酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

朝が好きなのだ (ムーンライダーズ・サエキけんぞう・パール兄弟・宮沢賢治)

朝が好きなのだ

私は本当に朝が好きなのだ。
何もかも新しい、きらきらと木漏れ日の落ちる新しい朝。

そして大切なのはそれが終末感とともにあるというところだ。始まりと終わりが一つのものであるところで世界は完全になり私は解放される。

この構造がずっと好きだった。ほんとうに、たまらなく。
この構造を見つけたところに私は執着していたのだ。

自覚した記憶があるのは高校のときのムーンライダーズ鈴木博文の歌にハマったときだった。朝と終わりを歌う歌の系列があった。一連の。朝と死の組み合わせに私は魅了された。

そしてこのときの気持ちは一体何なんだろうとずっと考えていた。

なんてかなしいのだろう。寂しくて悲しくてせつなくてやりきれない世界や人生の何もかもが無意味に終わってしまったという感覚と、何もかもこれから始まるのだという未来の可能性の朝が新しく新鮮に輝いて見えるその矛盾が一致するところに発生するナニカ。ここにはなにかとてつもなく新しい未知と可能性と無限が輝きと美しさの中に存在している。未来が過去を飲み込んで過去が未来をのみこんで双方が違うものに止揚されるところ。虚無の反転するところ。存在と無が絶え間なく交互に明滅するという矛盾のスタイルを背負った存在としての「わたくしというげんしゃう」(賢治のアレ。春と修羅の序の、曼荼羅やインドラの網を思わせる存在認識の構図「有機交流電燈」な。)

私は体感する。この日常の中に。
場所に飲まれることを自覚する、場所に支配される己の存在のパーツとしてのある種の矮小さを、支配されている、パーツとしての、なのに支配しているものと私が同一である感覚、これはいわゆるマクロコスモスとミクロコスモス、アートマンブラフマンの一致するところとして古今東西の人々が必死で言いあらわそうとした論理、論理を超えたその矛盾のところにある純粋な「感覚」、決して孤独であり得ない孤独の、その幸福感のことをいうものなのではないのか。

何もかもが肯定される場所、人々はあらゆる文化、宗教、学問、物語をもってそれらを言いあらわそうと存在を示そうと存在を確実なものとしてつなげていたいと願って歴史を刻んできたのではないかと思う。日々の中に、些末なひとこまひとこまの一瞬の中にそれぞれが永遠が属しているというその感覚を、それが至福であるという感覚を。

永遠の現在、と西田幾多郎が言ったものの構造のことを考えている。
すべての知は、敬虔で純粋な存在の喜びのために。

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台風一過の青空の朝、夏と秋が行き交う気配がした。
朝のごみ捨てのときマンションの中庭の木洩れ日が揺れるのを眺めその中をゆらゆらと歩くときこんな幸福の構造について考える。

それは、夏の終わりに少し似ている。終焉。世界の終わり。
それが終末感に重心を置いたものか再生の予感に重心を置いたものか。情趣はその振幅の中に揺れる。

ムーンライダーズの「9月の海はクラゲの海」だ。
夏の終わり。ここに再生の予感は読み取りにくいかもしれない。だが歌詞はうたう。このリフレイン。

Everything is nothing
Everythingで nothing
九月の海はクラゲの海♪

そう、「色即是空 空即是色」。

ひとつの世界の終焉、ひとつの存在の終焉は、別の論理の中で新たなる形での存在の再生でもある。たとえばここで己の個としての死は個自体の、アイデンティティ自体の枠組みが意味を成す一つの世界の存在のかたち、その論理基盤をもたなくなるために死すら意味することができなくなるところに意味付けされてゆく。

世界は再生する、存在は永遠。(けれどそこに今のスタイルの自分はいない)

 *** ***

…これは作詞がサエキけんぞうなんだけど、同じく彼が作詞して歌っているバンド「パール兄弟」の「色以下」にも印象的なリフレインがある。

Less than colour 
色以下 色以下
(本当に欲しかったものは色以下)
(肉眼で見えなかったものは色以下・動いてもとらえきれない快感)

 *** ***

物語をつくるもの、詩人、アーティストたちは皆己の五感を研ぎ澄ましその感覚の源泉をとらえようとする。既成の社会的な枠組みの物語としての五感(視覚が捉えたこの刺激、これは赤色だ。という物語の判断と認識)に捉えられてしまう前のその官能の源泉をとらえようとする。カオスからコスモスが生まれる現場をとらえようとする。五感以前、或いは超・五感。

それは常に現場であり常にオリジナルである意味発生の現場性のところにある。歌われるごとに鑑賞されるごとに読まれるごとに発生する神話的現場。暗喩に満ち可塑性に優れた意味と官能、物語の始まり、ダイナミクスのカタマリ。

賢治の「春と修羅」のカーバイト倉庫にも似た構造が透けて見えるのを私は感ずる。

 *** ***

まちなみのなつかしい灯とおもつて

いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーペンタイン)との
山峡(さんけふ)をでてきましたのに
これはカーバイト倉庫の軒
すきとほつてつめたい電燈です

     (みぞれにすっかりぬれたのだから
      烟草に一本火をつけろ)

これらなつかしさの擦過は
寒さからだけ来たのでなく
またさびしいためからだけでもない

 *** ***

これは初版本のものだが、後に賢治自身が徹底した推敲を加えた「宮澤家本」では後半がこのように変えられている。

 *** ***

汗といっしよに擦過する
この薄明のなまめかしさは
寒さからだけ来たのでなく
さびしさからだけ来たのでもない

 *** ***

「なつかしさ」と「なまめかしさ」。
この変更を私は非常に興味深く感ずる。感官を擦過するなまめかしさがなつかしさとその源をおなじうするという感覚。官能と精神性の関係性、そのバランス。

分岐以前、「色以下」だ。
始まりと終わりが同期する存在の場所。

 *** ***

ヤマボウシ(甘くてうまい。小鳥との争奪戦)もほんのり色づいてきたし、大好きな無花果のはしりも店頭に並んできた。昨日は初梨。西瓜や桃とのお別れは寂しいが無花果や栗を希望として今日明日を生きねばならぬと思う。

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ショーン・タン

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さて、先日帰省した。こないだ実家で導入したおニューのパソ君にまつわる(周辺機器含めた)一切の設定その他のデジタル関係引っ越し作業一気に請け負ったんである。

疲れ果てた。
が、大層喜ばれたんで、まあえがった。

 *** *** ***

というこれはこれで、要するにのそのそと実家地元町立図書館へでかけたということなんである。(どこに行っても図書館をチェックするタイプの人間なのだ。)図書館にはそれぞれご当地な品揃えの個性があっておもしろい。絵本やアニメーションで大好きなショーン・タンのスケッチブック「烏の王さま」も発見したのでついでに借りてみる。

期待せずに開いてみたこれが意外にヒット。彼の作品の圧倒的なイマジネーションの奔流の秘密についてあれこれ考える機会になるような、実に興味深いものであった。ああ、この人の作品たくさん観たいなあ、なんてあらためて思った。絵本も映像作品も。

絵本を見るとこれの映像が見てみたいな、と思う。映像をみると絵本としてのスタイルについてのあれこれを想起させられる。

永遠に続く夜、静かな地下のバーで壁一面に彼のうつくしい作品を無音で流し続けている、そんな場所にいたいという夢を見る。

 *** *** ***

「絵を描くとき何が楽しいといって、意味はいくらでも後回しにすることができて、ひとりスケッチブックと向き合っているあいだは何か特別なことを¨言う¨必要に迫られないというところだ。(中略)絵の中からこう語りかけてくるのだ『ねえ、これは何だと思う?』。」

(なんだか賢治とおんなじことを言うんだねえ。)

彼にとってそれはいつでも「メッセージ」というよりは「問いかけ」なのであるという。彼がお話を作るのはこの問いかけに対しての答えへの試みなのであると作者自らがこう語る。「まずありき」の与えられた己のイマジネーションのその意味を知りたくて、それでお話を感じ考えてしまうのだ、と。彼の絵は観るものに物語を感じさせ、考えさせる多義をはらんだ「問いかけ」、混沌からコスモスへと生まれ出ようとする力の源泉の噴出する場所、そのトリガー。お話を拵えるとき、彼は既に読者である。世界と遊ぶ者。世界を遊ぶ者。

「文脈の束縛から解き放たれて、観る人の想像力にゆだねられたこれらの絵は、一つひとつが¨まだ語られていない物語¨の入り口なのだ。」

これは、メディアとしての¨テクスト¨(ここではイメージ、絵)(要するにシニフィアン)が共同作業で作者と読者がお互いの共有する地平を乗り越え第三の止揚空間「読書の現場」を作り出す創造の構造をそのまま表した言葉である。

そしてここで興味深いのは、彼がこう述べているところにある。
己のテーマがどこにあるのかを発見するくだりである。それは、

「自然の形と人工物の形のあいだに生まれる対立関係で、このテーマは僕の絵や物語にも繰り返しあらわれる。人や動物を描くのには、それとはまた別の根強い興味が働いているーー個々の人間や動物が、互いや周囲の環境とどうかかわっているのか、また彼らがある場所に対していだく¨帰属¨の意識とは何なのか。」

「間」なのだ。
自然と人工、人と動物。その間に生まれる関係性と、それらを囲む世界全体との関係性。三位一体とでもいうべき世界全体の、三者ダイナミクスから生まれるその¨在り方¨、構造を捕える意識から彼の絵は生まれてくる。

そしてさらに、そこに在る「帰属、懐かしさ、慕わしさ、愛おしさ、安心、己の居場所」という感覚。帰属意識、それは或いは存在を許されている愛されているという、存在自体へのアプリオリな全肯定。あらかじめ絶対的に許されている。原罪は既に贖われている、という感覚。己は世界の一部である。すべてはそこから始まり、終わる。カオスから生まれ、カオスを故郷とし、そこからの対立によって存在し成り立ちながらその故郷へ還ってゆく、存在という世界構造。意識、無意識の関係性の成す構造もこれと同じものだ。対立しつつ、抱かれつつ。

彼は述べる。

「意識と無意識をつなぐ道路に向かって開く、小さな窓のような落書き、こういうのを見るたびに、僕は魚釣りを連想する。-広い海に当てずっぽうに糸を垂れ、何かを釣り上げるのに似ているから。意味のないはずのところに意味が生じたり、たまたま隣り合わせた無関係のイメージから予期せぬ効果が生まれたりして、それまで波の下に隠れて見えなかったアイデアが釣り針にかかるたび、僕は新鮮な驚きを感じるのだ。」

世界の発見。絶えず新鮮に生まれ続けるもの、己との関わりのあいだに、その時だけ立ち上がる「永遠の現在」という世界の在り方…芸術という行為は、鑑賞者であり創造者であるその止揚されたところ、狭間にある主体と客体の間の溶け合う場所を得る行為なのではないか。「読書の現場」という、世界の、存在の祝祭空間、讃歌である。

神をたたえるために人間はある、というキリスト教に顕著な宗教の智慧というのは、この「存在の祝祭=幸福」を得るための方法論のことを言っているのではないかと私は考えている。あらゆる学問、哲学も芸術も宗教もすべてはこの、自他を乗り越えたところに目指される幸福に支えられた、その上で耐えられてゆく日常現実の絶え間ない創造のためにある、と。

 *** *** ***

で、まあこの総論的なショーン・タン論の上で、各々の作品の各論的なるものがあるわけで。

以前読んだ、前述した「帰属意識」を前面に打ち出したと考えられる絵本については私も当時すでに記録していた。「アライバル」が例示される。

記事はここ。

もちろん作品ごとに、微妙に読者対象とテーマはずれてゆく。どれもが素晴らしく味わい深い。

例えば、「夏のルール」。

少年(小学校低学年男子と推定される)の夏休みのイメージをさまざまに連ねた絵本。これは問答無用に力業な圧倒的なリアリティのイマージュ、夢の論理に近い。

…記憶、クオリア、完全でピュアな観念、イデアにちかいところにあるイメージ。過去は記憶の中で夢と想像と現実の境界を越えた一つの完全に個的で完全に自我をこえた時空、アボリジニのいう「ドリーム・タイム」に似たところにある特殊な神話的物語時空を形成し続けている。

読まれるごとに「永遠に現在する」読書の空間、それは、己の「イマ・ココ」の現実を実際に左右するエネルギーに満ちた、その源泉であり、現実を「読み替える」ための技術としてとらえることができる。一般に言われる「癒し」というユルい感覚的な言葉も、その語の定義の論理をトコトン突き詰めればこのようなラディカルさに行き着くはずだ。自己破壊の恐怖をも孕んだ解放の物語の源泉。

圧倒的なイマージュ、自我を形成していながらそれを越える境界線を描くところにある、それは例えば子供の頃の夏休みの記憶の風景。既に心象風景に近いもの。世界はひたすら無限で未知でわくわくする未来と可能性に満ち、とても怖く、けれど、楽しいものとして意味を織り込まれて在る。

ここで私がショーン・タンが大好きだと思う重大な彼の特徴がもうひとつある。そのイマージュの織り成す物語の最後が必ず優しさへと希望、未来へと読み替える祈りに繋がっているところだ。(最後のこれは「恣意」だ。)

さらに言えば、これを読んで脳裏につるりと繋がった意味構造が私の中に浮き上がる。ショーン・タンの切ない優しさの秘密と、私のバイブル安房直子さんの作品群に共通に響くもの。彼女の作品にも同様な構造があると私は考えたのだ。

つまりそれは、茫漠とした破壊や死や虚無をも孕んだ世界への恐怖、そして世界以前の怖さやそこにあるマトリクスの恍惚をそのままに見据え、最終的には何もかもを受け入れながらも、それがすべてを包み込む祈りのようないたましい優しさに覆われているところにある。つまりそれが「美」として表現されているかたちのところにあるのではないか、という…私のこれは仮説である。(確信である。)

世界のうつくしさ。優しさ。すべてを包み込む母のような。切なさもかなしさもあじきなさもやるせなさもすべてすべて昇華し包み込む、それはどこかあきらめにも似た痛みを超えたところにある超越時空。

絵本、という絵画の体裁のなかにそれは仕込まれることができるし、そのとき同時に大抵は物語、テクストにも同じものが仕込まれている。

この本では、非日常としての夏休みのわくわく、日常から離れ、妖怪や妖精、付喪神的なるものへの感覚に根差した家の中のミステリー、夜のミステリー、街のミステリー、お祭りのわくわく、…そしていさかいや孤独の牙城に閉ざされる心理的イメージの物語の中に仕込まれたものとしてそれはある。

そして最後の「優しさという祈り」は、己の孤独に閉じ込められた少年を、命がけの勇敢な冒険によって救ってくれる英雄的な兄の姿として描かれているものだ。

 

…或いは「レッド・ツリー」。

繊細な感覚を持った若い女性の日々、世界から拒否されるような孤独と恐怖の日々を救う仕掛けが絵本のスタイルならではの非常に巧みなもので、ストーリーを持った絵画としてそのままの「美」として言葉以前に心に響く。短い言葉すらデザインされた絵画の一部となっている。…「うつくしい」のだ。恐怖すら。

朝、部屋を出てから絶望と恐怖のモンスターの徘徊する悪夢として描かれる彼女自身の日常の一日は、そこをさまよう小さな頼りない少女の姿としての己を暗い色彩で寂しく描き出す。だが最後に「それらすべてを最初から」読み替えるための美しい輝きとしての「レッド・ツリー」が実は最初の頁から仕込まれていて…

絵画として味わうべき絵本ではある。


で、最新作「セミ」。

非常に短い。絵本としてもテーマとしても個人的にイタいとこであまり好きにはなれないが深い寓意に満ちていて、やはりラストの一種の「どんでん返し」シーンの絵画と言葉のコンビネーションからなる物語の壮烈さが深々と心に沁みてきて、どこか心の中がかきみだされるものである。

現代の人間社会のシステムの中で踏みつけられ使い捨てられた命が最後に人間たち自身が隷属するその社会を笑い続けるところへと空高く飛翔し昇華されてゆく、その構図のままにさまざまに解釈されてゆく痛みの物語。

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おうい雲よ

…って言いたくなる空だなや。

 

夏キライ、猛暑辛い。バテバテ高温多湿キライ早く秋風…とは思うけど、やっぱりスコーンと青い夏の空、まっしろくてもくもくの雲、8月の夏休みの空は好きである。(特にまっさらできらきらの朝、そして長い長い夕暮れ)(湿度さえなければ、こんなに強烈な猛暑でなければ、きっと江戸時代くらいの夏だったらオレ夏好きなのかもしれぬ。ただし限定一週間、長くて二週間。)

おうい雲よ、の有名な詩は山村暮鳥
「いちめんのなのはな」の人だね。

このひと、こういう小学校一年生の教科書に出てきそうな素朴で優しい牧歌的風景を描く詩の人として有名だけど、実は若いときは先鋭的で、前衛的、アグレッシブな実験的詩作の人だったそうな。「聖三稜玻璃」なんつう難解な詩集を出している。青空文庫でこの詩集ながめて「おうい雲よ」とのあまりの格差に、若気の至りと年老いてからの境地という、さもありなんな話とはいえちょっとびっくり。

いやまったく違うってわけじゃないし、(実際「なのはな」はこの詩集に収められたもので、なるほど実験的スタイルであり、知に角が立った病める月のイメージなんか仕込んでたりする。)これはこれでなかなか面白い詩集ではあるんだけど。なんというか、世界に抽象的概念を一生懸命読み取り盛り込み感じようとする。おそらく文芸への新しい可能性を追いかける時代の流行ってのもあるんだなあ。…こういう感じね。

 *** ***

  十 月

銀魚はつらつ
ゆびさきの刺疼(うづ)き
眞實
ひとりなり
山あざやかに
雪近し。


  印 象

むぎのはたけのおそろしさ……
むぎのはたけのおそろしさ
にほひはうれゆくゐんらく
ひつそりとかぜもなし
きけ、ふるびたるまひるのといきを
おもひなやみてびはしたたり
せつがいされたるきんのたいやう
あいはむぎほのひとつびとつに
さみしきかげをとりかこめり。)

 *** ***

…で。

つまりだな。

こういうタイプの転向ってなんか好きである、自分。
なんというか、抽象的な概念をこねくりまわして、言語のスタイルをこねくりまわして、事象に、世界にあらゆる意味を重ねる試みの正しさにおぼれ、そして疲れ、新しいステージとして何かもう一段階深いかたちで、抽象と具体を溶け合わせた第三のフィールドとして一見「平易な風景」へと回帰するように見えるアクション。「舞い降りる翼」的な、その懐の深い優しさ、のような長い時間の果てにあるもの。

個我の、その日常に感じる牢獄の苦しみ、それをもがきながら破壊し、個のかたちの現実での破滅を意味するその外側を知覚する恐怖とその向こう側にある真理や解放の祝祭へ、…そしてそれから再び見いだされる故郷としての日常へと「再生」する。その螺旋。まったくあたらしいかたちで。

日常現実破壊から、そこへの回帰への運動、具体から抽象へ、そうして再び具体へ。
死と再生。現実のくびきから飛翔する翼の強さ、そして再び新たなかたちでの自由を孕んだまま舞い降りる翼の強さ。

それはおそらく、創造、という力の示すもの。

螺旋を描き現実の平易に回帰してくる者。けっして「若気の至り」「あの頃はやんちゃして」というレヴェルの過去への安易な甘えや怠惰や否定を持たない。既存の型を壊し、生き生きとした存在としての風景を「発見」する「創造」という体験はそのまま生かされている。そしてそれらすべてをインテグレートし統合する回帰の姿が、雲や菜の花、故郷の風景であるという構造。このような優しいテクストとしてコトバのファンタジーの、シニフィエシニフィアンの結びつきへのセンスオブワンダー、その原点としての詩作という芸術スタイルにもどったものであるという構造。

…そう、好きなのだ。これが、このような、二項対立を止揚してゆく世界の読み替えという再生の物語を孕んでいるようだから。ひとつの人生の季節をめぐるものがたりとして。

とりあえずちらっと詩人の略歴を拾ってみた。
サライ」web記事から。味気ないwiki的なものより素敵にまとまっていたから。


「大正3年(1914)萩原朔太郎室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「人魚詩社」を設立。その後さらに、第2詩集『聖三稜玻璃』の刊行で、先鋭な表現意識による前衛的挑戦を繰り広げ、詩壇に大きな波紋を投げかけた。多くの非難を浴びる半面、「日本立体詩派の祖」とも呼ばれた。

大正9年(1920)、胸を患った36歳の暮鳥は、職を解かれる形で教会を離脱。暮らしを立てるため、童話や童謡にも手を染めていく。長からぬ余命を自覚することで、詩風も自ずと変化し、枯淡の中に清明の味わいを醸した。

掲出の『雲』と題する詩がその典型。ここには、無垢なる童心にも似た、東洋的な無の境地さえ感じられる。かつて先鋭的技巧に突っ走った暮鳥が、この頃は「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない」とも語っていた。

大正13年(1924)師走、暮鳥は41歳の誕生日と詩集『雲』の刊行を目前に、生涯を閉じた。」

 *** ***

このね、「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない」という科白。これがものすごく気に入ったのよ、ワシ。

本日の大ヒットである。

死を前にして、何もかもそぎ落としたとき、くすくす笑いたくなるような優しい楽しいうつくしい風景を、幸福を、個の形を、己の人生を、世界まるごとをこんな風な風景の物語に回帰しあるいは見出す感覚。それを幸福と感じている幸福。子供と老人と死に近いものだけが持っている視線なのかもしれない。死後未生のそのふちにちかいもの。

存在自体を美と歓びとしてとらえるという幸福を感ずる能力。或いはそれは、老人だけがもっている己の中のこどもの再発見、という構造の中にのみ存在しうるものなのかもしれない。

 *** ***

「雲」

丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる

  おなじく

おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか

***

「風景」

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな

脳足りん (どんぐりと山猫・ほんとうにほしいもの)

脳足りんが嫌いである。
ものすごく嫌いである。大嫌いである。これこそが諸悪の根源であると思っている。

まったく実に切実な話なのだ。実害が酷すぎる。

…だがふと我と我が身を振り返ってみると、己が脳足りんでないとは決して言えないと言う事実に直面せざるを得ない。これでは絶望に至る道筋である。

だってさ、自分が一番嫌いだなんて結局世界全体全てが嫌いだなんてことにもなりかねないではないか。やりきれない。

 

だが。
だがしかし。

 

だがしかし、なのである。

なんかね。つまりね、そうやって決めつけきれないとこがある、っていうのもまた確かなのだ、と思うから。

その「絶望に至る脳足りん」とは、単なる一つの論理地平、論理基盤によって成立するひとつのパーツとしての概念に過ぎない。そう、それは個に属するものでも存在そのものの本質として語るべきものでもない。これも確かなのだ。寧ろ構造として語るべきものである。…ではでは、ということならば。

ここで救いの方向性を探す、ということでがっぷりと考えるべきテーマは「脳足りんとは何ぞ」。

最近心身の弱りとそのお脳の弱りも加速度がついてきたことでもあるし、昨日からずっとこの脳足りんという言葉についてものすごく一生懸命考えていたんである。

私の考える私の憎んでいるその「脳足りん」とは一体何なのか。機能としての脳足りん、精神性としての脳足りん、脳足りんをめぐる考察。

 *** ***

…いや例えばさ、こないだうっかり韓国ドラマを観てしまったんだけどな。そいでヒロイン、というかヒーローの運命の恋人のキャラクタ設定があまりにも脳足りんなんでなんかイライラしてしまってだな、ということがある。

恋敵役の女性の方がずっとかっこよくて一途で魅力的で愛しくて健気で「こっちにしろよ」とかすごいもどかしかったりしてて、まあそういうことで「脳足りん」とは何かというところに思考の焦点が合いましてな。(これではわかりませんな。)(イライラしたのはそのヒロインの、主人公ヒーローの真心も愛情もひととき通じ合ったはずの心のことも周囲の罠によるほんのちょっとした誤解でたやすく疑い裏切りと決めつけ聞く耳も持たなくなる、直接己の心身の、感官の触れた相手を信頼しない阿呆さ。)(こういう人間は怖い。)(己の感官による直観とによる判断からくる知性の基準で人を見ない、周りの拵えあげたイージーな物語の評価と価値基準によって己の頭で考えることなく他者を疑い判断し裁く、オルテガのいう悪しき「大衆」に通ずる脳足りんさである。)(その外側としての「事実」の可能性の存在に「考えが至らない」。)(閉ざされた怠慢な思考スタイル。)(井の中の蛙としての正義の思考)(=外側に対して脳が足りん、なのだ。)(こういう脳足りんは信頼にも愛情にも値しない。)(彼女は賢いというキャラクタ設定だがそれはここでそれはまったく説得力を持たない。)(脳足りんとはここで知能指数的なるものではなく人間性に直結してしまう知性に関する言葉となる。)(そしてそれは韓国ドラマ的なる人間ドラマに必須の、物語をおもしろくするための原型的定型としてナラトロジー的に解釈することが可能となる、個ではなくすべての人間に適用可能な性質としての脳足りん、という概念に至るものなのである。)

→(以下少々蛇足)

脳足りんという言葉自体はワシは結構好きである。(たらふくとかしこたまとかあんぽんたんとかすっとこどっこい、こういうのも好きである。そういう語彙をもっともっと自在に繰り出せるように私はなりたい。豊穣な言語世界へと飛び立ちたいという純粋な欲望。あんぽんたんワールドへの憧れの翼。)(寅さんの口上とかもうほんと尊敬の憧れ。)(思うに、書き言葉《エクリチュール》ではなく話し言葉の中には《パロールの現場ね。》二極の美学があるのではないか。むしろエクリチュールに属するものとしての、訥々と丁寧に選ばれる意志と思惟との「個の知」を示すスタイルをもつ面と、立て板に水、流れるような、既に個の思考をはみ出した伝統や慣習、パラダイムに属したものである定型、「場の知」を示すもの、そのスタイル。《定型》)(そしてこれは人は如何にそれを己と世界の関係性に合わせて「現場を構築」するか、という問題に関わる文法としての美学である。)語彙としてはまあ特に特異なタームであるということではなく、要するに馬鹿(莫迦)とか阿呆とかアホとかバカとか蒙昧とか愚鈍とか、まあ一般に愚かしさ一般のシニフィアンなんであるが。(ノータリンと表記するとまた昭和的な別のニュアンスが加わったりして味わい深いんだが個人的にここでは漢字表記にこだわってみたい。カタカナ表記とのニュアンスの違いを楽しがりたいんである。)

閑話休題

お陰で先日友人と近所の居酒屋で飲んだときの話題は「皮膚感覚としての知性と精神性としての脳足りん」ということになった。大層盛り上がった。これはこれで楽しかった。

そう。私がここで言っている感じているもの「脳足りん」と名付けたその感覚、感じ取ったナニカ、その構造と概念は何か、なんである。この言葉をそのナニカに恣意的にかぶせてシニフィアンとするアプローチ、そのような手法を以ってその正体、シニフィエを突き止めたいと思ったのだ。このイラつき憎しみ哀しみそのわろきものの構造の正体を。

それは、例えば「無能」という概念と対比されることによってその性質をクリアにされることができる、かもしれない。「脳足りん」は「能足りん」なのではない。能が無いというのは脳が無いのとはまったく意味が違う。それは「わからない」のではなく「できない」という感覚を意味する言葉なんである。「無能」はあくまでも「能わざる」、なのだ。能力、テクニック、手足がないのだ。一方、「脳がない」のはシンプルに言って文字通り物理的欠損、障害である。どうにもならんのだ。わからないのだから。…言い換えよう。そもそも自覚できないのだから。そもそも認識できないのだから。換言すれば知らぬこと、できないこと、してしまっていることを自覚していないことを脳足りんというのではないかという仮説が成り立つ。(自分が一体何をしているのか、自分の言動が世界に何をもたらしているのか、…相手をいかに傷つけているのか。罪を犯しているのか。)

だから己の無能さを自覚するとき必ずしもその人は脳足りんではない。むしろ脳があるから己の認識の外側という存在を感覚することができるのだ。世界に対する、或いは他者に対する敬意、そして逆説的だが己の存在に対する敬意、尊厳をも獲得することができる。

宮澤賢治に「どんぐりと山猫」という作品がある。
あらすじとしては、一郎が山猫から裁判に呼ばれ、金のどんぐりたちの「誰が一番偉いか」という争いを調停してくれと依頼を受けて解決する、といったものである。

 ***  ***

「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ。」
 すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。
「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」
「そうでないよ。大きなことだよ。」がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。山猫が叫びました。
「だまれ、やかましい。ここをなんと心得る。しずまれしずまれ。」
 別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山猫がひげをぴんとひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減になかなおりをしたらどうだ。」
「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。
 山ねこが叫びました。
「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」
 別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らし、どんぐりはみんなしずまりました。山猫が一郎にそっと申しました。
「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」
 一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」

 ***  ***

途端にどんぐりたちはみなその生命を失ってただのどんぐりになってしまうのだ。

…非常にさまざまの読み方ができておもしろい話ではある。
ひとつの読み方として、この「価値観の相違からくる、己に都合のいい価値観だけが一番正しいとする心-「金」のどんぐり(『価値』によって成立存在する者)たちが生み出す世界の争いごと」の物語である。

これは、賢治が生涯苦しんだ「倫理の相対性」とも繋がる、賢治作品の通奏低音の一つとしてとらえることだってできるのではないか、と私は考える。

限られた己の認識の姿を想像だにできない「脳足りん」たちはそこ(己のアイデンティティを形作っている論理基盤を超えたもの)を指摘され認識しようとするとその個としての存在を失ってしまうのだ。

「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」
無能者である。デクノボーである。虔十(虔十公園林)である。

 ***  ***

極言するようであるが、ここで脳足りんは己が無能であるとこがわからないことを言う、知らないということを知らない類の、己の認識行為をメタ認知することのできない無知のことを言う、己だけが正義を知る王であり他者に対してどのような暴虐、仕打ちを行なっているかを知ることができない、そのような阿呆っぷりに対する罵詈雑言に類する批判を孕んだ言葉なのである。

だから冒頭で述べたようなその「実害」とは全ての不都合は自分以外のもののせいであり他者を非難攻撃することがこの世の正義であると思い込んでいるところからくる。お近づきになると大変な災害に見舞われる。

脳足りんとは欠損である。己の内側のアポリアを見つめる眼差しを持たず、全ての正義の論理は完結して己の内側にあるという考えの外への視点の欠けた思考スタイルの欠陥、悪気と自覚のないばかりに悲しいほどに痛ましい浅はかさや醜悪さを晒した恥知らずで傲慢な正義の別名である。外部或いは他者という概念を想像すらできないのだ。

(「想像力の欠如」と村上春樹は確かこう言っていた。すべての暴力とわろきものの根源。)

アプリオリに正義と真理が己の中にあるところから始まる演繹的思考スタイル。思考の演繹スタイルにおける欠陥は、その最初の命題、前提としての命題に誤りがある場合、そこから構成されるすべての思考に意味がなくなるところにある。そしてそれはまた必ず他者を損なう力として作用することになる。

「ぼくちゃんが理解できることだけが、ぼくちゃんの正義だけが正しく世界の正義である。ぼくちゃんの正義を同じように信奉しないものは馬鹿で悪」という土台としての命題から始まる議論には全く意味がない。そこに対話はない。他者との対話は成り立たないのだ。

私はこの思考法を脳足りんと呼んでいる。

おそらく。

 ***  ***

で、前述したようなこの構造から導き出される「機能としての脳足りん」ね。
己の自我と正義のステレオタイプの枠組み、自尊心を守る防御の機能、そしてそこに己を閉じ込め蒙昧の牢獄としての機能、人はその中でたやすく権力に操作される大衆と堕することができる。

「防壁」としての脳足りんの、精神性において二つの側面を持つ機能である。

ジャーナリズムとメディア論に通じたリップマンはメディアで操作される大衆のステレオタイプの情緒的世論について著書「世論」でこのように述べたという。(こないだ「100分de名著」の録画「100分deメディア論」観だしたら面白くって。)

『偏見を打ち砕くことは

我々の自尊心に関わってくるために、はじめは苦痛であるが、

その破壊に成功したときは、

大きな安堵(あんど)と快い誇りが与えられる。』

 ***  ***

そしてそれは、銀河鉄道でジョバンニが鳥捕りに問うたあの問い「ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか」或いは「ほんとうの幸」へのその問いとまなざしの欠如と重なるものとして考えることができるものなのではないか。その「脳足りんの枠組み。限界」を超えるというテーマは、現実とされる既成のステレオタイプな価値観に彩られた(例えば経済、例えば名誉、例えば虚栄)日々の生活の中で眼のふさがれた蒙昧としてとらえられるものだからだ。(鳥捕りのエピソード、っては何にしろアンビヴァレンツに満ちたような、なんとも噛み応えのある難しいテーマを孕んでいる。イメージの不思議さも相まって魅惑的なんだよな。)

だんだん風呂敷が広がりすぎてきましたが。

 ***  ***

…ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊こうとして…

 ***  ***

ほんとうにほしいもの。
例えば相手の愛情と信頼が欲しい、尊敬を勝ち得たい。愛されたい。

そのとき、脳足りんのアタマには、脅しと暴力とマウンティングでそれが得られるなんていう阿呆な考えがどうして発生するのだろう。簡単にまず相手を下においてみる、己の力の優位性を確保する、その上で相手をコントロールする、という最も脳足りんでストレートな幼児性を持ったやりかたに走る。方法論に走る。支配したい、優位性を感じたい、屈辱を味わわせたい、という形をとったように見える歪んだ欲望のその深奥にあるピュアなもの、「ほんとう」。ただ、愛されたい、限りなく徹底的に(存在まるごとを)許されたい、自分の思う通りのものであってホシイ…愛らしい、美しい思いではあっても、ここに「他者」は存在できない。「脳足りん」なのだ。「ほんとうの幸」を見失っているひとたちの姿の脳足りんなかなしさは(自分も含め)ただかなしい。

 

これって一般に小学生男子に顕著であり、成人男性においてその精神構造の基本となっている思考法であるように見受けられるんだな、特にね、どうもね。(イエすみません偏見わかってますちょっと今歪んでます、いろんなトラウマとかで。あくまでも人間性と個性の問題なのでひとくくりにすべきではないのですがもちろん。地図が読めないナントカみたいなのとか日本人はこうアメリカ人はこうとかいうステレオタイプの思考停止みたいなカテゴライズもまた脳足りんの一種ではあるんだけどさ。)

 

疲れた。梅雨早く明けてくれお天気人間青空とおひさまがないしおれてしまう。

 

紫陽花ももう終わりだよ。梅雨明けしたっていいと思うんだけどな。
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いだてん

いだてん

NHK日曜夜八時の大河ドラマ
基本的に自分は普段この枠のドラマを見る人間ではない。

「面白いよ。」
などと勧められても最初の一回も観きれず挫折してしまう。基本的に長時間視聴の忍耐力がないんである。

だもんでこれも何だか周りで評判だったからとりあえず、とダメモトで観始めたら、アラ。
…おもしろいではないか、自分史上小学生の時以来(大河ドラマ愛好者の母を持つ小学生の運命の成り行きである。)のまさかの自発的大河ドラマ視聴。

で、やっぱ異色らしい。
で、視聴率がものすごい低迷っぷりらしい。
で、さまざまの人がいだてん視聴率記事に関して賛否両論いろいろコメントしているので、あれこれ考えていた。いだてん。

まあとにかくいわゆる正統派のこの枠のドラマパターンから逸脱した破格のドラマである、ということで、いいも悪いもとりあえずは「なんじゃこりゃ。」とまずはびっくりする異色の趣向のものであったんである。

 *** ***

とうことで、先日録画していた第一部終了編を今観たところである。関東大震災という惨劇、そしてその後。

これは復興への道筋をたどろうとする人々を描く未来への不屈の希望と躍動を描く回だ。ある日突然断ち切られた日々の暮らし。理不尽に失われた命、街、生活。それぞれの個々のドラマ。そしてそれでもなおそれぞれの命を生き続けなければならぬ、そこからの未来、その復興のことを。

…素晴らしかった。

巧い。感服した。楽しかった。感動的だった。

で、ここで大切な要素として「笑い」がぐいとクローズアップされるんである。楽しさ、笑い、分かち合い、生命力、希望。もちろん本筋のスポーツ、という路線は外さないままに。

笑いって、さまざまなその他のすべての辛さ悲しさやるせなさどうしようもなさ、すべてを超えようとするような、こういうもののためにあるのだった。元気って生命力って、理不尽やそれに打ち砕かれたものがみな丸裸のところからとっくみあって助け合って思いやり合って新しい未来の夢にむかって立ち上がってゆこうとする、こういうところからやってくるものなのであった。共同体を構成するにあたっての基礎となるもの、助け合うことへのまっすぐな善意ってかっこよさって潔さってこういうものであるのだった。(今観終えたばかりなので言葉が熱いままなようだな自分。)

…おもしろかったんである。
当初違和感を感じた、本筋マラソンパートとはかかわりのないように思えた「落語」の要素、脚本家宮藤官九郎がこのビートたけし森山未來が演じる「落語」パートを語りと物語の層双方に絡ませた理由はこの「笑い」と「語り」と「芸」「伝統」「物語」の融合芸術である落語というジャンルの特質を持ち込みたかったからなのだとしみじみ納得する、そんな第一部完結大団円であった。

 *** ***

例えば昭和三十年代において更なる大過去を語る者である古今亭志ん生ビートたけし)が、まだ若かりし落語家のタマゴだったときの己を語るときの、本当にロクデナシだった時代を見事に演ずる森山未來の、あの徹底した「どうしようもなさ」のこと。一線を超えて踏み外したようにように見えるあのだらしのなさ、どうしようもなさ。

…唐突なようだが、漱石の「こころ」を思い出したのだよ私はここで。Kが自殺したときのあの先生の人生の決定的な瞬間のことを、その未来永劫すべてを一瞬にして真っ黒な闇に染め上げたあのシーンの絶望の意味のことを。

あれを救うナニカがあのいだてんの展開にはひとすじ、示されているのではないか、なんてね。 或いはそれはガンジーの追い求めた、世界を変革するものである「徹底した愛と赦し」にさえも通じているのだ。

だからつまり、一瞬の過ちが一人の人間のすべてを奪うスタイルを持つ倫理の怖ろしさについて考えたのだ。或いはそのようなスタイルをもった息苦しさの中にある現代社会の姿のことを。

実はものすごいことなのではないか、あの展開は。彼が社会的に生きる価値はない人間、と決めつけられてもおかしくないはずなのに、なんだか周りににんげんからゆるやかに赦され愛されちゃう人間のナマの最低の「そのまま」が芸の世界で昇華されてゆくロクデナシの物語と、さらにその彼が語る笑い飛ばす己や世の中すべて、…というその「語り」の意味。やるせなさと理不尽と怒りを通り越し、あきれたあまりあきらめたように最後には笑ってしまう、この乾いた、けれど優しい、どこか突き抜けた、不思議な笑いのその構造。それは、この第一部最後の、関東大震災というカタストロフのその悲しみも怒りも切なさもすべて飲み込んでなお乗り越えてゆこうとする、おおらかな生命力としての人々の寄り添い合ったところにうまれる労わり合いと笑い飛ばしの昇華の力となってゆく。

これが復興の深みとすごみと軽やかさ「笑い」の力へと集約されてゆくところで森山扮する若きロクデナシ落語家のある種の目覚めの躍動とともに顕現していることに私は感動したのだと思う。己の物語を語りながら笑い飛ばしてゆくという、物語を創造する力、己を物語化することによって獲得される、外側の視線、観客、メタの視線の二重構造、主体と客体の同時性。世界への参加とそこから解放されている魂の獲得という矛盾の止揚。その「芸術・或いは芸」の力による、おおらかな笑いという力による、生命の底力、日常を生きる大衆(吉本隆明の方の大衆ね。決してオルテガではなく。)の力。

これはひょっとしてものすごく革命的にその澱んで滞った社会のどん詰まりの中で形骸化、固定化した倫理の不寛容の怖ろしさを暴き否定し、それを寛容、赦しとしての方向性として示す大きな破壊的な力をもつものが潜んでいる可能性なのではないか。

…なんだかゆるしちゃうのだ、という論理のない根拠のない「前提としての」徹底した赦し、「前提としての」親愛の情、存在の価値。家族の基本のような、愛の基本のような。存在の基本、のような。

その日常回帰への方向修正が、ドライな笑いというこのクドカン独自の手法によって。若き日のこの己の危うさが老いて安定した家族の中の笑いの中で語られるビートたけしの語りの「ヒューモアとペーソス」この愛嬌のような可笑しみの中に包まれてゆく安心感。「もう、…ホントあんたってしかたないなア。」っていうテゲテゲのナアナアの赦しの中に徹底して許されてゆくことによって、踏み外さないですむ、ということもある。

不幸と絶望による自暴自棄が、見捨てられた孤独と絶望が、その個人ももちろんだが、他者をも巻き込むより大きな不幸と絶望をもまき散らす。その不寛容が、正義ヅラして責め立てる部外者の裁きが、これまで巻き起こしてきた犯罪的なるもの、恐ろしく悲しい出来事のことを私は考える。

例えばこないだの、川崎でのあのものすごい惨劇。朝の登校児童たちを襲った無差別殺人。犯人もその場で自殺した。まっくろな絶望はしかし存在の虚無感そのものからくるものではなく、歪んだかたち、追い詰められた痛み、こんな風になりたくなかった、こんな風な仕打ちをされたくなかった、わからない、本当はまだ生きていたかった、という思いをどこかに感じさせるような、そのためにひとりで死ぬことができなかったさびしがりやの救いのない拡大自殺である。

関連ニュースコラムここにリンクしときます。

池袋の引きこもり暴力息子を殺したエラい人の家庭の悲劇も同根である。世間の、多数派、正義感という名を持った無記名の、枠から外れようとした少数派に対する賤しいイジメに似た暴力に転化しうる危険な「善意」の仮面。

 *** ***

さて、ということで全体構造の凝りっぷりについて。

一見本筋と無関係な昭和30年代のビートたけしの語る、己の若いころ、そしてそれと同時進行していた金栗四三のエピソード、という奇妙なかたちをとったこの二つの小箱の入った入れ子型物語の語りから、その二重(落語パート&金栗周り体育関係パート)×東京オリンピック前昭和パートの同じ二重構造(ビートたけしの語り空間と同時代の東京オリンピックにむかう昭和三十年代)(第二部への架け橋になっていると思われる。)、というドラマの時空構成のわかりにくさが不評となっているというのだが、まあそれはそうだろう。

語り手がまたビートたけしだったり、奇妙な彼の飛込み弟子(金栗と奇妙な縁を持つ)にバトンタッチされたり、落語の中の語りなのかただ思い出して人に話している日常のなかの語りなのかの区別も判然としなくなってゆく状況、さらには突然森山が落語調で語り出したり、ドラマの地の語り手が出てきたり、入子型物語そのものの語りの迷宮が構築されている。視聴者はめくるめくように変化する世界から世界へと翻弄される。

…だがむしろそれは戦略的なものであり、このドラマの構成は、それを飛び出してその物語の力を2020のオリンピックを控えた「イマココの視聴者」の現実にターゲットを当てたものとするベクトルをもった多角的で知的な構成であるのだと私は思う。ものすごく観る人を選ぶけど。決してそれは視聴者に媚びない。

あまちゃん」もそうなのだが、このひとのドラマの作り方の独自性は(イヤワシこの二つしか知らんのですがとりあえずこの二作に関して言えば。)おそらくここに突出した才能の特徴がある。物語が現実の「イマココ」の視聴者へと他人事の対岸の火事の物語ではなく直接襲いかかってくるような。

まず、この時系列、語りの重層の仕掛け。この構造は、…っとあまちゃんの方をがっぷり言及しようとしてハタと力尽きた。

…とりあえず、「いだてん」第二部が始まる。また違ったびっくり箱な趣向が用意されているのを楽しみにしておこう。

 

ただ、とりあえず共通していると思われる、テーマとして掲げられている「種まく人」。という命題について。

金メダルをとったひとりのヒーローの物語ではなく、人々が皆で盛り上がり発展してゆく土台を作っていった人々の物語、バトンの渡されていった手から手へ、のその手の持つたくさんの物語を迷宮に絡めとってゆくこのドラマはやはり革新的に楽しいものである、ような気がしている。

「椿宿の辺りに」梨木果歩

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梨木香歩さんの新刊、しかも非常に面白かった記憶のある「f植物園の巣穴」の続編、ということでどひゃーっと飛びついたんだけど。

…う〜ん、期待したほど面白く感じられなかった。
というかやっぱり面白くなかったと思う。

確かに梨木果歩さん、その綿密なデータからくる堅牢性に支えられた世界観、こなれた文章に物語構築の手腕、凝った構成、確かに手練れのプロの作品、ではあるんだろうけど。

そして「f植物園」よりもむしろ読みやすかったんだと思うけど。
…おもしろくないのだ。形から分析するとおもしろい構成なんだけど中身はおもしろくないのだ。「植物園」にあったあの深み、重み、哀しみ、痛み、世界と個のかかわりの関係性の中でそれは激しく胸をえぐり脳を揺さぶり痺れさせるものであったような気がするんだけど。アイデンティティの枠組みの根底を揺さぶり浄化してゆくような。

…その重みと深みがない。
軽やかさを追っていることとそれはあまり関係がない。アイデンティティや存在の不安も身体を襲う痛みも、それらすべてはただ小説、物語を動かすための材料、要素、「f植物園」で使われていたモチーフの意味のインデックスとしての役割を担うだけのものへと堕し、作品自体には推理小説的な、ミステリとしての知的な面白さを提供しているだけだ。

…物語設定は、「f植物園」での主人公豊彦の曾孫、佐田山幸彦が原因不明の痛みに導かれて祖先の、その属した地や祖先との関わりを背負ってゆく体のものであり、文章はこなれている理屈っぽい主人公にも好感が持てて読みやすく、他の人間描写もさすがに優れて魅力と雰囲気がある。まあこれはこれでとしておもしろくない、わけではないのだなあ。う〜ん。何を求めるかによるんだろな。

ただ、「岸辺のヤービ」でも思ったんだけど、作品として、このひとのこれまでの作品のもつ要素を思想を、論理としては網羅している、けれどもそれがただ論理だけになっている、という感覚がある。奥に秘められていたすさまじさ、アイデンティティへの疑問、存在という原罪、その痛み、深みと重みが既に感じられない…。もしかしてこのひとは書きたいことを書きつくしてしまったのではないだろうか、なんてふと感じてしまったんである。

…そういうことがあっても不思議ではないし、既に偉業を成し遂げてしまった、といえばまたうなづけるような気もするんだけどね。

「f植物園の巣穴」は確か昔感想書いてたと思ったらあった。

yamamomo.hatenablog.com

100分de名著 マハトマ・ガンディー「獄中からの手紙」

100分de名著、随分昔のを掘り出して観てみた。2月のガンディーである。監獄から弟子にあてたヒンドゥーの求道の教えを説いたもの「獄中からの手紙」を追いながら彼を解釈してゆく趣向。

番組の概要、公式HPはここ。

ヲヤ指南役はオルテガのときとおなじあのかっこいい先生ではないか。
…と思ったら、やっぱりすごく面白いのだ。

第三回までみた。

で、しみじみと考えた。
この番組ではガンディー(教科書やら映画やらでは「ガンジー」って言ってた記憶があるんたけど、発音はガンディーって言った方が近いそうな。ちいと気取ってるみたいで気恥ずかしいよな気もするが。)の「非暴力不服従」を「愛と赦しの論理」で読み解いているんだが、そのラディカルな思想展開について。

暴力には暴力をの論理、近代消費社会の基盤そのものとなっている収奪の連鎖を生むその論理を土台から問い直す可能性をこの番組はガンディーに求める。

同じ「力対力」による限りない弱者収奪のルサンチマンの連鎖につながる論理地平ではなく、そのような「強弱反動」ではなく。…むしろ革命的な新しい超ー近代を目指す思想、或いはゼロに向かおうとする力そのものである論理として読み解く。

勇気を暴力ではなく無畏に求める、それはものすごく崇高で美しいけれど、むしろ美学というよりは知性としてとらえるべきものではないのか。そしてそれが知性であり力でもありうるのだ、という可能性を示したこのガンディーという英雄の起こした奇跡に人類は希望を見出すことができるのではないか、と。

「非暴力」と訳されているヒンディー語は「アヒンサー」。
これは、「簡単にボク手は出さないよ、殴り返したら犯罪だもんね、物理的肉体的暴力は避けるよ」、という意味合いのポリシーとしての「非暴力」というよりも、より深く「愛」或いは「赦し」と訳すこともできるという宗教的な語彙であるとこの先生は語る。「ア」という否定の接頭語、「ヒンサー」という傷つける行為、害する行為、殺生という行為を示す語の組み合わせからくる言葉。

そしてガンディーの思想のキイはこの「否定」であると彼は語るのだ。その教えは「非暴力」「不服従」。その教えの特徴は「非・不・無」「こうしてはならない、ああしてはならない」。

そして独立へ向かうべき国家的抵抗運動としてこのポリシーはあまりにも受け身である、消極的である、という批判に対し、それは違う、と。

よりラディカルに思想の土台を常にひたすら「否定」してゆく行為、己の存在の中の矛盾をも否定してゆこうとするゼロへの動きとしての否定の行為は常にすべての思想を形骸化させず監視し続ける「永遠の微調整」というやりかたを示すものであるというのだ。

永遠の微調整。

これはもちろんレヴィ・ストロースのあの「野生の思考」と直結した思想スタイルである。現場に適応しながら都度形作られてゆく神話的な形をとった独特の思考スタイル。そしてそれは受け身ではなく寧ろ積極性である、と。

で、思った。この指南役の先生のテーマというか思想傾向というのはコレなんだな、と。


研究者にはそれぞれ己自身が投影された思想を過去から汲みだす、そのようなかたちでのオリジナリティがある、と私は思っている。過去の偉人の中の誰の何を研究しても結局己の生きる己自身の時代に適応したオリジナルに生きた思想の可能性をそこから読み取るのだ。(なんかね、春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のこと思い出すんだな。ものすごく引っかかってる謎のシーン。「世界の終わり」側にある不思議な図書館で、主人公の片割れが延々と頭蓋骨からなにかきらめきの信号を読み取ってゆく作業をする、というシーンでね。これはそれと関係あるのではないかなあ。己の現在と響き合う思想を過去の頭脳から生きたきらめきとして読み取ってゆくイメージを持つ、そんな不思議な「世界の終わり」にある廃墟にも似た図書館。)

そう、オルテガのときもこのキイ・ワードを使ったのだ、彼。「永遠の微調整」。そのとき彼はこれを「保守」の思想の神髄とした。(急進と革新、革命という血の流れる熱狂のもつ危険を回避するやり方、ここでそれはガンディーの「よいものはカタツムリのように進む。」という言葉に託される。)

どのように「読む」か。というスタイルの問題である。結局誰もが同じことを違う言葉で言っているということだってできる。根っことしての真理はいつでも同じ。枝葉という具象化されたかたちが違って見えるだけだ。

真理とは万人に万の世界に万の時空にそれぞれ最適なかたちで具象となって適用されるために虚無、空白なものとしてある。その時代その読みとられた現場によって、つまり「読者」との共同作業によって成り立つ「読書の現場」、そのとき思考はその都度形を変えて蘇り唯一の真理と繋がった可変性をもつ生命体として生きた力をもつことができる。

 *** ***

…でね。ガンディー。

何故完璧で素晴らしい理想であると感動したのに、いざそれを自分にあてはめたときシミュレーションしたとき「ムリ~!」になってしまうのか。理不尽な暴力への復讐心やさまざまの欲望や虚栄や利己心やの克服による理想郷。

何故ガンディーにできたことが私にはできないのか。

理由があるはずなのだ。人間性の尊卑であるから当然だ、マハトマ(偉大なる魂)、偉人聖人と凡人の違いであると決めつける前に何か考えるべきことがある。偉人と凡人の違いとは何なのか。

偉人の論理はシンプルで凡人のそれは煩雑で複雑だ。

偉人はそのシンプルさを、凡人が埋没して負けてしまうところである煩雑で複雑な現実をその場に応じたやり方で制覇してゆく実際の政治力をもってシンプルなまま通そうとすることのできる「強さ」をもっている。誰もがわかっているシンプルさが、小さな小さな欲望や保身の積み重なりの絡み合いの大人の事情でどんどん複雑な物語に絡めとられ、にっちもさっちもいかなくなるのが普通なのだ。

そのことを今一生懸命考えてみたけどいろいろやっぱりどうしてもわからない。絶対に何か理由があるはずなのだ。誤った欲望をコントロールするまっすぐでシンプルな力はどのような論理から来るのか?換言すれば、彼の実践した愛と赦しの力の根源はどこに求められるものであるのか?明確な論理を持った。…それを見出すことによって何らかの道は開かれる何かがあるのではないか、というような気がするんだけど。なんとなく。

 *** ***

ここまで書いてから、第四回、最終回を観る。
ヒンドゥー原理主義の若者によって暗殺されたアヒンサー(非暴力、愛、赦し)の偉大なる魂。うっかりじいんと来てしまった。切なく痛ましく悲しく。己の、そしてすべての人間のそのようなかなしい愚かしさと、けれど同時にそれを克服して幸福であろうとする魂の崇高さの存在の共時性。双方は必ず常にともに在る。ひとりの人間のミクロの中に、世界全体のマクロの中に。

キリストは磔刑にされしジョン・レノンは撃たれなければならなかった。漱石「こころ」の先生は己の心臓の血、己の死によって贖われた知を「わたし」へと注ぎかけることでしかそれを伝えることができなかった。

何故だろう。この贖いの物語の必然はどこにあるのか。

そして香港のデモのことを思った。無抵抗非武装の普通のおっかさん風が機動隊に向かって「あんたたちにも子供がいるんだろう、将来子供を持つんだろう、何故子供たちを攻撃する?」と叫び、そうして武装部隊によって顔を催涙弾で撃たれた映像をみちゃったんである。

泣きたくなった。ガンディーの思想は結局通じないのだ。

そして私の心の愚かさはこの絶望という蒙昧に流れようとする実に愚かしさしかない反論を試みる。
時代が、状況が違うのだ。すべての人間の中の「仏性」「善性」のようなものに依拠したものであるガンディーの卓越した哲学、思想はその根幹を否定され失ったとき無力なのだ。世界はもう既に一度腐敗したシステムごとすべて滅びなければ後戻りできないところにまできているのだ。スピード、便利さ、快適さ、失うことを恐れること、損得の計算、倫理と世界全体や過去への畏敬感覚の麻痺。一度踏み外したもの、一度味を占めたものからは逃れられない。

…いや。
否。

こっちに流れきってはいけない。例えばさっき私が考えた善悪の共時性の必然が持つ可能性のこと。

…もっと違うところにあるような気もするのだ。それを見つけなければならない、彼の教えが一般に理解されるように単に欲望は悪として否定する、夢や欲や楽しさの生命力を権威で押さえこもうとする新たな抑圧の暴力としての道徳的理念であるとして把握するのではなく。

それはきっと違うのだ、その思想がイマココで生きることができる、もっと違ったアプローチがあるはずだ。歪んだ自己犠牲や美学なんかではなく。単純なロハスの思想だけではなく。もしも彼のその思想が近代を超克してゆく可能性をもつきわめて現代的なものでありうる、そうであるべきものならば、そしてあの時代あのとき歴史の中であんなにも感動的な実績をもつことができたとするならば、それは何故なのか、どうしてそれが今はダメだなどとおもうのか、背景と戦略とを知によって把握し現在と未来へと活かし照らしてゆくためには、なにか別の理論があるはずなのだ。

何故アレが実効性を持つ「力」として歴史の中で目に見えるものとなり得たのか。

歴史学者や文学者や政治学者や、それぞれがそれぞれの研究分野からの丁寧な資料を読み取ってゆく精緻な分析アプローチでそれを見極め、さらにはそれを統合することで生きた新しい未来というのは拓けてくるものなのではないか。過去をあれこれ言い立てる意味、研究する意味は、たとえそれが些末なことであるように見えても、一旦統合されたとき無意味なものは何一つなく、何かが見えてくる、すべてがその一部である世界のかたちが見えてくる、そのようなところにある。

それが結局はアカデミズムの役割なのではないか。
純粋な知の喜びはもちろんである。それぞれは他の力から守られ独立を守られ保護され、そのことによって、純粋な人間のこころが別種の論理の光の可能性を思いもよらぬところからもたらすことのできるところ。人間の小さな繊細な可能性のタマゴの声をまもる清くあるべき聖地。

だがタマゴはそのまま暖かな巣穴の中で権威の魔力という蒙昧によって濁り腐ってしまう傾向をも持っている。純粋な喜びから生まれうまく育った卵は上手にその外部へと孵らねばならない。十分に成熟したとき外部に向かってその純粋の領域から巣立たねばならない。そのピュアネスの根源の記憶を守っていられる時間がその一つの卵の命の寿命だ。そして限られた寿命は必ずある。

…やっぱりわからないよ。
だけどわかることは、楽しいことや喜びや個々の尊厳を否定するところからはより大きな災害しか生まれない。攻撃し合うところからは決して仲直りや良いものは生まれないってことだ。非暴力、ひたすら否定するという真理への戦略的思考について考える。

 *** ***

…ところでしかし。
この先生はどうもねえ、オルテガの時も思ったんだけど、ところどころ重要なところで、あれ、と上手にごまかしてしまうところがある、ような印象を受ける。それはまあ番組の構成上仕方がないことなのかな、とも思うんだけど。そりゃそうか。100分で偉大な思想お手軽にひとつ、っていう番組だもんね。

例えばさ、ガンディーの掲げた愛と赦しについて語るとき、他人の「自分と同じところ」「自分と違うところ」それぞれを「好きだな」と思うことがあるデショ、と。その矛盾の同時性を「愛」と呼ぶのだ、と。…そんな風にさらりと解釈してみせた。

否定はしないけど、いや軽すぎるでしょうそれ。ダイバーシティの問題。

あれえ、とかわされてしまった印象の所以は、そのとき上手にスルーしてしまったその間の闇の深さの問題。「己の理解できる信奉するものだけが唯一絶対の正義である、違うものは罪であり間違いであるから問答無用に排斥する、許さない、抹殺する、折伏する。」「自分の正義に不都合なものわからないもの無意味に見えるもの役に立たないものは存在しなくていい、抹殺していい、平等でなくていい。」この人間の衝動の黒さ、どうしようもなさの闇という巨大な問題から目をそらしてしまう。諸悪の根源であるその正義への所有欲、というような蒙昧について。

それは否定できない、しちゃいけないし、ただそれはどう認識し処理するか、という問題、そして寧ろ芸術や文学の分野にもかかってくる、っていうようにも思うんだけどね、徹底して追及するべきとこは。だけどとにかくしなくちゃいけないとこだ。ふさいではいけないとこだ。無理やりふさげば必ずもっと恐ろしい暴力や権力という力を帯びたかたちで噴出してくる。闇。蒙昧。


で、シメなんだけど。先生、ガンディーの思想はカントの「構成的理念と統整的理念」の概念に重なるものであると読み取っている。ウン、確かにとりあえずこれだな。とっかかれるとこは。

これは賢治が岩手とイーハトーヴォを、方言とエスペラントを、民俗と宗教と最新物理学や科学を平べったく等価に捉えようとして見せた姿勢と、構造として似ている、とも思う。今できる実現可能な、現実的な手立ての方法論のことと掲げて置くべき理念、完璧なイデア、理想の関係性ね。それは夢と現実、理想と現実、標榜する看板とそのための実質的なツールの関係性だといってよい。嘘も方便とか次善策とか永遠の微調整という具体のレヴェル。

番組もさすが優等生、上手にこっちの方向に落とし込んできれいに終わってくれた。一言でいうと、…よござんしたでございますです、ハイ。

実際重要なテーマはね、「徹底した赦し」なんだっていうことなんだよね。
本当は誰もがわかっているのにわかっていないような気がする、このシンプルで困難な真理に近いところにある感覚の、この不思議。ただこれに至るためにありとあらゆる勇気と智恵が必要なのかもしれない。シンプルな幸福。

 

番組制作に関するコラム。
番外編みたいな裏話みたいな。内なる敵について。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/62_gandhi/motto.html

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いろいろわからなくなるととりあえず不貞寝にすると決めているネコ