酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」

*プロローグの立ち位置   
 
本書を理解するにあたって、冒頭に置かれたプロローグ、及び第一章導入部の在り方は非常に重要な助けになる。
 
本編は全編を通して、専門の哲学者の池田氏と哲学に関しては門外漢としての生物学者福岡氏の対談になっているのだが、何しろ難解である。このプロローグ及び第一章の導入部分は、それを理解するための福岡氏の生物学を通した生命観、その思想のスタイル、そしてそれらと西田哲学との共通性がわかりやすくおおまかな概略として述べられているのだ。
 
本編では、福岡氏が、読者と同じ立場、哲学門外漢としての立場から、哲学専門である池田氏の西田理解について質問する、というスタイルをとっている。池田氏の語る難解な西田独特の述語に関しては理解できるまでそれを徹底的に質問攻めにし、読者に寄り添いながら西田哲学を読み解いてゆく。彼のこの態度が、やはりこれ自体も難解である本書を読みぬくための案内の役割を果たしている。
 
乱暴な言い方をすれば、このプロローグは殆ど総論である。対談はそれを実証してゆくための各論である。すなわち、プロローグ=結論である、という言い方もできるだろう。
 
池田氏との対談は、そこに行き着くために、生物学的な図解的説明を哲学一般、そして西田哲学の難解な独自の専門用語と比較しあてはめ解釈してゆく道行きとして読み取ることができる。
 
生物学的なアプローチとはいっても、それは、福岡氏の打ち出している独自の生命論によっている。すなわち、生命の定義を、外的にその属性を規定することによってではなく、生命の内側から考えた本質としての「動的平衡」であるとして規定するその生命論の在り方である。本書はこれと西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」という存在の論理の在り方を、全く同じ構造として読み取ろうとする。
 
これは非常にスリリングな西田理解のアプローチであると思う。難解な概念、難解な独自の言語が、生物学的生命論の在り方のアナロジーからスッと理解できる、その解釈の道筋の可能性を得る。
 
前提とされるわかりやすい二項対立の提示がまた理解の助けとなるものだ。
ピュシス(自然、あるがままの矛盾をはらんだままの全体性、混沌の世界)、とロゴス(人間の認知能力に合わせそこから抽出された合理的世界)。
 
ピタゴラス以降の西欧哲学や科学が「無」或いは「無意味」であるとして切り落としてきたその「全体性」としてのピュシス、ロゴスのマトリックスとしてのピュシス、そこに目を向けるところから西田哲学は始まるのだ。
 
福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。細胞はすべて入れ替わってゆくが、記憶も人体もその性質は保たれる。動的でありながら、平衡が保たれる。ホメオスタシス
 
この不思議さを、世界の在り方そのものにあてはめたのが西田哲学である、と、乱暴に言ってしまえばそういうことかもしれない。
 
矛盾をはらみ、故に相克と反転を繰り返しながら「存在という現象」をつづけるひとつの全体、その「自己同一性」。常に細胞が自己破壊と新たな製造を続けながらエントロピー増大と縮小の両方向に向けて活動することによってのみ「平衡」を保つ、すなわり「動的平衡」性を本質とするものとしての生命。
 
これは、哲学、生物学に限らず、多様な分野からのアプローチによって普遍性を獲得する論理を指し示すものであり、世界全体が、おおいなる生命として見えてくるような、そんな手がかりをくれる本かもしれない。
 
*本編、対談~「逆限定」(第三章)
 
で、本編の対談である。
 
まず注意すべきは、質問される立場にある池田氏は、言葉の認識が西田哲学に既にアプリオリに同化している状態になってしまっている「専門家」である、という点である。故に、彼の説明の言葉は素人にはいささかわかりにくいのだ。論理がなくなったところに飛躍がある。重大な西田哲学の述語である「限定、逆限定。」を、「包み、包まれること」と説明し、ホラそうでしょう、と何の説得力もない例示でもって繰りかえす。仕方がないと言えば仕方がないのだ。これは確かにロゴスからピュシスへの感覚の移行というレヴェルの問題、主体が拠って立つ世界観の問題だから、どこかで論理はロゴスからピュシスへとジャンプしなくてはならないのだ。
 
対して、福岡氏は読者に寄り添い、徹底してわかりにくいところを質問してくれる立場をとる。そうして議論は深まってゆくものとなるのだが、まあこの過程がおもしろいと言えばおもしろいともいえるだろう。徹底した科学者の立場、ロゴスの言葉で問い詰めることによって、どこまで「不可知」を標榜するピュシスの輪郭に迫れるか。
 
…が、結局。
やはりそう易々と理解に至る、というワケにはいかないものなのだ。あちこちに障壁がある。
 
例えば、西田の「逆限定」という概念を説明する池田氏の「年輪の喩え」のところ。
今まで順調に読み進めていたのに、ここで躓いた。そしてそれはまずは福岡氏も同様であった。
 
で、しかし福岡氏。ここでかなり執拗にひっかかって食い下がって質問してくれていたのに、池田氏の、ほとんど堂々巡りのような説明の中で、突然ジャンプして解決理解してしまう。池田氏と同じ「向こう側」の言葉を語り始める。説明の喩えの中のなにかが腑に落ちてしまったのだ。が、読者としてはここで置いてけぼりになったような印象を受けた。
 
「逆限定」を説明するための、「環境が年輪を包み、年輪が環境を包む」、という喩えに関する論理は、やはり論理としては跳躍している、この唐突の感は拭えない、この肝心なところが自分には今どうしてもわからない。もどかしいくらいわからない。福岡氏が換言して説明してくれる生命の喩えは気持ちよくわかるのだが…。
 
つながりのイメージはおぼろげに見えるような、いやしかしまた見えなくなるようような、で、どうもぴしゃっとこない。やっぱりここがハードルなんだろな。ここは幾度も読み返し周辺知識を広げこなしてゆかなくては、というのがとりあえず自己課題である。
 
時間と空間の本質を、生命とエントロピーダイナミクスに根差したものとして、もっときちんとイメージできなければこの喩えの意味を解釈、理解できないんだろうと思う。
 
あと、おそらく周辺知識をしっかりもってないと難しい。池田氏は微妙に否定したけど、量子論的な思考との繋がりもあるような気がする。「世界(=この場合、生命の世界)は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なり合った世界であるといえる。(p180)」の、この福岡氏の記述の「重なり合った」可能性の世界構造みたいなイメージが。この辺りはただのカンなので、知識を広げてみないとなんともいえないけど。
 
(でもね、よく読んでると、池田氏の言葉は微妙にズレていったりして、言ってることが違ってきてるとこがあるんだよね、これで翻弄されてわかりにくくなってくる。)(てゆうか自信ありげに言ってるけど、福岡氏の発言について、その言いたいことを忖度して考えながらずらしながら言葉を返していってるんだよな。議論は双方にとって深化している。)
 
とにかくやっぱり西田哲学、難解だ。
 
それにしても「年輪」、引っかかるなあ。ということで、ひとつおぼろげにイメージしてみた。…この生物イメージモデルの理解で方向性正しいだろか。…樹木の側が細胞であり多の側であり環境の側が細胞の総体、全体性としての個体であり一の側である、と。そうしたら少しわかる。関係性。で、だとしたらやっぱ喩えとするには不親切すぎるよ、説明が。池田センセイ。
 
でまあ、それはそれとして。
 
とにかくここで、福岡氏の説明する「細胞膜」の本質と西田の言う「場所」という、AとノンAの「あいだ」の思考のアナロジーが述べられている。これを組み合わせてゆくと見えてくるもの。…ここが非常にスリリングに面白い。世界がぱあっと開けてくるような新しい風景が見えてくるような気持ちになる。
 
存在と無の間、内と外が反転する「場所」、矛盾の吹きあがる「場所」。これは、いわばアルケーの場なのだ。なにもかもが始まる、存在の吹きあがる、そのはじまりの場所。
 
それは、差異と関係性の生ずる場所なのだ。
 
*西田の生命論理(第四章)とそれ以降
 
…というようなことを考えたところで、ドンピシャの章が次に来た。福岡氏面目躍如、西田の世界論理(時空の本質定義)を生命として読みかえる思考の作業である。
 
「相反することが同時に起こっている動的平衡の状態」=「矛盾的自己同一」
細胞同士の、破壊と合成、多としての細胞とそれらの総体、一としての全体の個体。それらは、お互いに作られたものから作るものへ、という反動、反転、食い合い、否定しあう関係の流れの中に成り立つ動的な生命観であり、これがすなわち西田の観る世界である、という解釈がここに非常にわかりやすく説明される。「逆限定」という関係性のイメージの躍動感もいきいきと浮かび上がってくるのだ。
 
否定しあい、既定し合う矛盾というダイナミクスとして「存在」という「コト」「現象」が成り立つ。物質「モノ」としてではない、生命の内側から見る本質がそこに見出される。
                                                            …で、ここから先は、難解なことは難解で、消化できてないって言えばそうなんだけど、何度も読み返さなくてはならないとこではあるんだけど、概ね結構抵抗なく納得しつつおもしろがりつつすいすいと(とは言えないが)いける。本来一つである現象をさまざまに分析していこうとするとき難解さがうまれるのだ。どのようにそれを表現するか、によってさまざまに応用の効く理論が立ち現れ、矛盾と躍動と調和を繰り返す世界の豊饒が開かれてゆく。
 
あとひとつ、特筆しておきたいこと。
 
福岡氏が西田の「ロゴスとは世界の自己表現の内容に他ならない」という記述に関して疑問を述べたときの、池田氏との対話の中でピュシス対ロゴス、の対立の構図がピュシスのロゴス的解釈、という論理を取り出してある種の止揚をみるところ。ここは非常にうつくしい。
 
*時空論~宮沢賢治との共通性
 
第四章の続き、時間論を語る箇所である。
 
生命と時間の関係に切り込んでゆく箇所で、「時間(時刻)」がこの矛盾的自己同一の現象である、っていう、流れゆく時間とその断面の一瞬としての時刻を矛盾のダイナミクスをもってトータルにとらえる時間論(空間論)(=時空論)、この生命論的な考え方はなんというか、感動的ですらあった。(p172)
 
過去と未来、現在の関係性、そのあり方を生命の内側から捉えて行く。
 
切り取った時間の断面としての一瞬の現在、その時刻としての空間性、そして流れゆく連続としての時間。この二つの時間の性質の矛盾を統合した「永遠の現在」としての「絶対現在」という西田の時空論の、その感覚。
 
「『絶対現在』は、西田においては『永遠の今』などともいわれますが、一般的な立場では、時間の流れのまま、過去・未来を『現在』の中に見ることなどできるはずがありませんね。西田は、時間というものを瞬間としてとらえるでしょう?要するに、『非連続の連続』なんです。」(p211池田氏の説明)
 
なんかね、読んだ後、とりあえずすべての現象はこの構造でとらえられるような気がしている。
 
そして、どうしても思い出すのだ。

我田引水な例ではあるけれど、宮澤賢治が「春と修羅」で行った心象スケッチという実験の描き出した時空モデル、その思想を。確固たる物質、モノとして捕らえないコトとしての存在、「わたくしというげんしゃう」意識を。
 
春と修羅」の「序」を見てみるといい。
まさにこの「動的平衡」という現象としての生命観とぴしゃりと一致している。
 
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
 
絶えざる破壊と合成が行われる細胞、そのうつろう物質の流れ(仮定された有機交流電燈)の中に「照明」としてせわしくせわしく明滅しながら(有と無の同時存在という矛盾の中にあり続けながら)ともりつづける(存在する)生命ー世界観である。
 
「けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません」
 
過去と未来が矛盾的に同一となったところにある「絶対現在」、そして「非連続の連続」という言葉から思い浮かぶのは、この箇所なのだ。
 
我々が共通に知覚しているという「因果の時空的制約」という人間中心ロゴス世界を観念論として「かんじているのに過ぎません」と喝破し、その外側の無限の豊饒としての「ピュシス」を直観する実存的思考である。
 
賢治のこの世界観は、法華経の教えに拠るところが多いという。
日本仏教思想と近代西洋哲学の融合を目指し、禅宗への造詣も深かったという西田哲学と同じ志向をもった賢治の世界観が共通したものであるのは、蓋し当然なことであるのかもしれない。
 
 *** ***
 
とりあえず結論としていうとバカみたいかもしれないけど、なんかね、結局ね、今現在、かけがえのないこの時の美しさを、世界と生命のおもしろさ、その存在の奇跡と大いなる不可知の存在を論理によって導き出し感ずるということ、その素晴らしさを謳ってるんだよね、西田も対談してる異分野のこのお二方も。
 
「西田哲学は『統合の学』としてとらえることができる。」p271(池田氏
 
そう、科学も哲学も芸術(文学)もさ、さまざまのアプローチで。
 
あるいは、そうやってとらえようとする、それがわたしたち人間という生命の「ありかた」なんだっていうことを。              

木曜日。ツイート記録Modified(ピンクの象が踊る夜 。)

昨夜観た「この世界の片隅に」印象残ってるうちに少しでも感想残しておきたいんだが、うまく言葉にならない、言いたい、言いたいのだが書く気力足りないもどかしい。

 *** ***

やっぱり原作も読み返さなくちゃとか思ったりしはじめるとさらに動きがとれなくなる。

原作には甚くヤラれたのだ。アニメーションはアニメーションなりに悪くなかった。いや、原作と異なるアニメーションならではの解釈を施したオリジナリティをもったすぐれた作品であり、(異なるかたちに展開するとき、その作品は、原作の物語に忠実であるよりはその媒体としての特質を活かした、アレンジメントとしての二次創作でなくてはならないと私は思っている。つまり「別物でなくてはならない」のだ。原作の劣等なコピーではなく、それ自身がすぐれた別個のオリジナリティを持つ作品であるためには。)(ルパンだってナウシカだって「秋の日のヴィヲロンの」…の翻訳だってある意味そうやん。)寧ろ素晴らしかったと言ってよい。だが私はやはり原作の方にヤラれたのだ。

ここでもその激しい動揺については言及している。)

基本的にやはり動画より文字及び静止画派であるようだ自分。

そして能年玲奈さんが少し苦手なようだ。
すごくセンスのいい才能のある人なんだと思う。んだが。

んだがナンなんだよ自分。

…う~ん。こぎれいなあざとさのようなものを感じてしまうのかもしれないな。


 *** ***

 

わたくしは今冷たいよもぎ茶をわたくしのかわいい寝巻きにぶちまけたのであるが、そのことについては誰とも語り合いたくはない。

 

そしてフラフラに酔って洗面所の鏡を磨きつつ万象同帰とイデアという言葉の甘やかな解放感と、そして全ての宗教の正しさと全ての言説の理とそのかなしみについて考えている。

9%アルコホル一気飲み、アカン。

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オマージュ或いはプレテクスト

最近、弾き語りする女の子の歌がとても気になっている。
 
世代の違う、別の風景に育った若い人たちとは世界が感覚が違うから基本的に心が共鳴しないのだ、と思い込んでいたから、自分にとってこの発見はなかなか革命的なんである。
 
優劣ではない。感性の繊細さや、いい悪い、深い深くないとかでもなくて、ただ吸収してきた世界が違う、感覚がちがう。

時代を共有しているかしていないか、というのは致命的に大きな問題なのだ。
あとやっぱり年を取ってからでないと絶対に持てない感性というのはある。
 
アドレッセンスだけの特権というのはもうもちろん前提としてある。その繊細さと絶望を孕んだ純粋さ、その鋭さ、濃い闇と透き通るようなつよくまばゆい光、両極への激しいエネルギー。失うことなどないと思っていた、かけがえのない、素晴らしい人生のそのひととき。世界の見えかた。大人は馬鹿だ、30過ぎたやつは信じるな。
 
けれどそれは失われるものなのだ。
 
大人になってゆくのに従ってすり減らされ失われるそのエネルギーとピュアネス。
だが、歳を経て哀しく汚れ古びてしまったそれは心の奥底に痕跡として、いや、より深い陰影をはらんだうつくしいかたちをした違う「何か」となって、そのひとの魂の中に大切にしまいこまれている。その哀愁を深みと陰影とやさしさを、若い人は若いというだけでもつことがかなわない。若さが若さであるというだけで素晴らしいことであるのと同じように。
 
新品とアンティークの違いみたいなもんだな、これは。
或いは新酒と古酒、ボージョレ・ヌーヴォーとヴィンテージ・ワイン。
 
それを、深みと透き通るような輝きをあわせもった、かけがえのない芳醇な宝とするか、ただの飲み頃を過ぎた腐臭を放つ廃棄処分品とするかは、本人が自分を、自分を構成しているその過去を、今現在の自分においてどう扱っているか、大切にしているのか、生かしているのか、その発酵技術の手腕次第だ。
 
世界へのピュアな眼差しも、恋も、さまざまな怒りも悲しみも歓びも欲望も、そのすべてが直接的で荒く激しかった。あまりにも五感を越えいっぱいにあふれ出していて、もうそれを自分で眺めることができないほどの、だた一方的に放出するエネルギーだった。
 
ピカピカに無垢で純粋なその若い日の感情は、一旦心の奥深くしまい込まれ、歴史を経て古び色あせながら、その後の人生すべて映しこみながら熟成する。…そして醸成されるのは、その失われたものだけがもつ切なさと悲しみに彩られた優しい色彩、喜びなのかかなしみなのか判別がつかない感情、魂が震えるような、深く芳醇なかなしみ。
 
それは、例えば自分の存在と不可分になってしまった世代の空気、思い出と絡み合ってしまった音楽。
 
高校の頃、鋭いアドレッセンスを打ち込んだムーンライダーズの「スカンピン」を聴いていた。
 
俺達 いつまでも、星宵拾うルンペン
夜霧の片隅に、今日も吹き溜る
俺達いつまでも悲しみ集めるルンペン
破れた恋や夢を今日も売り歩く
サァ、煙草に火を点けて
何処へ、何処へゆこう

そして白髪のおじいさんになった鈴木慶一が美しいメロディにのせて「スカンピン・アゲイン」を歌うのを聴く。
 
スカンピンだ
拾う星屑あるのならばまだいい
吹き溜まる場所あるのならばまだいい
集める悲しみあるならばまだいい
スカンピンだ
煙草一箱ほどの一生だったかな
 
…若い日のうらぶれた哀愁、けれど未来ヘのベクトルをどこかに孕んだ伸びやかなロマンチシズム。そして32年後、それすら失われたところにある、やるせなさ、未来のなさ、希望のなさ、否定と過去に向かう別種の…いやでもやっぱりこれは甘やかなロマンチシズムなのだ。これは時間の重みを聴くのだ。若き日の哀愁を重ね響き合い、より一層深くなったそのトータルな意味を。
 
かけがえのない時間を共有してしまったことを痛いように感じる。
 
 *** ***
 
で、冒頭の女の子の話ね。

好きなのは、柴田聡子、加藤千晶、カネコアヤノ、きのこ帝国やなんか。
 
もともと結構女性シンガーソングライター、ちょっとアクの強い、男性向けのいわゆる可愛らしいアイドルではない、消費される媚びた性的魅力で勝負しない、独特の詩や音の世界をもつ、いわゆるアーティストな感じのひとたちは好きであった。
 
上の世代では大貫妙子矢野顕子戸川純(純ちゃんには高校時代かなりハマった)(夜ゴンゴンかけて二階の姉から苦情を受けた。)(姉は当時ミーハーな洋楽ばっか聴いていた。夜中に部屋抜け出してディスコに通う不良であった。)(よく脱出を手助けしてやったものだ。)、も少し下ってさねよしいさ子遊佐未森なんかも結構聴いていた。
 
でもね、どうしてもどうしてかムーンライダーズ友部正人、たまみたいな、詩的でありながら論理的、強烈な個性とそれゆえの深い文学性を感じさせるような女性シンガーっていないような気がして非常に遺憾に思っていたのだ。
 
が、きのこ帝国、柴田聡子。歌詞に思う。(もちろんそれはメロディと重なり一体となっているからこそ心に響くのだが。)
 
すごい、と思う。
 
或いはそれは金子みすゞ宮澤賢治の感性を思い起こさせる。

例えば、カネコアヤノの「さかな」。
人間とは違う魚の立場から魚の生態を、生命観をそのまま淡々と歌う。つまり、ただ命であることを歌う。すべてを奪われ食べられることを歌う。食われるときのうただ。すべての愛するものに、さよなら、と。それは悲嘆ではなく本当に、ただほのかな生命への哀惜を、寂しみ。淡々と歌うのだ。かわいらしい明るさを持ったメロディで、淡々と歌うのだ。リフレインは、
 
食べられる気持ちなんてあなたたちにはわからない。
食べられる気持ちなんてあなたたちにはわからない。
 
このほのかな恨み節は、次の鮮やかな反転によって、我々食う側の「己の命への責任」への意識を鋭く問うものとなっている。
 
だけど僕たちは一生死にたい気持ちはわからない。
 
宮澤賢治的な「食うー食われる」への倫理観と原罪の意識、そして、…いや、しかしこれはそれよりもずっと金子みすゞの「お魚」に近い。残虐な命の連鎖と原罪の宿命、それへの諦念を色濃く漂わせる哀愁。これは、女性作家に特徴的に見られる、ある種の受諾としたたかさの感性なのではないだろうか、と私は思うのだ。
 
    海の魚はかわいそう。
    お米は人につくられる、
    牛は牧場で飼われてる、
    鯉もお池で麩(ふ)を貰(もら)う。
    けれども海のお魚は
    なんにも世話にならないし
    いたずら一つしないのに
    こうして私に食べられる。
    ほんとに魚はかわいそう。

ポイントは、かわいそう、と歌いながらしゃあしゃあとお魚を食べているところなのだ。同じ現実を直視していながら、賢治はそこで、己が無辜でありたいと願うある種の傲慢さによる原罪の拒否、そこからベジタリアンとしてひきつったようにヒステリックな自己犠牲へと暴走した。この一種男性特有のおこちゃまな正義感と、これは対極のところにある。
 
淡い哀しみとあきらめ、穏やかにすべてを受け入れる感覚。それは、己が罪を引き受けた命であり、それは己の小さな命が、大きな命の一部として巨きな生命連鎖の支え合いの構造をなしているのだ、という感覚、自我の枠を超えた世界に対する親密な肌感覚ともいえるものなのではないだろうか。
 
この感覚。果てしなく残酷で、果てしなく優しい。(よくこの感覚は、みすずの不幸な人生に由来するものだと解釈される。そうかもしれない。事実かもしれない。が、そこにこだわらなくてもいい。)
 
…もうひとつ、きのこ帝国。
 
自分賢治ファンであるということで、ミーハーな思い入れからくるものかもしれないが、アルバム「eureka」(アルキメデスが浮力の原理を発見したとき風呂から飛び出して叫んだ言葉だと言われている。「見つけたぞ!」っていう意味らしい。)(いや「我発見せり!」かもしれないけど。)の中の「夜鷹」「春と修羅」が好きである。もちろん賢治の「よだかの星」「春と修羅」を下敷きに、オマージュ或いはプレテクストとしてつくられた歌だ。
 
「夜鷹」(youtubeにあります。これ。)
 
殺すことでしか生きられないぼくらは
生きていることを苦しんでいるが、しかし
生きる喜びという
不確かだがあたたかいものに
惑わされつづけ、今も生きてる
 
濁ったサウンド、不穏で陰鬱に流れるメロディをバックに、語るように演じるようにして次第に感情を昂らせながら歌われるこの歌。この世の不条理を嘆き太陽を目指し星になったよだかのあの苦しみと意志、かなしみとうつくしさ、その宇宙でのかがやきかた。その魂が歌い手の感情に受胎し生まれ出た、歌い手の、いわばもうひとつの原罪に相対する決意である。
 
春と修羅」(同じくyoutubeここ。)
 
あいつをどうやって殺してやろうか
2009年春、どしゃぶりの夜に
そんなことばかり考えてた
 
いきなり叫ぶようにして歌い出されるこの歌に心が共鳴する、叫びは胸の奥の銀河宇宙に交響する。
 
時折私は夜中にひたすらこれを聴く。
 
プレテクストを明らかにしているということは、作品が何かへのオマージュだと称することは、ズルい。それだけで歌は、言葉は、その名作の深みをどこかにとりこんでしまう。それがきちんと読み込まれたうえで消化され解釈され、オリジナルなものとして生まれ変わった新しい音楽となる、そのような形での二次創作はまごうことなくオリジナルな創作である。(逆に言うとオリジナリティをもたない、読み込まれていない字面だけのなぞりとかで内容がこなされていないと感じるとき、ファンとしては逆に作品への冒涜として嫌悪と怒りの対象となってしまうのだが。)(絶対にそれはモトとは別物でなくてはならないのだ。)
 
プレテクストを知るとき、それがその歌の中にどのようにして消化されてるか、その読者ー表現者となった歌い手のオリジナリティの軌跡を私たちは感じ取ることができる。それを一緒に辿ることができる。こうなると一粒で二度おいしいグリコのキャラメルである。
 
ああ、なんかぜんぶめんどくせえ、なんか全部めんどくせえ…
 
原作とは似ても似つかぬ風景と内容が歌われているのに、「春と修羅」のあの怒りと悲しみの、そのイメージは倍音として響くようにしてダブってくる。テクストは共鳴し、豊かさを増す。
 
ズルい。

偽善

太陽直射直火焼き熱風ごうごうコンベック・オーブンな夏である。笑っちゃうほど世界が眩しい。

子供らは夏休み。

バイクでごうごう熱風に吹かれて走りながら、最近読んだガイジンの本のことを考えていた。

ガイジンはオレにはわからない。(日本人もそりゃわからないっちゃわからないんだが。)ほんとわからない。宇宙人と同じである。なんでみんなわかるんだろう。

…で、その本のひとつが本屋大賞をとったということで、賞の権威のタイプのことなんか考えた。人気度とかね。芥川賞とか直木賞とかノーベル賞とか本屋大賞とか。想定読者のタイプとか。アマゾンでの書評の自己顕示具合とか。

あと、類似構造をなすものとして、官憲と在野の誇りと美学。

民放とNHK朝日新聞と読売新聞。

併せて、偽悪と偽善。あるいは本音と建前。

もちろん偽悪とは偽善の裏返しに過ぎない、それはひとつのもの。どっちもキライだ。つまんない感情的な見栄っ張り美学なノータリンだから。本音と建前だって、人間を一枚のペラペラの裏表とする考え方だ。

でも、今ここでどっちかって問われたらどう答えようか、とか考えたのだ。

…私の心は偽悪に寄り添い私の言葉は偽善に寄り添う。

というようなことを考えたのだ。

とりあえず飲み過ぎで頭痛いから寝なくっちゃ。

おやすみなさいサンタマリア。

にんげんのこわれるとき

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大学時代、すぽんと賢治にハマって、卒論も修論もテーマは賢治だった。

漱石と賢治、春樹が好きとかもう何だかギョーカイ内では安っぽいミーハーちゃん扱いである。ゼミではみんな結構いかにも自分文学好きだぞな玄人っぽいシブイ作家を取り上げてた。永井荷風とか谷崎潤一郎とか横光利一とかさ。)

確か修論は「小岩井農場」を中心に論じた記憶がある。

長詩である。(賢治に言わせると「心象スケッチ」な。)賢治独特の、日本では珍しいタイプの長詩。ダダイズム風の実験的なスタイルをもっている。(賢治はダダの影響も受けていて、「春と修羅」随所に視覚的な文字列の配置の工夫などもされている。実はカレって結構新しもん好き、実験好きなひとなのだ。)

あれこれ考えごとしながら小岩井農場を歩いてく実況中継的なスケッチ風の詩なんだけど、(実際に手帳にメモを書きつけながら小岩井農場を行ったり来たりしたらしい。)ごく普通の周囲の情景描写から、心の中に浮かぶ回想や想像、独白が入り混じって主体が分裂してゆき、だんだん幻想世界に移行していく過程がぞくぞくするほどエキサイティングなのだ。ひとが狂っていく過程もこれと似たようなものかもしれない、と思ったりしてね。

で、好きな言葉がある。(いやたくさんあるんだけど。)

 「幻想が向ふから迫つてくるときは / もうにんげんの壊れるときだ」

自我解体の危機に瀕した葛藤のシーン、クライマックス。

ここの解釈は本当にいろいろな説があっておもしろい。 

見田宗介の「宮沢賢治」が大好きで、これで賢治にハマったようなもんなんだけど、ここでのその解釈は奮っている。得てして否定的にとらえられがちなこの「にんげんがこわれるとき」という意味を、この箇所を、あえて非常に肯定的にとらえているのだ。「にんげん」を「自我」としてとらえて解釈する。するとこれは自我解体の恐怖を意味することになる。が、それと同時に自我という牢獄からの解放という至福の時空への移行、この反転の意味を読み取ることもまた可能となってくる。彼はここを論の中心点として捉える。

この人の賢治はすごく魅惑的な解釈で学生時代はすっかりまるごと飲み込んじゃったんだけど、今ちょっと見てみたら、ここでは自説に引き付け過ぎていて、多少論理に強引さと無理がある。いやまあそれはそれでそれとしていいんだけど。この人のこの本の論理構成を成立させるには仕方ないとこだから。 

漱石の「行人」に、「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの3つのものしかない」という一節がある。「死か狂か宗教か」耐え難いこの世の業の苦しみ、自我の苦しみから逃れるための三つの選択である。

これは、「自我という牢獄」という視座をもっており、それは問題意識として先の見田宗介のものと一致している。死も狂も宗教も、「解脱」、すなわち牢獄としての<自我-この世>からの解放、自我放棄のための手法だからだ。

 賢治は、「小岩井農場」に於いて、分裂してゆく自我をそのまま表記し、五感が捉える外界風景と意識の内面のイメージが入り混じり溶け合うテクストを織りあげる。これが「心象スケッチ」という手法である。これによって、言葉の多元宇宙を出現させたのだ。すなわち文字通り「異議を唱え合うエクリチュールロラン・バルト)」の場を生成、バラけた自我をバラけたままに記述認識する。

そしてここからだ。ここでは、その混沌が極まったとき、全体の向かう方向性を敢えてトータルにコントロールしていこうとする新たなメタレヴェルの主体を発生させる仕組みが読み取れるのである。これは一種戦略的なエクリチュールのスタイルとすらいえるのではないかと私は思う。

この試みを、先の「死か狂か宗教か」の論立てにあてはめてみてみよう。

移りゆく時間と風景を眺めながら歩行する現実の主体を外枠にもちつつ、同時にそこから離れ遊離した意識の内面で、回想や宗教的な論争を繰り広げる分裂した複数の主体(自我)=多重人格という構図を織り上げる。そして現実意識を凌駕してゆく内面の幻想領域、という「狂」への危機的状態をつくりだしていく(或いは「(幻想が)向ふから迫つてくる」状態 )。

そしてこのクライマックス、ラスト近く「にんげんがこわれるとき」現れるのが次なる段階としての超越者的な声である。この声は、最初ちらほらとあらわれ幻想を警告する小さな声としてテクストの中につぶやきはじめ、そしてこのラスト部分にすべてを覆うようにして突如大きく膨らみ他を凌駕し統一し、高らかな意志の声でこのテクストを語り終えようとする一つの主体である。

 

 《もう決定した そっちへ行くな
      これらはみんなただしくない
      いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
      発散して酸えたひかりの澱だ

 

ただしくない「これら」とは、対立しあい混迷する複数の主体の見ている複数の幻想風景、多様な意見のことである。エクリチュールのカオスな動きの中で、残虐な現実側の回想に捕らわれ自我の業に苦しむ主体(具体的な人間関係の軋轢の回想、妹を失った悲しみのフラッシュバック)、そしてそのアンチテーゼ、現実世界を嘆き否定し理想世界への解脱のみを願う主体(幻想の美しい仏教的天上世界のイメージ)を共に否定しながら、それらを止揚したメタ次元として、双方が「ただしい」かたちで存在する世界に向かおうとする。これはそのかがやかしい宗教に裏付けされた新たな外界現実に立ち戻ってゆこうとする強い意志の発揚である。

 

さあはっきり眼をあいてたれにも見え
   明確に物理学の法則にしたがふ
   これら実在の現象のなかから
   あたらしくまっすぐに起て

 

業の苦しみに満ちた現実世界、そしてそれを否定する形での遊離してしまった「宗教」的幻想。それらをすべて解放して言語化し、その分裂した人格としての場「狂」を経るかたちで再びまったくあたらしい現実へと差し戻してゆく構造。ある意味これは「死と再生」のミッション。すなわち、祝祭(ハレ)から日常(ケ)再創造、或いはあらゆる宗教に示されている終末思想と相似の関係構造をなしている。

死と狂と宗教(にんげん《自我》の壊れる場所、或いはそこから解放される場所)。エクリチュールはこれら自我からの解放のミッションをなぞる。そしてけれど自我ー主体崩壊ー死という破滅のかたちには流れない。「にんげんのこわれる」ぎりぎりのところでジャンプを仕掛ける。このミッションによる新たな自我の獲得、ミクロな自我を克服した、マクロな超ー自我による世界イメージというステージの獲得への誘導の構造を構築するのである。

「ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで」

心象スケッチというエクリチュールの手法によって、「ちいさな自分」ちいさな自我からの解放のツールとしての「死と狂と宗教」の取り込み、そしてそれが「生」と対立しない高次元の場で再構築された自我と世界の関係性、そのような大きな自我観へ至るための誘導が行われている。

それは、賢治の目指した「物理学」と「実在の現象」を統合した「ただしい」宗教の姿として謳われた。

…思うのだ。

これは、これこそは、もしかしたら彼が「農民芸術概論綱要」で主張しようとしたひとつの「芸術」(この詩の場合、エクリチュール)の姿そのものだったのではないだろうか。現実の読み替え、救済のツールとしての宗教=芸術である。

 *** *** ***

この長詩は、このように新たにトータルな形での宗教と現実を踏まえて進んで行こうとする意識の流れの記録、自我の苦しみと業をコントロールしていこうとするその心の道行きであるといえるだろう。

書くこと、エクリチュールを為すことの意味は、それが自己救済の手法であるところにある。あるいはそれはひとつの祈りのかたち、そのスタイルである、と言ってもよい。(卒論の方では、確かこのことが言いたかった記憶がある。書くことは祈りである、というような。忘れたけど。)

小岩井農場は長いんだけど、とりあえずラスト、クライマックスの「パート九」だけならそんなに長くない。ここに全文載ってます。

 

…でね。

こうやって力強く高らかに理想論を謳った後、最後の最後に凡夫としての「ちいさな自分」に戻るような、まっすぐでありながらもほんのりと揺り戻し的なイメージを持つラストがある。

大きな意思にみたされた高い次元を感じながらも、低いところにいる小さな個は決して失われない。

テクスト内での語り手と登場人物の視点の自在な移りかわりを利用して成立する「ちいさな自分」が見る風景とその主体を客観化して眺める、鳥瞰する二重の風景。この、めまいのするような視点の多重を利用したこの風景の深み、うつくしさは、常に大きな宇宙の中で「透明な軌道をすすむ」ひと(自分)を感じながら、現実のしがらみを生きる、現実の美しい風景を愛する小さな自分を感じ続ける双方への生命賛歌、世界賛歌への祈りからくる。そしてここに示される、切ないようないたましさと、ほんのりしたあきらめに似た優しさに満たされたものである高みへの意志。

この詩情、ここが好きなんだな、オレ。もしこれが詩としていいものであるとすれば(これは詩としては全然評価されてないようだ。研究対象ではあっても。…まああの珠玉の「永訣の朝」なんかに比べっちゃっちゃね。)、ここがあってこそだと思うんだな。

 

なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる
けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて

ひとは透明な軋道をすすむ

ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる

パンあれこれ

しばらくパンというものを食べていない。

ふわふわやわらかな白いパンなんか、高校時代以来食べていないのではないだろうか。(自分、精白精製した白米白パン白砂糖の類は食べ物として悪だという信念をもっている。あれは特別なもの、祭りの食べ物、日常食にしてはいけないもの。)

姉曰く(当時高校〜大学生)
「朝ごはんにはサンジェルマンの(阿佐ヶ谷駅前にあった。)エクセルブランのトースト焼き立て熱々にバターとマーマレード、アールグレイよね、やっぱり。」両親の好みもこれに準じた非常に昭和スノッブイングランドな正統派趣味であったが、末っ子自分だけはその趣味には敬意を払いはしても迎合はせず、孤高にひとり異なるメニューを希望強行ゴリ押しした。(ワガママともいう。)あの店の、苦みの効いたオレンジピールぎっしりの美しいマーマレードは当時決して悪いものではなかったが、きちんとうまみのある上質の小麦の香りの、サクッとしていながらひきの強い、正統派イギリス食パン、こんがりキツネ色の焼き立てトーストにとろけてゆくミルキーに甘いバターの香り、は決して悪いものではなかったが。

…ことパンと麦酒に関しては断然イギリスよりドイツなんである。(そして紅茶よりも珈琲)ずっしりどっしりがっしりにワイルドで雑穀な感じがいいんである。真っ黒でずっしり重くて酸味の効いたプンパーニッケルなんか非常にイイ。そして同じサンジェルマンのパンでも、(阿佐ヶ谷駅前で一番便利なとこにあるパン屋だったのだ。)コンコンと叩けば釘が打てそうなガチガチに固いフルーツとナッツぎっしりのライ麦パンスティックがお気に入りであった。(あれでコンコンと頭を叩いて「文明開化の音がする~♪」などとくだらないことをして遊ぶのが好きであった。)(どうでもいいけど「叩けばホコリの出るカラダ」という言葉が昔からどうもとっても好きである。自分。)一生懸命噛むのがイイんである。よく噛む行為はブスボケデブを予防する。(噛む行為は咀嚼の筋肉運動による顔の輪郭のひきしめ効果をもち(ブス予防)、ゆっくりと食することによって過食も予防、(デブ予防)また咀嚼による唾液分泌には老化防止ホルモン分泌を伴っているという研究がある。(ボケ予防))

一時期はルヴァン方式、干し無花果等を用いて酵母を起こし、毎日餌を与えて育てては国産全粒粉&ライ麦その他雑穀ブレンドパンを焼いていたが、それは大変よろしいことであったんだが、あまりにも大変なのでくじけてしまった。(自分で酵母を育てるのは結構喜びであった。膨らむと可愛いのだ。)

で、パンにくじけたトラウマを負ってしまったせいか(ウソです。)なんとなく日常的には食わなくなってしまった。

…だけど菓子と同じように実は好きなんである、パン。
つまり、観念としての食べ物。加工度が高い食べ物。自然界の恵みのかたちをその跡形を消した形に加工した意味としての食べ物、肉体の糧ではなく、心のための糧、喜びのための。

 

それは、自然からではなく、夢や神、形而上の意味をもって形而下に降ってくる贈り物、人間だけのための食べ物(動物は栄養足りてるのに儀式や官能や心の喜びのためのおやつを食べたりしない。)、という位置づけをされたもの。アニミズムや自然崇拝、自然の恵み、その豊饒への感謝からくる信仰からの決別と、それが唯一神へふりかえられた、「概念」へ帰依を意味するもの、(パンやワインっていうのはホントそうだよな、キリスト教の信仰的な飲食物としての象徴。それに相応しい、この加工され洗練された観念としての食物。)…そして、われわれにとってはさらに、異国の食べ物。

…ちなみに漱石は下戸で甘いもの好きだったんだけど、当時はかなり高価だったハイカラな菓子やパン類も好きだったらしい。

(「こころ」にも確か「チョコレートを塗ったカステラ」の菓子なんか出てきたよね。甘そうだけどうまそう、チョコレートを塗ったカステラ。)(東京の先生んとこのおやつはハイカラなこういう菓子、語り手の青年が里帰りしたときの彼の父親に「うまいもの」と呼ばれたおやつが田舎な煎餅バリバリで、青年は憐みに似た田舎と古い時代への思いを抱く。こういう食べ物モチーフによる、新時代(都会)と旧時代(田舎)を象徴するかのような二人の「父的なるもの」のイメージ対比も巧みなんだよな、漱石。)

で、火鉢で食パンを焼いて当時大変な高級品だった苺ジャムなんか塗ったものを朝ごはんにしていたらしい。…まあ倫敦留学してた人間だからな。

(どうでもいいけど、ワシは漱石や賢治の作品がものすごく好きだが、生身の人間としての作者が目の前にいたら、すごくやなやつだと思うんじゃないかと思っている。)

で、特に我が国における昭和世代のパンに対する独特のファンタジックなあこがれや観念性については、かこさとしの既に古典とされている名作絵本「カラスのパンやさん」の人気に最も如実に現れているのではないだろうか、というようなことを思っている。

もうね、この絵本大好きで、何度も何度も眺めては喜び熟読し、ひとつひとつのパンの絵をなめるように眺めておいしい楽しい可愛いパンどもを想像したものだよ、幼児だったオレ。…こういうさ、フレーバーで目先を変えるとかキャラパン的な遊びというか、キャラ弁的なる食べ物文化って日本独特だよねえ、実際。

季節や行事にちなんだ商戦で、一斉にさまざまな意匠を凝らしたパンや菓子があふれかえる街のケーキ屋やパン屋。百花繚乱バレンタインやクリスマス、春には苺スペシャル、そしてさくらんぼからもも、西瓜へ。四季の変化を尊ぶ伝統的な伝統行事への精神を底に敷いた、それは変奏であるように思う。

かたちと味とイメージ、能書き、物語を味わうことが、食べ物それ自体を味わうことに先行する。なんだかね、この感じはアレだよ、アレ思い出す。

ロラン・バルトの「表徴の帝国、記号の国」日本。意味内容の不在、跋扈するイメージと物語の幻想の中で遊ぶ国だ。

 

オレ結構好きだよ、この国のこういうところ。
スノッブなグルメとか偉そうな美食家とかグルメ評論とかいやらしいとこにも通じちゃう功罪はあれこれだけどさ、とにかく精神が満ちてるんだ。実質より物語を愛する精神性。味わうことを、身体的な実質、実体というよりは物語と知性によって、記号として味わってしまう繊細さ。

まあ何しろさ、ケーキ屋やパン屋の前に漂う、オーブンから菓子やパンの焼ける匂いは、まごうことなきしやわせのカホリだな、万国共通で。 

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これはミョーに可愛らしい国分寺アンデルセンのパン、6月限定だったやつ。アンデルセンのすずの兵隊さんだって。(あれは哀しいお話だった。)カスタード詰めたデニッシュにチョコクリームとブリヨシュの兵隊さんがドン。

「ナラトロジー入門」 橋本 陽介

プロップからジュネットまで、という副題につられて読んでみた。
 
入門書としてきれいに鳥瞰されているのでよかった。大体、専門的な各論を読むよりも寧ろ、すっきりと大まかな概念を理解するにはこういうのがいい。
 
大学時代、ジュネットとかバルトとかヒジョーにわかりにくい訳文を一生懸命読んだけど、とっても興味深かった箇所の記憶はあるんだけど、結局なんかほとんど忘れてしまっている。かなしい。大昔だから仕方ないんだけど。大学時代もっとこの周辺がっちり身に着けておくべきであった。骨身に染みるまで。(いや少しはしみたとこ残ってるけど。ほんとにほんのシミ程度しかない。)

ナラトロジー。
 
「奈良トロジー」でも「奈良と露地ー」でもない。(iPhoneで打ち込んだらこう変換されてびっくりした。奈良の露地を研究する学問か。)物語論である。物語分析の理論。ナラシオン、語りの理論。フランスで発展したからナレーションじゃなくてナラシオンなんだよね。当然、用語もフランス語になる。イストワールとかレシとかシニフィエとかシニフィアンとか。(ソシュール以降の言語学と密接にかかわりながら発展してきたんである。)なんかいかにも専門ぽくて英語よりかっこいいぞ、お仏蘭西
 
…なんなんだろうね。英語だとイギリスとかアメリカの、なんというか何かを切り落としながらとことん目に見える合理的なとこばっかりゴリゴリ打ち出した直線的な骨組みの近代合理主義な理論を感じるんだけど、お仏蘭西は違う。もっと非常にムダに詩的な美学を重視したところにある別の次元の隙間を感じさせるようなしなやかさ、生命を孕んだ全体的な「合理」を目指すジャンルのイメージ。
 
レヴィ・ストロースとかのイメージなんだな、これは。記号は単なる記号であることを踏まえ、その意味を剥奪したまま認識理解し、その可塑性をもつ論理を都度生き生きと構築する読者サイドの能動性を視野に入れたしなやかな思考法。「野生の思考」ね。これ。
 
大体だな、菓子の名前も好きだしな。フランス菓子の名前、オレわかるぞ、大体。菓子用語に限ってなら。言われたらどんな菓子かどんな技法だかわかる。菓子は楽しい。どうでもいいけど「シニフィアンシニフィエ」っていうイカサマな名前の有名なパン屋もあるそうな。店名に惹かれて行ってしまいそうになるではないか。(そして本当に大層うまいパンを売っているらしい。)
 
 *** ***
 
物語論
それは、文学批評としては比較的新しい、20世紀に生まれた新批評と言われるジャンルに属する文学批評のための理論である。旧来の共通の指針を持たない感想文的な批評とは一線を画する。
 
旧来のものとは、印象的、感情的、作家還元型(ここで作品はあくまでも生身の作者に由来する。社会的背景や書かれている内容が研究対象)ばかりの「何が書かれているか」という個別の作品の「内容」の「解釈」であった。だがこれはひとまずそこから離れ、それが「どう書かれているか」というあらゆる物語の共通の枠組みそれ自体のメカニズムに焦点を当てたジャンルの理論である。作品、テクストそれ自体をのみ素材にする。構造分析である。
 
当然、言語学と密接に関わり合い、さらには「物語」が語られる、というスタイル、その言語伝達というコミュニケーションの場としての構造にも注目したために、読者という要素が作者と同等の重要性をもって立ち現れてくるものとなっている。
 
あらかじめの「事実」があって、言葉が透明にそれを映しとるのではない。さまざまに加工された誰かの言葉による恣意の物語行為によってその「事実」をあらしめているのだ、という考え方である。
 
 *** ***
 
ソシュール以前、19世紀から20世紀初頭にかけての言語学は、論理学と軌を一にしていたという。つまり、先だって真実があり、言葉はそれを写しとっていくものだという考え方である。言葉は対象にラベルを張り付け名付けるものとしてある。従って、ここではある語の「意味」とは、指示対象そのもののことであるとされた。
 
ソシュールはそのような「言語に先立つ実質の存在」を否定し、人間が言語によって世界を「分けている」のだという考えを打ち出した。(これってなんだか聖書の解釈の問題に立ち返ってておもしろいよね。新約聖書の有名な「はじめに言葉(ロゴス)ありき。」で世界が定義されてるやつな。)
 
彼によれば、言語による差異によって世界は分けられている。(カオスではなくコスモスとなる。認識可能なものとなる。)で、さらに、それは恣意としての「記号」である、と。シニフィアン(意味するもの)、シニフィエ(意味されるもの)の恣意による結合が言語である、という定義である。そう、それはただの「約束事」なのだ。
 
ということで、ナラトロジーにこれをあてはめれば、言語形式がシニフィアン、物語内容がシニフィエということになる。

記号論的な文学理論では、ある内容(シニフィエ)をどう表すか(形式、シニフィアン)の関係が問題とされる。」(p59)
 
また、さらにソシュール言語学で重要なことは、「語は体系を成す」、つまり、ある語は他の語との関係性によって意味を成すものである、という指摘がなされているところである。この指摘は構造主義の先駆けとして、後続の構造主義者たちに受け継がれて発展してゆくものとなる。
 
私たちが言葉に共通の意味を認識し意志を伝達しあっているのは、その語の属する意味体形構造が真理だからではなく、ただ習慣として無意識にその意味体系のネットワークの中で世界を認識しているからだという指摘である。これを可視化することによってはじめてメタ認知されたその構造が客観的に分析しうる対象となるのだ。
 
これはナラトロジーの考え方にぴたりと当てはまる。
シニフィアン、意味するもの」としてのテクスト、言説(レシ)のみに焦点を当てたとき、ここで「シニフィエ、意味されるもの」とはなにか、そしてその「語りの現場」において、作者とは、読者とはどのような関係性をもった構造を成しうるのか、何を意味するものとなりうるのか?という、物語構造からくるテーマが浮かび上がってくる。物語言説の構造を分析し明示された体系として浮かび上がらせる。これはナラトロジーの主要テーマといっていいだろう。
 
個別の作品の内容をさらに個別の価値観やフィーリングに引き付けた解釈・批評ではなく、物語一般の、その根本のメカニズムを分析する手法、寧ろこれは文学とは何か、という命題を根源的に解明していこうとする、テクニカルな構造分析のための科学である。(だがここでこの筆者は、日本におけるジュネットの受容が、小説解釈のための技法のみに限られ、その文学理論としての根源的な問題意識、その思想が抜け落ちていることを嘆いている。)
 
この性質上、ナラトロジーは必然的に二十世紀に流行した形式主義ロシア・フォルマリズム)やその後フランスで流行した構造主義と密接に関わりをもちながら発展してきた系譜をもつ。

なお、この本の序章では、プレ・ナラトロジーとしてアリストテレスの「詩学」という書物が紹介されている。「詩学」は詩を扱うというよりはむしろ物語分析のセオリーに近い分析法を示したものだったらしい。マルチ・プレイヤー、アリストテレス。この本を読んで初めて知った。
 
そこでは「悲劇」を論ずるにあたって、「悲劇」の特徴を「筋・特徴・語法・思想・思想・視覚的特徴・歌曲」の六要素から分析されているという。悲劇の設計図の分析である。つまり、悲劇を見て観客が感情移入し、悲しみを感ずるのは登場人物への感情移入等の「内容解釈」からくるが、この悲しみを感ずるのはなぜか、という普遍的なメカニズムを分析するのが「詩学」の方法なのだという。
 
個々の作品を「解釈」するレヴェルだけではなく、その解釈の手法そのものに焦点をあてた分析の理論、まさにナラトロジーの原型である。
 
とにかくね、わかりやすい平たい例を挙げてあるからいいんだな、この本。だって第一部、導入部はまず「水戸黄門」の例示である。…ということで、ここでまずナラトロジーの原型は、結局あの「お約束」的な物語の原型、パターンを分析研究するってことなんだっていうわかりやすい大元のイメージができるというワケだ。原型があり、法則があり、そしてその数限りないヴァリエーションが発展展開する。
 
 *** ***
 
ロシア・フォルマリズムの旗手プロップが、ロシアの民話、魔法物語を素材にしてパターン化し分析してみせた「昔話の形態学」では、民話(魔法物語)のパターンをすべて31の「機能」に分析されうるものとした。すべての魔法物語はそのお約束のバリエーションに分類されるのである。それは
 
機能1(家族の成員の一人が留守にする。)(留守)
機能2(主人公に禁を課す)(禁忌)
機能3(禁が破られる)(違反)
 
…というようにお約束のパターンが展開して31のプロセスを経て大団円に至る、という構造を示したものだ。
 
この基本的なロシア・フォルマリズム「物語の形態学」をもとにして、民話に限らない文学一般の、より高度に複雑化してゆく過程をRPGのように分岐した構造として分析していったのが後続のプレモンやロラン・バルトであり、それはソシュール等の言語学から出現した当時の仏蘭西構造主義と融合したものとなっていった。
 
バルトやジュネットらはまた物語行為を語り手と読み手のコミュニケーションとして考える視点を導入した。これはジュネット「物語のディスクール」に至って、
 
「語り手」が「語る」という物語行為によって「物語言説(レシ)(シニフィアンにあたる)」が生まれ、その物語言説はある「物語内容(イストワール)(シニフィエにあたる)」を示している。
 
という図式の定義として整理されるものとなる。
ここで大切なのは、ナラトロジーでは、生身の現実の「作者」とこの「語り手」を分けて考えることが重要とされているというところだ。作者とはテクストの外側にいる存在であるが、語り手はテクストの内部存在である。
 
この辺りはごちゃごちゃになりそうなとこで、自伝的小説の場合、伝統的解釈では作者と語り手が一致するとされがちだが、ナラトロジーでは物語内での一人称による作者は限りなく生身の作者に近くあっても、あくまでもそれとは異なる架空の「語り手」であるとされる。
 
まあ考えてみれば自伝と称して、巧みなフィクションだって嘘だって盛り込めるんだから当然だよな。(みんながやってる日記やブログだって何だかんだ、多かれ少なかれ、どっかで絶対虚構要素の盛られた物語なんだよね。自覚無自覚は別として。)で、例えば漱石の「猫」だってその語り手猫の視点に仮託されたのは作者漱石の思考法であり、客観化された自画像「苦沙弥先生」をパロって笑いを生んでみせる、ある意味ねじれて倒錯した手法をとっている。なにしろ語り手とは、ひとまずすべて作者とは切り離されたすべてテクスト内にだけ存在する純粋に架空の「視点存在」なのだ。
 
このあたりこっから先は、作者、語り手、内包された作者、とかなんとかいろいろ考え方があって複雑で、学者同士のかんかんがくがくの議論から浮かび上がってくるこれら語り手や読者の定義の概念はものすごく抽象的になりがちで難しい。
 
けど、いろんな作品にあてはめて彼らの考えていた作者や読者、作品の中に仕組まれた構造の事を分析し考えてゆくと、その作品からさまざまな「読み」の可能性が豊かに開かれてゆく、文学というジャンルの構造からくる世界の深みが、言葉の多義のおもしろさが豊かに感じられるようになってくる。
 
で、思うんだけど。
 
文学とは、物語とは、言葉によって構築される出来事と意味である、とするならば。

言葉を持つ人間によって成り立ってるこの私たちの認識している世界そのものもまた一つの大きな「読まれるべきもの」として考えることができるんじゃないかな。で、それは、「さまざまなエクリチュールが異議を唱え合う(ロラン・バルト)。」場としての一冊の巨大な本。それは、多種多様な意味の包含。矛盾、可能性、正解の不在を孕んだものとしての、「世界」という「複合機能体系」。
 
賢治が「ひかりの素足」で死後の理想の世界を描いたとき、神さま(的な超越的人物。ひかるすあしをもったひと)が死にゆく子供らに、天国の図書館のことを語るシーンがある。
 
「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひってゐるやうなものもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうな本もある、お前たちはよく読むがいゝ。」
 
これは世界の構造を示した仏教の「インドラの網」構造を図書館の本に託して語ったものとして考えられる。一冊の本とは、ひとつの世界なのだ。無限に連なり関係しあい響きあう、世界の構造。わたくしという現象を規定する有機交流電燈のネットワーク。
 
(ここで、わたくしもまた一冊の本、無限を孕んだ一つの世界そのものである。)
 
(『華厳経』に説かれる「インドラ網」とは、インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網のことで、網の結び目にそれぞれに宝珠がついていて、その一つひとつが他の一切の宝珠を映し出す構造をもっている。一つの宝珠に宇宙のすべてが収まるというダイナミックな生命観を示しているとされる。)
 
 *** ***
 
蛇足。
 
大体論文ってのははそういうもんだと思ってるんだけど、この中でも「序」、そして第一章「物語の構造とは」、二章「ナラトロジー誕生までの理論的背景」、そしてせいぜいが第三章の「作者と語り手」までで、その要旨、エッセンスがすべて述べられている。
 
後はジュネット説の解説(+筆者独自の「言語の違い、文法の違いによるオリジナリティ、翻訳の問題等(日本語だのフランス語だのによる概念の変化)」)の各論である。
 
で、前半を理解するためだけにめんどくさい各論に取り組むもんなので、この「序」の流れと概念がざっとつかめれば、自分で分析法編みだすとか研究するとかそういうんじゃなきゃ、まあいいんではないかと思う。
 
各論の精密さは一見精密なようで、実は精密ではない。ただ精密さを求めて、例外、例外による分岐、さらなる分類、と限りない泥沼にはまり込む構造になってゆくのだ。究極行きつくのは曖昧さであるという結論は見えている。(それでも分析というのはそういうものだ。花と花束の喩えが言われているが、要素と全体の関係、数限りない花々から成った全体としての花束の、その一つひとつの花を分析してゆくことと花束全体との関係、それはゲシュタルト心理学の要素プラスαという構造の概念と近似しているものであるように思う。)その中でおおまかな流れをイメージできれば上等。…大体言葉を扱う難解さとはその多義性による曖昧さに由来するものであって、そもそもがすっきりポンと分析されるものではない。
 
ナラトロジーの存在意義とは、その、共通の約束事や要素の分析からはみ出てゆく個別性、どうしても分析しつくせない唯一無二の「+α」の部分にどこまで近づくことができるか、というための手法であることに尽きる、と私は思う。分析理論は分析理論であり、これはただのマニュアルだ。ツールなのだ。この武器によって物語に仕組まれたさまざまの構造とその可能性に気付くことができるようになる。
 
このツールを使って個別の作品を分析しようとするとき、その構造の中にあってその構造を利用して構築される世界、それは、あるいはそこからはみ出てゆく矛盾に似た思い、過剰を含有するものである。芸術の衝動が、基礎技術と、そこからはみ出るようにして過剰に花開いてゆく天才的な個性の関係の相克やダイナミクスのなかに存するのであれば、どこまで冷徹で客観的に共有される分析が成り立ち、どこからジャンプがなされうるものとなっているのかを見極めること。そこに鑑賞の醍醐味がある。
 
…んじゃないかな。文学理論や批評の存在する意味っていうのはさ。