酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

男子フィギュア・羽生結弦選手

普段まったくスポーツは観ないクチである。

オリンピックにも興味はない。(スポ根は嫌いである。その美学が基本的に嫌いである。極めて不健康だからだ。)(「あしたのジョー」の不健康さを見よ。)(戸塚ヨットスクールとかさ。)(セクハラやパワハラ、イジメ、ドーピングの蔓延、中国の美学纏足を思い出させる生物としての人間の奇形を生む権力構造、精神的土壌がそこにはある。)(美学の衣を着て正当化され隠される浅ましい卑しさや信じられない残虐さ。)(子供の頃は「ドカベン」とか「エースをねらえ!」とかそりゃまあ夢中になりもしたがな。)(美学のためなら死んでもよい、とかそういうのいやである。)(…そういう方が人間として幸せかなとは思ったりもするけど。)(美学に生きる、ということ、そんな風に生物として奇形であるのが人間というものやもしれぬ。究極のイデアとしての肉体美が本来の生物としての肉体の自然の破壊であるかのような。)(しかし基本そういうのって、ファッショや戦争に通じてゆく阿呆ぶりとしての本質を感ずる。)(イヤそういうの好きでやる人はいいんだけど、そいでそれが己だけにとどまるもんであるならばそりゃものすごく尊敬もするんだけど、ただそういうのが周囲のあれこれによって社会的なお手本になるとかがやなんである。)(自己犠牲の強制とかさ、モラハラに通じるんじゃん、って思うんである。)(強者が正しいとか勝ち負けがすべてとかそういう風なのが美学になるのがやなんだろな。)強いて言えばちょっと興味があるのは開会式、国の威信をかけて趣向をこらした豪奢で華やかなショーくらいなものである。

が、さすがに何というか、男子フィギュア羽生選手。
単にみてて美しくて楽しいしな、競技としての緊張感まで合わさってたりして、同じ時代にこの伝説の英雄が、とかあれこれ思ってしまったりしてだな、単に周りの熱が伝染しただけかもしれないけど、やっぱりわくわくと録画視聴してしまったわけですな。

一位から三位までの演技しか見てないし、専門的な技のこともさっぱりわからんのでアナウンス聞いて、はあはあ、これが四回転なんちゃらで…とか頷くばかりである。

が、専門家のような、選手に共振し、身体性を伴ったような深みのある楽しみ方はできなくても、素人には素人なりの、素人でしか見ることのできない「そとづら眺める」的な鑑賞、そして外側から見る時しか見えない、技術面や苦労の水面下、その美学を無視した、人間的なドラマを離れた客観物としてのシンプルな美、そのフォルムやイデア、魂だけを逆にピュアに感動的に感じることができる、という面もあると私は思う。漱石のいう芸術の本質「非人情」とはそういうものではないだろか、とかね。

例えばそれは、国を知らぬものが観光旅行で異国情緒を感じることと、その内面を知るものがその国のトリビアルからトータルまでを生々しく感じることの違いだな。知ってしまうと戻れない。一旦言葉の意味を知ってしまうと純粋に無意味な音韻としての言葉を官能として感じることはもうできない、というような。

 

ということで、まあそういうレヴェルで言わせていただきますとな、…素晴らしかった、うつくしかった。どの選手もそりゃそうなんだけど、違い、ということを考えるとより一層楽しかったんである。

もうこのレヴェルで躍動する身体たちは皆が皆、驚くほど美しく、人体の動きというのがこんなにも小気味よく快いイデアに近くありうるのかと、日常のしがらみを離れた神の領域、芸術、ということを思った。

だけど、やっぱり選手たちには個性が、違いがある。今、羽生選手に金メダルをとらせ、何か他の選手とは違うものにしているものが確かにある気がしたのは何故なんだろうって門外漢としてあれこれ考えちゃったんである。要するに感動しちゃったんであるな、きっと。

人間ドラマやスポ根とは全く離れたとこでね。基本的に実は私としてはあんまり彼個人に、人間としては興味がない。立派過ぎて私には理解ができないのだろうとは思うんだが、基本的に直接話したことのない人間には人間としての興味がないのだ、自分。メディアを経てる情報はだれかのこさえた物語だから。

(大学院のゼミで、学習院の怖い教授に教えてもらった。「TVで選ばれた画像で拵えられた解説で実況中継された野球は既にその試合そのものではない。」と。変な怖い先生だった。「昨今の女の子たちは既にあんみつそのものを食っているのではない、『フルーツティラミスクリームあんみつ』だの『小倉抹茶ばななあんみつ』だのという言語情報を食っているのだ。」とかあのときは理解できなかったけどなんか言いたいことはわかる気がするんだな。バルトの「表徴の帝国」てとこなんだろかねい、とかさ。)

でも本当に素敵で素晴らしいとは思っている、皮肉抜きで。ニュースで伝えられてくる人物像ね。)

まず、センスである。
日本の誇り。対外的にも内輪に対しても、その国、己の生まれた国に対する愛を、誇りをまっすぐに誇らしく打ちあげようとする態度。それは己の容姿を最大限に活かす戦略としても成り立っている。すごい。

ワシは愛国心もなんにももってない人間であるが、それでも、愛国心とか誇りとかって、こういうとこから芽生えるべき美しい愛しいものである、って、なんかね、そういうこと思ったんだな、この国にこうして生まれたことの幸福は、この誇りによって成る、と。そしてそれは、よその国の同じ構造をも尊敬の念をもって認めることのできるナンバーワンよりオンリーワン伊勢丹のコピーに合致したものであったりしたんだな。キレイゴト万歳。

音楽は、陰陽師清明。衣装は、平安貴族の公達の身に着けていたものを思わせるデザイン。振り付け、動きにはたっぷりとその伝統芸能へのリスペクトが満ち溢れ、外国の人にはエキゾチシズムへの憧れを、日本人には、伝統古典芸能への誇りと己自身を含んだ民族としてのルーツへの尊敬と憧れと誇りを掻き立てる。

 二位の宇野昌磨選手と三位、フェルナンデス選手、彼等の演技と比べてみると、その個性は際立つ。

 正直、たっぷりとした豊かな情感、人間ドラマたっぷりはらんだようなラマンチャの男、余裕のあるエンタテイメント性の可能性を考えてゆくと、フェルナンデス選手の方が勝ってるんじゃないかと思った。大人の成熟した男の色気みたいな、ラテン系独特の。(苦手である。)技術的なミス抜かしたら、金銀銅の順番もころんとひっくりかえったんじゃないかしらんとか。(技術的なとこオレにはようわからんかったしな。)

ここがなんというか、お国柄、民族性の個性が露骨に現れてるとこのような気がして、すごくおもしろいと思ったとこなのだ。

これに引き換えくらべると、羽生選手はなんというか、ものすごくストイックなのだ。日本人が本来舞を神の舞、神にささげるために舞っていたという、そういう激しい精神性、聖性を感じさせる。人間ドラマとしてのエンタテイメントではなく。選ばれた曲や演出のせいではもちろんあるんだけど、このポイント、それこそが民俗的な日本人の特性であるんではないかと。

ひたすらに性を越えたところにいる神にささげられた巫女としての少年なのだ、鋭く、危うく、例えて言えば剃刀のような薄く激しく切れ味の鋭い、舞。

氷上を舞う少年神、男神。(そして演技後生贄として捧げられる無数のプー。)神、という言葉は宇野やフェルナンデスにはあてはまらない。宇野昌磨はくらべると、ひたすら技術に勝っている、というような印象を受ける。

…とりあえず、とりいそぎ、熱いうちに。
深夜の酔っ払いなのできっと滅茶苦茶なので、また文章きっと直します。

 

*追記

普段日本に厳しい中国のメディアでも羽生くんは別枠ヒーローみたいだね。(やっぱねえ、基本、こういうとこからじゃなかなあ、草の根世界平和。)中国国営放送の女性解説者は次のような自作の漢詩を詠んだそうな。

容顔如玉 容貌は宝玉のごとく
身姿如松 姿は松のごとく
翩若惊鴻 飛ぶ姿は白鳥のよう
宛若遊竜 まるで竜が遊んでいるようだ

…ファンなのネ。

このいかにも中国的に大仰な比喩表現、神話的ヴィジュアルなびろびろの大風呂敷っぷり、よござんす。なんだろうねい、こういうおセンス。どこまで真面目なんだか計り知れない大陸的感性とでもいうべきか。なんにしろ、日本人的に見れば、ひたすら可笑しくて可笑しくてだけどお見事で、こういうのただ笑っていられればいいなあ、とかさ。

おやすみなさい。

吹奏楽コンサート

姉の職場の吹奏楽サークルのコンサートに誘われた。
素人楽団の内輪な無料発表会コンサートでも、たまに立派なホールにでかけると心持ちとしてはちいと高揚したりする。いかにも晴れがましいお出かけな気分が出て、楽しいのだ。

玄関前まで車でお迎え嬉しいな。(姉は両親より運転うまい。)車内では母と姉とおでかけな三人女子会楽しい楽しい。

近くの大きな公園によって、カフェで軽くランチ。そこでモンブランを発見して心が揺れ異様に執着、ブツを凝視する私を見て、母が哀れを催したのか「おごってあげるから食べなさい、食べきれなかったら三人で食べよう。」などとあたたかい言葉で誘ってくれたが、ぎりぎりのところで踏みとどまった。イベントを重ね過ぎてはいけない。興奮のあまり知恵熱がでる。(モンブランは自分にとって大いなる意味を持った大冒険なイベントなんである。)

…ホール入り口は結界だ。

一歩入ると頭がくらり。世界の風景の色が変わる、この感覚。
内側が外側になる。その形而下の現象を受け取る感覚が、己の内的時空感覚と重なり連動して、よみがえる己の内側の記憶が一瞬にして眼前の世界に広がるのを感じる。それは、その場の「法(ダルマ)」を支配する感覚としての意味となってその場の世界を支配構成する。場の論理

…懐かしいのだ、この雰囲気が。
高校の頃、吹奏楽部だった。あのときの演奏会のことを思い出す。いろいろドラマな日頃の練習の積み重ね、いよいよ本番の緊張感、音楽室や校庭な片隅や、朝や放課後、地道に練習して来た成果が試される、立派なホールの晴れ舞台。高揚感。…仕事の終わった後や週末を全て費やして無理を重ねて来た情熱を持つ素人楽団の方々のドラマを思い、却ってこういう気持ちへの想像、感情共振のわくわく幻想が楽しめるという面もあったりしてね。

チューニング、総員のB♭音がひとつになって響く。そして静寂。

この、最初の一音までのこの緊張感。これがたまらない。
(因みに第一部は「展覧会の絵」だった。)

楽曲に包まれている間だけ立ち上がり開かれる現象空間というのがあるのかもしれない。ビリビリした生命力を孕んで躍動する時空。読書の現場と同じ原理だ。と、私は恍惚としてそこに己の言語空間をシンクロさせ続けていた。

…このときの、湧き上がる心のつぶやきをすべて記録しておきたかった。浮かんでは沈んでゆく音の葉の楽、思考と言の葉の樂。その内外の統合体として世界と一体化する己を感じる。

そうして、このままこの空間のまま、核爆弾がここに堕ちて、一瞬で世界が滅んでしまえばいいな、なんてことを考えていた。そうしたら永遠にここに生きているような気がするんじゃないか、っていう、そういう非日常芸術空間。イデアを創造するミメーシス、その祈りとしての儀式、芸術という構造。現象している間だけ実在する永遠の生命。

上がりきらないトランペットの音程も、微妙にずれて響いてしまったティンパニも、ときに気になるけど、それの完璧版を脳内にイデアとして補いながら、私の意識は演奏者へと飛んでゆく。彼等の身体に響くその身体性としての音が、その個が個でありつつ全体としてのハーモニーへと奉仕してゆく構造に、己が演奏しているその音が己を動かしている、その、支配被支配の構造に溶け合うようにして共振する。

これだ、西田幾多郎の「つつみ、つつまれる」関係性。あの理論の幸福とうつくしさのことを思った。

…まあね、そんなに集中力は持たないし、やっぱり興ざめしてしてしまう完全に練習不足な手抜き曲を感じると辛い。ちいとアンコール曲は辛かった。

ホールを出たときの感覚も好きだ。ぼうっとした頭のまま外界に戻って行く、表はまだ明るい冬の午後の陽射し、日曜日の公園。

ありがとね、お姉ちゃん。
やっぱりモンブランも食べとけばよかったかな。

栗子さん(命題その1 モンブランは神である。)

時は遡る。
実は、その事実が発覚したのは、すなわち栗子さんが自身が再びモンブランを実食する消費者になる、という概念の存在を、驚嘆すべきリアリティを以て己の心の中に確認したのは、その年の初めである。

それは天啓であった。
ある晴れた早春の日曜日、清新な大気の中にほのかな花の香り、街には優しいざわめき。柔らかくぬるみはじめた青空をふと見上げた時、冬景色にひんやりと凝っていた栗子さんは、胸の奥に一点、柔らかな異物を感じた。ほのかな青空のその彼方から降りこぼれてきた、何か。

まばたきをひとつした。

ほのあたたかい。なんだろう。それは優しい陽だまりの記憶に似たものであった。全く新しい世界の予感でありながら、過去に向かっていこうとする懐かしさの感情を伴っていた。封印されていたものがほどけおちる。栗子さんは、そこに身体性を孕んだ記憶への回帰衝動という四次元的時間軸を発見した。

動的側面から言及してみよう。それは逆ベクトルをもつ対立項の共時存在であり、一律に平面的な解釈によってのみ成立した閉鎖的直線状の時間軸の煮凝りを瞬時に煮溶かし、全く新しいなめらかな次元における時間軸を打ち立てる流動的ダイナミズムをもっていた。…視覚的構造的側面からとらえてみるならば、そこには重なりながらずれてゆく螺旋の形状を描く時間感覚が現れたのである。失われたものを新たに取り戻そうとすることによってうまれる螺旋の感覚。それはふわりと甘く優しく慕わしい遥かな陽だまりの風景であると同時に未知の未来を拓く凛として勇壮なる道標であった。そうだ、それは無意識の薄闇の中もどかしく発見されることを待ちながら心の中に鎮座していた世界の卵のようなものであったのだ。

生まれたのは、溶かすもの和らげるものあたためるもの。或いは、許すもの。
その感覚に、栗子さんはふと或る詩の一節を思い出した。(著者自身はそれは詩ではなく「心象スケッチ」であると主張しているようですけどね。)

「これらなつかしさの擦過は
寒さからだけ来たのでなく
またさびしいためからだけでもない (宮澤賢治春と修羅第一集」より「カーバイト倉庫」)」

初版本におけるこの「なつかしさ」という言葉は、出版後作者によって推敲手入れされた宮澤家本においては「なまめかしさ」という言葉にとってかわられるものとなっている。このあたりの微妙な感覚の振幅を栗子さんは痺れるような切ない甘やかさをもって味わっていた。

モンブランだ、と思った。
ふわりと甘い、切ない懐かしさ、精神の官能を擦過する柔らかななまめかしさ。

…無意識の領域、水面下ではおそらく何十年もかけてゆっくりと育っていたのだろう。意識野に発現したとき、それは既に確かな存在感と歴史を伴っており、逆らい難い天啓としての確信とともに厳然と存在していた。アプリオリなるモンブラン。そしてそれは以後栗子さんの意識の多くを占領するものとなったのである。思考の基盤にモンブラン。常在するモンブランモンブラン人とはこのようなものか。その現象の流れとその厳かな絶対性は栗子さんという意識にとって一種の驚愕ですらあった。

幼い頃、日常の中のちょっとしたイベントだった。例えば土曜日の午後や日曜日の記憶。客人や帰宅した家族のお土産のケーキの箱を開けたときのあのときめき。艶やかに美しい宝石のようなケーキたちを家族や友達とじゃんけんなどしつつ競い合うようにして選んでゆく。もちろんぽってりと柔らかなチョコレートケーキやケーキの王道苺ショート、ふわふわチーズケーキにクリームたっぷりシュークリーム、どれもこれも大好きだったけれど、なんだかやっぱり栗子さんは自分が特別に好きだったものであったような気がするのだ、モンブラン。つやつやと大きな黄色い栗が、黄色くむにゅむにゅとした中華蕎麦(ちぢれ麺タイプ)状に絞られた栗ペースト(マロン・ストリングス)の上にでんと鎮座したアレ。(栗子さんは、子供の頃からお正月の栗きんとんを大層愛していたが、就中そこにおけるあの瓶詰の栗の甘露煮という固形パーツを格別に愛していた。あればかり掘り出して食べるという共同体内においてあるまじき行為を家族からの非難をあびるぎりぎりのところまで行っていたことは知る人ぞ知る事実である。末っ子であったためある程度は大目に見てもらえたことが、その後の人生における栗子さんの重大な欠点を構成する原因の一要素となったという指摘に対し、彼女はなんら反論するつもりはない。)

いつでも、楽しい時間だったような気がするのだ。日曜の午後の陽だまり、或いは夕食後、TVのついたリビングで、或いはお客さんや友人たちとの華やぎの中で。お茶やコーヒーの準備、コトコトとあたたかい音と気配、笑い声、お喋り、いい香り。いつも世界の明るい側面のところにそれはあって、いつでもふわふわと優しいはちみつやたまごいろの光に包まれていて、ひたすら甘くておいしい幸せの約束としてそこにあった。

身体の糧ではない、心の糧のある場所。形而下としての存在のためではない、形而上の存在のための食のイデア「兜率の天の食(天上のアイスクリーム)」(宮澤賢治「永訣の朝」より)。決して生物学的にはありえないその意味としての、恩寵としての味覚の純粋な喜びのため。朝昼晩ではない、時間の隙間に垣間見える純粋な楽しみそのものを追う小さな祝祭空間を開くための、儀式のための食。それは、現実生活の閉鎖された日常的時空間から解放される異空間に通じるべき無時間の夢の美学をもっていなくてはならないし、幸福な意味に満たされていなければならないものである…とすれば、それは真理、或いは神、以外の何であり得るだろうか?

ここから引き出されてくる命題は以下の通りである。

命題その1.モンブランは神である。

概念というのは意識の中で或るレンジを持っている。それは、意識されるレヴェルと無意識のレヴェルを広範にカヴァーするものであり、大抵人はその焦点を意図的に搾り、他を隠蔽して己の世界を構成させている。己の意識の光の当たる範囲の外に配置すること、その隠蔽の多くはさまざまな形での自己防衛(厳密に言えば、そのほとんどは自己正当化)のためである。自己防衛本能のサーモスタットが働き、回路を遮断する。あらまほしき己を否定する都合の悪い論理を通常人は己の水面上の意識野での思考パターンに受け入れようとはしない。それは自我の破壊を意味するものであり、受け入れやすい人間は多かれ少なかれ病気になる。尊厳を損なうことなくそれを受け入れられるキャパシティとは、そのままその人間の格と器の大きさに関わっているものと推察される。(芸術一般を耐える創作者としての能力もそこに関わるものであるのではないか。)(それは学問であっても宗教であっても同じことだ。そこに耐える力、知とはそのようなものを核とするものではないのか。)

栗子さんにとって、スイーツを食する消費者となる、という概念は論理としては存在したが、それが己にあてはまり得るのだというリアリティに通ずる思考回路が遮断されていた。栗子さん(プロローグ)において述べた通り、それは論理による抑え込みであり、意図的な自身による洗脳行為による。そうしなければならぬ、と生存本能が命じたのだ。

栗子さんの古き良き時代の終焉、その近代は、神的存在なるモンブランの封印、その死から始まったともいえるのかもしれない。神は死んだ、というところから。以後モンブランはただ形骸化されたイコンとしてのみ機能していた。

では、さらに遡ってみよう。地上に神のおわした時代へ。

…というところで、気が向いたら「命題その2」に続く。

図書館環境・読書の現場

基本、図書館フリークなので、あちこちの図書館に出没する。

カフェでも図書館でもおんなじなんだけど、空間の雰囲気ってのは、建物や設備環境はもちろんそうなんだけど、それだけじゃなくて、寧ろスタッフが仕事を楽しんでるかどうかで決まってくるんじゃないかな。その個性に快さ、シンパシーを感じると、幸せな気持ちになるんである。ほどよい距離感ってのも含めてね。

…(隣町図書館)この図書館には随所に季節折々のフェルト細工が飾ってある。スタッフの方の作品なそうな。どこの図書館も必ず子供コーナーにぬいぐるみだの何だの小さな濃やかな心遣いがあって、それが特集図書のセレクトとかと同じようにその館ごとの個性になってたりする。これが心楽しいものなのだ。

図書館フリークだから、あちこちの特集のやり方やディスプレイ、子供コーナーの工夫の仕方なんかを比べて見て回る。うむうむ。楽しい。子供コーナーの本棚周辺のあちこちには、大体手作り感あふれてるいい味の人形やぬいぐるみやなんかが飾ってある。こういうのは大抵、知り合いのお母さんだの常連さんだののスタッフ周辺の方々の手作りのものらしい。

こういうとこって、無個性、無機的な対応になりがちな公立図書館で、スタッフ自身が仕事を楽しんでいい図書館にしたいないいい仕事したいなとか子供に楽しんでほしいな、というような心遣いをビシバシ感じてしまうスキマ空間なんである。で、こういう風景って子供の心のどっかに一生モノとして焼き付いてるんじゃないかって思うんだな。

絵本が、テクストと絵のコラボレーションとして成り立ち、脳内でそのコラボ・ヴィジョンがひとつのイコンとして不可分のものとなってしまうように、その本を読んだ、選んだ、一連の出会いの場の統合された風景のイメージは、作品内容それ自体に付随してそのとき感情とともに総合的なゲシュタルトを構成する。そしてそれは総合的な一塊の記憶となって分かちがたくその子とその本の関係性を決定するものとなり、ひいてはその子の一生を左右する心象風景として人生の通奏低音を奏でるものともなりうるのだ。

…ナラトロジー、物語論においては、「読書の現場」(語りの現場)、という概念がある。

大昔のことで、いくら探しても再発見できないでいるのだが、確かジュネットロラン・バルトではなかったか。ものすごく印象に残っている一節がある。

何かの章の出だし、見開きで、右側が白紙で左側の頁の、章のタイトルの後の、その書き出しの部分であった。そのページの色と本の感触と文字の風景まで脳に刻み込まれているのに、現物に再会できないというのもなんとももどかしい。

でも、もしかしてその本の風景は脳内で捏造或いは編成された記憶なのかもしれない。読書の現場、というようなテーマだったのだと思うのだけど。(アテにならない。)(まさにこのテーマに関わる読書の現場とその記憶のことを私は今ここで述べているのだ。→テクスト、視覚的な文字そのものとしての物質的スタイルを取った記号シニフィアンとそれが意味するものである内実としてのシニフィエ、さらにそれが読者に読み込まれたとき生まれる意味空間「現場」の関係性のことを、例示として。)

…読書の現場の本質とは、物語(意味)内容に没入しているレヴェルからふと頭をあげて、己の身体が属している世界に戻り、目の前の窓のレースのカーテンから光と風が射しこんできているのを眺める、その風景の二重性にあるのではないか、というような。ここでその「読書の現場」の多重構造を孕んだ世界の複合された総体性そのものが、その読者の個的な記憶として物語内容、意味内容という焦点化された「概念」に見えないプラスαという形で付随されるものとなる。漱石の文学論でいう(F+f)のfの要素であり、ゲシュタルト理論で言う要素プラスαの振幅への可能性をひらく構造である。

そしてさらに言えば、そのプラスαとはすべてからの解放という意味での世界の多様性の可能性そのものであり、イデアの指標となるものなのではないかと私は考えている。(それ自体は虚無としてのイデア、というべきなのかもしれないけどね。)


…ということで、物質としての本と出会いとしての現場環境は、読者のそのときの意味内容受けいれ能力(その受動器のコンディション)に関連した、純粋な運であり縁である。そしてそれは良書との出会いに関して得てして決定的に重要な要素である。

出来得れば、その出会いは幸福な色をした記憶の光に包まれたものであってほしい。
あらゆる資本やいかなる権力からも無条件に守られた牙城としての、その想像力の解放と精神と魂の自由を保障された図書館環境。(それは文字通り図書館であってもいいし、比喩的な意味のものでよい。絶対的な無条件の愛と贈与、祈りと希望に守られた感覚、両親から贈られたクリスマスプレゼントの児童文学全集を開くときの、その冬休みの初日の、夕食前の自室のひだまりのひとときであってもよい。)書を愛するスタッフの心遣いに読書環境を包まれた、明るく暖かい、守護された安全地帯、図書館空間。

意味内容に何らかの能動的な感情が伴われるならば、それはその論理の外に一つの見えない細胞壁を構築する。内容に活力を、ダイナミクスを加え、しなやかな思考の力を活性化させ、同時に外的で不適なるもの、損なおうとする虚無と害意に基づく反論のための反論の濁った理論を鋭く察知し、これをまっすぐな正しく明るい論理の地平のもとにさらけ出す、自在で透明な防御壁となるために。すべての個々に秘められた知の力が暗く滞り濁ることのないように。

その、己の外側にあった読書の現場空間とは、読書体験によって個の内側に取り込まれ、内と外の区別のない知の魂の場所としての心象風景を形成し、その一生を支えるものとなるだろう。いつでも解放されたその時空の精神の記憶が呼び起こされその確かな存在が永遠に保証されるように。

言ってしまおう。
これは主体が抱く、世界に対する感情の基盤が肯定と愛であるべきであるとする理論である。

まあ要するにだな、言いたいことはだな、世の中、
「愛だろ、愛。」。

銀河鉄道

なんかね、芥川賞直木賞も賢治つながりな感じで、なんかね、…なんかなあ。(あんまり嬉しがっていない。)とりあえず読む気しないな。多分ただ今読む気力がないだけなんだと思うけど。

 

でね、さっきなんかずっとザネリのこと考えててさ、ジョバンニとザネリとカムパネルラのことね。

考えててさ。

 

…ザネリねえ。

とりあえずね、

 

1.やなやつ

2.やなやつ

3.4なし

5やなやつ

 

なんだけど。

ジョバンニにとって、彼は世の不条理そのものだったんだろな、なんて思ったんだな。理不尽、不条理。貧しさ、その閉鎖的農村社会の不幸からくる日常の小さな小さな小さな浅ましさ、卑しく貧しい心根、衆愚、蒙昧からくる妬み嫉み悪意。そのひとの罪ではないところからくるその人の罪になってしまうもの。そういう人間の側面。ゲマインシャフトの悪しき面、といったところだろうか。恩愛に縛られるというその枷の両義性からくるもの。逃れられない…まあ要するに不条理なんだな。

それらの「力」を蒙昧や衆愚として軽蔑と嫌悪を向ける意識はジョバンニのこの悔しまぎれの科白の中にも表出されている。

「ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかなからだ。」

(けれどそれが共同体の大きな力となって、そのかなしい蒙昧と卑しさが、衆愚という「力」となって、己の外の広い世界へと向かおうとする、個人の、まっすぐさやうつくしい楽しい夢や希望をも穢すことへの激しい怒りに似たもの。けれど己自身の存在が、もともとその不条理によって成立しているということへの、その原罪への耐え難さ。自己犠牲や焼身幻想への衝動という方向性をもつそのエゴイスティックでかなしい無辜への希求。)

とりあえずその外部不条理の象徴が、ザネリなんじゃないかな、と。

そうして、ザネリを救うためにジョバンニの最愛の正しく優しくまっとうな理想の友人カムパネルラ、己の理想の側の半身である「共に行く者」が犠牲になる、というストーリーの意味を。その若き日の己の「喪失」を抱えて初めてまっすぐに現実に向かって理想を生きる覚悟を得られるのだと説く論理、そのストーリーの意味を。虚無、喪失、決して得られないものでありながら求め続けなければならないものとしての真理(カムパネルラ)を果てなく望みながら生きることの覚悟を説くようなストーリーの意味を。そこに逆説的に浮かび上がる「救済」というテーマの意味を。(求めながら生きる意味の、それ自体の中に初めて構成されるものである救済と恩寵…至福という「知」の究極の意味するところを。)

 

…ああ、本当に。賢治作品すべてに瀰漫するこの激しい思い、テーマは、「救済」なのだな、と、このうつくしくいたましく見事な物語構成のうちに、痛いほどに激しく感じる。(まあそんなこといったら、いやしくも文学、と呼ばれるべきものであったらテーマはすべてここに収れんするのかもしれないとも思うけど。)

 

いやね、個人的に非常にあれこれ追いつめられてましてな、現実を生きる心身の力にかけてるもんでね。「男は、強くなければ生きられない。優しくなければ生きていく資格がない。」ってCMコピーが好きだったんだけど、オレは生きるための強さも優しさも持たずにここまで来てしまった。優しいひとたちに支えられ過ぎていたのかもしれない。

ザネリの存在に耐えられない。

とりあえずまだ死ぬのが怖すぎる。やりたいこと精一杯まだやりたい。自分では煩悩や執着をまだ断ち切る境地に至れない。とことん汚くなって堕ちて堕ちて堕ちて。ああもうどうでもいいなあ、やりたい放題やったなあってストンと抜け落ちた、そんなところに行きついてからすうっと終わりたいなあ、なんて思ったんだよ。生きてきたことの証明に、考えたことや楽しい物語たくさん書き残して、読みたいものこころおきなく読んで、誰にも脅かされず、そんな時空間をもう一度、幼いころのあの黄金の無時間の中に、もう一度。それにつつまれたまま。

酒ばかり飲んでそのままいなくなってしまってもいいんだけど。

とりあえず今日に感謝。明日の楽しいことだけ考えて

おやすみなさい世界。

冬枯れ

寒波である。
毎年思うのだが、雪国の人はよくこの季節を生きのびられるものだ。体温が下がると人間死ぬのに。

今朝、震えて目覚めた。暑いのもダメだが寒いのはもう絶対ダメである。ワシは心身共に素直なタチなので、つまり変温動物に近い生物なので割と素直に体温も外気に合わせてしまう。恒温動物にしては体温保持力に欠けている。ということで寒いとおそらく人よりはやめに手足がもげて死んでしまうのではないかと思うのだ。ウウ手が凍る顔が凍るかなしくなる動けなくなるもう100年くらい先の春まで冬眠していたい…。

…でもこの季節、空と光は異様に透き通って美しい。一年で一番美しいような気もする。厳寒期から早春。二月如月、光の春ももう近い。昼間の眩いほど強く澄んだ濃い黄金、夜にはキンと凍って煌く星空。

息がふわふわ白いのも楽しい。ベランダで朝陽の最初のひと切れを浴びて、ほうほうと白い息を吐く、それが朝靄にまじってゆく様子を眺めているとなんとなく愉快になって笑いたくなったりする。

記憶には、この美しさだけが記録されるんだろな。

やっぱり恩寵だ。

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地元図書館近く、冬枯れの苗木屋。本を抱えたままちょっと寄ってみる。

午後の光の色が奇妙に懐かしくて明るくて、何となく泣きたいような幸福感でいっぱいになる。今この瞬間、これ以上望むことはないと思う。いやホント。刹那主義ってこういうのをいうんかしらん。

無人スタンドがあって、いびつな柚子一袋100円とか蝋梅一枝300円とか物色するのも楽しいのだ。

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今日の底冷え、盥の水は凍ったまま一日中溶けない。

 *** ***

先日、お年始あいさつで、階段の踊り場に庭で収穫したとんがらし干してるおうちに遊びに行った。寒いのにあたたかい。そう、やっぱりこの冬の陽射しだ。そうして、とろりと、赤の色。

いいな、とんがらし、って思った。

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ターシャ・チューダーさんみたいだよね。

…イヤあのね、今読んでる童話にとんがらしたっぷりいれた異国の「ココーア」なるものをテングが魔法で盗んできて江戸時代のお姫様に飲ませてあげるシーンがあったのヨ。

古代アステカではワインとかとんがらしも入れて飲んでたらしいからな、ココア。王侯貴族がな。オレも王侯貴族になって、今度シナモンと生姜とウヰスキーだけじゃなくてカルダモンやとんがらしもいれてみるかな。あったまりそうだからな、カカオフリークとしてはな、一度はな。(今日は生姜と七味と黒胡椒たらふく投入した牡蠣の味噌汁ですんごいあったまってハマった。あったまると寂しくなくなる、こともある。)(もともとスパイス好きなんである。タリーズスターバックスではシナモンマシマシ。そもそもあたたまるスパイスっていうのはもう既に薬だぞ。お腹があたたまって血行がよくなるとすべてはよくなるものなのだ、きっと。)

年末。知人宅訪問

年末である。改装中だということで、荷物がたくさん積み重ねられていた。
お邪魔します、と靴を脱ぐ。どうぞ、とリビングに通される。

リビングのドアの前、ちょっとどきどきした。

確か高校を出たばかりの頃。賑やかなパーティで、皆で押しかけた。うんと華やかにセッティングされた食卓、うんとピカピカでゆったりと広かった記憶のあるリビングである。あの頃のさまざまの思い出がそこに凝縮して、遠くほのかに煌いているような、その記憶に重なる場所。中央線沿線、駅にほど近く、閑静な住宅街。

…ドアの向こうには、ひっそりと静かな12月の午後があった。壁に作りつけの食器棚、ダイニングテーブル、大きなテレヴィ。ごく普通に居心地良くしつらえられた穏やかなリヴィング・ルーム。けれどもそれはなんだかあのときより小さく見えた。私が大きくなったわけではないのにどうしてだろう。世の中が小さくなったのだろうか。脳による記憶の歪曲や捏造のリアリティを思う。

うさぎ穴の中でアリスが自在に巨大化したりこびとになったりしたように、記憶の視界はその自在な視点と自体の可塑性をもって都合よく変成されてゆく。世界が自在に伸び縮みする、変容する、その不安で怖くて楽しいような、奇妙にくらくらとめくるめく夢に入り込む感覚。

 

布団を敷いてうとうとと眠っていたのだという。少し寝ぼけ眼のままもしょもしょと部屋を暖めてくれる。

もうじき夕暮れである。ひたひたと肌寒くなってゆく。ひっそりと静かなおうちの中はブラインドを引いて薄暗い。少し寂しくなった。

上等の舶来の葡萄酒なんか開けてくれる。濃い紅の液体を注いでくれる。とても濃い、異国のふくよかな時間が注がれる。静かな食卓に凛と透き通ったリーデルのグラス。とろりと眩暈がしそうな時間だ。濃い紅の液体。

乾杯。

おいしい。うん、おいしい。
少し笑う。

柔らかな会話。昔のことや最近のことやお正月の予定や、それから、これからの人生や世界や、それからぽつぽつと、さまざまの世界の描き方や考え方について。

お部屋を見せてくださいよ。その思い出の部屋、二階の。
ダメだよ、今は改装中で荷物がおいてあるだけで、何にもないから。

あそ。
…それでよけりゃ見てみるか?

シギシと鳴る古い木の階段を上る。

暗い廊下には段ボールの荷物、ひんやりと薄暗く寂しい改装中。人の暮らしの気配が途切れている。

…けれど、その部屋のドアを開けたとき、優しい明るさがぽかんとひらけていて、目を打った。思わず瞬きした。いやその風景は寧ろ胸を打ったものだから。

初めて訪れたその二階の部屋は本当に素敵だったのだ。

あのときの気持ちをあれから幾度も反芻している。
永遠に反芻していたい。脳がそれを消化し何らかの捏造記憶を深々と広げ創作してゆくように。ずっとずっと永遠に残る私だけの世界の記憶を。

彼が子供時代を過ごした部屋の、その思い入れを、その部屋の思い出を語ってくれたその時間。語られながら、私はその物語の時間の過去と現在と溶け合わせ、それをカプセルにして、まるごと魂の深奥に押し込んで熟成させている己を感じていた。

隣にはばあちゃんがいた。こたつがあったんだ。おれをひどく可愛がってくれた。
こっちの隣の部屋には、姉ちゃんがいた。死んじゃったけどな。

窓の外は、美しく澄んで、緩やかに黄昏行く12月の明るい夕暮れ。淡い白い半月がうっすりと浮かんでほのかに輝き始めていた。類稀なる澄明、その空はもうどうすればよいかわからないくらい透き通っていて、それはもうそのとき宇宙一清く澄んでいたのだということを私は断言できる。

改装中だというがらんとしたその部屋で、人の思い出は生き生きとよみがえりながら現在にひらめき溶け合い違うところへ消えてゆきながら夕暮れの宇宙を形作る。物語は語られるごとに語られた場所を巻き込みながら変容し深化してゆくものなのだ、ということに私はまた気づいた。今までだって気づいていたことをも思い出した。こうやって繰り返し新しく何度でも気づき続けてゆくのだろう、未来永劫、時間というものはそうやって私にやってきて流れてゆくのだということを。

その部屋が己の歴史のヴィジョンを私に伝えようとしていた、私の存在の内部に私の感官をとおしてそれが沁み込んでいった。部屋と私は交じり合う。そんな物語の遺伝子を伝えようとしていたのだ。

そうやって、古び壊れ失われながら、風景は、場所は、失われた時間の中で失われた命が嘗て確かに存在していたのだという事実を宿したままにある。嘗て人が生きていたその風景の時空は、失われながらも、残されたものによって思い出され語られ悼まれるとき、その思い出の遺伝子を他の人間の記憶の中に胚胎させ、新たな命のかたちとしてそれを変容させる。…互いに溶け合いながら、個と世界とまた異なる個との関わり合いは変容し、そんな風にして世界全体の時間の流れというものが作られていくのだろう。互いが存在した時空のその存在証明をアメーバのように四次元に連ねながら。

永遠の現在という概念について訴えた西田の魂(注)もまた私にやってくる。
私は私という存在が有機交流電燈の明滅として壊れ広がってゆくのを感じていた。

…幸福だ。この先なにがあろうと、生まれて育って育てられて、今があることが永遠であることを知る、その、知という幸福を思った。すべてを祝福することのできるツール。

幸福だ。このまま死んでしまいたいほどに。

と、そんな風に思ったんだよ。これから何があっても、一度そう思ったことは失われることはない、

てね。

 

※(注)「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」参照