酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

妄想

荻窪の小さなワンルームで、するんと背の高いあのひととさまざまの考えを一生懸命語りあっていた時代のことを思いだした。

とても大切な思い出なのに普段はしまいこんで忘れているんだな。

…いや、そういうかけがえのない時間を重ねてきた、その上で現在が成り立っているという豊かさをこそ私はきちんと把握しなくてはならないし、それは、崖っぷちに立たされたと思ったとき、自分を支えてくれる唯一の、最後の望みの綱になってくれるものとしてある。

 

Y君と私は、ふたりとも二十歳そこそこで、同じ大学に通っていた。

彼はウチのすぐ近所に越してきて、私は夜になるとよく家を抜け出してあの部屋に遊びに行った。近所のコンビニに一緒に行って夜中のおやつを買って帰ったりして、何だかままごとのように楽しかった。(私はかぼちゃプリンが好きで彼はチーズ蒸しパンがお気に入りであった。)土日には一緒に街をほっつき歩いて買い物につきあったり喫茶店でケーキを食べたリ(吉祥寺のレモンドロップは当時からあったんだぜ。あの頃は井の頭公園口のお店だった。多奈加亭もチェーンなんかになってなくて、とっても素敵なかぼちゃケーキがあったし、ゆりあぺむぺるは当時から白ワインとスイーツのマリアージュなんていう洒落たことしてた。)、朝には待ち合わせて学校に一緒に行ってみたり、日常のちいさなくだらないことでたくさん笑ったり。若さのもつ尊大さで人生について偉そうに議論したこともあったのだ。本当に忘れていた。

麦酒の味を教えてくれたのも彼だった。それまでおいしいとか習慣的に飲みたいとか全く思ってなかったのに、あれこれ飲み比べにつき合わされてたりするうちにすっかり麦酒なしでは生きられない身体に。(アル中への手ほどき…感謝すべきところか抗議すべきところか…。)

泣き虫のあのひとの純粋さに大層驚いたこともある。最後にみたあの人の顔は、私がさよなら、と言ったとき、目を真っ赤にしてほろほろと泣きだした、あのやわらかな泣き顔だった。あの顔のことなんかを今なんだかつるつると思い出している。私は泣くことはできなかった。どうしてかわからない。寂しいことよ、とは、確かに思ってたんだけどな。

で、もう少しで世界が滅ぶんだったら、或いは自分の人生が終わるんだったら、どうする?なんて話をしたことがある。確か二人で彼の淹れてくれた珈琲を飲みながらだったと思う。日曜の夕暮れ時。

「今もってるカネ全部きれいに使い切る。今まで我慢してたやりたかったことぜんぶやるな、オレ。」

…なんてことを言うから、なんだかものすごい陳腐でつまらないなあと当時未熟な私は思ったんだけど、今、実は自分が彼とまったくおんなじことを考えてるということに気付いて愕然としているんである。(それで思い出したんだけど。)

我々は皆大抵、日々が続くという前提のもとに、普段のこの日常に支えられ、また、閉じ込められている。明日を守るために明日破滅しないために社会的立場を守り暮らすために節約したり我慢したりして置かれた場所で分相応に生きようとしているのだ。

けど。

心のどこかで、ここからポンと抜け出して限りなく自由になりたい、と、いつだって思っている。何もかもから逃げ出して。(問答無用に不可抗力な力ですべてをぶっ壊してくれる、ゴジラのあの圧倒的な破壊っぷりに痺れる快感をおぼえる原理。縛るものに対する破壊への衝動はこの自由への憧れからくる。)

夕暮れの最後のひと切れの中を遥かに光りゆく飛行機を見上げて、あれに乗ってドコカに行きたいなあ、とか、電車に乗っていて、このままふと出奔してしまいたいなあ、とか。

それがあたかも貨幣経済に関した陳腐で通俗な欲望に帰結してしまうものであるかのように感じてしまうことの切なさは、深く人間の業に関する寂しさである。と同時に、一見非の打ちどころのない合理的な貨幣経済制度による社会が、どこか決定的な歪みの源となる構造をそれ自体もっていることを示唆している。その圧倒的で暴力的な魔力、束縛力は、人の本来もっている「ほんたうに大切なもの」を問い続ける力を曇らせるものなのかもしれない。とてもとても個別的なただ「それ自体」でだけであるはずのものを、代替可能であるかのような記号に還元してしまおうとするメディア構造の力。

 

さて、ということで。

煩悩満載最後の望みプラン。

とにかく何にしろ断捨離しなくちゃ動きがとれないな。業にまみれた我が人生、せめて後に残るケガレの痕跡を少しでも減らしておきたい。

で、ほんのしばらくまったくのひとりの自由になって、行きたかったところ、やってみたかったこと、我慢してたこと。…しかしねえ、憧れだったあの店のあのケーキ食べておこうとか、もう一度、懐かしい友人たちとあれやこれや遊んで笑ったり話し合ったりしておこうとか。せいぜい、その程度。あと、旅。圧倒的に、これ。旅だ。持ってるお金がからっぽになるまでひとりでひっそり。日当たりのよい明るい部屋を選んで日を暮らし夜を明かす。そこではきっと今日常の中で読めなくなっていた本や漫画がちゃんと読める。今家にたまっている積読を抱えて行って何にも邪魔されず心配もせず読みふけるんだ。ふらっと映画館に入ったりとかもね。そして考えたこと好き勝手にいっぱい書き残して。

…いずれにせよ、時間とお金と身分と、あらゆる身体性に心が縛られて抑圧されてきた、小さな小さなことどもが降り積もって致命的になったココロノコリたち、山積物。本当はいつだってできることなのに。或いは、心の中にきちんと小さな永遠の日曜日を持っていたら。…ただ勝手にひとりで牢獄に入って、頑張って生きている眩い人たちを羨んでいた。

 

…いよいよとなったら(このときはすぐに来るだろう)、怖さや痛みが麻痺するように酒をたらふく飲んで泥酔してから湯を張ったバスタブに入り、鋭利なナイフでぐっと内側に向けた手首を切る。このやり方が、お湯の中に血液がどんどん流れだしていくから確実だという。服は着たままでいよう。そして独り言をぶつぶつとつぶやきながらそのまま眠ればいい。

まあしかしこれもまたその後の陳腐で悪趣味なお昼のメロドラマや安手のB級サスペンスホラー映画みたいなシーンだなやと想像したらやんなっちゃったよ。己の最後が驚くべき残虐さと醜悪さと陳腐さ、そのあじきなさに彩られたかたちで締めくくられるってのも…まあそんなもんか。(ちなみに私はホラーやスプラッタは大嫌いだ。好んで怖い思いをしたがる輩の気が知れぬ。映画はおめでたいハッピーエンドに限る。世界は脳天気なお花畑であるべきだ。)

つまりだな、この陳腐ないやらしさは、第一発見者になる彼、私を追いつめたあのひとのこの後の人生を一生その風景のトラウマでダメにしてやる、とか考えているところからくるワケだな。「こころ」のKを気取ってたりさ。とりあえずこれは、無力な自分の身をかけた精一杯の復讐。窮鼠というのはこういうやりかたでしか猫を噛めないものなんだ。それにしてもなんて穢れた根性なんだろうねこういうのって。我ながら。

…だけど本当に、こんな風に憎みたくなかった。本当に本当だ。私があのひとを攻撃したことはない。(わざわざそうやって労力を割く価値もないと思ってたわけなんだが。)ただそっと逃がしてくれればわざわざ執拗に攻撃しにこないでくれれば。…そりゃね、諸悪の根源は、ひとをばかにしている私の傲慢さなんだからさ。それはわかってる。

ああ、自分で自分の首を絞めなくちゃいけなくなっちゃったのは、どうしてなんだろうなあ。

愚かさと甘えと、矜持と。

だけどとりあえず今日、私は生き延びて、その今日の分の幸せをたっぷり受けとって、感謝と祈りの心持ちで眠れたりするのです。

ああ、幸せだ。

おやすみなさい、サンタマリア。

物語(蛇男補遺)

だったら私は、自分に都合のいい物語を捏ね上げて、それを信じることにするよ。

夢の中で誰かに言い放った、と思ったら目が覚めた。壁の時計は二時を指していた。深夜二時。

部屋は変な具合に歪んで見えた。自分の目の中のレンズがどこかひずんでいるせいだ。蛇の虹彩。そのせいで世界がゆがんだのだ。灯りをつけているわけでもないのに部屋全体は淡く発光し、夜なのか朝なのかもわからない。


確かに見覚えのある私の部屋、それは私のための部屋だったが、やはり私の部屋ではない。

…ヤラれた。蛇男・チャンネルだ。
喫緊の要請にでも出くわしたんだろう。予告もなしに送り込むから困る。そしてこういうときはいつもの場所とは少し違う、奇妙にアウェイな部屋に送られてしまうのだ。メディアルーム、その機能は同じであり、ツールはどこも同じではあるんだが。…まあどうせプログラムは私が組み立てる。

夢の中に閉じ込められたままの空間。視界は柔らかく薄闇に包まれているが、どこか薄明るい。全体奇妙に色が抜けて白茶けていた。


のろのろとベッドから這い出る。

机にはキイ・ボードが置いてある。机の前の窓がそのままディスプレイになっている。
画面は一面霧の風景に見えた。何色でもない、暗いのか明るいのかも判然としない、ただ濃い霧のように視界をふさぐ質感。


何かに背中を押されるようにして机につく。

窓の外の虚空から、叫び求める声がひしひしと迫ってくる。あたり一面からくる。どよめきのように背骨から脳髄へと鈍く響き渡る。骨髄のその奥で、微粒子がざわざわと波のようにさざめく、ブラウン運動

泣くようにして、私は笑っている。

それは私に求めているのか、私が求めているのかわからない。

物語を、物語を!

どうしようもないこの衝動が外側からくるのか、私の内部から来るのかわからない。
それが愚かしいことなのかうつくしいことなのかもわからない。

ただどうしようもないから、衝動のままにひたすら指はキイボードを叩きはじめる、絡み合うプログラムを打ちこみ続ける。思考が、思考ではなく、身体が身体ではない、わたしとは、ただプログラムを体現する現象であった。

打つそばから次々とそれはほのかな光を放ちながら起動してゆく。大気中にほそく震え輝く金色の雨のような菌糸が張り巡らされ、発芽する胞子のように、その菌糸から発光する子実体が現前する。さまざまな形状で、とりどりに柔らかな光を放つ、ほのかにうつくしい夜光キノコの森が出現する。それは生えだすや否や、ふわふわと夜光クラゲへと変態して漂い出す。空気が水のように澄み渡る。

この手の中から、うまれてくる、その柔らかな光の世界。この部屋は煌き震える金色の糸がはりめぐらされ、ゆらゆらと蛍光クラゲの泳ぐイカサマなカラクリ部屋、くすんだまばゆい霧に満ちたきらびやかな空間。

窓を見る。この部屋と共振しながら、そのインスタンスであるところの世界が映しだされる。
こんなインチキな場所から、こんな優しい光が照らしだされることができるのだ。私の中で何かがゆっくりと昏い瞳を開く。光を吸い取る。やわらかく、ふるふると、喜びに震えるいのちといのりがある。

…よし。依頼は果たされる。このプログラムは正しく機能する。それが否応なく私を支配してゆくのを私は感じていた。生み出したものに飲み込まれる。うっとりと心は正しく飲み込まれてゆく。現象と一体化しながら、私はここで私として成り立ってゆく。

***

森だった。
そこに映し出されたものは、限りなく深くゆたかな森。
私は私として成立しながらその底をゆきながら、キイを叩き続ける自分もうっとりと感じていた。意識はその生物相に似た迷路をさまよってゆく、ずっとさまよっていたことを知る。生きているということは、ただそれを切りひらくということだった。

次第に、幸福という概念が記憶の奥から滲みだしてゆく。それはわたくしの外側からくる。幼い日に与えられた明るい部屋の中、与えられた菓子の記憶のようにふわっとほのあまく胸に広がるもの。あたたかく、あまく、やさしく。私の五指の操るままに、世界は現前し、その姿はさまざまにうつろってゆく。私は夢中になって、プログラムを変換し続ける。

OSは定まった。各アプリケーションにはある程度自由度がある。それらが拮抗したバグも数多く出ることだろう。だが、大筋は定まったのだ。

ENTER。

***

「もういいよ。」
蛇男の声がした。

金色の虹彩を正面に向けたまま、横に立っていた。私はぼうっと意識が途切れてそのままぽかんと呆けていたのだ。起き直ると、しんしんと痛む目を押さえ、奴が差し出した白いカップを受け取った。濃い珈琲。蛇男の淹れる珈琲は、いつも地獄のように濃くて熱くて、もうその地獄になら堕ちてもいいと思う。魂に炎の灯る魔法の液体だ。

痺れるような快楽にぼんやりと微笑みながら、私は窓の外を見晴るかす。自動生成モードに入った森、そしてその向こう側。

向こう側、その森の外には静かに光る街が広がっている。空や雲があまりにも眩くきらきらと光るので、街は光を乱反射し、屋根も樹々もそれ自体が凄まじく発光しているように見える。あんまり明るく光るので、どこかがらんと暗く見えた。本当はあんまりにも美しく明るいので、その強度に耐えうる感官のキャパシティをもたないからだ。瀝青のように濃い闇に見える。

そう、ここでの感官がそのあまりにもまばゆい輝きの真理を受け取るキャパをもたぬ。それだけのことだ。それが本当が損なわれることなどない。それはバグではなく正しくプログラムされた、その正しさの外側にある。その外側にのみ存在できる。

いつか、あの中へ還ってゆくためには永遠に創造し続けなくてはならない、創造主とは機能である。いつかあの懐かしく明るく光る青空に満ちた街の中へ、私は行くのだ。

「もういいよ。」
後ろからポンと肩を叩いて、きっと別の誰かが私に言うだろう、部屋を出る、その日には。

忘年会

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プチ忘年会である。

まあ単に地元で旧い友人4人と飲んだだけなんだけど。久しぶりだったからね、とりあえずそう銘打って。

いや~、みんなの都合まとめて時間や店決めたリのあれこれやたらと面倒だし、寒いなとか頭痛いな調子悪いなとか、夜出かける前ってぐずぐず考えてしまうんだけど、行ってしまうとやはり実にいいもんだ。

地元の居心地のいい小さな店で、学生時代からの友人たちと好き放題にしゃべりながらでれでれ気ままに酒を飲むなんていうことは。

いかにも古き良き中央線沿線文化、アットホームでユルくてだらだらした気ままな店。オールドファッションなジャズとロック。山と積まれたCDに漫画本、ペタペタと映画のポスター。実に高校時代の友達の部屋感覚である。

殆ど常連客だけでもってるとこだから、メニューは有名無実、事実上「これありますか~、これできますかねい。」な感じの注文でね。

「飲み物はねえ、ここにあるものからということで、」
「この自家製ジンジャーエールってありますか。」
「ええと、できるかなア…。あ、実はそれ自家製じゃないんですよ、それでよければ。」

嘘かよ。

「…んでばまあ乾杯。」
「いろいろお疲れ。」

でれでれと飲み始める。

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ほんともう何年も会ってないはずの友人なのに、するんとあのころの気楽さに戻ってしまう。いや、あの時よりもずっと目の前のこだわりのない感じ、なんというんだろう、淡い年月の寂しさを湛えながら。それぞれの道を行ったそれぞれの現実を認め合いながら。

…なんだか久しぶりにたらふく笑った。

ひととき何もかもを笑い飛ばすことのできるシェルターにはいりこんだ気がしたよ。こののっそりした懐かしい居心地の良さ。やっぱりここに住んでいてよかったな、離れられないな、中央線遺伝子が組み込まれてもう一生この懐かしさからは逃れられないのだ。

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(ほっそりと華奢な少年だったトモダチたちがさ、なんだかもう腹の出てくるお年頃になったとか、なんだかきっとこれって冗談だよねえ。)(弟よ、そこはかとなくアタシの腹部を眺めながらそういうこと言うのはおやめなさい。)

…懐かしの灯油ストーブ点火の瞬間にも立ち会った。これはほんとうにあったかい。見ただけであったかいし実際とってもあったかい。

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「これ近づくとナイロンとか溶けますから~。」
いやまあそりゃそうでしょう。

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お通しが袋入りスナック菓子とかポップコーンとかで…
「これよしお、手を出すんじゃありませんよ。」
「こいつ手癖がわるいな、よしお。」

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「食べるものありますかねえ。」
「ええと、カレーとか、タコライスとか…」

カレーは人参たっぷりだ。

三々五々、常連さんたちが来店し始める。
(彼等例外なくタバコもくもく。これには閉口。これさえなければひたすら素晴らしいんだけどなあ。)

ふらっと訪れて、でれでれと飲んだりしゃべったりする。遊びに来た友達たちな感じで、何にしろやたらユルくて親密な空気。

麦酒追加頼んだら、話し込んでる店主の代わりに常連さんが持ってきてくれたりね。

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店主はウヰスキーに詳しいらしい。たくさん揃っていて、相談に応じて選んでくれる。「インペリアルだって?なんか偉そうじゃないか。」

私はウヰスキーは今ひとつおいしさがわかってないんだけど、入門できたら楽しそうだな。

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店の隅々まで、インテリア一つとっても何かとあれこれ楽しいのだ。ごっちゃりとCDやら本やら重なってて、おそうじするの大変そうだけどな!

何だか帰りたくなくて、随分遅くなってしまった。
テンション上げ過ぎて後からどっと疲れてしまったわい。

本当に欲しいもの

「ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか」

銀河鉄道の夜」でジョバンニが鳥捕りに聞きそびれた問いである。

幾度も幾度も、いつでも、この問いは私を問うた。

 

…キヨシロやアッコちゃんみたいにね、「欲しいものはたくさんある♬」が実はホントだったりもするんだけどさ。

きらめく星屑の指輪、寄せる波で拵えた椅子、世界じゅうの花集めつくるオーデコロン。

そうして、あなたの心の扉を開く鍵。

 

でもさ、今はとりあえず、薬が欲しい。「ほんたう」とはズレるとしても、これだってホントウだ。真理なんてものはいつだってズレたところにしか存在しない。

一粒飲むと、何の苦痛もなく、すうと優しい眠りが訪れて、そのままここに戻らなくてもいい。確実にね。…そういう薬。

もしできるなら、その最後のときは、ものすごく幸せな思い出ばかりで心がいっぱいになるような、脳内快楽ホルモン分泌が刺激される成分が含まれていてほしい。

今すぐに使う勇気はないけど、宝物にして、お守りにして、いつでも身に着けておく。泥酔した勢いで飲むんだな、きっと。

だけどほんとにさ、もしかして、これがあれば、こういうお守りがあれば、もう少し強くなれるかもしれないと思うんだ。こんなにどうしようもなく追いつめられなくても済むようになるんじゃないかと。

今のこの国で、一番需要があるのはこれなんじゃないかしらんなどとちらっと思ったりもするんだな。

死ぬということが。(世界の始まり・ナルニア国物語)

早朝、半ば目覚め、半ば眠りの中に置かれているとき。まだ目を開くことはなく、意識は目覚めつつある、そのときのことだ。

さまざまな思考が際限なく湧き出でて意識野を駆け巡る、論理が構築されたかと思うと破壊され、それはまたよりうつくしいかたちに再構築されてゆく。無限に深く広がってゆく世界構成を繰り返しながらたくさんのかんがえが一面に跋扈する。きらびやかなさまざまなかんがえの万華鏡の中に恍惚と遊んでいる。

ぐるぐると自在に駆け回る。面白いように考えが湧いて出るのがこのときで、恐ろしい絶望に捕まるのもこのときだ。

夜から昼へ、無から有へ、眠りから覚醒へ。始まりのとき、けれど完全に取り込まれる前のとき。まだ意識は多層で不安定で不定形、アイデンティティは時空に捕らわれきっていない。

…中学から大学まで、人生の、青春時代のコアを住んでいた阿佐ヶ谷の家、うっそうとした庭に囲まれた古い古い家屋。あの家の二階の部屋での目覚めの早朝、あのときのことをよく思い出す。秋である。るうるうと湧き出だすような虫の声のやわらかな海の中を浮上して覚醒していった。その、意識の変遷を私は愛した。無から有へと生まれてゆくとき。確かにあの時わたしはあらゆる世界と思考に通じていたから。

突然閃くようにして新しい論理の地平が開かれる。卒論や修論に行き詰ったときも、あれこれぐずぐず思い悩んでいた時も、さまざまな新しい考えがあぶくのようにぽかぽかと夢のあわいから次々生まれてきて、すべては有機交流電燈としてつながりほのかに明るみ明滅し、うつくしい世界の無限に自在な調和をしめしだしてくれた。

それはなんというか、至福の、あらゆるところに通じたメディアの時空であった。あらゆる世界の現象と論理に。それは、或いは、図書館。

今でも思い出す。阿佐ヶ谷の二階の私の部屋の、夏から秋にかけてのいくつもの朝が重なった風景。
深夜から早朝へのひととき、最初の小鳥が鳴きだすか鳴きださないかのとき、昧爽の私はまだ目を開いていないのに、意識はある。意識は眠る私をどこかから鳥瞰している、読者の目だ。

夜通し鳴き通したはずの虫の声がるうるうといきなり意識の前面に大きくせりあがり湧きあがってきて、わたしを包み、私は寂しく美しい音の雲に包まれて浮遊する感覚を得る。浮き上がってゆく、天井の方まで。

幽体離脱の感覚ってこういうのだな、などと考えている。

死ぬというのがこういう感覚ならば、本当に、この世に何にも恐れることはない。
あの至福の時空に戻るだけなんだ。あかるい、死から再生の可能性にみちたメディアの場所に。

 *** ***

C.S.ルイスの「ナルニア国物語」で、創造主アスランが、世界の始まりの歌を歌うシーンがある。

(ルイスはバリバリのクリスチャンで、あのシリーズはキリスト教の伝道あるいは洗脳童話であるという批判もされているくらいなんで、まあアスランキリスト教的な創造主イメージであると考えてよい。)

ナルニア国物語シリーズはひとつの世界の創世から滅亡までをうたった壮大な物語なんだが、その万物創世、始まりのときのシーン。

創造主の歌の響く間、その特別の「始まりのとき」のあいだ、万物ははじまり生まれ育つ生命の黎明期にある。多分創世記のあの七日間のイメージに重なるものだ。何もかもが生まれ育つ躍動に満ちた素晴らしい情景描写は圧巻だ。

で、それを思い出すのだ。始まり、終わる。そして、永遠が始まる壮大な一連の物語の全てを繋ぐものである、洋服ダンスの扉の向こう側に開かれた、あの霧の中の、あのメディアの時空、あの不思議で壮麗なシーン。不安定で不定形で、始まりの予感に、その歌声に、エナジイに満ち満ちたあのシーン。死と再生がすべてひとつの物語の中にあり、それはそのメディアの空間に繋がったものである。既に死を孕みながら再生への希望と喜びを孕んだ両義の場所。過去と未来をすべてインテグレードした四次元的時空だ。そしてメディアの場所。

 

死ぬということが、だから、あの無からの始まりにつながる物語のイメージとして捕らえられるものであるならば、ということなのだ、つまりね。

このシーンは個人的に随分思い入れがあるんだな。(いやまあナルニア国物語は随所に思い入れがあるんだけど。)ここでも触れてた。三好達治の詩の記事のときだな。

絶望と至福が。(いろいろ改訂版)

絶望と至福がこんな風に交互に極端にやってくるのではまいってしまう。
家の中でイマココに取り込まれ組み込まれ、戻る場所も行き場所もなく逃げることすらできずこの先に希望はない、と絶望していたはずなのに、外に出てひとりになったとたん、懐かしい街の思い出の中に解き放たれた瞬間、ふわりと呼吸が楽になって、これ以上ないほどの幸福感に満たされることができたりする。

まったくねえ。
血圧だって血糖値だって躁鬱だって、とにかく数値の乱高下は一番健康に悪いのだよ。

…で。

ふと、もしかしてこれは本来一つのものなのかもしれない、という考えが浮かぶ
至福と絶望の、この感覚が。感情が、精神が、魂が、その情動のかたちというものが。

表裏、ということか。
そうかもしれない、だがやっぱり違うような気もする。

…そうだ、ウン、これは全然違う。表裏ではない、多層なのだ、世界の基本は。十界互具。

熱いエネルギー、ただ純粋な「過剰」の塊に、周囲の風景が色や形を、名前を、意味を、物語を与える。それが、その論理が、その論理自身の内側の世界と共に、その外側のカオスの意味をも決定づけてゆく、レッテルを張りひとつの論理の中に色付けしてゆく。その数だけ世界ができる。無限の多元宇宙。

外側はカオス、名のないところ、虚無でありマトリックスである。それは安全な論理の世界の内側、コスモス界から見ればいみじい至福と恐怖の対象であり、すなわち至高と解放と恐怖である。日常コスモスは安全でわかる。だから隙間がない。エントロピーは増大し、滅ぶもの。歪み閉ざされ閉塞し疲弊し腐るもの。全体性を本来とする個人のトータルを押し込める理不尽となり絶望を呼ぶ。

ということで、民俗的知恵としての祝祭サイクル論理がある。

ケ(日常)はケがれ、ハレとして外部との祝祭空間をもち再生するサイクルをもつ。宗教的儀式はその役割を担っている。要するに、外部と内部の関係を管理するメディア機能をもっているのだ。

日常のコモンセンス、つまり「管理」から外れた変態的嗜好、痛みと快楽の区別がつかない、ひとつのものであるところにあるという奇妙な感覚の成立する基盤とそれはまったく構造を同じくしている、おそらく。…にんげんがこわれるとき、せかいのわくぐみがこれれるとき。そんな「外部」、そんなところに通じてゆく異形の力。その境界線に位置している、激しい場所。至福と解放、そして虚無の絶望、恐怖という「過剰」。怖れながら惹きよせられてゆく不思議なところ。世界の層の隙間のことである。

それを、その隙間に陥らないようにくびきをつけてコントロールする知恵が日常であり物語なのだ、おそらく。例えば宗教はその知恵を操ってバランスを取ろうとするツールである。その「日常」の物語、絶望と虚無を避け、至高を創造するための物語の機能、位置づけ。日常はまた至高と絶望、宗教の持つ飴と鞭の知恵によってコントロールされるものとなる。包み、包まれるもの。たやすく陥ってもいけないし閉ざされ失われてもいけない生命のダイナミクスそのもの。

とにかくね、自分の今を信用しないことが一番の原理だ。神の死んだ後、この現世を生きる智慧としては。

一つの層に閉じ込められないこと、…もちろんそんなの凡人には無理だ、けど、閉じ込められたときはその集合知(宗教的なるもの、哲学的なるもの、或いは、芸術的なるもの)が、論理としてその外側を教えようとしてくれる。自分を信用するな、すがれ、と、そのめくらめっぽうな手段をとって道標を示してくれる。それだけのことだ。それはメタ認知と呼んでもいいし、読者の視線といってもいいもの。

今までの人生を否定するような絶望を信じない。それは、その限られた時空の、限られた層のおいてのみ成り立っている。喉元にある熱さである。それは喉元をいつか過ぎるものとしてある。いくら逃れてもまたいつでも襲ってくるものだけど。

いつでもそれは反転するものだということをどこか意識のなかに、呪文のように設置しておかなくてはならない。理解できなくても、呪文のように、お守りのように、安全弁のようにしてもっていなくてはならない。

 

…宗教が、欲しいよオレ。
信じたいんだな、絶対のセーフティネットなところを。

孤独というもの

結局ひとりなんだなあ自分。

 

孤独というのは勝ち得るものだ、と春樹の小説にあった。 

さまざまな意味でこれは実にその通りだと思うんだけど。 

勝ち得たものでない孤独というレヴェルのものもやはりあって、それはもう襲いかかってくるものとしてあるものだから、どうしようもなく寂しいもんだなあとも思うんである。それはもう生きるのがやんなっちゃうくらい。 

少しね、意味が違うんだよ、ズレてるんだ、それが定義されるところの文脈が。がらんどうとかからっぽとか。それは白アリみたいに内側から蝕むもの。

 

勝ち得られない孤独という安らぎと尊厳の響きをひそめたそれを外部から暴力的に損なうものという図式からは逃れられないままに、内側からまさにその暴力によって別の孤独は、その寂しさは虚無の響きを帯びて精神を蝕んでゆく。

 「こころ」のKは寂しくってしかたなくて死んでしまったんだろな、とふと思う。人生の意味をまるごと見失う類の寂しさというのはある。エゴや裏切りを恨むということではなく、ただひたすら、寂しい。

 

仕方ないんだけどね、すべてはどっか自分で招いてるものだから。

人からは決して思うように思うものは得られない。寂しい。

それでもしかたないからこのまま生きられるだけなるべく楽しく生きるんだオレ。得たいと思った夢、人や何かを恋う、思うことができたことはたとえそれがどんなに寂しくもどかしくままならず切なく、或いは屈辱的であったとしても、それ自体、痺れるような幸福であることに間違いはないんだから。

 

なにしろ、しかたないからね。