酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

26日

大晦日や誕生日前日、カウントダウンな時間帯になってくるといつも何だか落ち着かない。なにかやり残したことはないか、やっておくべきことはないか。絶対にあるような気がする、やっておきたかったことが。思い出せないことが。

…今年は金曜日。当日は姉がわざわざ休みを取って川越に招待してくれた。いいとこだよって。

うまいそばをご馳走してくれるという。ついでに週末は実家で過ごす。

ありがたいなあ、ありがたいなあ。ここ数年、いつも誕生日にはどうしようもなくバイオリズムが下がってるような気がしていた。クリスマスイヴに自殺率が高くなるのはこういうことなんだな、とあれこれ部屋に閉じこもって考えていた。

ありがたいなあ。

でもやっぱり何もかもめんどくさいなあ。

申し訳ないのだ。私のために誰かがなんらかの負担を感じることが。もっと楽しく過ごすことができるかもしれない時間とお金を私のために割いてもらうのが辛いのだ。もっともっと喜ばなくてはならない、もっともっとはしゃがなくてはもっともっと楽しんで楽しくあってもらわなくては、と一生懸命かまえていたら、もう申し訳なくて申し訳なくてもうめんどくさくて死にそうになる。

私のためだけのパートナーやこいびと、或いは家族と一緒にお互いを祝うのでないのなら、誕生日には、ひとりで遠くに行きたい。ひっそりとどこかの宿で暗い窓を眺めて湯につかり、夜中静かにオライオンを眺めて、来し方行く末関わった人たちのことを考えて、そうして、まるごとが淡い淡い感謝のかたちになって、そうして、自分はそのままどうにでもなれるんだな、ということを考えていたい。

…でもね、実際行ったらきっと楽しいんだろな。ウン。体調さえよければ、お天気さえよければきっと大丈夫。ちゃんと甘えるのだ。どうせ末っ子体質だからな。感謝して大切な時間を過ごすのだ。母のパソの世話や買ったのに操作がわからなくて難儀してるというハンドブレンダーも見てあげよう。川越は楽しいに違いない。蕎麦はうまいに違いない。姉ともたくさん話をしよう。

何も考えられないことが怖くて焦っている。ウン、きっと実家に行ってしまったら考えられない。

でも戻って来てから一人でどっかに行くことだってできるのだ。いくらでもどうにでもなるのだ。さまざまを覚悟すれば、ひとときならば、どうやっても逃げることはできる。ひとときならば。

そうしてひとときというのは西田の言う「永遠の現在」なんだ。

(あの感覚は至福だ。)

おやすみなさいサンタマリア。

コロッケ

台風、嵐のように過ぎ去っていきましたね。いや実際嵐なんですが。

台風一過の青空が私は本当に大好きだ。何もかもぶっ飛ばされた後の非日常的にまばゆい、何もかも永遠に新しく神々しい光。神の国に近い世界からくるものの、光という形態、という、そのようなもののことについて考える。

しかしまあ過ぎ去る前には来るわけで、台風対策として事前にいろいろしておくべきことは多々あるわけで。で、その中のひとつとしてはコロッケを買っておく、という文化もあるらしい。(主としてネット中毒者の間で)

コロッケか。
(モノマネのひとではない)

…日本料理である、というか日本の洋食。西洋の伝統料理、お仏蘭西料理のクロケットを由来としながらそれとは似て非なるもの。我が国で独自のアレンジを加えられ、大衆に広まった日本独自の洋食文化、カレーや麦酒のように、オリジナルを越えた優れた品質とオリジナリティをもちオリジンの側に逆輸入さえされるべき通俗と洗練の極みに達したパワフルな庶民の味なんである。

通常、キツネ色にサクサク香ばしく揚げられたパン粉衣に、ベシャメルソース系とジャガイモ系、つまりクリームコロッケとポテトコロッケの二種に大別されるコンテンツが内包される。この二種とは、サクトロ系とサクホク系の違いであるといえる。ジャガイモの変奏としては南瓜とかサツマイモとかホクホクでんぷん系のものならばヨシ、アレンジは無限である。クリームコロッケ、と銘打たれない単なるコロッケという場合、我が国においては通常ジャガイモのコロッケを指す。

双方、多くの場合ひき肉だの魚介など動物性蛋白源が配合される。カニクリームコロッケなど実にいいものである。冷凍食品のお弁当素材の定番である。(ちなみにウチの母のクリームコロッケは素晴らしい一品であったと記憶する。ベシャメルソース作りが得意だったのだな。アレは俵型で鶏ひき肉やら炒め玉ねぎやらごってり詰め込まれたやたらと具沢山の節操のない美味しさであった。いやなにしろでっかいのだ、とにかく。)

ということで、クリームコロッケの方がどちらかというと個人的に嗜好があるやもしれぬ(子供の頃おそらく自分一番好きだった夕餉のメニューはグラタンであった。母の得意料理、粉チーズかけて高温で焼き上げたこんがり熱々のマカロニグラタン。やっぱりやたらと具沢山で、海老だの鶏肉だの節操なくごってり配合されていた。うまかった。ベシャメルソース拵えるとこから見学した。楽しかった。バターを溶かし粉と炒めて牛乳を投入すると、魔法のようにとろりとしたクリームが出来上がる、香り立つ胡椒にローリエ、…その各々のプロセスの度に、うっとりするよに優しいうまそなアロマが香り立つ)、といいながら、ここで言いたいのはジャガイモ系のことなんである。

ジャガイモのコロッケとは買うものであった。

小学校低学年の頃の数年間、岡山に住んでいたことがある。住居はほとんど人里離れたというレヴェルの山の上だったため、登下校はもちろん、買い物をするにもいちいちふもとまで上り下りしなくてはならぬかなり難儀な暮らしであった。(喘息もちで途中かなり悪化したため、下校途中で呼吸困難をおこし帰れなくなったことも幾度もある。しまいにはほとんど通えなくなって療養所の養護学校に送られた。)(山犬の集団が出没する騒ぎがあって、下校時、追われた記憶もある。ほぼ狼の群れである。恐怖であった。…町の自警団がまわってたリ、毒団子しかけてたりしてましたな、確か。)(本屋もパン屋も徒歩圏にはなかったので、購読している子供向けの雑誌の配達やら行商パン屋トラックとかポンポン菓子の車がまわってくる日が大層楽しみであった。独特の音楽を鳴らしてやってくるのだ。)

で、時折、放課後、夕暮れ前の微妙な時間帯に買い物をおおせつかるんである。坂を下りたところにある肉屋で鶏ひき肉200g買って来いとかそういうの。その向かいには私の好きな駄菓子屋もあったりしたので嫌がらずにいそいそと出かけていた記憶がある。お小遣いにぎりしめて50円のラムネ菓子とか買うのだな。

…ということで、その肉屋のスペシャリテが特製コロッケだったのだ。お使いに行ったときは、必ずついでにその揚げたての熱々をいくつか買うように言われた。母や私や姉のおやつである。みんな大好きであった。そしてお使いに行ったものは、帰り道、道すがらその暖かい紙袋から、一番おいしい熱々んとこをつまみ食いで齧る特権が与えられていた。

夕暮れの始まるころの、微妙にやわらかい黄昏を孕んだ空の色、家々の夕餉の支度のはじまる気配。胸に暖かい熱々ほくほくのコロッケ抱えてかじりながら母や姉のいるおうちに帰るまでの道。あのときの風景は高校の頃の下校のときの風景とまじりあって私を支える心象風景の一部として堆積、変成されている。

それは涙のしずくの形をしたコロッケで、我が家では「涙コロッケ」と呼ばれていた。肉屋が肉の半端な切れ端を活用するために開発した、メンチカツとまではいかなくても、値段の割に肉片が豪勢に配合されていると町の主婦層に評判のうまいコロッケで、ご町内の人気の一品だったのだ。(ミンチカツは関西、メンチカツは関東の呼び名らしいですな。どういうことなのかよくわからんが。)(わしゃ圧倒的にメンチカツ。ミンチカツなどという奇態な響きの名詞は認められない。)

従って、コロッケとは俵型のカニクリームコロッケでないのならおしなべて涙のかたちをしていなくてはならないし、肉屋の店先で揚げたてを購入するものでなくてはならない。町の老舗の洋食屋で、多少冷め始めてウスターソースが微妙に滲んだところにキャベツの千切りが入り混じるという状態を箸でご飯にのせながらかっこむようなスタイルも、お弁当箱の片隅でおにぎりと密接し、半分に切ったとこがへちゃげてジャガイモがはみ出しかけながらもソースが沁み込んでしっとり独特の味わいをかもしたものをさりげなくいただく瞬間も、そりゃあなかなかいい情緒があるものではあるが、あの夕暮れの熱々のふうふう、坂道を登りながら齧る、なみだのかたちのコロッケには遠く遥か及ばない。

それ以外のコロッケはもはやコロコロコミックドラえもん抜き)にもはるかに及ばないさびしいたべものであると言わざるを得ないのだ。要するに。

流れ星

流れ星見た。

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久しぶりの晴れ間だ、とベランダに出てみたら、いきなりふわっと流れたのだ。
流れ星を見るといつも一瞬なんだかよくわからなくなって、どきどきする。美しい虹に出会ったときもそうだけど。とても貴重でとても特別なときに出会ったのではないか、というような心持ちを抱いてしまうのだ。

で、流星群が来るといつもベランダで頑張るんだけど、なかなか見られない。
なかなか見られないものだから、出会うとなにか特別で、何かいみじいことがおこるのではないか、と思うのだ。とてもいいことが。星の時間から、人類の時間に落ちてくるもの。(なんだっけ、「人類の星の時間」っていう概念があるよね。ツヴァイクか。歴史が動いたとき、輝き出たひとりの天才の、その特別なときの感覚を表す言葉、)

…だけどね、流れ星を見たことのない人はいるのだろうか、と考えてみたら、それは実はいないんじゃないかなあ、というようなことを思った。実際どうなんだろ。

 

写真はオライオン。
(数年前に撮ったやつ。星を撮るのは月を撮るより大変なんだぞ。)

季節がやってくると、毎晩のように私はこれを確認する。もう高校生の頃からずっと。

安心するのだ、確認すると。

学生時代、阿佐ヶ谷の自宅の前の小道に入った途端、いつもこの星が大きく私を迎えてくれた。こつんこつんと自分の革靴の音だけが街に響いて、視界にはオライオン。眼前におうちの玄関…安心したのだ、何があっても、いつも変わらず迎えてくれるもの、この、変わらないもの。壊れないもの。ひとが宗教に求めるものは、この世界のセーフティネットなんだろうな、結局きっと。必ず受け止めてくれる、過去に閉ざされ滞ることのない未来につながるねじれをもった約束、けれど過去のように永遠に壊れない、暖かく懐かしいところ。還る場所の保証。

東京駅。成田空港

ターミナル駅が好きだ。…いや、東京駅が好きだ。

中央線で武蔵野から東京駅へと向かう。車窓にお濠を見る頃になると、毎回私は新鮮にわくわくしてくる。神田を越えると、いつも遠く小さく見える風景が突如視界の中でぐうんと巨大化し、聳えるビルとなって現前する。そこに否応なく飲み込まれる感覚が好きだ。TVのニュース画面なんかで見る鳥瞰されたジオラマみたいな都市の記号としての風景じゃない、その内部の夢のリアルに吸い込まれ、ありんこみたいにちっぽけになってゆく自分。集合意識の中で見られた幻想、この大都会の夢の中に溶けてゆく。

外側から見る者から内側から見る者への転身。
己が「包まれている」ことを見るのだ。

(少しだけ、意識の変容を遊ぶ。自分が誰かの夢の中に生きている幻であるかのような気がしてくる。どちらが夢で誰が現実なのか、本当は誰にもわかりはしない。…これは鏡の国のアリス胡蝶の夢の無意味な問答の命題だ。目が覚めたら世界が滅びた後の廃墟なのかもしれない。)

なぜだろう、この、取るに足らない塵芥になってゆく、誰にも気にされない問題にならない支配されも裁かれもしない、誰も支配しないでいい、裁きもしないでいい、ナンデモナイモノになってゆく、空気のように無意味な存在、あるいは純粋な意識、純粋な主体となるような、世界そのものに溶けてゆく、還ってゆくような、…この、ほっとするようなアイデンティティ崩壊に似た感覚。無感覚と感覚の狭間におちこんでゆく夢の中の安らかさ。ただただ、自由だ。

これは、大自然の風景であってはならない。あれは、本当の恐怖だ。狭間ではない、完璧な無の側、その虚無の恐怖。全くの同一に還ってしまう。自分はゼロになる。痕跡すら残らない。全く別の時空の論理。完全な無。

私は恐怖する、あまりにも雄大な自然の風景、あまりにも強烈な美しさには凍るような寂しさと恐怖を感ずる。前人未踏の霊峰の、或いは宇宙から地球を眺めた空恐ろしい美しさよりも、高層ビルにものすごく光る夕陽の最後の一片。里の春の菜の花畑の夕暮れ、住宅街の駅前商店街の黄昏時の夕空の光の色に包まれた雑踏の賑わい、その半端さが好きなのだ、自然との狭間の、黄昏時、逢魔が時。危ういそのがけっぷちに立つのが楽しいのだ。終わりとはじまりの場所。

向こう側に解体されつくされ、魅了されつくしたら本当に虚無に帰ってしまいそうで怖いのだ。実際その場所に立ってしまったら、私はきっと呑まれてしまうんだろうなと思う。寧ろうっとりと。それがひとつの正しい死のありかたなのかもしれないと思う。

人間界の夢はもう少し有に近い、有と無の、存在と非存在の狭間にある。アルケーである。

さて逸れた。これは、大都会の高層ビル群に飲み込まれるときの気持ち。駅はまたそれとは違う別物、今の「飲み込まれ感覚」と関係はあるけど、また異なる意味の次元に根差した特別なもの。

それは明確に、旅人たちの行き交うメディアの場所なのだ。
これは空港にもまた、というかより一層こっちの方に顕著なことなんだけど。

…ああ成田空港、行きたい。どこかへぽーんと行ってしまうときの非日常への解放の入り口、境界。行き交うドラマや人生のワンシーンのリアルに立ち会っている、そのチャンネルをザッピングしている、図書館の書棚の狭間にいるような気持ちになる。ここは、あらゆる世界の多様に開かれたその可能性そのもの、メディアとしての場所。その空気の色、匂い、終わりとはじまりの気持ち、旅立ちのときのその永遠に空っぽな可能性のエナジイだけに満ちた時空を私は恋う。

…この感覚でいつも思い出すのは、春樹の「色彩を持たない多崎つくる~」なんだよなア。

駅のホーム、そこに行き交う無数の人生の、その雑踏に流れの中にただ存在するだけという感覚を己の存在意義のように見出し、そこにこだわる多崎つくるの意味。あれは「騎士団長殺し」よりよほど面白かった、気がする。いや、わかりやすいのだ。説得力もある。「女のいない男たち」もそうだ。たくさんのモチーフがテーマとしてきれいに符号を合わせるように打ち出されている。読み進めてゆくうちにパーツがハマってゆく、じわりと浮き上がってくる論理、その風景、意味。「騎士団長殺し」は結構な大長編だから、中編のこの二つと違ってきれいなテーマとして打ち出しにくいってのはもちろんあるだろうけど。(そう考えると、同じく同レヴェルの大長編である1Q84やねじまき鳥はすごいんだなってことになる。)


なぜ自分がちっぽけであること、誰にも気にされないこと、塵芥のような存在となることにほっとするのだろう、自由と解放は己の内部への沈潜とミクロの中に反転し開かれる超越されたマクロ、その同時性の眩暈、その矛盾のダイナミクスの中にのみ存在しうる。

そうだ、それは日常と同時に多様な要素からなるアイデンティティからも解放される感覚。その風景から、その時空から。だけどそれは両義のもの。手放すとき解放され、取り戻すとほっとする。己のレッテル。アイデンティティ。(これは迷子の楽しみだ。心細さと背中合わせ。本当に帰りつけないとき、個は永遠の夕暮れの寂しさの中に解体されてしまう。黄昏の、逢魔が時の、その「魔」に、「向こう側」にのみこまれる。)

半ば飲み込まれながら生きた旅人たちが、おそらく山頭火とかね、ああいうひとたちだったんじゃないかなあ。発し続けていないと解体されてしまう、ギリギリの縁を危うく生き続けた詩人たち。

賢治の「風景とオルゴール(春と修羅)」には次のような風景描写がある。

黒曜こくやうひのきやサイプレスの中を
一疋の馬がゆっくりやってくる
ひとりの農夫が乗ってゐる
もちろん農夫はからだ半分ぐらゐ
だちやそこらの銀のアトムに溶け
またじぶんでも溶けてもいいとおもひながら
あたまの大きな曖昧な馬といっしょにゆっくりくる

風景(世界)と不可分になる、明け渡してゆくにんげんのその恍惚のスタイルを、「演じる」ことや「己を限る」こととその外側を感じることの恍惚として、「半分溶ける」ことへの感覚を謳いあげた、これは「論理の言葉」でもあるような気がする。

携帯電話と蛇男

携帯電話の液晶画面に映りこんだ青空と雲がいやにリアルだった。僕は上を見上げ青空を確認した。
(携帯電話はいわゆるスマート・フォンである。触れるとなめらかに変化したり拡大縮小したりする美しい液晶画面を見るごとに、魔法をかけられたガラス窓だと僕は思う。向こう側には無限が隠されている、手の中の宇宙。)

…何処かおかしい。
頭上にある空と雲の配置とはあきらかに違うのだ。じっと眺める。すると、僕が怪しんでることに気が付いたらしい画面が、一瞬慌てたように震えたかと思うと、そのうち映っているフリをやめ、勝手にぐるぐると渦巻きはじめた。渦巻きながら青空は暮れはじめ、銅を溶鉱炉で溶かしたような夕暮れが、ものすごい金色のグラデーションを描いて輝いた。とろけて渦巻く黄金の中で金色の雲の影はぼろぼろとくらく輝きながら燃え焦げ焼け落ち、プルシャン・ブルーから濃い藍色、明るい真っ青な夕空のグラデーションを描いて、画面は早回しにとっぷりと暮れていった。

小さな画面の中に吸い込まれ、短く豪奢な夕暮れのショーに見とれていた僕ははっと目を上げた。

木漏れ日が緑金に滴りおちて金の影がゆれ、青空に真っ白な雲がぽかりと輝く真昼である。
そして木洩れ陽と鳩がまだらに埋まったハンカチの木の影が、一瞬揺れたかと思うと、そこから女の子が出てくる。

女の子?

「返して!蛇男が来ちゃうじゃないの!」

蛇男?

「…ええと、何を?…ええと、君は誰?」
「○○に決まってるじゃないの!あたしはミュウよ。」

○○がよく聞き取れなかった。日本語じゃないんじゃないか。いや、音声ではなかったような気もする。
女の子は金茶の髪の毛をふわりと振り立てて梢から飛び降りた。三階建てのビルディングほどの大木である。

光に透けるとやわらかな桃色をおびて光る髪、不思議なお日さまみたいな色が残像の尾を引いた。

北極のオーロラを孕んだ太陽はこんな風な色なんじゃないだろうかとぼんやり考えた。瞳の色は濃い琥珀。古代の昆虫が閉じ込められているような、上等の琥珀。人種がよくわからない。というか人間かどうかわからない。羽化したての蝉。生まれたての。と、口の中で呟く。その存在は、威勢のいい言葉とは裏腹の、ひどく頼りないやわらかな透明感だった。

日の光が凝ったようだ、と僕は白昼夢を思った。そして白昼夢というのはよくあることなのだ。

「あなたが磁場を狂わせたものだからあたしの日が暮れちゃったのよ。だからもう今日は今日じゃないわ。あなたの今日も私の今日も向こう側にとられちゃったの。わかったら早く返して、お互い元に戻らないと蛇男が出てきちゃうのよ、こういうときは。」

全然わかってないよ。どうしたらいいのさ。

「蛇男?」
「そうよ、どんでもないわ。時空の割れ目から湧いて出るの。魂を食うのよ。睨まれたら動けない。」

カエルかよ。

「甘い声で誘うのよ。ぞっとするような甘い声。…あれでいくつの魂を変色させちゃったかしれない。」
「もうね、死んだふりするしかないの、あんなのに魂食われちゃうくらいなら頭がイカれた方がましよ。」

魂を食われる?
「魂食われるとどうなっちゃうんだい?」

ミュウはおそろしい顔をした。琥珀の瞳がきらめいた。
「ばかじゃないの?見たことないの、魂食われた人間は結構いるのよ。どの世界のどの時空にもまんべんなくね。顔の色も目の光も何にもない、くすんだ魂。」
「甘い声で誘うのよ、まるで黒砂糖みたいな甘たるい声。いろんなこといって誘うの。本当の自分を見つけるんだよ、そんなのは君のホントじゃない、どこかに本当の自分っていうのがちゃんといるんだよ、自分らしく生きるんだ、とかね。もうホントものすごくばかばかしいことばっかり言って誘うの。阿呆らしくて全身鳥肌、世界の果てまで飛んでくわね、理性のタガが!」

まあな、ほんとに余計なお世話なことではあるが。
でも別に永遠に自分探しとかしてても別にいいんじゃないか。雑誌が特集してるとおりにさ。目くじら立てるようなことでもない。

自分探しなんて信じてするだけえらいじゃないか。ぼくなんか、ただぼんやりと目の前のレールに従って学校を出て入れたところに就職して、ひとりでアパートと職場を往復してるだけだ。日々に追われて、夜には疲れてただぼうっとTVをながめる。眠る。気がついたら、空っぽなんだ。大切なことも大切な人もいない。故郷からの便りも絶えてない。ひととき心を寄せ合い、優しい気持ちやほんのりとした夢をくれた女の子たちは、しばらくするとみんなぼくから去って行った。

もともとそうなんだよ、探すべきものなんて何もない。当たり前だろ。
ああだけど、きっとぼくには何かが欠けているんだろうな。

…まあだからそんなことでさ、それで魂食われるってのも確かに理不尽かもしれないとぼくは思ったんだ。

とにかくどうも物騒な話なので聞いてみた。
「ええと、じゃあぼくはどうすれば…」

と、そこでミュウは突然顔色を変えてポーンと跳躍した。見事だ。
飛んでいった先から声が降ってくる。

「ホラ来ちゃったじゃない!あんたもうまく逃げなさいよ。今あたしたちは本体のない影なんだから誘われちゃったらおしまいよ。ひとたまりもなく食われちゃうわ。」

見上げたら、青空の端にキラリと琥珀の光が光って消えた。

そうしてぼくはいつだってこんな風に取り残されるんだ。
携帯電話を覗き込む。

ためいきをついた。
「これだな…。」

奇妙なプログラムが立ち上がっていた。

 *** ***


待ち受けに蛇男なんていれたくない。
だが、電話を開くと自動的に蛇男・プログラムは立ち上がるらしい。ウイルス感染したかのようだ。削除はもちろん効かない。

意外なことに、特に生活に支障はなかった。
が、鬱陶しい。

蛇男はそれから日に幾度となくあらわれるようになったのだ。我が物顔に電話の中を跳梁し、既に僕の個人情報を食い荒らしている。うっかりアイコンを眺めていると、いつの間にか背後に現象化していたりする。さまざまにささやきかける。本当に望むこと、あんたが気付いてないものだってなんだって何もかもかなえてやると甘い声。

ああ、ため息をつく。
ぼくの携帯電話なんだが。毎月料金を払ってオプションのウイルスチェックサービスに入ってるんだが。

 *** ***

「おまえはあれが欲しいのか、欲しいのか?」
或る夕暮れ時、帰宅途上。夕闇に輝き始めた星々にみとれていたら声が響いてきた。
またあいつか。

おお、欲しいとも…

「やるよ、お前にあれをやる。簡単だ。
お前が喜ぶならおれ、あれをお前に全部やる。」

嬉しそうだった。はしゃいだこどものような声が僕の周りをはねまわった。蛇男。今日は道化師の派手な帽子をかぶたこびとの姿をして現れた。そして瞳は確かに蛇だ。ぬめぬめとさまざまの金に輝く虹の虹彩

一体どっから出てきたんだ。

ひどく嬉しそうにやつは言う。「なあ、ほしいんだろ。やるよ、全部お前のものにしてやるよ、おれ。」

そのとき突然、胸を突かれるような強烈な憐憫を感じた。

蛇男。かわいそうな蛇男。ヤツが少しでもが幸せを感じることができるなら、できることは何でもしてやりたいと思った。それは唐突な衝動であった。それは奇妙に激しい衝動であった。

そうだ、ぼくは彼にぼくをくれてやろう。僕の魂を。こんなうすぐらい魂、全然惜しくなんかない。まるごと全部くれてやる。この考えにぼくは夢中になった。どうして今までかなえてやらなかったんだろう。何かがストンと腑に落ちた。もともともう空っぽなものだ。

…蛇男はかわいそうなくらい喜んだ。笑ってくれた。
幸せそうに笑ってくれた。ああ、その瞬間は。…もうなにがどうなってもいい、というくらい、嬉しかった。変な話だけど。昔から定められていた通りの運命を正しく受け入れた、という気がしたんだ。

そしてやつは約束通り、僕にすべてをくれた。

夕暮れのひとときの永遠。
僕はあの時の空の輝きとちらちら瞬き始めた星の持ち主になったんだ。

だけど、その星はその時空に完全に一致したものだったし、その時空とはすなわちその時の僕を含んでいた。それを丸ごと切り取ったんだ、蛇男は。僕もそのときの僕を切り取られた。

そのときはね、変な気分だったよ。
一瞬、世界がひっくりかえって裏返ってさかさまになってぐるぐるまわって、…とにかく何がなんだかわからなくなったんだ。

 *** ***


「うむ。星に付帯してる。空間はあの光を焦点として折りたたまれてるんだ。」
「?」

気が付くと、ぼくは奇妙に無機質な白い部屋で、蛇男とテーブルをはさんで向かい合っていた。
テーブルの上には市販の風邪薬の瓶ほどの小さなガラス瓶が置いてあった。

ぼくは部屋を見回す。白い壁には無機質なアルミの窓枠、そのガラス窓の外には変に明るい青空が移っていた。遠くに飛行機が飛んでいる。

そしてテーブルの上の瓶には夕空が入っていた。星の瞬き始めた、柔らかな珊瑚や琥珀や天鵞絨の藍のさまざまのグラデーションに輝く空。確かにそれはあのあの空だった。僕が欲しいと望んだそのとおりの。

「ありがとう。」
しばらくはただ黙って蛇男と空を見比べていたんだが、やがてぼくはそう言った。

彼の顔はよく見えなくなっていた。邪悪に見えた虹色金色の虹彩の瞳ももうそんな風に見えなかった。かなしげな水色が見えただけだ。おそらく夢の中だから意識の焦点がけぶってしまってよく見えなかったんだろう。あわくやさしいみずいろ。ふりそそぐ。

切り取られた星空は、蛇男に頼んで、小さなガラスの砂時計の中にいれてもらった。

だからあのときの星はもう誰も見ることができない。ぼくがこうしてここに持っている。閉じ込められた時間、ぼくの手の中の宇宙はきらきらとあの世界の空の美しさの永遠を歌いつづけてくれる。

夜には部屋を暗くしてその小さな夕暮れをそっとひっくり返す。流れ出す星の時間、至福のとき。ぼくは確かにその時間の中にいたのだ、いや、いるのだ。ぼくはその時間の中に溶けだしぼくのかけらと一致する。その中に溶けてなくなってしまう。ああからっぽだ。そして本当にこんなに幸せであったことはない。

 *** ***

代償ね。
そうだね、ぼくの魂は彼のものになった。

ぼくは彼だ。

完全に魂を食われてしまったらそれはもう、存在としてゼロになる。だけど、それは例えばいわゆる悪魔に魂を取られる、というのとは違う。あれは0ではない。死後負債を払う、善悪の牢獄に繋がれたまま、永遠の地獄の側の存在になることを意味する物語だ。対して、蛇男に「食われた」魂はただ塵芥に帰する。が、そう、それは生きながら死ぬことではあるのだが、死にながら生きることでもある。世界に食われるのだ。それはひとつの解放の感覚をともなうものだった。ふわりと、解き放たれる。

魂を食われても、具体的には何も失わない。記憶や感情がなくなることはない。知識も能力も、何一つ失わない。友愛や倫理観、基本的な人間の精神のパーツは何一つ失われはしない。

ただ、穏やかだった。いつでも世界も自分の存在も、薄皮一枚隔てられた向こう側にある。ぼくはからっぽだけど、すべてはただ、あるようにしてあった。それだけのことだ。

…ああ、そうか。魂を食われることは、こんなにも安らかなことだったのだ。
寂しさと安らぎ。なんの欠損もない。もうほんとうになにも探さなくていい。

そう、それは果てしない寂しみではあったんだけど。

毎朝、海のように深い寂しさの中に目覚める。あおいあおいその海の青。どこまでも遠く深い海。揺らめく泡と淡く曖昧な薄い光の中を為すすべもなく浮上してゆく、ひんやりと冷たい胸の中を浮上してゆく。やわらかな寂しさのゼリーで満たされる。

小鳥のさえずりも透き通った朝の光もさらさらと流れる清いその大気もそのゼリーに包み込まれてしまう、いつかのように新しい新鮮な力、未来を夢見る力をもたらすことはない。けれど、そのゼリー越しにはね、くっきりと見えるんだよ、その新しい未来を夢見る力の姿が、その物語のうつくしいかたちが。そこからはみ出してしまって、それを受け取ることができなくなってはじめて見えるものなのかもしれない、淡く、かなしく、激しく憧れる。失われたもの。切ない青春の記憶のような。最中にいるときは憂愁でしかなかったものが読みかえられ芳醇な輝きを放っているそのかたち。

「それがもっと救いようのない闇であるってこともあるんだけどな。恐怖で気が狂うタイプの。」
「ケースバイケースだ。ひとによるよ。」

蛇男はこういう。
ミュウがぼくを救ったのだと彼は言う。ミュウがぼくに助けを求めてきたときのことを、彼はこう解釈しているらしい。

…その物語はまた別の話だ。そう、失われたもののことを、失われた魂のことを、ぼくはいま初めて語り出すことができるような気がしているんだ、閉じ込められたぼくの夕空の時間をそっと放つとき。

ことばが、うまれてくる。

そのために、ぼくは蛇男に仕込んでもらった。
ぼくの携帯電話には今、スタートアップ・プログラムの蛇男インディケーションのかわりに、白い部屋のアイコンがある。立ち上げると開かれる、その部屋への通路。ぼくは入り込む、そして組み込まれる。ミュウとぼくのこと、蛇男との世界を渡り歩くような冒険の記憶を、その言葉を、物語を紡ぎ出すことができる場所。過去の方向に失われるはずだったあのときの夕空を、その存在まるごとを永遠に保ち続けているプログラムだ。

「…これは変則だな。まあもともとがおれはここではミュウんとこのおれとは違うんだ。ミュウとお前の世界とでは違うんだ。もともとからっぽなものがからっぽでないみたいにつくられたとことそうでないとこじゃな。組成が違う。」

蛇男はこう言った。魂の食われ方にもいろいろあるらしい。で、しかも、あちらの世界では魂を食われることはもっと違う現象として顕れるものらしい。大体ミュウは人間ではない。とにかく頭がイカれることもなく魂を食われることが、ミュウたちには苦痛に近い恥辱として感じられるのだという。…もしかして、ここの人間の失われた魂が、どこかで具象化したもの、「失われた魂の国」みたいなとこの生き物なのかもしれない、とふとそんなことを思った。

まあね、ただぼくは本当に頭がイカレてしまったのかもしれない。医者はそう診断するのかもしれない。脳のホルモン分泌状態かなんかを調べて大層な病名をつけてさ。だがそれがなんだっていうんだろう。
大体イカれてるかイカれてないかなんて誰がわかるっていうんだ。

ぼくは胸の中にうつくしい蛇男とその白い部屋をもつことになった。

それだけのことなんだ。

窓の外には永遠に広がる青空、ひどく懐かしく晴れやかな、ストンと高すぎて胸の痛むような青空が見える。決してそこから外に出ることはできないけれど。そうして、遥かよりくる飛行船の銀色がときおりひらめくように通り過ぎる。そのときには、ミュウたちの笑う声がきらきらと降ってくるような気がする。部屋中にきらきらと細かな金糸が震えるような輝きが降ってくるんだ。星屑が降り注ぐんだ、花火の最後の一瞬の輝きような、あえかな。

蛇男がいる。(たまに出かけている。帰ってくると、大抵疲れた顔になっている。)そこからは、どこにでも行ける。どこにも行っていないのにどこにでも行ける。すべての場所はその輝く青空の窓の向こうに広がっている。宇宙は虚無や闇かもしれないが、それは同時に懐かしく輝かしい光の空間でもあるのだ。ペンと、紙と、キイボードがおいてある。ぼくは、プログラムを打ち込みつづける。

白い部屋に蛇男とともにいる。

がらんどうの部屋。嘗てみっしりと濃い何かが生まれたところ、空っぽの白い部屋。小さくて、とても広い、からっぽでがらんどうで、とてもあかるい部屋。いつでも、ぼくはここにいる。いや、ずっと前からそうだったんだ。ここから始まって、ここで過ごして、ここに帰ってくる。

かなしくて、あかるい、このひんやりと優しい光の中にいる。

マモー。いろいろ思いつき脳内メモ。

子供の頃から刷り込まれてきた、何しろ大好きだったルパン三世

劇場版第一作「ルパンVS複製人間」、ラストの巨大なマモーの脳のイメージは殆どトラウマになるほどの衝撃であった。

こないだ再放送してたから録画しといて観ちゃったんだけど、やっぱり感服した。

古き良き昭和の究極があのアニメーションにはあったと思う。

1978年の作品なんだけど、翌年の第二作、宮崎駿の「カリオストロの城」できれいに毒抜きされて封印され塗り替えられてしまった、昭和の哀愁と毒の真髄がこの作品には残っている。これはかけがえのないものとオレは思う。

全然ダメなエログロナンセンスアクション娯楽なのかもしれない。低俗なハードボイルド美学。それは、だけどここではそのあじきなさの残虐の中にどうしても生き残るひとすじの輝きとしての愛や信頼のようなものがある、その美学には徹底した透徹がある。徹底した軽さ。テーマは壮大で重いのに、その歪んだ欲望による重さのいやらしさを打ち砕こうとする壊滅的に徹底した軽さがある。

それはおそらく、欺瞞がない、という快さなのだ。男性原理の女性蔑視、セックスシンボル不二子ちゃんであっても。少なくとも彼女は馬鹿にされてはいないのだ。そして何しろ次元がシビれるほどかっこいい。

やっぱり刷り込まれている、ああやっぱりカッコイイ。そのあぢきない終末感、哀愁を孕んだ、その先の、ひたすら人生を燃焼させてしまう、そのホモ・ルーデンスな感覚。米ソ冷戦時代の、あの時代の空気。それを笑いのめすシニカルで雄大なパロディ感覚。未だ嘗てない、地球規模で世界が終わるという大きな危機感をいつでも感じながら科学万能主義はひたすら突き進んだ。輝かしい未来と破滅の両極の矛盾を生きていた日常。

かっこいいってどういうことだろ。
その潔さってなんだろ、って考える。寂しみを乗り越えるもの。より一層哀しいけど同時に笑ってしまうところへ昇華する、その止揚の構造を美学というんではないか。

手にしたものはすべて失う、いや、失うべし、とそれを宿命とうけとめ、それを遊びながら求め続け盗み続ける美学。(TVのエンディングテーマで、夕陽をバックに不二子ちゃんがバイクで走り続けるシルエット流しながら、「この手の中に~抱かれた~ものわああ~すべてえ~消えゆく~さだめ~なのさ~ルパン~三世~♪」って歌好きだったのだ。夕方の再放送枠で、多分おんなじ時間帯で「はじめ人間ギャートルズ」のエンディング「なんにもないなんにもないまったくなんにもない…なんにもない大地にただ風が吹いてた~♪」が好きだったのとおんなじ感覚でね。夕方の再放送枠の哀愁の素晴らしさったらなかったな。)


(全然逆の方法って言えばそうなんだけど、春と修羅小岩井農場

「すべてさびしさと悲傷とを焚いて/ひとは透明な軋道をすすむ」

っていう言葉がある、この寂しさを焚いて進む(いやもちろんだから軌道の方向は大違いなんだけどね。)っていう構造が同じであるように思えるのだ。

既に大切なものはどこかに失っている。そのひたすらのあきらめの上に成り立つ人生、というような、何か重たいリアルのため、ではなく、ただひたすら己を燃やし尽くすようにして己を賭して遊びを生きるスタイルとしての重さのないゲーム人生の感覚。「グスコーブドリの伝記」の冒頭で、飢饉で食い詰め絶望してすべてを投げ出して去って行ったブドリのお父さんの家を出てゆくときの最後の科白、すごくひっかかっているのだ。「おれは森へ行って遊んでくるぞ。」ここでおそらく死ににゆく彼の口から、どうしてこの遊びという言葉がでてくるのか。ものすごくさまざまに解釈される、深い言葉だと思う。「遊び」研究テーマ思いつきメモね。

そう、この、人生賭けるゲーム感覚、ルーデンスな感じ、今とてもひっかかってるのだ。)

 

とにかくね、なんかね、これを今観るとさ、どうしてか救われちゃったりするんだな。
どうしてかな、わかりそうでわからない。

ただね、誇りに思うよ、この時代に生きたこと。生きていること、この世代であること。自分と、自分が生きた世界が確かに存在したのだというリアリティ。

これは、世代の刻印。…ああ、例えばこういうことなんだな。誇りや矜持の根差すものの、感覚は。刻印、ということ。確かに存在したのだ、というただその感覚のリアリティだけ。世界と自分があのようであったことの証明と標本。

証明と標本、というのは、銀河鉄道の夜春と修羅にも繰り返し出てくる賢治文学において需要な意味をもつモチーフ、まあいわゆる賢治用語なんだけど。これを見田宗介がものすごく興味深い分析をしていて、いつも思い出すんだ。

この文章はメモだ。この感覚も、いつかもう少しちゃんと書いてみたいと思っている。証明と標本っていう意味の紹介も一緒にさ。

携帯音楽プレーヤー

音楽は好きだけど、電車に乗ってるときやお散歩してるときは街の中のさまざまの微細な物音に包まれているのが好きだった。風の音車の音人の話し声鳥の声その遠近による音響の立体。そして心の中にはナチュラルな脳内再生ミュージック、脳内くちずさみソングと、それら外界のざわめきは、しっくりと多重奏をかなでてくれる。
(というか、音楽聴きたいな、と思うときもあるんだけど、耳に合うイヤフォンや頭の痛くならないヘッドフォンに出会えなかったという理由もある。)

ところが最近、新兵器無線イヤフォンを入手した。コイツがなかなかいいんである。耳から落ちない。コードレス。3Dとかなんとか謳われている音質のよさ、電車内でも充分にひたれる、ほどよい遮音性。

…ということで、宗旨替え、というほどのことではないけれど、プレーヤーを持ち歩くことが多くなった。

光の薄い冬の朝の街でムーンライダーズの歌に救われた日もあったし、
春の陽射しの降る朝の街で静かにこぼれるピアノ曲大貫妙子の声に救われた日もあった。

週末昼下がりの電車ではキセルハナレグミ細野晴臣。気怠く懐かしい脱力ヴォイスと中央線。
夕暮れ帰り道では知久さん、たま、かなしいほど突き抜けたエロティシズムの祝祭。

ああこのひとときの陶酔、この快楽のために生きている、という気持ちになる。
人生をインテグレードする音楽の開く時空。「永遠の現在」ポケットに入り込む。

これを耳にはめた途端、世界が変わる。
この瞬間の感覚はいつもミラクルだ。

ソフィー・マルソーの「ラ・ブーム」だっけな、どってことない可愛い青春映画なんだけど。ダンスパーティに出かけた恋人たち二人が、自分たちだけヘッドフォンをつけるシーンをよく覚えている。その瞬間、騒々しい周囲の音楽から遮断され、ふたりだけの世界、そのヘッドフォンからのチークの音楽に酔いしれて踊る。観客は二人の世界を共有する。ヘッドフォンという小道具を用いたこの「二人だけの世界への移行」の切り替わりの演出がすごくうまいと思ったのだ。ヘッドフォンを付けた途端変容する世界。映画全体の空気を一気に染めかえる音楽効果のリアリティ。


演劇性、歌舞音曲、それらはいつも「ここではない世界」につながるための儀式、祝祭、呪術としてあった。ここにありながらここでないところに繋がる、ダブった時空。演じる意味、それは、ミメーシス。アイデンティティの変容、あるいはそこにありながらその牢獄からの解放を可能とする、トランスのための、常世へと通ずるメディアとなるための。

例えば賢治の農民芸術論概論において、芸術はイデアを模倣するミメーシスという行為であり、それはすなわち現実という観念によって閉ざされたこの世界を、その行為に付随する観念の相対化によって読み換える方法論であった、輝かしいものへ。

「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」
「詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」

賢治の言う「四次元」のありかたは、このような解放のツールとしての芸術を方法論とする創造的行為によって開かれるものであった。現実を生きながら四次を生きる、その多層構造の構築。


…鬱の人が、サングラス、マスクで顔を隠していないと怖くて外を歩けない、ということを言っていたのを聞いたことがある。己の存在を覆い隠すことによって、「見られない、裁かれない」という感覚、世界が己を評価し断罪するための視線から隠れている、守られている感覚を得る。薄い膜一枚。

隠れる、というのとは少し違うが、その薄い膜一枚によって隔たっている、外部によるレッテル貼リ、カテゴライズその他による己を限るものである論理の閉塞から逃れている、自らを閉ざすことによって外的圧力から免れ、内部に何物にも侵されない自由と解放を得る、という感覚としては、音楽で周囲から隠れたおのれだけの世界を創出する、という行為も似たものがある。世界がブレ、ズレる。主体はその内側の立ち位置の確保によって、固定され閉ざされたシステムという物語に対してのメタ位置に立つことができる。ミクロからマクロへの反転という図式である。

これは、例えば北村透谷が自由民権運動、政治活動に挫折して負け犬となって牢獄に閉じ込められたときはじめて発見することができた文学の深淵の構造と同じものである。
うろ覚えで恐縮だが、社会、政治というシステム、「現実」「外側」と信じていたその物語から排除され挫折したとき、牢獄において否応なく己の内側に開かれた瞳に写ったものが、「内部生命論」、すなわち「実世界」に相対する「想世界」という真理、その実存的思想であったのだ。

そのとき、主体は世界に組み込まれる抑圧を受けるものではなく、まさに主体として世界を作る、物語を作る力を発生させる状況の助力を得ている。魂の故郷ともいえる場所、世界に対する能動の発生する場所。読み替えの行為である。

例えば人々が電車の中で携帯音楽プレーヤーのイヤフォンをつけることもその一つだ。この機器の助力とは、本来脳内で打ち鳴らされるべき物語、演劇、音楽が外部にはみ出した文明機器によって得られるという特色をもつ。確か中沢新一がこのことを、脳が外部に延長される、というような言い方をして表現してたんじゃなかったっけな。電車内の読書だって構造としては同じものだ。心の中に別の世界を開いて多重の時空を生きる自由を得る構造。

音楽、絵画。そして映画、それが文学になるプロセスを心の中に発生させる能動性。
五感による物語とそれが抽象に組み立てられる創造のプロセスの中に生まれるダイナミクスの意味は、その中に「生きる」ことを可能とするところにある。

それは、世界と一体化し、世界が無限の意味に満ちていると感じられる瞬間なのだ。


豊かさとは、いつでも己の内側の自由によって保証されるべきものである。
(幸福とは手足を楔によって繋がれた状態である、ともいう。繋がれる幸福と解放される幸福、それを、対立としてではなく、多層として生きるということが、コミットし続けながら逃げつつける矛盾を成立させるテクニックということなんだろうと思っている。愛と、自由との相克を耐えて生きる、その方法論。)