酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ミッツ・カール君

ミッツ・カール君のアクション、実は結構好きである。(こっちょり)
 
「100分de名著」録画消費、オルテガ「大衆の叛乱」にかかる。第一回。こりはピシッとツボにはまった。おもしろい。
 
オルテガの定義する「大衆」。これは階級としての大衆ではなく生き方としての大衆であり、個性をもたない多数派の正義を振りかざす衆愚としての大衆でありすべての人間に潜む慢心と思想的怠慢としての意味をもった個性を捨てたレミング、卑しい愚かしさとしての大衆意識である。
 
ポピュリズムとか衆愚とかと直結してると思うんだけど、ナチの台頭の時代に書かれたこのオルテガの知と(彼は「専門家」この専門バカ、学者馬鹿を大衆の代表としてすら描いてみせているという。これは第二回以降をみてからあれこれ考えてみたい)、イマココ、まさに今の日本や世界の情勢を直結させてみせる。その問題意識を提起している制作側の意図と祈りを痛いように感じるのだ。
 
おもしろいことって哀れでみじめでダメダメな胃痛の自分をひととき救ってくれる。もう少し生きていられたら幸福だ。だれかの幸福の物語を感じられればそれでいいんだ、自分はきっと。(これは本心であり本当の嘘ではないけど少し嘘だ。きっと。)
 
アルコホルが回ったら眠ろう。
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マンション中庭ソメイヨシノ進捗状況。

本あれこれ。雑感。

実家避難の週末のパターンとしては、とりあえず町の図書館であれこれ借りこむ。普段なかなか読めないものが読めることがあるのではないかという期待を込めて。

大抵ほとんど読めなかったりするんだけどね。
とりあえず欲張って目についたもの借りてしまう。

こないだ「100分de名著」観てから気になってた、ウンベルト・エーコ薔薇の名前」。おう、あるある、と、とりあえずポン。

最近初めて読んで、そのおどろおどろしい魔力のような筆力に驚嘆した「魚神」(泉鏡文学賞とすばる新人賞を受賞、さもありなんの耽美幻想神話物語系。)の千早茜もちいと読んでみようかな、と数冊。お、吉田篤弘の新刊が出てる、とポン。ここは漫画充実の図書館なんだよなあ、せっかくなら読んでおかねば、と岡野玲子もポン。(岡野玲子はヒジョーにおもしろいのだ。)とにかく開いてみてピンと来たのを読めばいいや、くらいの気持ちで。

薔薇の名前」開く。最初の数行。
うむ、この計算されつくした物語構成、噛み応えのある面白さである、という予感のみでとりあえず挫折して閉じる。最近の儂の知的体力は非常に衰えておる。TVドラマでさえおじゃる丸や朝ドラの15分以上はなかなか難しい、というレヴェルまで気力体力知力すべては落ちているのだ。

漫画なら脳で使う部位がずれてくるので比較的楽に消費できる。

これは「考える」以前の「考えを消費する」感覚の分野にかかってくるのやもしれぬ。100分de名著、とかでも結構そうなんだけど、知を消費するレヴェルと己で言葉にして書き出だそうとする生産レヴェルは重なっていながらもやはり層がいささか違っているのであって、知の消費は現代の万人に大層ウケるイケる売れ筋であるがそして本質であり最も洗練されたものではあるが、やはり泡沫のような消費である、一流で上等においしくつくられすぎているんで、すうっとおいしく味わって、そうして消えてしまうような知なんである。消費者はおいしくそれを頂いて、文句だけいえばいいのだ。

どっこいしょ、と不器用なところから始める生産レヴェルは、神さまであったお客さんの立場から一度新入り丁稚奉公のところまで堕ちねばならぬ、その土台の、基礎のつまんないめんどくさいみっともないしんどさをどっこいしょ、と背負って自分の手でコテコテと練り上げて拵える楽しさとしんどさをenjoyする体力がなければならぬ。それは例えば学部から院にはいったときの変化のような知との関係性の違いである、ような気がする。教授たちの授業の優劣をあれこれ品評する消費サイドから作成する側の裏方へ。

本当のおいしさわかるってのはその上澄みの大吟醸んとこではなくすべてを取り込んだ濁り酒んとこ味わって初めて己の血肉となり、その上でその深い倍音を響かせる天上のエッセンスの最上部分を味わうことをいうってのはわかっているんだけどね。でも雑味に負けてすうっと誰かの調味してくれた消化のいいおいしいとこだけしか取り込めないとき、それはそれで仕方ないのだ。

ということで、岡野玲子。「陰陽師 玉手匣」
いや~やっぱりおもしろいや、これだな、これ。中国の陰陽道なんだか仏教的世界観なんだかなんだかわからなくなった極東日本独自のアニミズムも民俗的な習俗や神話要素もみんなみんな溶け合ったところにある奇妙な異世界。このひとの作品はどうはじまってもなんだか最後にはおんなじように混沌の世界の根源のところにはまりこんでいってしまうタッチがあるのだ。

で、ちらりと吉田篤弘新刊も。

「月とコーヒー」。

1日の終わりの寝しなに読むための小さいお話、短編集。
これくらい短いものなら衰えた読書力でもいける。そしてやはり吉田篤弘好きである。心のトーニングをして穏やかな心持ちで眠るための魔法の一服。

生きるために必要なのは太陽とパン。だけどやっぱり魂に必要なのは月とコーヒー…っていうコンセプトでね。世の中の隅の方で生きる人たちのお話。

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珈琲屋

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西荻におもしろい珈琲屋があるで、と教えてもらったんで、週末のそのそと行ってみたらほんとにおもしろかった。

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看板がなければ住宅街の中のただの個人宅である。実に入りにくい。
普通にひとんちの玄関である。実に入りにくい。

ノックして
「すみません。こんにちは。」
「どうぞ。」
「おじゃまします。」

靴を脱いでひとんちの狭い廊下に上がりこむ。…店主、スターバックスの女の子のようにラブリーな愛嬌をふりまいているとはとてもいえない愛想のない青年である。いや別にアレをやれとは言わないが。でもさ。

…などとじくじく(忸怩たる思いっていうのとじくじく思い悩むってなんか通じてるよね。響きが。)思いつつ多少怖がりつつ。

暗い狭い階段をギシギシのぼって二階へ。二階の灯りがほのぐらく明るい。

のぼると視界が開ける。視界は広い。

が、あれこれと小さな宇宙が集まったような、あちこちで独立性を保つ工夫がしてある、みんながみんな隅っこでそれぞれの個別の空間を守りながらどこか時空を共有できてるほのかな共有感、柔らかな共同体、そんなリビング空間。

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そして畳なんである。イヤ実にただのひとんちである。ふるいふるい昭和の懐かしい誰か友達のおうちに遊びに行ったような既視感、タイムトリップ。

そして客がいない。ひとりである。(寂しいんだが。少し怖いんだが。)(でもちょっと嬉しい。)穏やかな週末午後のとろりと静かな光がやわらかく薄暗い室内に差し込んでいる。

ここがいいかな、と窓際の席に陣取って靴下まで脱いじゃったりしてどっこしょー。

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店主がやってきて本を取り出した私のために灯りをともしてしずかなしずかなジャズ・ヴォーカルをかけてくれる。

珈琲は各種。オリジナルブレンドを頼む。

…階下の台所の気配、柱時計の音。私のための珈琲を淹れる音。なにもかもから切り離されたような不思議な時間である。

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写真も会話もたばこも「控えめに」。
だけどね、誰もいないもんね、と、こそこそひとりのときあちこち覗き込んでは写真を撮りまくったのはナイショです。おいてある本に奇妙なシンパシー。趣味が知れるよな、漱石に賢治、稲垣足穂梶井基次郎中原中也クラフト・エヴィング商會までおいてやがる。ああ中央線沿線。

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だけど今日の本は持参したもの。鞄から取り出して最初の頁を開いたらいきなりひきこまれる濃い文章。とっても不気味でおどろおどろしい、しかしやたらとおもしろい物語だったので、店と本の内容がなんだか頭の中で結びついてしまったよ。異界である。
(ホントは畳のすみっこに寝転がって読書したかった。クッション抱えてゴロゴロゴロゴロ。)

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連れて行ったグリ・ムーンとグラ・ムーン(満月の夜、月から降り落ちてきた流離の用心棒、歌って踊れるムーン・ブラザーズ。名づけの物語に協力してくれた友人たちに感謝。)も気に入ったらしい。ほの暗さが。

(ヲイこれ中也の詩集だぞ。フンしょうもねえな。)
(…兄貴こないだ夜中ひとりで読んで泣いてたようだが…)

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会計を済ませて「ごちそうさまでした」と出るとき、店主が一瞬だけほのかな笑顔を見せてくれた。ドアを開けるときの鐘の音、結界を越える瞬間みたいな気がしたよ。ちりーん。

街は迷宮であるとよい。街の片隅、路地裏の小さなドアを開けるごとに別の宇宙が広がってゆく。森見登美彦の描く京都の宵闇万華鏡のようなおどろおどろしい異界のものではなく、吉田篤弘が描く東京の中央線沿線の街がよい。優しい懐かしい傷ましさに沈潜してゆく。レコードと珈琲と本と音楽の静けさ。

「おそなえはチョコレート」小森香折 児童書とイデオロギー

小学生からYAくらいが読者ターゲットなのかな。とりあえず可愛らしいイラスト付きの児童書。

昔読んだもので、おもしろかった、という記憶はあるのだけど内容は忘れている。(そんなのばっかりですが。)図書館の2月バレンタインチョコレート本特設本棚に並んでたので懐かしくなってつい手に取ってしまったのだ。

開いてみたらやっぱり面白かった。

現実世界、日常性や親しみやすさ、人間臭さをまとった異界の者たち、妖怪、精霊、幽霊。それら擬人化された、「翻訳された層」での神霊、お地蔵さんやあぶらげ好きのキツネといったわかりやすい異界のアイコン的なイメージから、本来のその出自、深淵とカオス、畏怖、恐怖の対象としての不可知フィールドという神の側の世界のイメージまでを自在に行き来する振幅を孕んだもの。…日本古来の大衆的な神仏の在り方を、童話の中でほのかな畏怖を含めながらもあたたかく描いてゆく、このような守り神のキャラクターを描く一定のジャンル、それを定型として保有する童話というのは意外と多いのではないかと思う。

それは人間の「自然」へのまなざし(態度)から成立してゆく「物語としての自然の姿」すなわち自然観とまったく一致するものとしてある。当然だ。異界、不可知、とは自然の異名にほかならない。それはただ「世界」である。

世界に対する親しみ、愛情、慈しみ、日常から非日常の振幅。それは例えば太陽の暖かさ、豊穣の恩寵と、嵐や干ばつ、飢饉の恐怖等の脅威の二面性、親しみと恩寵と畏怖。惜しみなく与え、奪う母なるもの。…このようなかたちを一貫して日本の民俗的な妖怪やキツネ等の神仏の世界をテーマとしながら描いている富安陽子、幽霊や異界の妖怪(人間でないもの)との交流をファンタジックに描く柏葉幸子。(逆に言えば、大人の文学の世界では多く、この原初のまなざしが抜け落ちている。社会的物語ワールド以外を忘却した閉鎖的世界枠の中で完結しただ空回りする物語群にスレてしまい倦んでしまい徒にひたすら新奇と刺激のみを追い求め…そうしてそのために知はその源泉、マトリックス、故郷を忘れ、大地から切り離れた巨人アンタイオスのように力を失い穢れ老いてしまうのだ。)

このような異界の生命の描かれ方の振幅は、キリスト教の三位一体構造で例えて言えば、父と子と精霊、の父(真理・イデア。不可知)と子(形而下・ミメーシス。真理のアイコン)の関係性が、(例えばここでは)ファンキーでキッチュなものいうヘビのぬいぐるみの姿と蛇神様(存在としては一体、人間の知覚する姿としては二つのペルソナ)というスタイルで示されているとして読み取ることができる。単純に構造としてね。

 

短いお話でコンパクトにまとまってるんだけどなかなかシュールで奇妙な味わいの作品。アフォリズムに満ちたセリフをくだらないおしゃべりに混ぜ込むヘビのぬいぐるみ→蛇神様の描かれ方はどこかすっとぼけた味わいにくるまれていて、なんかイイのだなこれが。

*** *** 

で、読んでからずっと児童書に仕込まれるイデオロギーという命題について考えていた。今力がなくてうまいこと文章にできないんだけど、すごくおもしろいと思うんだな、このテーマ。イデオローグを仕込みながら表現のさまざまを隠喩として読みこんでゆける児童書。児童書というジャンルはおろそかにされ過ぎている、もっともっと重要視され研究されるべきだ、と思うんだな自分。

もちろん教育制度自体はそういう意味で政治的社会的に厳しく管理されているんだけど、(教科書検定まわりのカンカンガクガクに象徴されているようなとこでね。)制度から漏れたところにある、本当はもっともっと影響力の強い広大な土壌をもったこの個的な読書文化のフィールドは軽視されている。…嘗てのサブカルみたいにさ。知能の低いものたち人間として認めがたい下賤なものたち「オンナコドモ」のなぐさみもの、こどもだましのこどものほん、取り上げる価値もない、的な扱いで。(本当の名作は、子供を子ども扱いしていない。下に見たりしていない。大人も子供も等しくふかぶかと読むことができる普遍のうつくしい言葉を綴ったものだ。)

それは人類の未来に関わっていることはもちろん、本当はどの人の心の根幹の原風景にまで刷り込まれてる、無意識界に作用しているものすごい深淵で重大な要素なのに。

トラウマや強迫観念そのものとしても現実と同じレヴェルで機能し得る概念的なるもの。結局社会全体を支配しその未来を決めてゆく陰の力。(今「みらい」と打ったらまず「味蕾」と変換されたんで結構驚いた。なんだこのパソ君は。)

 *** *** 

ふみか(記載はないけど小学校2,3年くらいかと。)がある日ゴミ捨て場で拾ったヘビのぬいぐるみ。チョコレートをお供えすれば魔法の呪文を教えてやるぞと言われてその気になるんだけど、それがみんなとなかよくやる魔法の呪文「ムリニ・ナカヨク・ナロウト・スルナ」とか宿題を終わらせちゃう呪文「ハジメレバ・イツカハ・オワール」とかインチキっぽくて、でも結局王道正論の智恵と真理に満ちていたりする。

ちょっとね、なんというか、若い女性向けに消費される星の数ほど出版され続ける流行りの新興宗教みたいな知ったかぶり人生の知恵な癒し本やweb記事みたいな匂いのする正論なんだけどさ。う~ん。安っぽく見られがちなこれらの有象無象の正論たち、それぞれ立派なんだけど。言論としての厚みをどうしてか感じられない。反論のしようのない既存の正論を上から目線で振りかぶられると、どこかに何か抑圧の恐怖を感ずる。なんだろう、この恐怖って。

零れ落ちてゆく、そこで許されないものを己が闇として抱えなければならなくなる恐怖、なのではないか、もしかしてそれは。

…だけど、これを敢えてインチキくさいバカバカしさを強調した信仰宗教仕立てにした蛇神様の設定やあほらしい蝶ネクタイのピンクとブルーのシマシマヘビのぬいぐるみ「スマスマ」がチョコレートのお供えを要求したりするヒューモアの中に、さらさらとひそやかに潜ませるナナメな工夫はうまいと思う。…権威から外れようと逃れようとする真理と王道が、己自身を風刺する姿勢を合わせもちながら、奇妙な矛盾のダイナミクスを孕んだまま、スマスマの口から流れ出る。ここには、全体性をおおらかに許しながらあえて正論を選んで行こうとする道筋を助けてくれる、なんの色もついていない構造そのものを指し示す「優しい怜悧さ」のような知がある。「自分で理解できるものだけが、真実とは限らない。」「みようとしなければなにもみえない」「『こどもをまもる』といえばおとなをだますのは簡単だからな。」

…でもとにかく本当にそれは王道だから、いかに手垢にまみれて陳腐に見えたとしても絶えずアンチテーゼによって否定されながら、逆にそれによって新しく止揚され生まれなおし続けなければならない「呪文」(ミッション)としての言葉なのだ。一度否定され破壊され意味を失い形式だけになったとき新しくまたそのアルケーを生まれ直す、それ自体は意味を持たない恣意以前のシニフィアンとしてのテクスト或いは音韻としての「呪文」、それが主体を媒介としてシニフィエと結びつく劇的な「読書の現場」のドラマを発生させるための装置として。

つまりね、くだらない俗っぽさで既に己を貶め既成の権威から逃れながら、すなわちアンチテーゼを仕込みながら主体にそのジンテーゼへのアクションを促す構造。児童書の、基本的構造、ビルドゥングスロマンを標榜する冒険物語の構造とそれは重なってゆく。

まあとにかく本を広げると物語と冒険が広がるとか、図書館ファンタジーとか、本好き要素てんこもりなんである、この人の作品は基本的に。(多分殆ど全部読んだぞオレ。)現実的な小学生女子の人間関係や心理の機微への繊細なまなざしと、深くうつくしい真理のカオス的の気配の瀰漫した異界性、ファンタジー要素、少女たちの心の中のその交錯した様子、その現実と幻想のアマルガムな感じを描き出す作風。

で、この作品はごく短く低年齢層をもターゲットにしてるようで、メインのストーリーは図書館に巣くうわろきもの。子供の魂を吸い取る「悪の本・ミステリー」。

こりゃもう、「図書館」という、あきらかに知の世界を象徴する世界でのでのさまざまの危険、「悪」「権力」を描き出しているとして読むのが楽しいに決まってる。ウンベルト・エーコ薔薇の名前」で修道院の図書館が世界そのものであったようにね。

…ということで、児童書に仕込まれるイデオロギーという命題なんである。
それは幼い命、次世代に仕込まれる未来に向けた爆薬なのだ。

(ここでの悪玉、図書館に仕込まれた、子供の魂を閉じ込める「悪の本」に描かれた魔法の言葉は「われにたよるもの、自由とひきかえに、のぞみをかなえん」であった。知の世界に潜む罠の暗喩として出木杉君くらいあからさまであるが、軽やかな味わいの中でのシュールさを滲ませる…巧い、と思う。)(これもひとつの作者の強い思想性ではあるのだ。楽しい物語の中に仕込むメッセージ→イデオロギー。このメッセージは、どうかすべての子供たちの心の中に刷り込まれてほしい、と私なんかはほのかに願ったりするんだがね。ほのかにというか、祈るような、希望を夢見るような気持ちで。)(自由を奪われることによってかなえられる望みとは一体どのようなものか、のぞみをかなえようとするときそれがもし自由を奪うものであると気づくことができるようになるとき、ここですりこまれたイメージがどうか作用してきますように。)

個の存在の根幹に近いところに仕込まれる致命的な爆薬。
無垢な生まれたての土壌に、はじめのことばが、世界像を描く基準が、そのイメージが、善悪が、よきものわろきものが、それが問答無用の物語としてあらかじめ仕込まれてしまう、「刷り込み」されてしまう。

どんなに歪んでいても陳腐でも卑しいものでも、まず刷り込まれてしまったらおしまいなのだ。真っ白なページに書き込まれる最初の言葉で、最初の贈り物で人生は決まってしまう。例えばそれは15歳で糸車の針に刺されて100年眠る眠り姫に与えられた魔女の呪いの言葉、祝福の言葉たちのように、ただ生まれたとき本人にはなんの責任もないところに与えられてしまう運命なのだ。

何が正義で何が悪なのか?
何が正しいものなのか?

聖書の初めの言葉のように、(はじめに、言葉《光》ありき。)最初の物語がまっさらな個の魂にイメージとしてただ仕込まれる恐ろしさ。問答無用という恐ろしさ。

あとからどんな論理が、理知が備わって教えても、心の奥底のトラウマは癒されることはない。たとえふさがったとしても傷後は残る。論理は常に絶対的なイメージと感情の後からやってくるものなのだ。

どうか人生の始まりの時に小さな命に、未来に与えられるものが惜しみない贈与であり問答無用の愛情であり美であり肯定であることを。どの人の心の深奥にも、まずそれが仕込まれていることを、前提であることを私は願う。

そうして、児童書、というジャンルにはその願いの尊さ(あるいは卑しさ)が仕込まれている。
もしそれがひたすら美しい優しいものであれば、宝物を、恐ろしい脅しであるならば、その呪いが、魂の深奥に。もし宝物があれば、それさえあればどんな嵐に出会っても、正しい明るいまなざしを以て生きていける人間の未来が実現できる。

…ような、気が、するんだよ。
イデオロギーを持たない書は存在しない。ならば、それがどのようなタイプのどのような可能性を持つ爆薬を仕込まれているのかをたらふく研究しておくべきと思う、という、ただそういうことなんだ。どのような毒になりどのような薬になりどのような滋養になりどのような救いになるのか、という未来に向けたその力の可能性を。

もちろん個性と年齢、判断力に応じた本を周囲は慎重に選ばねばならない。特に人生の始まりに与えられるものは注意深く選ばれた良書でなければならない。抵抗力がついてきてからでないと刷り込んではならないものはもちろんある。徒な恐怖や刺激、毒。それらは必要なものではあるかもしれないが時期と個性は選ばねばならぬだろう。

…で、イデオロギーということに関して。例えば児童書の古典的名作・ナルニア国物語シリーズでC.S.ルイスが作品の中にあからさまなキリスト教思想を仕込んでいる、と批判されたという話は有名なようだが、それは批判されることではない。批判とかホント訳分かんねえよ。世界観の中に思想的、宗教的なるものが存在しないなんて主張できてしまえることの方が奇妙である。…ナルニアにおいてはそれが自覚的だからこそ価値があるとすら言ってよい。

…知った上で親が実際に読んだうえで子供に読ませるかどうかを判断すればよいのだ。またそれを与えるのに適したその時期を。因みにあれは個人的に非常に好きである。幼いころ夢中になるという経験は実体験にしろ観念上の体験にしろ、まったく等しくただ一生ものの心の財産だ。心に豊かな世界のイメージ、わくわくする夢の力と、また「わからなさの森」というイメージのマトリクスという宝物を育む読書体験。夢見る力、己の世界を心の力で描き出す想像力、創造力。世界を変える力を、様々の外界の理不尽な雑音に耐え生きる力を育む。

読んでおくべき本である。
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このヘビの編みぐるみはマフラーになっているんだよ。ギラデリのチョコレートは無糖のカカオ100%。苦くてうまい。

「100分de名著~ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』」

「100分de名著~ウンベルト・エーコ 薔薇の名前」観終わってため息。

この番組当たり外れがあったりするけど基本的にうまくできてて、時折滅多やたらと面白いアタリに出会う。

カミュ「ペスト」でハマってびっくりしてだな、とりあえず録画ため込んでたのだな。なんだかなかなかみられなかったんだけど観始めたらやっぱりおもしろくてつるつるみてしまう。最終回は怒涛のクライマックスわくわくドキドキ大興奮の面白さであった。

薔薇の名前」って有名で、タイトルと難解であるっていう評判しか知らなかったけど、この番組での解釈がよくってぞくぞくした。記号論沿いの思想をもって図書館の知と笑いの関係をミステリ仕立てにした小説ってラインの解釈でな。エーコはもともと記号論の学者さんなのだ。

ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない Whereof we cannot speak, thereof we must be silent.」に対してこの小説は言う。「理論化できないことは物語らなければならない。」ということで記号論の限界は物語に託されることになる。

イヤもうツボどんぴしゃな切り口、これは~っ思ってたら最終回のゲストは中沢新一。ううむ納得。

中沢氏、エーコがTVの教育番組プロデューサーをやってたことに注目し、作品をめぐっての解釈の中に、現代のマスコミのありかた或いは番組制作という演出行為による「『真実』のプロデュース」という構造の観点を導入してみせてくれた。

このSNS時代、あらゆる言説がこの「語りえぬもの」を語り続けようとする。エーコはこの「薔薇の名前」の修道僧ウイリアムと弟子アドソの議論の中にひそませた記号論で、書物という知、その恣意の構造を明らかにしようとしているのだ。「記号(言説)は対象そのものを語るものではなく、そのことについて語ろうとする物語、意志、意図を語っているに過ぎない、というようなウイリアムのセリフがあった。図書館(知の世界)とは書物(記号、言説)が書物(記号、言説)を語る、書物同志が、概念が堂々巡りしながら語り合っている場なのであって、実は語られている対象、真実、真理を語るものではない、というようななぞかけのようなある種の比喩を以て。

 *** ***

しかしこれ原作読むのは結構な大仕事になりそうだなや。とりあえずちらっと覗いてみるか…。なにしろ興味深いのは「知」と「笑い」の関係性。知の功罪、その両義性、笑いによる知の権威の破壊、或いは両者共通の、或いは共謀の可能性を探ることによる止揚への模索。

(私は考えている。知はただそのままで笑いでありうる、と。)

ミステリ仕立てのための素材となるのは中世の修道院を舞台にしたところにある禁忌、権力、異端と正統。権力は己の正義のために悪を、異端の物語を作り出す。これって現代の、(そして古今東西に遍在する)正義づら大好きびとたちがSNSを炎上させる原理とおんなじなんだって視点があったりしてさ。

本筋としては、スリリングな修道院連続殺人事件の犯人捜し、この真犯人(そして鍵を握る一冊の書物~笑いについて言及したとされる幻の禁書、アリストテレス詩学」第二部)が「真実・現実・真理」の比喩となり、あらゆる「世界の痕跡=記号」をたどることによって名探偵修道僧ウィリアムの快刀乱麻な推理力が謎に包まれたその真実にたどり着こうとする、「知」をめぐるミステリとして読めるんである。(助手は弟子のアドソ君。物語のスタイルは、彼が年老いて、過去を回顧録的な記録として書き綴るものである。)ラストのどんでん返しがいやまたなんというか…(解説者たちがここでワイワイ盛り上がって見せてくれて楽しかった。)

ちょっときちんと考えたいな。このあたり。

ラストシーン、まさに手中にしたその瞬間炎上し永遠に失われる真実(隠されていた禁書、アリストテレス詩学第二部を読み始めたそのとき、書に火がかけられる)。ごうごうと炎は大きく燃え広がり、ぼろぼろと燃え落ちる壮麗な美しい図書館のシーン。この知の殿堂、砂上の楼閣。すべては現世の権威の大聖堂に飲み込まれてゆく…。

こういう同じイメージを、そういう言葉を昔確かにどこかでみたんだ。誰か哲学者の言葉、思い出せなくてもどかしい…真理とは、目にした瞬間燃え上がってしまうようなもの、というような、まさにドンピシャこのイメージであった。

…なあんてことをつらつら考えて夜の世界の中で机の灯りに灯されて、ひとりぼんやりうっとりしている桃の節句。泥酔の中の幻のような丑三つ時。

(中沢氏、少しお年を取ってきておられたが相変わらずのお洒落っぷりだ。)f:id:momong:20190302204242j:plain

近所の河津桜の大木、毎年見事に咲く。今年ももう満開だ。この下は一面の菜の花。f:id:momong:20190301143132j:plain

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猫の日

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ものすごく理不尽でノータリンなものに魂を売って生き永らえているので最近いろいろと限界を超え胃が痛くて眠れない。とりあえず自転車操業、麦酒二本流し込んで「ジオラマボーイ・パノラマガール」を開いたら、昭和の岡崎京子シンゴジラなテーマを既に萌芽として普遍化していたり津田沼春子と神奈川健一がすれちがっていたり春子の妹(小学生)が日曜の午後「ソシュール西太后」なんていう謎な本を読んでいるシーン。(岡崎京子は「PINK」が一番好きだけどこれもいいんだな。ちいとばかしあじきないんだけどなんか好き。時代の匂いがする。ムーンライダーズなんかもひそやかに仕込まれていたりする。)(これが「リバース・エッジ」になるといささか行き過ぎだ。徒に情緒的な刺激だけに走ってしまってる気がする。祈りがない。狂気に走るセンスしかない。個人的な趣味にもよるだろうけど。)

眺めていたら落ち着いて幸せな気持ちになったので眠るですおやすみなさい。

ひとりになりたい。心にもっともっと強力なヨロイがほしい。

本当は今日は早朝のお月さまが次第に輝きを失いやさしく淡く溶けてゆく、奇跡のように豪奢で美しい静かな朝が明けてゆくのを眺めながらひとり静かに朝を整えることからはじまり、春ぼらけな青空の下、春の予感がほんのりうれしかったりした日なのだ。かしぶちのリラのホテルやキセルハルメンズを聴きながら梅の香りの中を歩いていたのだ。紅梅白梅、花をつつき蜜を吸うメジロちゃん、沈丁花、街のカフェや本屋の平和な人々の風景。自然の営みと人々の営みを私は愛しているとか生まれてきてよかったなとか思っていたのだ。

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名前ということ(吉田篤弘「あること、ないこと」・立原道造「さふらん」・ソシュール)

さて、吉田篤弘「あること、ないこと」のマユズミさんなのである。
「マユズミさん」とは何だか知らないが地球にやってきた異星人。性別はなく彼/彼女と表現される。「百科事典」を編纂することを生業とする主人公の友人である。…そうだ、百科事典を編むことと異星人にこの星のことを説明することは直結しているのだ。異星人の眼差しで今いる自分の世界を異化し客観視し定義する。(マユズミさんとは主人公がつけた呼び名である。最初に、眉のない形態をした彼/彼女が地球人の眉を羨ましがったので眉墨を教えてあげたら大層喜んだというエピソードに因む。)

「雲と鉛筆」でも触れたけど、ここでも吉田篤弘の「モノ」とそれに名付けられた名称に対する感覚が楽しい、コトバへの、モノへの愛のかたちがね。

ここにあるのはソシュール言語学に通じる鋭い意識だ。シニフィエシニフィアンとの関わりへの繊細な感性とその在り方の喜び。…それは存在の喜びそのものである、ともいえる。つまり、換言すればこれは差異のよろこび、世界の戯れのよろこび、ひいては生命の喜びに通ずるものである、と。

ヘレンケラーの「ウォーター!」ね、アレに似た。

私はそうしてなんだかここで立原道造を思い出したりするのだ。彼の編んだ詩集の中では私は未刊詩集「さふらん」の素朴さが一番好きなんだが、その中の一編「忘れてゐた」。(立原といえば、一般にやたらと技巧ばかり凝らしたような新古今和歌集オマージュとか浪漫だぶだぶのソネット形式が有名なんだけど、アレは個人的にはそんなに好きになれない。洗練、美学な感じゴリゴリ、イヤそれはそれでいいんだろうけど。)

 *** ***

忘れてゐた
たくさんの単語
ホウレン草だのポンポンだの
思ひ出すと楽しくなる

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言葉の成り立ちを、単語そのものの成り立ちを、日常の中で無意識の暗算分野に置き、いちいち味わうことをおろそかにしていたシニフィエを眺めシニフィアンを呼び起こす劇的瞬間の儀式の中で、その間隙の奇跡のジャンプ(恣意の結合)をドラマととして幾度でも味わい直す。そのアルケーを生まれ直す、いつでも新鮮なエナジイに満ちた世界。 詩歌、文学の分野においてそれは研究以前に体感されるものとして仕込まれている。

言葉に対する繊細さ、鋭い感性、美意識やこだわりを持つ人々の知る喜びは、その無意味から意味へのジャンプ、非存在から存在へのジャンプ、カオスからコスモスへのジャンプ、その軌跡と奇跡を感ずるあえかな狭間のところにある。つまりは存在の喜び、誕生の喜びにも似たそれは、名前の喜び、名づけの喜び、そして存在の喜び。まず大前提として「名のないものは存在しない。」のだから。

吉田篤弘の方はその楽しさ、可笑しみに焦点合わせる。言葉遊びだ。立原の方はただ存在するその美しさへの喜び、賛美、ほのかな微笑み、吉田篤弘の方は戯れのくすくす笑い。

この構造を見つけたとき、言語以前の「夢の論理」への遡行の道筋が確立される。名付けられたものでないリアルという真理、カオス、有と無の両義、ただエネルギーの渦巻くマトリックスに至るまなざし。(これは「物語る」ことによって「ナンデモアリ」になるんだよ、という理論の発生にもつながるものだ。)

夢の中のなまなましいリアリティを思い出してみるといい。名付けられていない、存在を超えた存在であるため現実よりも生々しくリアルでありながら記憶されない、存在できない感覚そのもの。ありながらないもの。位置づけされることができないから形が存在できないのだ、名前が付けられないのだ。あるのに、ないもの。ないのに、在るもの。この言葉とイメージの迷宮を遊ぶ奇妙な文芸作品のタイトルに繋がる。「あること、ないこと」。(実はまだ全部読んでないんだけどさ。)(でもね、時折気の向いたページをさっと開いて読む詩集のような読み方をしてもいい本なんではないかしらん、と思うんだな、これ。)(アボリジニたちの言う無限と永遠の領域に繋がる神と精霊の領域「ドリーム・タイム」、西田哲学の言う「無時間の永遠」と繋がる感覚、概念だという理解をここで私はしているのだな、たぶん。)

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関係ないけどこないだ街で目が合ったうまそうで可愛いカメロン、カメロンパン。

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