「まとも」の口の利き方を学び真似し社会のパーツになろうとする主人公。そのリアリティが不気味で可笑しい。この風刺は、まさに、誰もが多かれ少なかれそのようなパーツを演じることによってこの社会、この世界が成り立っていることを自覚させられる、そんな可能性と攻撃力をもっている。

本作にはきれいな論理がある、感性がある。評価されるという価値があることに私は納得する。

だけど。

だけどやっぱり、決定的な、普遍的な文学としての、人間としての、そのクレバーさを越えた「パッション」がない。実存主義的、という評をどこかで見た気がするが、それには「この先」が必要なのだ。断言するが、これは世界に、歴史に残る名作にはならない、要するに。(例えば春樹には歴史に残る価値があると私は思っている。普遍性と閉じられない論理、パッションがあるからだ。時代性や面白さとともに。私はそれを深み、深淵と呼ぶ。だが)この作品には新奇な意匠ととりあえず完結し浅くきれいに閉じられたタイムリーな問題意識と閉じられた浅薄な論理しか見えない。あまりにも「わかりやすい」風刺である。

巧い、新鮮な意匠。だが本作に限って、その先がない。

…だが、もしかしたらだからこその芥川賞、可能性に満ちている作品であり作家なのかもしれない。感性と知性、筆力の三拍子、みんな納得優等生芥川賞。そして、だけど、だからこそやはりこれをおもしろい、おもしろいと言って終わらせる読み方には納得できないのだ。小気味よいアイロニー、現代の歪みを不気味さを浮き彫りにした良作であるとして。

以前、西加奈子の「i」を私は必要以上に批判的に読んだけれど、それに似た、ほとんど計算されたような巧みさ狡猾さへの反発を感じるんである。反感としてはあれよりはずっと弱いけど。こざっぱりとそれを隠さず吐露していることによってむしろ小気味よいといってもいい。(「i」は狡猾に過ぎていやらしさを感じてしまったのだな自分。)

だから、この割り切れなさを残した可能性、素朴な読者の反射的第一印象としての不快な「モヤモヤ」を批判的に語ることによっての価値がこの作品の、このような作品の価値であると私はとりあえず位置付けたいと思っている。否定の、あじきなさの、その先に、存在の、人間への愛しさ、美しさや祈り、それらへのさまざまを盛り込んだ「文学」へ、もっともっと混沌へ、深淵への風穴をあける人間の「パッション」がひらかれるために。

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これは羽ばたいてるんじゃなくて、羽を広げてじいっとひなたぼっこしてる公園の水鳥。寒いんだね、トリもカメもおんなじだ。

 

「蜜蜂と遠雷」恩田陸

本屋大賞直木賞受賞、すごい人気のベストセラー小説。

読み始める。
なんだろう、なじみが薄いせいか、昨今の流行ベストセラー小説特有の文体の臭みに最初ウっと来るが、(YAしかり、時代小説しかり、ハーレクインしかり。そのジャンルに独特の文体がある。作家の個性の前に、なんというか、文体のOSとして。それは例えば萌えイラストとかおめめきらきら少女漫画とか、門外漢から見ると全部おんなじに見えるとかいうレヴェル。まあね、かわいこちゃんアイドルやジャニーズの男の子たちの区別がつかないとかそういうレヴェルで、中に入り込むときちんと違いの分かるゴールドブレンドになるんであって個性は個性、すごい違いがあるのではある。まあな、ネスカフェゴールドブレンドとハマヤブルーマウンテンとブレンディの区別のつかない人もいるんだしな。100円回転寿司でも老舗の職人技高級寿司でもジャンルとしては寿司は寿司でおなじだとかそういうレヴェルなのやもしれぬ。で、その違いが判ってこそその醍醐味、その面白さもわかるんであると思うよ。)慣れてくるとぐいぐいの力業。…なるほど納得の猛烈なグルーヴ感覚というかスピード感というか節操がないほどのおもしろさである。ザ・エンタンテイメント。

直木賞本屋大賞かくあるべき、なタイプの面白さ。
これはもう少女漫画である。「ガラスの仮面」を読んだときのような夢中になるストーリーの快感。お約束な定型キャラクター、映画の中のようなカッコイイセリフを絶妙に交し合い、美男美女天才が大活躍、来年は映画にもなるそうな。これ。さもありなん。

世界的なピアノコンクールをめぐって、さまざまの青春群像、それぞれのドラマがからまりあう。音楽の快楽、栄光の快楽。天才たちが試練を越え、ぐいぐい目覚めてゆく万能感。ドラえもんの万能感。生い立ちのトラウマやデジャヴをからめた青春ドラマってのはそれだけで切ないずるいセンチメントなんである。

浅薄だとかいうのではない。極上のエンタテイメント、ジャンルに貴賤はなくこれはこれとして本当に素晴らしい。きちんと深みもあるし、描く世界は魅惑的に美しい、わかりやすく感情を揺さぶられる名作、綿密に構築された物語の知性の館。音楽による世界構築。この盛り上がりに読者を乗せる文章力が作家の力の見せ所だ。…うまいなあ、この人。すごい才能ってのは世にはあるもんだ。豪華絢爛華麗なる文体。

ただね、モリモリに盛りすぎて、盛り上がりがサーヴィス過剰で、後半はおなか一杯の感も。みんな天才の演奏で大宇宙を浮遊し深遠と己のアイデンティティの琴線震えまくって大泣きしすぎである。イヤのせられるんだけど、これが結構いいんだけど。…しかし幾度も幾度もでサーヴィス過剰の感もあり。極上のフロマージュでとろけた後に最上級のショコラ、秘蔵のワイン、最高峰モンブラン…ゴンゴン連続でたらふくサーヴされたりしたらお腹一杯でどにもならんであろう。

でも心憎いばかりにエンディングもきれいにまとまっていてうまい。

 

あとね、読みながら、読んだ後、ものすごくものすごく考えた。
…これはどう考えてもアカデミズムからは遠い。私の考える「文学」とは違う。娯楽というジャンルは別っこの論理で論じられるべきであって文学としては考えられない。

という、まずは直観である。
ガラスの仮面」は私の考える「文学」とは違う。漱石や賢治とは違う。
もちろん物語であるという形式では繋がっている。だけど、決定的なところが違うのだ。

どうしてなんだろう。

難しい。明確な境界線はひけないから。
でも違うんだよ。

それを考えたのだ。頭が溶けるほど考える価値がある難しさおもしろさ。
「文学とは何か?」

まず前提として、問いがあるところが文学なのだ。
物語を美しく組み合わせきれいに落としこんですっきり閉じる、のは文学ではない。きれいに主張が見えてしまうのは違う。独善的に倫理や美学が語られる、ってのも違う。みんなドグマだ。ひたすら閉じられない疑問があり祈りがある、読者に投げかけられ永遠に考え続けることを強要する、「石炭袋、ブラックホール、宇宙の穴(銀河鉄道の夜)」がある、これが文学である。心臓を破ってその血を読者に、未来へと浴びせかける、これが文学である。(「こころ」《漱石》)

う~ん。違うか。もう少しきちんと言わないとダメだな。
とりあえず考えるよ、おもしろいと思う限り。

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おじゃる丸

おじゃる丸スペシャル「銀河がマロを呼んでいる」再放送してたから、また観てしまった。

やっぱりいいなあ、おじゃる丸
日本の誇るアニメ文化の中でも文学性を備えた類まれなるNHKショートアニメである。(しかしやはり長編よりも15分の枠組みのなかのレギュラー番組の中にこそその真骨頂はあると私は考える。)(因みに海外のものでは「アドベンチャータイム」が白眉だと思っている。このセンスには驚いた。やっぱり日本人とは違うんじゃないかなあという意味で素晴らしい。)(けどやっぱりおじゃる丸の深さとは、独特のこの日本的感性とは、うむむ、なんというか…「違うだろー」。)

ポピーザぱフォーマー」や「ウサビッチ」にも感服するけど、これら男性原理的なあじきない笑いや残虐性を伴った、突き放したスラップスティックな鋭さではなく、その透徹や不条理への思いを笑い飛ばすスタイルを、こんな乾いた批評性を保ちながらも限りなく優しい祈りを秘めたかたちで、抱きしめるかたちでの世界で表現した犬丸りんのこの作品(うつ病で自殺したって聞いて、さもありなんと思ったよ…このセンスと知性じゃなあ。)の女性性の深さを思う。「笑い」に対するスタイルの問題なのだ。世界と自分とのつながりをどうとらえているか。肯定への祈り。


この軽やかなナンセンスやパロディ精神の表層という深さは既に文学であるなどと思うんである。

そして文学とは何かということを考える。

何故聖書がゴリゴリとした折れやすい「閉じられた論理」としての教え、というよりは伝聞として、あるいは物語として語られなくてはならなったのか。法学や論理学倫理学のすべての基礎として「野生の思考」を生み出すすべての母体「物語」のスタイルをとらなくてはならなかったのか、というテーマにこれは行き着くのではないか。

 

…ということでおじゃる丸についてはいつかきちんとひとくさり語りたいところである。推しキャラクターとかね。「余は如何にしておじゃる丸信徒となりし乎」(内村鑑三)(すみません。)

寝よ。

おやすみなさいオライオン。
きっと明日(もう今日だ。)も今朝のような澄んだ夜明け。

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