酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

栗子さん・プロローグ

栗子(リツコ)さんは、栗が好きである。
ケーキのチョイスはモンブラン

が、体質のため、成人したころからケーキ類全般、食べられなくなってしまっていた。身体の組成も大分変化し、今はもう大丈夫なのではと言われているが、数十年も食べていなかったため、口にすることに対して大変心理的ハードルが高くなってしまった。それが食べ物であるという認識がなされないのである。思考回路の分断が成立してしまったのだ。で、まあ、摂取しなければ死ぬという類のものでもないので、ずるずるとひとかけらも口にすることなく数十年が過ぎてしまった。

が、ある日ハタと思い至った。このまま一生あの華麗にして深遠なスイーツの世界に遊ぶことなく一生を終えることになるのか、自分、と。あの夢のような世界を。

大概の子供がそうであるように、栗子さんは甘いおやつが大好きな女児であった。お土産のケーキの箱を開けるときの心のときめきは一生を運命づけるほどの甘くあたたかい至福の時間の累積記憶を形成した。それはかけがえのない財産である。

母がケーキを拵える際には、なみなみならぬ真剣さをもって菓子ができあがるさまを観察しそのミラクルな現象に驚嘆の眼をむいた。幸せクリームな卵色、粉、砂糖、ナッツに蜂蜜、練る、混ぜる、泡立てる、重ねる、冷やす、そしてオーブンにおける魔法のような焼成過程…原料の化合のプロセスに従って次々と現れる世にも美しい色彩と質感のそのけざやかなる美的化学的変化。その甘やかな香り。普段ナマケモノの権化であった女児栗子も、この時だけはいそいそと手伝いにいそしんだ。(ボウルを押さえたリ器具を渡したり、その程度だが。)生クリームを泡立てたあとのボウルを洗う前に奪い取るようにして抱え込み、きれいにすくいとってなめるのが楽しみであった。身体を壊して療養所に入り、おやつに不自由した時期には、夜な夜なチョコレートの国の夢をみたものだ。女児とは概してかようなおやつ大魔王なるものである。

 

…さて時は師走、既にその半ばも過ぎた。風景はそろそろ年末年始の独特の風情を帯びはじめている。

関東年末年始においてそれは、やたらと眩しいきらきらの青空カラカラの空っ風、吹きすさぶ北風小僧の勘太郎である。「正月みたいな空」とはすなわち、快晴特異日非日常且つ非常識な異世界レヴェルにあるもの、人から日常の音のリアルをすべて奪う暴力的に激しい静寂に包まれて、ぽかりと開けたお正月空間の金色に輝く青空のことである。

初詣に誘う神社のポスター、歳末セールの張り紙。だが派手やかな色遣いも生活のためのあざとい商売ッ気も何もかも、街の風景すべては遠大な初冬の淡く透き通るような光に静かにまぶされ遠く懐かしく眺める記憶の風景に見えた。わずかに残った裸木を縁取る銀杏の黄金の光がほとりと落ちる。風に吹き上げられ、きらきらと舞う。

すべては愛おしい。それはただ人々の生活全体をひたすら幸あるものと思わせる遠い別世界のカプセルの中のようだった。

同じように、この風景の金色の光の粉に己の姿を縁取られ包み込まれ行き交う人びとの風景。光に縁どられ、半ばその光に溶かされている。ひとり、葱の束を抱えよちよちと歩くおじいさんなどとすれ違いながら、今この世界に包まれている奇跡と不思議を感じ、栗子さんは突然幸せになった。その遠い風景の中に幸福という物語の意味を見出したように思った。この限られた世界は今、限りなく繰り返す年月の流れの中で、穏やかに年末を迎え年始の準備をしようとする街の不思議な静けさと華やぎの中にあった。一冊の絵本の中でひととき開かれた一頁の中の風景のようであった。…その平和のことを大層貴重で愛おしくかけがえのないものと感じたのだ。栗子さんはそのとき、激しく強く、心の底から世界の平和を願った。

そしてこの明るい風景の先の隣町には、レ・アントルメのモンブランがあるのだということなどを考えたのである。

 

だが今日のターゲットはそれではない。向かうのは逆方向である。

…目の前の風景、頭の中の風景を混ぜ合わせながらふわふわと歩いてゆくと駅に着く。明るい冬の陽射しの中で栗子さんはずっと、嘗て幸福であったときの、さまざまの己の人生のシーンを思いながら歩いていた。

駅に着けばまた風景が変わる。繋がる場所も変わる。栗子さんは、それを楽しがりながら真昼の明るい電車に乗りこんで、ゴトンゴトンと揺られていく。彼女はまだ幸福なままだ。

  ***  ***  ***

栗子さんは栗が好きなのだ。

秋になると、栗への思いは尋常ならぬ激しさをもって彼女の心を支配する。あたかも熱病に冒されたごとく。そして西暦2017、今年は特にモンブランへとその指標が焦点化された。これは先に述べたように、嘗て己から理不尽にも失われた幸福な菓子の世界を、その過去から未来へ向けて取り戻そうという人生の大冒険である。

 

週末になると幻想第四次鉄道TOKYO・中央線に乗り込んで、百花繚乱モンブランワールドへと彼女は向かう。

秋が巡り、無花果と栗の季節が街に巡ってくる、そこに平和が続く限り、おそらく。
彼女において「モンブラン=この街に菓子類の享楽文化があふれている証左=このちいさな世の中における平和の証明」なのであり、栗子さんはこれを三段論法的に応用した形として「モンブラン=世界平和へとつながる象徴」という図式に変換し真理として存在させしめている。この根拠こそが、彼女が今この行為を以て今日を生きるためのよすがであるといえよう。

この世界平和を追うために、幸福という真理を読み解くために、彼女は今日もひたすらモンブランを求めて歩くのだ。

(気まぐれに続く)

ロスト・クリスマス(メモ)

もうクリスマスは私にはやってこないんだな。

 

どんなにツリーを飾ってみても、クリスマススタンダードやバッハのオラトリオなんか聴いてみても、しがみつくようにして古い映画なんかや観てみても。クリスマス・キャロルや素晴らしき哉人生やくるみ割り人形や…。

 

螺旋を描くようにして重なりながら繰り返されていたはずの私のクリスマスはもう戻ってこない。うまく思い出せない。

 

膜一枚向こう側にあってどうしても入り込めない。

今まではそうありながらも、ほんの少しずつだけ、危うく重ねてきたんだけどな。どんどんどんどん失われてゆく。零れ落ちて離れて行ってしまう。

 

いつからこんなにもひどく失ってしまうようになったんだろう。

この寂しさに、ふと川上弘美「物語が、始まる。」のあの胸の痛む切なさの読み解けない論理を思い出した。物語が始まることと失われることの意味を。

難しいな、少し考えてみようかな、25日まで。

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妄想

荻窪の小さなワンルームで、するんと背の高いあのひととさまざまの考えを一生懸命語りあっていた時代のことを思いだした。

とても大切な思い出なのに普段はしまいこんで忘れているんだな。

…いや、そういうかけがえのない時間を重ねてきた、その上で現在が成り立っているという豊かさをこそ私はきちんと把握しなくてはならないし、それは、崖っぷちに立たされたと思ったとき、自分を支えてくれる唯一の、最後の望みの綱になってくれるものとしてある。

 

Y君と私は、ふたりとも二十歳そこそこで、同じ大学に通っていた。

彼はウチのすぐ近所に越してきて、私は夜になるとよく家を抜け出してあの部屋に遊びに行った。近所のコンビニに一緒に行って夜中のおやつを買って帰ったりして、何だかままごとのように楽しかった。(私はかぼちゃプリンが好きで彼はチーズ蒸しパンがお気に入りであった。)土日には一緒に街をほっつき歩いて買い物につきあったり喫茶店でケーキを食べたリ(吉祥寺のレモンドロップは当時からあったんだぜ。あの頃は井の頭公園口のお店だった。多奈加亭もチェーンなんかになってなくて、とっても素敵なかぼちゃケーキがあったし、ゆりあぺむぺるは当時から白ワインとスイーツのマリアージュなんていう洒落たことしてた。)、朝には待ち合わせて学校に一緒に行ってみたり、日常のちいさなくだらないことでたくさん笑ったり。若さのもつ尊大さで人生について偉そうに議論したこともあったのだ。本当に忘れていた。

麦酒の味を教えてくれたのも彼だった。それまでおいしいとか習慣的に飲みたいとか全く思ってなかったのに、あれこれ飲み比べにつき合わされてたりするうちにすっかり麦酒なしでは生きられない身体に。(アル中への手ほどき…感謝すべきところか抗議すべきところか…。)

泣き虫のあのひとの純粋さに大層驚いたこともある。最後にみたあの人の顔は、私がさよなら、と言ったとき、目を真っ赤にしてほろほろと泣きだした、あのやわらかな泣き顔だった。あの顔のことなんかを今なんだかつるつると思い出している。私は泣くことはできなかった。どうしてかわからない。寂しいことよ、とは、確かに思ってたんだけどな。

で、もう少しで世界が滅ぶんだったら、或いは自分の人生が終わるんだったら、どうする?なんて話をしたことがある。確か二人で彼の淹れてくれた珈琲を飲みながらだったと思う。日曜の夕暮れ時。

「今もってるカネ全部きれいに使い切る。今まで我慢してたやりたかったことぜんぶやるな、オレ。」

…なんてことを言うから、なんだかものすごい陳腐でつまらないなあと当時未熟な私は思ったんだけど、今、実は自分が彼とまったくおんなじことを考えてるということに気付いて愕然としているんである。(それで思い出したんだけど。)

我々は皆大抵、日々が続くという前提のもとに、普段のこの日常に支えられ、また、閉じ込められている。明日を守るために明日破滅しないために社会的立場を守り暮らすために節約したり我慢したりして置かれた場所で分相応に生きようとしているのだ。

けど。

心のどこかで、ここからポンと抜け出して限りなく自由になりたい、と、いつだって思っている。何もかもから逃げ出して。(問答無用に不可抗力な力ですべてをぶっ壊してくれる、ゴジラのあの圧倒的な破壊っぷりに痺れる快感をおぼえる原理。縛るものに対する破壊への衝動はこの自由への憧れからくる。)

夕暮れの最後のひと切れの中を遥かに光りゆく飛行機を見上げて、あれに乗ってドコカに行きたいなあ、とか、電車に乗っていて、このままふと出奔してしまいたいなあ、とか。

それがあたかも貨幣経済に関した陳腐で通俗な欲望に帰結してしまうものであるかのように感じてしまうことの切なさは、深く人間の業に関する寂しさである。と同時に、一見非の打ちどころのない合理的な貨幣経済制度による社会が、どこか決定的な歪みの源となる構造をそれ自体もっていることを示唆している。その圧倒的で暴力的な魔力、束縛力は、人の本来もっている「ほんたうに大切なもの」を問い続ける力を曇らせるものなのかもしれない。とてもとても個別的なただ「それ自体」でだけであるはずのものを、代替可能であるかのような記号に還元してしまおうとするメディア構造の力。

 

さて、ということで。

煩悩満載最後の望みプラン。

とにかく何にしろ断捨離しなくちゃ動きがとれないな。業にまみれた我が人生、せめて後に残るケガレの痕跡を少しでも減らしておきたい。

で、ほんのしばらくまったくのひとりの自由になってみたい。何にも脅かされることなく怯えることのないところに生きてみたい。そうして、行きたかったところ、やってみたかったこと、我慢してたこと。…しかしねえ、憧れだったあの店のあのケーキ食べておこうとか、もう一度、懐かしい友人たちとあれやこれや遊んで笑ったり話し合ったりしておこうとか。せいぜい、その程度。あと、旅。圧倒的に、これ。旅だ。持ってるお金がからっぽになるまでひとりでひっそり。日当たりのよい明るい部屋を選んで日を暮らし夜を明かす。そこではきっと今日常の中で読めなくなっていた本や漫画がちゃんと読める。今家にたまっている積読を抱えて行って何にも邪魔されず心配もせず読みふけるんだ。ふらっと映画館に入ったりとかもね。そして考えたこと好き勝手にいっぱい書き残して。

…いずれにせよ、時間とお金と身分と、あらゆる身体性に心が縛られて抑圧されてきた、小さな小さなことどもが降り積もって致命的になったココロノコリたち、山積物。本当はいつだってできることなのに。或いは、心の中にきちんと小さな永遠の日曜日を持っていたら。…ただ勝手にひとりで牢獄に入って、頑張って生きている眩い人たちを羨んでいた。

 

…いよいよとなったら(このときはすぐに来るだろう)、怖さや痛みが麻痺するように酒をたらふく飲んで泥酔してから湯を張ったバスタブに入り、鋭利なナイフでぐっと内側に向けた手首を切る。このやり方が、お湯の中に血液がどんどん流れだしていくから確実だという。服は着たままでいよう。そして独り言をぶつぶつとつぶやきながらそのまま眠ればいい。

まあしかしこれもまたその後の陳腐で悪趣味なお昼のメロドラマや安手のB級サスペンスホラー映画みたいなシーンだなやと想像したらやんなっちゃったよ。己の最後が驚くべき残虐さと醜悪さと陳腐さ、そのあじきなさに彩られたかたちで締めくくられるってのも…まあそんなもんか。(ちなみに私はホラーやスプラッタは大嫌いだ。好んで怖い思いをしたがる輩の気が知れぬ。映画はおめでたいハッピーエンドに限る。世界は脳天気なお花畑であるべきだ。)

つまりだな、この陳腐ないやらしさは、第一発見者になる彼、私を追いつめたあのひとのこの後の人生を一生その風景のトラウマでダメにしてやる、とか考えているところからくるワケだな。「こころ」のKを気取ってたりさ。とりあえずこれは、無力な自分の身をかけた精一杯の復讐。窮鼠というのはこういうやりかたでしか猫を噛めないものなんだ。それにしてもなんて穢れた根性なんだろうねこういうのって。我ながら。

…だけど本当に、こんな風に憎みたくなかった。本当に本当だ。私があのひとを攻撃したことはない。(わざわざそうやって労力を割く価値もないと思ってたわけなんだが。)ただそっと逃がしてくれればわざわざ執拗に攻撃しにこないでくれれば。…そりゃね、諸悪の根源は、ひとをばかにしている私の傲慢さなんだからさ。それはわかってる。

ああ、自分で自分の首を絞めなくちゃいけなくなっちゃったのは、どうしてなんだろうなあ。

愚かさと甘えと、矜持と。

だけどとりあえず今日、私は生き延びて、その今日の分の幸せをたっぷり受けとって、感謝と祈りの心持ちで眠れたりするのです。

ああ、幸せだ。

おやすみなさい、サンタマリア。

物語(蛇男補遺)

だったら私は、自分に都合のいい物語を捏ね上げて、それを信じることにするよ。

夢の中で誰かに言い放った、と思ったら目が覚めた。壁の時計は二時を指していた。深夜二時。

部屋は変な具合に歪んで見えた。自分の目の中のレンズがどこかひずんでいるせいだ。蛇の虹彩。そのせいで世界がゆがんだのだ。灯りをつけているわけでもないのに部屋全体は淡く発光し、夜なのか朝なのかもわからない。


確かに見覚えのある私の部屋、それは私のための部屋だったが、やはり私の部屋ではない。

…ヤラれた。蛇男・チャンネルだ。
喫緊の要請にでも出くわしたんだろう。予告もなしに送り込むから困る。そしてこういうときはいつもの場所とは少し違う、奇妙にアウェイな部屋に送られてしまうのだ。メディアルーム、その機能は同じであり、ツールはどこも同じではあるんだが。…まあどうせプログラムは私が組み立てる。

夢の中に閉じ込められたままの空間。視界は柔らかく薄闇に包まれているが、どこか薄明るい。全体奇妙に色が抜けて白茶けていた。


のろのろとベッドから這い出る。

机にはキイ・ボードが置いてある。机の前の窓がそのままディスプレイになっている。
画面は一面霧の風景に見えた。何色でもない、暗いのか明るいのかも判然としない、ただ濃い霧のように視界をふさぐ質感。


何かに背中を押されるようにして机につく。

窓の外の虚空から、叫び求める声がひしひしと迫ってくる。あたり一面からくる。どよめきのように背骨から脳髄へと鈍く響き渡る。骨髄のその奥で、微粒子がざわざわと波のようにさざめく、ブラウン運動

泣くようにして、私は笑っている。

それは私に求めているのか、私が求めているのかわからない。

物語を、物語を!

どうしようもないこの衝動が外側からくるのか、私の内部から来るのかわからない。
それが愚かしいことなのかうつくしいことなのかもわからない。

ただどうしようもないから、衝動のままにひたすら指はキイボードを叩きはじめる、絡み合うプログラムを打ちこみ続ける。思考が、思考ではなく、身体が身体ではない、わたしとは、ただプログラムを体現する現象であった。

打つそばから次々とそれはほのかな光を放ちながら起動してゆく。大気中にほそく震え輝く金色の雨のような菌糸が張り巡らされ、発芽する胞子のように、その菌糸から発光する子実体が現前する。さまざまな形状で、とりどりに柔らかな光を放つ、ほのかにうつくしい夜光キノコの森が出現する。それは生えだすや否や、ふわふわと夜光クラゲへと変態して漂い出す。空気が水のように澄み渡る。

この手の中から、うまれてくる、その柔らかな光の世界。この部屋は煌き震える金色の糸がはりめぐらされ、ゆらゆらと蛍光クラゲの泳ぐイカサマなカラクリ部屋、くすんだまばゆい霧に満ちたきらびやかな空間。

窓を見る。この部屋と共振しながら、そのインスタンスであるところの世界が映しだされる。
こんなインチキな場所から、こんな優しい光が照らしだされることができるのだ。私の中で何かがゆっくりと昏い瞳を開く。光を吸い取る。やわらかく、ふるふると、喜びに震えるいのちといのりがある。

…よし。依頼は果たされる。このプログラムは正しく機能する。それが否応なく私を支配してゆくのを私は感じていた。生み出したものに飲み込まれる。うっとりと心は正しく飲み込まれてゆく。現象と一体化しながら、私はここで私として成り立ってゆく。

***

森だった。
そこに映し出されたものは、限りなく深くゆたかな森。
私は私として成立しながらその底をゆきながら、キイを叩き続ける自分もうっとりと感じていた。意識はその生物相に似た迷路をさまよってゆく、ずっとさまよっていたことを知る。生きているということは、ただそれを切りひらくということだった。

次第に、幸福という概念が記憶の奥から滲みだしてゆく。それはわたくしの外側からくる。幼い日に与えられた明るい部屋の中、与えられた菓子の記憶のようにふわっとほのあまく胸に広がるもの。あたたかく、あまく、やさしく。私の五指の操るままに、世界は現前し、その姿はさまざまにうつろってゆく。私は夢中になって、プログラムを変換し続ける。

OSは定まった。各アプリケーションにはある程度自由度がある。それらが拮抗したバグも数多く出ることだろう。だが、大筋は定まったのだ。

ENTER。

***

「もういいよ。」
蛇男の声がした。

金色の虹彩を正面に向けたまま、横に立っていた。私はぼうっと意識が途切れてそのままぽかんと呆けていたのだ。起き直ると、しんしんと痛む目を押さえ、奴が差し出した白いカップを受け取った。濃い珈琲。蛇男の淹れる珈琲は、いつも地獄のように濃くて熱くて、もうその地獄になら堕ちてもいいと思う。魂に炎の灯る魔法の液体だ。

痺れるような快楽にぼんやりと微笑みながら、私は窓の外を見晴るかす。自動生成モードに入った森、そしてその向こう側。

向こう側、その森の外には静かに光る街が広がっている。空や雲があまりにも眩くきらきらと光るので、街は光を乱反射し、屋根も樹々もそれ自体が凄まじく発光しているように見える。あんまり明るく光るので、どこかがらんと暗く見えた。本当はあんまりにも美しく明るいので、その強度に耐えうる感官のキャパシティをもたないからだ。瀝青のように濃い闇に見える。

そう、ここでの感官がそのあまりにもまばゆい輝きの真理を受け取るキャパをもたぬ。それだけのことだ。それが本当が損なわれることなどない。それはバグではなく正しくプログラムされた、その正しさの外側にある。その外側にのみ存在できる。

いつか、あの中へ還ってゆくためには永遠に創造し続けなくてはならない、創造主とは機能である。いつかあの懐かしく明るく光る青空に満ちた街の中へ、私は行くのだ。

「もういいよ。」
後ろからポンと肩を叩いて、きっと別の誰かが私に言うだろう、部屋を出る、その日には。

忘年会

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プチ忘年会である。

まあ単に地元で旧い友人4人と飲んだだけなんだけど。久しぶりだったからね、とりあえずそう銘打って。

いや~、みんなの都合まとめて時間や店決めたリのあれこれやたらと面倒だし、寒いなとか頭痛いな調子悪いなとか、夜出かける前ってぐずぐず考えてしまうんだけど、行ってしまうとやはり実にいいもんだ。

地元の居心地のいい小さな店で、学生時代からの友人たちと好き放題にしゃべりながらでれでれ気ままに酒を飲むなんていうことは。

いかにも古き良き中央線沿線文化、アットホームでユルくてだらだらした気ままな店。オールドファッションなジャズとロック。山と積まれたCDに漫画本、ペタペタと映画のポスター。実に高校時代の友達の部屋感覚である。

殆ど常連客だけでもってるとこだから、メニューは有名無実、事実上「これありますか~、これできますかねい。」な感じの注文でね。

「飲み物はねえ、ここにあるものからということで、」
「この自家製ジンジャーエールってありますか。」
「ええと、できるかなア…。あ、実はそれ自家製じゃないんですよ、それでよければ。」

嘘かよ。

「…んでばまあ乾杯。」
「いろいろお疲れ。」

でれでれと飲み始める。

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ほんともう何年も会ってないはずの友人なのに、するんとあのころの気楽さに戻ってしまう。いや、あの時よりもずっと目の前のこだわりのない感じ、なんというんだろう、淡い年月の寂しさを湛えながら。それぞれの道を行ったそれぞれの現実を認め合いながら。

…なんだか久しぶりにたらふく笑った。

ひととき何もかもを笑い飛ばすことのできるシェルターにはいりこんだ気がしたよ。こののっそりした懐かしい居心地の良さ。やっぱりここに住んでいてよかったな、離れられないな、中央線遺伝子が組み込まれてもう一生この懐かしさからは逃れられないのだ。

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(ほっそりと華奢な少年だったトモダチたちがさ、なんだかもう腹の出てくるお年頃になったとか、なんだかきっとこれって冗談だよねえ。)(弟よ、そこはかとなくアタシの腹部を眺めながらそういうこと言うのはおやめなさい。)

…懐かしの灯油ストーブ点火の瞬間にも立ち会った。これはほんとうにあったかい。見ただけであったかいし実際とってもあったかい。

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「これ近づくとナイロンとか溶けますから~。」
いやまあそりゃそうでしょう。

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お通しが袋入りスナック菓子とかポップコーンとかで…
「これよしお、手を出すんじゃありませんよ。」
「こいつ手癖がわるいな、よしお。」

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「食べるものありますかねえ。」
「ええと、カレーとか、タコライスとか…」

カレーは人参たっぷりだ。

三々五々、常連さんたちが来店し始める。
(彼等例外なくタバコもくもく。これには閉口。これさえなければひたすら素晴らしいんだけどなあ。)

ふらっと訪れて、でれでれと飲んだりしゃべったりする。遊びに来た友達たちな感じで、何にしろやたらユルくて親密な空気。

麦酒追加頼んだら、話し込んでる店主の代わりに常連さんが持ってきてくれたりね。

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店主はウヰスキーに詳しいらしい。たくさん揃っていて、相談に応じて選んでくれる。「インペリアルだって?なんか偉そうじゃないか。」

私はウヰスキーは今ひとつおいしさがわかってないんだけど、入門できたら楽しそうだな。

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店の隅々まで、インテリア一つとっても何かとあれこれ楽しいのだ。ごっちゃりとCDやら本やら重なってて、おそうじするの大変そうだけどな!

何だか帰りたくなくて、随分遅くなってしまった。
テンション上げ過ぎて後からどっと疲れてしまったわい。

本当に欲しいもの

「ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか」

銀河鉄道の夜」でジョバンニが鳥捕りに聞きそびれた問いである。

幾度も幾度も、いつでも、この問いは私を問うた。

 

…キヨシロやアッコちゃんみたいにね、「欲しいものはたくさんある♬」が実はホントだったりもするんだけどさ。

きらめく星屑の指輪、寄せる波で拵えた椅子、世界じゅうの花集めつくるオーデコロン。

そうして、あなたの心の扉を開く鍵。

 

でもさ、今はとりあえず、薬が欲しい。「ほんたう」とはズレるとしても、これだってホントウだ。真理なんてものはいつだってズレたところにしか存在しない。

一粒飲むと、何の苦痛もなく、すうと優しい眠りが訪れて、そのままここに戻らなくてもいい。確実にね。…そういう薬。

もしできるなら、その最後のときは、ものすごく幸せな思い出ばかりで心がいっぱいになるような、脳内快楽ホルモン分泌が刺激される成分が含まれていてほしい。

今すぐに使う勇気はないけど、宝物にして、お守りにして、いつでも身に着けておく。泥酔した勢いで飲むんだな、きっと。

だけどほんとにさ、もしかして、これがあれば、こういうお守りがあれば、もう少し強くなれるかもしれないと思うんだ。こんなにどうしようもなく追いつめられなくても済むようになるんじゃないかと。

今のこの国で、一番需要があるのはこれなんじゃないかしらんなどとちらっと思ったりもするんだな。

死ぬということが。(世界の始まり・ナルニア国物語)

早朝、半ば目覚め、半ば眠りの中に置かれているとき。まだ目を開くことはなく、意識は目覚めつつある、そのときのことだ。

さまざまな思考が際限なく湧き出でて意識野を駆け巡る、論理が構築されたかと思うと破壊され、それはまたよりうつくしいかたちに再構築されてゆく。無限に深く広がってゆく世界構成を繰り返しながらたくさんのかんがえが一面に跋扈する。きらびやかなさまざまなかんがえの万華鏡の中に恍惚と遊んでいる。

ぐるぐると自在に駆け回る。面白いように考えが湧いて出るのがこのときで、恐ろしい絶望に捕まるのもこのときだ。

夜から昼へ、無から有へ、眠りから覚醒へ。始まりのとき、けれど完全に取り込まれる前のとき。まだ意識は多層で不安定で不定形、アイデンティティは時空に捕らわれきっていない。

…中学から大学まで、人生の、青春時代のコアを住んでいた阿佐ヶ谷の家、うっそうとした庭に囲まれた古い古い家屋。あの家の二階の部屋での目覚めの早朝、あのときのことをよく思い出す。秋である。るうるうと湧き出だすような虫の声のやわらかな海の中を浮上して覚醒していった。その、意識の変遷を私は愛した。無から有へと生まれてゆくとき。確かにあの時わたしはあらゆる世界と思考に通じていたから。

突然閃くようにして新しい論理の地平が開かれる。卒論や修論に行き詰ったときも、あれこれぐずぐず思い悩んでいた時も、さまざまな新しい考えがあぶくのようにぽかぽかと夢のあわいから次々生まれてきて、すべては有機交流電燈としてつながりほのかに明るみ明滅し、うつくしい世界の無限に自在な調和をしめしだしてくれた。

それはなんというか、至福の、あらゆるところに通じたメディアの時空であった。あらゆる世界の現象と論理に。それは、或いは、図書館。

今でも思い出す。阿佐ヶ谷の二階の私の部屋の、夏から秋にかけてのいくつもの朝が重なった風景。
深夜から早朝へのひととき、最初の小鳥が鳴きだすか鳴きださないかのとき、昧爽の私はまだ目を開いていないのに、意識はある。意識は眠る私をどこかから鳥瞰している、読者の目だ。

夜通し鳴き通したはずの虫の声がるうるうといきなり意識の前面に大きくせりあがり湧きあがってきて、わたしを包み、私は寂しく美しい音の雲に包まれて浮遊する感覚を得る。浮き上がってゆく、天井の方まで。

幽体離脱の感覚ってこういうのだな、などと考えている。

死ぬというのがこういう感覚ならば、本当に、この世に何にも恐れることはない。
あの至福の時空に戻るだけなんだ。あかるい、死から再生の可能性にみちたメディアの場所に。

 *** ***

C.S.ルイスの「ナルニア国物語」で、創造主アスランが、世界の始まりの歌を歌うシーンがある。

(ルイスはバリバリのクリスチャンで、あのシリーズはキリスト教の伝道あるいは洗脳童話であるという批判もされているくらいなんで、まあアスランキリスト教的な創造主イメージであると考えてよい。)

ナルニア国物語シリーズはひとつの世界の創世から滅亡までをうたった壮大な物語なんだが、その万物創世、始まりのときのシーン。

創造主の歌の響く間、その特別の「始まりのとき」のあいだ、万物ははじまり生まれ育つ生命の黎明期にある。多分創世記のあの七日間のイメージに重なるものだ。何もかもが生まれ育つ躍動に満ちた素晴らしい情景描写は圧巻だ。

で、それを思い出すのだ。始まり、終わる。そして、永遠が始まる壮大な一連の物語の全てを繋ぐものである、洋服ダンスの扉の向こう側に開かれた、あの霧の中の、あのメディアの時空、あの不思議で壮麗なシーン。不安定で不定形で、始まりの予感に、その歌声に、エナジイに満ち満ちたあのシーン。死と再生がすべてひとつの物語の中にあり、それはそのメディアの空間に繋がったものである。既に死を孕みながら再生への希望と喜びを孕んだ両義の場所。過去と未来をすべてインテグレードした四次元的時空だ。そしてメディアの場所。

 

死ぬということが、だから、あの無からの始まりにつながる物語のイメージとして捕らえられるものであるならば、ということなのだ、つまりね。

このシーンは個人的に随分思い入れがあるんだな。(いやまあナルニア国物語は随所に思い入れがあるんだけど。)ここでも触れてた。三好達治の詩の記事のときだな。