酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

夏至、文学

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妖しい半月が西の空沈んでくよ、夏至の夜。

…でね、麦酒を浴びてヤナちゃん聴きながら思ったんだけどさ。

オレ文学部だったんだけどさ。

学問っていうのはさ。

何なんだろなって。
(主として賢治のなめとこ山とホモイと漱石のことをぐるぐる考えてたんだけど。)
(何しろホモイがわからなすぎるのだ。だがわからないことが面白いのだ。どうしてホモイはこんな劫罰を受けなければならなかったのか?)(正当な理由はない。)(強いて言えばそれは「実存」、という概念にも関わってくるのかもしれない。)(?)(そうしてどんどんわからなくなる。)(そうしてそれは、何だろう、一種過激な「ほんたう」や「絶対」に対する拘泥という賢治の資質に関わってくるのではないか?天沢退二郎がそれを法華経の過激さに結びつけて考えたように。)(あらゆる交換法則や共同体の規範を超越して破壊して。)(つまりはおこちゃまなのだ。)

 

ということでだな。

思うに、それはだな。

以前は「論理である。」と思ってだな、例えば小説だの詩だのを分析して論理を取り出すことによってその物語が如何にして人の思考パターンに刻み込まれているのかを見出す面白さというかなんというかそういうことだと思っててだな、今でもそうだと思ってるんだがな。

その論理とは何か?ってことで、もうひとつ思いついたんでメモ。

論理を見出すとかダルマを見出す(仏教的なやつね。「法」っていう。「モード」。)

文学部的なアプローチで言うと、それは、個別的な物語、言葉の中に「普遍」を見出すことなのではないかと。

抽象を見出す、論理を見出す、普遍を見出す。個は個であるそのままで普遍である。エゴはエゴのままで仏性そのものである、十界互具は平行線でありながらびりびりとした矛盾のダイナミクスのエナジイを孕み続け共存し続ける。…もしかして、それが歴史と時間を作っている、のかもしれない。

きわめて個別的にして俗な「物語」の、その「俗」を極める、そのアルケーに遡りその人間の原型を探り出そうとする己の中の個別的な脳内ダイヴによって。具体と抽象、パロールとラングの、その関係の中に世界の構造の矛盾と普遍を同時に見出す、(己と世界の関係性の中に野生の思考のフレキシビリティをもった可変としての生命、エナジイを孕んだ普遍という構造を見出すということだ)、その世界像を描く。その(あらゆる理不尽と矛盾の苦しみをあらかじめプログラムされたものとしての)一体感が、すなわち安心感であるとうたいつづける、祈り続ける、そのための。

…楽しくなければ、人生じゃない。ってことなんだよ、要するに。

カレー

土曜日、カレーの集いのお誘いを受けたので、なんだか一生懸命行ってきた。

カレーは素晴らしいからだ。
というかまあ大学のゼミの先生を囲んでゼミOB会のような集いだったので先生やゼミの同期や後輩諸氏にお会いできるというのはどきどきするしわくわくするしということでどっこいしょの気合を入れたのだ。雨の日はぐんなり湿気ってしまうお天気人間なんだが一生懸命でかけたのだ。

結論としてカレーは素晴らしいということと、私は今がどうあろうとこれからどうなろうと、とりあえず素晴らしい先生とゼミに恵まれた幸福な人間であるということがよくわかった日であった。

何故こんな志のある立派な人たちの席に自分が連なっているのかよくわからず己の人間としてのみじめさを恥じて穴に入るべきであるという思いも決して弱いものではなかったのだが誇るべき縁があることをとりあえず幸福に思ったのだ。

大層酔っぱらってしまったし何だかひどい恥をかいた気もするし連れてったおっちゃんウサギも忘れてきたけど、生きて無事戻ったしみんな温かく優しく頼もしい人たちだったので、なんだか一瞬だけ、生きていてもいいような、人間らしい気持ちになってやっぱりよかった、なあ。

 

会場となったそのアットホームなサロンは、厨房とテーブルが離れており、というか一旦外に出てぐるりと往来をとおっていかねばならぬつくりになっており、美しく出来上がったカレーを一皿一皿、先年ご退任なさった白髪の大学教授をはじめ、学士修士博士の十数人が各々しずしずと捧げ持ち、行列を成して運ぶという浮世離れした不思議な「賢者のカレー行進」風景が大泉学園住宅街に出現する運びとなった。

これがカレーを捧げ持つオレである。

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で、カレー。
その日体調不良であった方が、そのカレーを食べたら具合がよくなってしまったくらい霊験あらたかなカレーであった。うまかった。付け合わせのサブジとか漬物とかパパドゥとかも完璧で、食べ方の詳細な説明も行き届いていた。

具合がよくなってしまった方の報告を受け、「カレーは薬膳だから。」という激しい重みをもった納得の言葉が漏れ、「カレーは薬膳。」「カレーは薬膳」「スパイスは古代の薬」と、その日は森を駆け巡る木霊のように伝言ゲームのように賢者たちの言葉は反響し続けた。

…大学の先生とか区議とか支援活動とか、なんかね、意識高い系というかとっても前向きでものすごくまじめで賢くて眩いひとたちばっかりで、それなのにワシ恥ずかしげもなくべろべろ頭に浮かんだまま楽しく話垂れ流して生意気に楽しく議論して、楽しかったけどちいとアカンなあと思ったのであります。

まあね、もう何にも怖れるべきことはないんだけど。

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「森へ行きましょう」補遺(おまけ蛇足)

留津が小説家となることの意味についてもう少しあれこれ考えてみたんでおまけ蛇足ね。

前回「森へ行きましょう」レビュで私は本作品における「書くこと」の持つ意味の可能性についてこう書いた。

 *** ***

人生は、生きた世界は、そのまるごとが所詮はRPGの中で皆で演じている物語世界である、というリアリティの欠如の感覚(中略)と書くこと(物語)、のかかわりである。

これは留津が小説家になることと関係している。

「書く」「読む」その「物語行為」によって閉ざされた牢獄としての「たった一つの自己、そしてその人生」「外部の物語によって規定されたアイデンティティ」から救済され解放された、まさにそのこと自体が、反面として己のたったひとつの人生のリアルを失っていった、その「人生の森に閉ざされた一物語の一登場人物として迷い続けている自覚」ことと表裏の関係であることを示している。

直結しているのだ。

超越目線を得ることによって、「書く者」はたった一つの息苦しい人生の牢獄から救済され、解放され、そして逆に言えば、その苦しみのリアルを失うということになる。これは、換言すれば個の枠組み、アイデンティティの崩壊を意味する。分岐する自己の無限の森。個からの解放と個の崩壊。その二重構造の狭間を揺れ動きながら生き続ける、それが「書くこと」の本質を指し示す。この表裏のダイナミクスの構造は、この作品それ自体の、「物語」を考えるための大きなテーマであるといってよいと思う。

 *** ***

この構造からくる留津の気持ちの変化は、本作品の以下の引用箇所に如実に示されているものだ。

p480 夫殺しの瑠通(小説家留津からの分岐)(書かれる者)が己をミステリー小説の中の主人公と感じる非現実感の中で、愛する夫俊郎の死体の処理を続けるシーン。

「自分が、まるで誰かの書いた小説の中の主人公のようだと、瑠通は感じていた。(中略)今自分は、自分の書いた小説の中にいるのかもしれない。/なるほど。これは、小説の中のできごとなのだ。もしかすると、あったかもしれないこと、でも、現実とは異なるできごと。」

瑠通は、ここで大層安心するのだ、そうだ、これは結局誰かの書いている物語の中なのだ、こんな怖いひどいことは取り返しのつかないたった一つの閉ざされた現実なんかじゃない、と、心安かに愛する夫の死体の解体作業を進め、愛する人のその死んだ体のうつくしさに恍惚とする。

これに呼応して留津(書く者)。

p499「小説の中の架空の世界こそ、留津にとってはもっともリアルな手ざわりのある現実であるように思えてしまうのだ。虹子を育てたことも、タキ乃との嫁姑の確執も、俊郎との間のもろもろのゆきちがいも、まるで絵空事のように、今では感じられてしまう。/小説を書いている時、妙な言いかたなのだけど、/「自分は生きていないんじゃないか」/という、不思議な感覚に留津はおそわれることがある。/今書いている小説の中のことが、あまりに色鮮やかに感じられるので、外にいる自分の方が何かの物語の登場人物にすぎなく思えてくるのだ。」

書くことと書かれることの決定的な質的な違い、という境目の感覚が失われ、自我の枠組みは崩壊し、あるいはそれは無限に拡大する。すべての境界線は融解してゆく。憎しみも、愛情も。

所詮現実といわれているのものも、ひとつの、ある文化圏の中である人々が共通に感じている論理の物語性の中に構築されているひとつの約束事に過ぎない、出来事を意味づける一つの誰かの決めた恣意的な論理の中のこと、誰かのかいた物語の論理の中からくみ出された感覚に過ぎない。それならば、どの物語にしたって差異はないのだ。真理、あるいは虚無、この世の外側のマトリックスから人が構築してゆく等質な物語群の一つに過ぎない。物語の森の中。

…それならば。
(これはまったく根拠も説得力もないんだけど、ちょっとした論理ゲームね。)

もし、この「森へ行きましょう」という作品自体が、留津の書いた小説だとしたら、という設定について考えてみたりしまったりするんである。これはただちょっとエキサイティングでスリリングな考えで、思いついたときちょっとわくわくした。最初に出てくるルツが最初の留津の想像した己のもう一つの姿であった、という設定。それを己自身の人生と同じ地平、次元で語ってみせる。あり得た自分、あり得た人々の姿。あらゆる可能性は「現実」と等価である。ここには、キリスト教でいうように実際に殺してなくても殺すことを想像しただけで既にそのひとは殺人者なのだ、という発想と同じ論理がある。

…迷宮の度合いは高くなる。どこが語られる次元でどこが語る次元なのか?夢から夢へ、夢から覚めた夢を見続ける悪夢のように反転し続ける世界。「ここは夢の中だ。お前は私が見ている夢の中の登場人物だ。」と言われて混乱する不思議の国のアリスのように。己の立っている地平自体がぼろぼろと崩れてゆくこの底なしの虚無の恐怖。

どこに覚醒した「ほんとう」の自分がいるのか、「ほんとう」の世界が「現実」の世界と自分があるのか、そしてそもそも現実とは、リアルとは、いったい何なのか。

考え続けなければたやすく他人の物語の牢獄に飲み込まれ権力に飲み込まれ個はぼろきれのように消費される他者のゲームの駒となる。

それは、己が選び感じ構築しつづけなくてはならないもの。「現実」とは、生き方とは、世界の構築作業のスタイルの別名なのだ。

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「森へ行きましょう」川上弘美

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最近、長編を出すごとに常にさまざまな新しい冒険、実験をしているように思える、安定したスタイルに安住しない、生きた作家である、ってことなんだろな。

当たりはずれ好き嫌いあるだろう、私は個人的には初期のものが一番好きだし、「大きな鳥にさらわれないよう」的なものが好きだし、いわゆる「女性」を色濃く打ち出したこの系統は必ずしも好きなスタイルではない。けれども、必ず心動かされるところがある。やっぱりすごいな、現役であり続ける生きた作家であるんだな、と思う。そして、やはり思う。あらゆる意味で、女性作家の真骨頂である、と。

しかしねえ、コレ、読後感は、あまりにも寂しい。ほろほろと苦く、救いのスタイルのように見えて救いには感じられない。今までなかったほどのこのがらんとした寂しみはなんぞや。もしや今のアル中廃人酔生夢死思考停止感情停止サイコパス状態の私の個人的な問題なのか、…イヤ、この作品自体に何かその原因がある気がする。もう少し寝かせておかないとわからない。

 *** ***

さて、本作品は、基本、パラレルワールドのふたりのRuth(留津とルツ)の一生が交互の章立てで描かれてゆくスタイルをとる。

登場人物が微妙に重なりかかわりを持つような持たないような二つの世界。奇妙な味わいだ。

ボレロラヴェル)の旋律。どこか重なりながら、繰り返すようでありながら繰り返すことなくらせんを描くようにしてズレながら変奏されてゆく底なしの宇宙に迷いこむあの曲の迷宮感覚に似る。

二人の人生がスタート地点から異なるものでありながらも同じ名と両親をもつ登場人物であることによって混乱を生みだす仕組みである。(登場するキャラクターたちも同一なようでどこかは重なり、どこかはズレている。性格、人間関係、出来事それ自体も根本的に異なっていたり或いは真逆であったりする。)(ルツは難産、理系、母を疎む、留津は安産、文系、母に疎まれる。)人物、出来事、そのすべてがどこか重なりながら必ずどこかずれている。多重世界。(この人は、状況によっては「このようでもあり得た」人なのか?) 

最後の方になってくると、あまりにもたくさんに分岐したRuthワールドで収拾のつかない混乱と混とん、すなわち「森」という混沌としての世界、たくさんのブレた世界像がそのまま投げ出され畳み掛けられ、素描のようにしてきれぎれに短く描写されてゆく。それはあたかも、読者が世界を鳥瞰し管理する神様のモニター室でたくさんのモニター画面を眺める管理室にいるかのような気持ちにさせるものだ。

或いは、RPG。人生の分岐点で「もしこちらの道を選んでいたら。」「こうしていたら」人生はこうなっていただろう、というたくさんの「あり得た世界」のパラレルワールドを俯瞰するRPGのコントロールルーム。

そう、この作品では、そのはじめから、語られる何もかもが、どこか未来からの視線を、すべてが終わった後の、すべてを鳥瞰した超越者としての作者、いや語り手の視線を感じさせるのである。このような語り手の意識的な出しゃばり方も今までの彼女の作品にはなかったものだ。特に後半に色濃くなってゆく、がらんとした寂しさのようなこの読書感覚はこの辺からくるものかもしれない。(「このとき、留津にはほんとうはやり直すチャンスはあったのだ、気が付きさえすれば、」というような「終わりから後出しじゃんけんをしてみせる余計な語り手の主観」。今まであえて川上弘美が避けていたのではないかと思われるほどのその陳腐さの解禁。)(世界の「森」の外からの「天の声」の視線。)

ということで、読後感は、(とりあえず今の私には)非常に寂しい。人生は、生きた世界は、そのまるごとが所詮はRPGの中で皆で演じている物語世界である、というリアリティの欠如の感覚だ。なにもかもが終わった後の世界の終わったその果てにがらんと放り出されている虚無の場所にいるような気がするのだ。突き放した視点、陳腐なほど語り手の主張の出しゃばるこの上から目線の「天の声」。それはがらんとした虚無としての真理の超越時空、「森の外」。

…そして、このリアリティの欠如と書くこと(物語)、のかかわりである。

これは留津が小説家になることと関係している。

「書く」「読む」その「物語行為」によって閉ざされた牢獄としての「たった一つの自己、そしてその人生」「外部の物語によって規定されたアイデンティティ」から救済され解放された、まさにそのこと自体が、反面として己のたったひとつの人生のリアルを失っていった、その「人生の森に閉ざされた一物語の一登場人物として迷い続けている自覚」ことと表裏の関係であることを示している。

直結しているのだ。

超越目線を得ることによって、「書く者」はたった一つの息苦しい人生の牢獄から救済され、解放され、そして逆に言えば、その苦しみのリアルを失うということになる。これは、換言すれば個の枠組み、アイデンティティの崩壊を意味する。分岐する自己の無限の森。個からの解放と個の崩壊。その二重構造の狭間を揺れ動きながら生き続ける、それが「書くこと」の本質を指し示す。この表裏のダイナミクスの構造は、この作品それ自体の、「物語」を考えるための大きなテーマであるといってよいと思う。

 

己が人生の森、世界の森の混沌に迷っていることのこの自覚を、ここに提示された一つの救済のスタイルをどのように受け止めるのか。それはラストシーンから、その先の思考を読者の人生に投げ渡されたものとしてある。

 

 *** ***

…Ruthとはなんなのか。

ある任意のひとりの女性の、その一生の「集合体」。
運命と理不尽に翻弄されるあらゆる女性の姿、けれどその中で何かを意志的に選び取ってゆく、そのあらゆる女性の姿。旧約聖書の「ルツ記」のルツが好きであった母・雪子が名付けたこの名の意味するところなどはこういうところか、などと考える。

運命に翻弄されながら、意志を以て運命を選び取ってゆく、己の神エホバを選び取ってゆくルツ。

この作品に描かれるRuthが、その一生の中でさまざまな形で出会う理不尽とそれによる苦悩の描写は、そのいちいちがたくさんの女性の共感を得るだろう。「そうなんだよ、これだよ、ああ、わかる!そうなんだよ、この気持ち。ああ、これってひどいんだよね。」と。リアルで激しい胸の痛みと切なさ、やるせなさや寂しさとともに。共振して涙が出そうになることもあるだろう。ひとつひとつの出来事に対していちいちずぶずぶと感覚世界に沈み込んでゆくような独特の感性を持つ深い考察、ストーリーテラーとしての、その感受性の濃やかさ、それを拾い出す言葉、その描写のたおやかさ、その才能である。

さまざまな男たちの身勝手さ、幼児性、残酷さ、冷酷さ、甘え、俗物性、卑しさ、理不尽に振り回される恋。同時にままならない己の中の感情の混沌、衝動、その理不尽。(ゲイである気楽で誠実で辛辣な友人・林正樹のキャラクターがここでその男たちとの対照として素晴らしく効いてくる。)

母親との確執、恋愛、結婚、不倫、娘との確執。舅や姑との関係性、お金の問題、生き方の模索。「女性の一生」オンパレード。そして女友達(およびゲイの友人)とのそれらを語る共感、女子会的トークの洗練。(これは「これでよろしくて?」で磨かれてるよなあ、川上弘美による「女子会トーク」描写の振り切れた素晴らしさったらモウ。)

だが、この作品、逆に言うと、絞られるテーマがない。だらだらと一生を、出来事を追いながらその場で感じたことを語るだけ、というような印象もある。

…言ってしまえば、そのテーマとは混沌そのもの、女性の一生のさまざまを優れた情感と筆致で描写し、あえて混乱を混乱として描いた、その混沌としての「森」なのだ。タイトルの所以である。常に、迷っている。

この、濃やかな感性によってではあるが、ただ漫然と描かれてゆくような二人のルツの人生の進む風景を描き出す作品の中で、しかし一つの結節点がある。

ルツと留津41歳の章、微妙にずれ続けているパラレルな二人の物語の中で、唯一、ビシッと意図的にハマる、一致するこの章の最後のシーンがこの作品のその重大なターニングポイントである。異なる文脈でありながら、双方が己を「まぬけ」という文字に書き留めるシーン。

ルツは、決して報われない己の不倫の恋の悲劇を思い知らされることによって「森の中をさまよう人生」を自覚した己を発見し、留津は今までの自分の人生を、やはり「森の中にさまよいこんで、いつまでたってもでてくることができないでいる」ものとして自覚し、その己自身のばかさかげんをあざ笑いながら夜中にひとり、部屋で特大フォントで打ち込む。

「まぬけ」。

この「まぬけ」というひとことを言葉にした瞬間。

エクリチュールの発見、己を突き放し客観視する視線を得る、「書く行為」その救済と開放の発見である。高ぶる感情に泣きそうな気持になりながら衝動のままに今までの己のばかさかげんを発見自覚しながら書き連ね続け、やがて笑い出す留津、このシーン。己の人生まるごとをただ罵り嘲り笑いのめすこの行為。

書くこと、物語による救済の発見である。(そして留津は小説家としてデビューすることになる。またその成功によって愛人を失い、夫との異なった関係性を得る。)

 *** ***

(こないだちょっとメモしたことね。「なめとこ山」んとこで)
川上弘美新刊「森へ行きましょう」も、浮かび上がるテーマは「書くこと、物語」による人生の救済であった。すべて取りかえしがつかない、生まれたとき持っていた、無限の可能性、あらゆる可能性の豊穣な世界を分かれ道でひとつひとつ切り捨てながら選択してきたたった一つの道しか歩めない人生の。《泉鏡花の「由縁の女」や村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に通ずるテーマである。過去に見失われてきたもの、失われてきた可能性とはこの一生にとって、世界にとって、そしてこれからを開くためのその未来にとってどんな意味を持っているのか?》」

或いはそれは破滅に向かい、あるいは再生に向かう。
それは逆方向であるが、どちらでもいい。ただ、ナンデモアリ、ということだ。何故なら、破滅にしろ再生にしろ、それが真逆の方向性であったとしても、ただここでの問題はその分岐された可能性の無限、すなわち世界の豊穣を現前させる構造の認識である、というところにあるのだから。

 *** ***

もうひとつの大きな分岐点は、留津が八王子との浮気の肉体関係に踏み込むか踏み込まないか、のとき現れる「流津」の章の分岐派生のあたりにある。(「留津」は心の中だけで八王子を慕い、鏡に向かう。と、その向こう側に既に八王子との関係に一線を越え踏み込んだ「流津47歳」の章が現れる構造である。)

このとき「ルツ」の方では夫・俊郎への軽蔑も嫌悪もすべて拭い去った透明な気持ちになった次に現れる、愛する夫・俊郎を殺した「<瑠通>50歳」の章があらわれている。

…個の分岐点、だが実は最初にルツと留津の二章立てからひそやかに分岐した本当の結節点は、もう少し前、2011年の震災という特異点である。その震災のときルツは不倫相手田中との決定的な決別を予感し(田中は家族とルツでは家族をとる、と明言。)、さらには近々の両親との別れを予感する。これは「家族(制度)」がテーマである。

そして留津はといえば、このとき八王子と再会し決定的に心を通わせる「デート」をしていた。夫と愛人と引き比べる「純愛」がテーマである。

これが分岐の最初の結節点であった。震災という「死」を目の前のリアルに見たときにルツと留津に見えはじめる、異なった可能性の分岐した世界像たち。

…翌年2012年から現れたのは、「ルツの章」からの分離としては、父を亡くしたあと、母の支配を疎ましく思い、田中(実際のルツの不倫相手)をも最初から疎ましがる、すべてのしがらみの制度から解放されようとする孤高の研究者「るつ」。

そして「留津の章」から分離したのは、俊郎を心から愛しその妻の存在を知りながら日陰者としての不倫行為をつづけていた純粋に俊郎を愛する「愛人・琉都」である。双方が、鏡の裏表のようにふたりのRuthのもうひとつの心の表裏を描き出し、異なる可能性の分岐点、パラレルワールドの次元が開かれてゆく。

…ここからは、怒涛のラスト。既にルツたちの森はもうあらゆる可能性の森、その多重世界、パラレルワールドの錯綜する混沌の森である。

これが、終わったもの、外側から鳥瞰される森の中のモニターに映る、ひとつひとつの風景としか描かれないような印象をうけるところなのだ。後日譚、のような。

俊郎との間に生まれた娘・虹子によって語られる、50歳で死ぬ、結局家族に愛された姿を残す「る津」、結局一人で研究一筋に老後を生きる60歳の「るつ」、俊郎を愛しながら結婚しなかった60歳の「琉都」。etc、etc。

それぞれのRuthがそれぞれの人生の終わりをゆく姿。

…突き放している。

 *** ***
…やっぱりなあ、ちょっと寂しい。体温が低い。角の立った、理屈の勝った作品、な気がするんだな。

ラストの一文は、留津の娘「虹子」のいないルツの世界で、夫に裏切られながら気が付かない、60歳のルツが、決して自分を裏切らない愛犬「虹」を連れて散歩に出る朝のシーンである。混沌の人生の愉悦を感じながら。

「今日もいい天気である。」

 

そうだしかし日々は、(大切なことは)ただ、これなのだ。多分。

「なめとこ山の熊」読書会行ってきましたメモ

こないだの五月の週末。

迷っていたんだけど、結局頑張って出かけてまいりました。遥かなる練馬区「なめとこ山の熊」読書会。

久しぶりに快い緊張感のある議論、思いがけないその深まりと広がりの場所。やはり賢治は面白い。たくさんの視点を提供されていくらでも膨らむテクストは面白い。世界を深くしてくれる。

システムの中でなく義務でなく報酬もなく、日々の忙しさの中、手間とめんどくささしか生じない自主的なイベントどっこいしょと立ち上げて読書会やろうなんて場である。

こういうとこがもっとも自由で最もピカッとしたやる気のある議論がなされるとこなのやもしれぬ。好きである、考えたい、というただその純粋な欲望だけで同志が集いなされる場、という現象、そのコトから生まれるモノ。ナンデモアリの場所から出る乱世の言葉。

…ということで、この日私の頭の中では、なめとこ山の熊と川上弘美萩尾望都、読了したばかりのものたちがぐるぐる思考の靄となって渦巻いていた。一つ一つを割り箸でくるくる回してゆらめく思考を巻き付けて言葉の綿菓子にしていきたい衝動をそそるふわふわした靄。このままでは形にならないまま雲散霧消だ、失われてしまう。アカン。

でもそれは「なかったこと」にはならない。思考の地層に積もっていくものだ。きっと書こう。できる限り掬い上げよう。完全に失われる前に。
(「書き留めておかないとその日は『なかったこと』になっちゃうんだよ。」と言われて日記を書き続ける主人公の小説の、内容は忘れちゃったけどこの言葉のことはよく思い出す。言葉でなくてもいい、存在した証は人によって様々な形をとる。)

もっちゃいないと思うんだ、失われる考えというものが。言葉よ、言葉よ、と私はしがみつく。(川上弘美新刊「森へ行きましょう」も、浮かび上がるテーマは「書くこと、物語」による人生の救済であった。すべて取りかえしがつかない、生まれたとき持っていた、無限の可能性、あらゆる可能性の豊穣な世界を分かれ道でひとつひとつ切り捨てながら選択してきたたった一つの道しか歩めない人生の。《泉鏡花の「由縁の女」や村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に通ずるテーマである。過去に見失われてきたもの、失われてきた可能性とはこの一生にとって、世界にとって、そしてこれからを開くためのその未来にとってどんな意味を持っているのか?》必ずしも名作とは思わないけど、好きな作品でもないけど、やっぱりこの人の感覚、感性にはかならずどこかひどく共振するところがある。作品の目指す祈りの方向が見えるような気がするんだ。)

で、記憶を掘り起こしながらなめとこ山、考えるためのメモ。

 *** ***

会のメンバーは、高校の国語の先生たち四~五人が中心、そのお子さんお二人、後輩君のお連れ合い。アットホームなサロンである。おおきな木の机と椅子、おざぶ、お茶とお菓子。本棚にはぎっしりの本。季節柄アラジンのストーブなんかはないけど、なんとなくちょっと賢治の羅須地人協会の雰囲気。

進行役のリーダーの先生は、ロマンスグレイの紳士である。
小学生の男の子ふたりも立派なメンバーの一員。朗読や議論に加わる。…てゆうか彼ら(いや五年生の方はもう結構大人なんだけど、下のお子さん、小学校二年生くらいか?)かなり自由にいごいごと動き回って遊びながら思いついたまま自由に発言で、で、とにかくこの発言を大切に拾い上げる雰囲気を拵えるのがリーダーの才覚である。こういうのが本来賢治の描いた羅須地人協会だったのかもしれないなあ、とちらり。(私はどうも子供、というのに慣れないのでちいと違和感を感じてはいたんだけど。大学のゼミとかでビシっと議論の作法レヴェルを統一してやりたいなあってやっぱり思っちゃったんだけど。まあ慣れ、というのと、この場所にはこの場所だけのもつこの多様性そのものの素晴らしさ、ってとこだろうな。)(そして実は私はこの子供の立場にありたかった。遊びながらこの場を思い出に刻みながら母親に守られながらわかったりわからなかったりするお話に参加する。思うままにしゃべって大人たちがそれを認め喜ぶ。守られいる、愛されている。お茶をひっくり返してお茶碗割っても悪びれもせず怒られない。)(いやひとんちのお茶碗割ったらやっぱりもう少し悪びれてもう少し怒られてもいいと思ったけど。ワシは。)

朗読の後、まずそれぞれが自由に思ったことを言ってみろの時間。テクストから、さまざまの論点が表出される。どうして熊は自分たちを狩る小十郎が好きなの?どうしてなめとこ山の熊のことを作者は「おもしろい」っていうの?方言と標準語はどう使い分けられてるの?ラストシーンの意味、小十郎の死を神として祀る熊たち、ここといわゆる「イヨマンテの夜」との共通点と相違点は?荒物屋って悪い奴?なんの象徴?自然と人間界の分け方は?自然を<資源、価値、恵み>のどの視点からとらえるか、すなわち贈与と交換、という図式はここにどう関係してくるのか?資本主義の功罪、命のやり取りとの関係性は?出てくる地名は果たして実在か?

後輩君、この直前にFBで矢野智司「贈与と交換の教育学(漱石、賢治と純粋贈与のレッスン)」に夢中になったらしく投稿していて、そこはかとなくそのテーマに引き寄せられた議論になったりする。…すごく面白くなる。(イヤこの本、取り上げてる素材が漱石と賢治ということで。で、とにかく何しろこの後輩君とは前世が姉妹だったというくらい趣味嗜好の方向性が似ているので、ものすごく興味をそそられてしまって私も図書館で借りてきてしまったんである。今ちびちび読んでいる。これはできたら今度読書記録記事にしてみたい。言わせてもらえば既に滅法おもしろいのレヴェルである。)

それぞれの問いにさまざまな角度からの答えの可能性の提案がやってくる。
多角的な視点は言葉の意味を新しい関係性の中に立ち上がらせ躍動させる。テクストの世界は、広がる、有機的に。議論のひとつひとつは、そのひとつひとつが青く明滅する思考と存在のひかり、その議論の時空に総括されるのは有機交流電燈としての私たち。(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

私の考えも変容してゆく。一人の思考の中に拘泥し沈潜していたときではなく、他者の言葉、思考のポリフォニイのその有機交流電燈の交感の中で、初めて見えてくる論理への興奮、新しい言葉。おもしろさとはそういうことだ。(それはもちろん一人の中で、書物との対話の中で醸成されてくるブツと同構造で生まれるものではあるのだが。次元を一つ繰り上げて。)(そのときしかし「自己」とは、たくさんの思考の因果有機交流電燈の明滅する「場」に過ぎないものとなっている。基本、構造は同じなのだ。一人の中で起こるのか、多数の間で起こるのかの違いはあっても。)

…とりあえずね、最後のあの祀られる小十郎のシーンについての新しい考えの可能性に皆の言葉によって至ったように思ったとき、私はなんだかすこし嬉しかった。

…あのシーンは、「祈り」である、と。決して結論に行き着けないテクストの、時代を超え、常に考え続けることを要求するこのテクストの、物語からいったん切り離された、ひとつの空虚なイデアの指標としてある、と。切り離された独自の、別時空として描かれている祀られた時空。それがこのようなうつくしさであることの重大さがこのテクストのひとつの未完の完成形である、と。

これだけで終わってしまうのもっちゃいないな。やっぱり。記録係になりたかったけど、やっぱりもうだめだな。どんどん忘れてしまうのだ。頭に思考の記憶の雲が濃く漂ってるうちじゃないとアカン。

だから、このメモは、メモ。
でも無駄じゃない。今まで考えてなかったとこからの賢治への手掛かり。寝かせておけば別方向に吹き上がって形になるかもしれない。

今読んでる件の本にも結び付く、きっと。

 *** ***

…この日は何しろあれこれのコンディションが最悪で、おまけに体調のせいでまさかのバス酔い状態であったのだけど。

まあとにかくでもやっぱり頑張って行っておいてよかったということであるよ。

日曜日

きれいに晴れたいい日曜日だったので、夜、久しぶりに「日曜夜」と名付けたプレイリストをかける。

ヤレほんとに久しぶりだ。ちょっとほっとした。
ワシは繰り返される日常の安心感が好きなので、毎日、毎週、日々が平和に繰り返されることの儀式の感覚が好きなんである。

入ってるのは、アームストロングのこの素晴らしき世界、とかレナード・コーエンのハレルヤ、キヨシロの500マイル、とかなんだけどね。

あと、録画していたアメリカ映画なんかを観る。
CHEF。

ノリノリでイージーでハッピーなアメリカ映画である。
いやあ楽しかった。ちいと下品なのが気になったが、天才三ツ星シェフが拵えるメニューもやたらと不健康でシェフは肥満体すぎではあったが、人情てんこ盛りイージーハッピーダンサブル、みんなで踊りまくっててとびっきり楽しかったなので許した。やっぱり映画はイージーでハッピーなのがいい。

ワシはイージーでハッピーでシンプルなのが好きだ。
基本、イージーでハッピーでわかりやすくて脳内お花畑な人間だからだ。

だからイージーでハッピーじゃなくてわかりにくくてお花畑じゃない世界はさっぱり理解できんのだ。

どうして世の中みんなエラソーに小難しい小理屈並べてそのくせ結構おバカな議論とかで本末転倒みたいに喧嘩したりしててやたらとめんどくさいのだろう、ホントヤーネー。

 

こないだ友人M子と国分寺のケーキ屋で、なんでこう人生めんどくさくてよくわかんないおバカで難しくてあじきなくて残酷でかなしいことなんかがおこるのかねえって話してたら、「やっぱオスザルは種馬的にシーズンだけ招いて、あとは勝手にオスザル同士で戦争とかマウンティングとかさせて自己満足させときゃいいんだよねえ。後はメスザルだけで平和にがっちり暮らすの。そういうサル社会ってあるんだって。やっぱこれだよ、人間もコレ。…私感動してサル山絵葉書買っちゃったよ。」というよくわからないようでよくわかるようなやっぱりよくわからない反応が返ってきた。

どうしてサル山の絵葉書を買うことになったのかワシにはさっぱりわからなかったが、そしてそのケーキ屋のケーキは決して評価できるものでもなかったのだが、山小屋風カフェとしてとっても居心地がよくって、とりあえずやたらと可笑しくて楽しかったのは確かである。ケーキ談義も熱く盛り上がったしスイーツ男子SNSサークル集団らしき組織の集会なんかも目撃できた。

…しかしホント世の中もうちょっとテゲテゲでユルユルでハッピーでイージーにならんもんかしらねい。
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「4ミリ同盟」高楼方子

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こないだの日曜日、五月の昼下がり、陽だまりの図書館で。

このときの私の心にしみ込んでこれを救ってくれたのは川上弘美の「このあたりの人たち」ではなくてこちらの方だった。高楼方子さん、期待を裏切らない。

川上弘美さんの相変わらずの不思議な味わいのこの短編集も好きなタイプで、これはこれで十分に素晴らしいんだけどね。これはこんな日曜日に一気に読むよりも、ウイークデイ、ルーティンの日々の中で、一日にひとつ、ふたつ、と精神をコンディショニングするために使う読み方が正しい、ような気がする。ほろじょっぱく苦味の利いた大人の味がするから。

高楼方子さんはそのまんま童話、児童文学。小さな人たちに世界のうつくしさを贈るために書かれたお話。
私はここで戻ることができる。ただひたすら贈られていたころに、その力の源泉に。

濁りを含まない、透き通るように美しくてほの甘い菓子の記憶のようなところ。澄んだ夢のままの、その優しい光の源泉に。
(あるいはそれはなべての濁りを原初の光の中に包み込んでしまう意志と祈りの場所。)

でもだからこそ、大人の心はピュアで優しい甘さをきちんと内側に封じ込め、宝物のようにそれを濁らせぬままに奉じ祀り、そこからすべての荒々しく苦く辛く濃く暗く鋭いものと遊び楽しみ戦う力を得ることができるのではないかと思う。絶対的に愛され無条件に愛されただ育まれていた、幼いころの注がれたその愛の記憶のように、精神のセイフティ・ネットを形成する。何人にも穢すことのできない場所。

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きちんと身なりを整え真面目なサラリーマン生活を続けてきた48歳独身一人暮らしポイット氏、黒縁眼鏡に隆としたスーツが似合うしっかりもの、夫も子供もいる平凡な家庭の主婦、エビータさん、そして威厳と風格を備えた白髪の紳士、画家のバンボーロ氏、最後に子供向けの冒険物語の大好きなワガママおばあさん、コロコロ太ったコロリータさん。この4人が4ミリ同盟の仲間である。

この地方独特の、オトナになると、必要が生じるとその島に呼ばれて食べられるようになるという「フラココノ実」がキイ・ワード。この設定が素晴らしく楽しい。そして一旦大人になると、定期的にその実を食べなくてはいられなくなるのが日常となる。

大人になる、というイニシエーションなのだ。
「やさしく切ない、遠い夢のような味のする実」。
そしてまたその実を食べることは、自分の中の<何か>を消してしまうことになると言われていた。

で、まあこの4人というのは、大人でありながらフラココノ実を食べることができずに生きてきた稀有な人々であり、そのことを気にして隠して生きていた。それは普通ではないことだからだ。

4ミリ同盟、というタイトルは、このフラココノ実を食べていない4人が、実は常に4ミリだけ地上から浮いて生活していた、というところに由来する。(「地に足がついていない。」ワケだね。)そして、各々が自分は大人としてしっかり普通に生きていると思っていたが、それぞれが少しずつへんてこりんに子供であるという特徴をもっていたんである。その描写が楽しい。いい大人の紳士のはずのポイット氏が店ではきどって珈琲を飲むが本当は生クリームのたっぷりのった甘いココアが飲みたくて仕方がなかったとか、コロリータさんが子供の本に夢中になる様子とかね。そして、この4人が集うとき、子供心の楽しさがあふれ出す空間が描かれる。

「<何か>を得れば、<何か>を失う。要するに、人間は、いつだって<何か>が欠けているものなのです。」バンボーロ氏の描く不思議な抽象画は心にひゅうと響き、眺めているとポコポコと弾むような音楽が聞こえる。批評家たちはその独特の魅力を讃えながらも、必ず「何かが足りない。」と評する。


けれど彼らはやはりどうしようもなく強い大人への憧れ「フラココノ実」への憧れを捨てることはできない。失うことの恐れと憧れという両義。

この4人が、いよいよフラココの実を食べるときのシーンとは、失われるかけがえのない子供のときの思い出を味わうシーンである。優しく切ない、遠い夢。そのとき彼らはポコポコと響く楽しい優しい音楽を聴く。

「食べ終えると同時に、その光景とその思いは消え、あの調べもまた消えていった。」
これが失われる「何か」である。

…でね、結局彼らはそのどちらも、否定されないところに行き着くのだ。ネタバレだからナイショ。大人になること、共同体に参加すること、そこから逃れていること。

いつだって本当は、ひとはそのアンビヴァレンツを同時に生きていなくてはいけないのだ。できれば、こんな楽しい物語の形でそれを感じていたい。

…大人になること、その周りを巡る物語である。
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