酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

銀河鉄道の夜、あれこれ。

去年、友人の息子さんの読書感想文に関して質問されたことがあった。「銀河鉄道の夜」に関して。

この日の記事ね。

さっきメールの記録で探し物してたら、そのときの答えのメモがあったので、あげておこうかな、と。

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①雁を食べたらなぜお菓子の味がしたのか。

まず、この銀河鉄道宇宙(ジョバンニの夢オチとなる幻想世界)では、すべては象徴的なものである、形而上的なるものであるとして意味を考えた方がいい。

この「鳥捕り」の意味はものすごく議論されてて、難しいんだけど、だいたいが「市井の商売人、俗人(尊敬できるわけでもないがごく普通に親切な人)」のイメージ、その象徴として登場しているという風に考えてもいいんじゃないかと思う。

ジョバンニが馬鹿にしつつ、その人の差し出したものを享受しているという後ろめたさや憐みのような気持ちの表出は、賢治が、俗人、大いなるもののことを考えず、ただ閉ざされた目の前のことだけ、ごくあたりまえに繰り返す日々を稼ぐ人々への複雑な思いを表現してる、とかね。

で、どうしてお菓子になるのか。

賢治が天上世界やファンタジー、岩手県でなく楽しいファンタジーワールドとしてのイーハトーヴォを童話として描くとき、そこの食べ物は、日々の身体が生きるための糧(穀物や肉、食事的なもの)ではなく、むしろ心を喜ばせる夢の力のたべものが選ばれる傾向がある。果物や、お菓子。

タイタニック号から乗り込んできた姉弟のシーンでは子供たちのために、ひとりでにくるくると皮がむけてパイのように食べられるりんごが出てきたよね。別の童話だけど「ひかりのすあし」での神さまの差し出す魔法のチョコレート、妹の詩をうたった詩「永訣の朝」では愛妹の魂の天国での食べもの「天上のアイスクリーム」を祈る。(異稿ね。あとから「兜率の天の食」っていうかっこい言葉になおしたりしてる。どっちも賢治らしい。)

だから、ここでの食べ物は、現実の、なまなましい残虐さをもった生き物の肉としての糧食、鳥ではなく、天の川がぼおっと凝ってできた観念としての鳥、その自然の一部としての美と恵みのイデアの部分だけとりだした心の糧として表現する。肉を食う残虐さを浄化した、肉体の原罪の持つ矛盾を超えたところにある、イデアの食べもの。純粋に甘い心のよろこびのチョコレート。(ハーゲンダッツのCMじゃないけど、「幸せだけでできている」。)

賢治の時代、チョコレートっていうのはすごく特別で貴重な食べ物で、すごいお金持ちがたまにしか入手することができない、ってレヴェル。決して日常のもの、腹を満たすための食べ物じゃない。賢治の作品の中によく出てくるよ。特別の食べ物として。


②なぜジョバンニだけが特別な切符なのか。

ズバリ、主人公だからです。

…っていったらそれでおしまいなんだけど、カムパネルラもかおる子たちも、みんな死者、或いは幻想世界の住民。それぞれ、死後の国、(あるいはそれはキリスト教の国)へ、その行き先の定められた切符、或いは鳥捕りや灯台守、他の、日々の生活に埋もれ仕事を定められた毎日を生きることを受け入れた人たちの人生を象徴する切符。

でもジョバンニが持っているのは限りなくただひたすら真実を、愛を、ただしいものを求める心、それはひたすら無限の可能性。果てない探求のための切符。死者たちを見送り、生活者を観察し、その人生を学び、それぞれの「ほんとうのさいわい」を考える。さまざまのひととその駅を見ながら学びながら真実を探りながら悩みながら現実を生きつづけなければならない者。

…っていう切符。こんな感じでどうかな。

「こいつはもう、ほんとうの天上にさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次なんか、どこまででも行ける筈でさあ…」

ただしきものよきものを探し求める心の、そして知の力、それはあらゆる可能性に開かれた力である、と。

③本当の神様はたった一人なのか。

クリスチャンの青年とジョバンニの神さま談義があったよね。

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」

かみ合ってない。「ほんとうの」「たったひとりの」の定義が食い違っている。

クリスチャンの青年にとっての唯一神はキリスト、エホバ、創造主。
だけど、ジョバンニの神様は…否定形でしか語ることのできない、ただ、なにか絶対のもの、これ、と言ってはいけない真理、この世界を何か美しい「法(ダルマ)(論理)」で統べている、その世界の在り方そのものの「正しさ」への信仰、或いは、祈り。

これは賢治の作品から例を引くと限りないし、あんまりにもでっかすぎてここでは簡単にしか言えないけど、銀河鉄道の夜の初期形(ブルカニロ博士編)」のこのへんは参考になるんじゃないかな。(これは初期形とかいわれてる、いわゆる異稿。出回ってる「最終形」では最後のこの理屈っぽい博士んとこは削除されてる。)

「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひ とのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがい ゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもい っしょに行けるのだ。」

「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくは どうしてそれをもとめたらいゝでせう。」

「あゝわたくしもそれを もとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そ して一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。 水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだ れだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだ から。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀 と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめ いめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれど もお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだ らう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。 そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉 強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考を分けてしまへばそ の実験の方法さえへきまればもう信仰も化学と同じやになる。」

あらゆる宗教のもつ美しい部分を否定することなく、その主観の相克による倫理の相対性に苦しみながら、そのレヴェルを超える、矛盾を止揚する多元宇宙(この世界モデルは仏教的)(インドラの網、と呼ばれる宇宙構造だ。)すべてを統べるイデアのレヴェルへ、その定義を、科学としての絶対の世界観を求めていたんじゃないかな。

ブルカニロ博士の最後の科白はこれ。これはさっきの切符の話ともつながってくる。少年や未来に託した祈り、のような賢治の心の熱さが伝わってくるようだ、なんて思うよ。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中で なしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて 行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのそ の切符を決しておまへはなくしてはいけない。」

レヴィ・ストロース「野生の思考」

年末に録りためておいたのだ。Eテレ「100分de名著」。


お題がレヴィ・ストロースの「野生の思考」、解説者中沢新一、とくればこれはもう…いそいそと録画。

私は本でも漫画でも映画でも、楽しみなものほどなかなか最初のページを開くことができない、何だか緊張しちゃうのだ。好きなものは最後にとっときに、のタイプである。

で、なかなかみられなかった。

でもいつかある日には思い立たねばならぬのだ。生きてるうちにできることはやっておかねば。

よし、と思い切る。まとめてみるぞどっこいしょ。

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夜中こっそり自室にて、ちまちまと編み作業しつつ視聴。やはり面白い、そして中沢新一は相変わらずスタイリッシュで毎回いちいちお洒落である。(第一回は録画し損ねた。くやしい。)この人は実は昔「毛糸だま」という編み物雑誌のモデルなんかしてたのだ。手編みのセーターとってもかっこよく着こなしたりしてね。

坂本龍一とか細野晴臣とか見てても思うけど、いつまでもかっこいいひとはかっこいい。かっこよく年をとる。その年齢に相応しいかっこよさの歴史を積み重ねてゆく。(ちなみに今でもこの雑誌持ってるぞオレ。)

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これね。きれいな赤いセーターとてもよく似合う。

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で、番組内容である。
おもしろいな、って思ったのは、日本人の特性としての「野生の思考と最新テクノロジーのバランス感覚」、これをヨーロッパ人であるレヴィ・ストロースが見出し讃嘆していたということの指摘。

第四回、最終回。中沢新一は、彼のこの発見を、日本独自のポケモンゆるキャラなんかに特徴的にあらわれている擬人化文化と結び付けてみせた。

奇妙な俗っぽさと陳腐さと不気味なほどピュアでまっすぐな幼児性を備えて花開いたこの国の不思議な文化。日陰者サブであったのは今は昔、今日では輝かしい市民権を得て、既にジャパンイメージのメインストリームの様相すら見せている、デフォルメ系のキャラ・アニメ文化。

彼は、この発想の思考基盤を、レヴィ・ストロースのいう自然との調和やポイエーシスの考え方に共通する感覚というか、観念、両者の通奏低音としての基盤であるとするところまで敷衍してみせたのだ。

うわ、と思った。ポケモンの快楽の解釈のひとつとしてこれはとってもおもしろい。外界から取り込むことのできる「力」、自然の力を、ポケモンというかたちで翻訳している、という。

つまり、より豊かに生きてゆくために、自然の恵みをいかに最大限に引き出し安全に利用するか、という文化の原初におかれた命題とパラレルな構造を持つメタファとしての「ポケモンゲット」の解釈を提示してみせたのだ。

自然界のあらゆる場所に様々な形、能力を以て隠れているモンスターというこの世の論理の外側の「魔」力、人がこれをどのような感覚で捕まえ飼いならし利用するのか、という、その命題。(ゲームをしたことがないのでその具体的な感覚は実はわかってないんですが、まあ理論的なとこからの予測。)

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私は、擬人化、ということについては昔から、なんか不思議だなあと思っていた、というか非常なる興味を抱いていた。

一体これってなんなんだろうどういうことだろう何故だろう?
人でないもの話もしないもの人格を持たないものを無理やり人間化する奇妙さ。何らかの人格を付与する行為。(そうやって人間的なるものとしての「翻訳」を施さなければ人間は「人間以外」を理解あるいは支配できないという感覚。)それを無理なく共有し受け入れている社会に対する違和感。

(「話をしないものの話」「言葉を持たないものの言葉」、という一見矛盾した命題は、非常に示唆的である。言葉のない深淵な世界への視野を開く。)(「言葉のない世界はどうして怖いのかしら?」というのは別役実の「そよそよ族」シリーズのコピーではなかったか?)

理由がストンとわかったような気がしたことがあるような気もするんだがそれがまたわからなくなったりしてきた謎なテーマなんである。

古今東西、神やモノ、広大な自然界の無意味な対象をすべて擬人化したかたちで理解しようとする文化は存在した。というか近代以前はそれがすべてであった。原初のアニミズムから発展した民話、童話、神話のスタイルである。近代の人間中心唯一神信仰の権威へ統合される以前の。

それらは、人間がときに過酷な自然の中で生きてゆくために育まれてきたバランス感覚、その知恵の総体としてある。

自然とうまくやって上手に生きてゆくこと、調和。
それは、自然を破壊せず捻じ曲げず、なるべく柔らかなクッション性のようなものの隙間を残した、いうなればより「自然な形」で無理なく人間の生活の便利のために利用しようとする、自然の力の人界への発露のかたちである。支配し奪い取る収奪、搾取ではなく、あふれ出てくるものをただ享受する贈与のかたち。それは、自然の力を「利用」というよりは「恵み」としてとらえる喜びのかたちである。ポイエーシス。豊穣のかたち。

今この時代、さしせまったエネルギー問題を解決しようとするために現れたエコロジーロハスといった概念がある。だがこれら新規な意匠をまとったイマドキお洒落な思想は、「オートポイエーシス」という、古来のこの思想の表層における一片の発現、いうなれば目先を変えてみせただけのバリエーションのひとつだといってもよいのではないかと思う。

自然の恵みの発露としてのポイエーシスが、それ自身(運動それ自体)に影響し(これは人間→自然への影響を意味する。)再生産(それによる自然の変容、そしてさらなる進化を遂げ人間の側へと再び贈られる、繰り返される豊穣、「恵み」。)されてゆくという運動を含んだ視野を持つとき、それは、人間にとっては、自己を含みながら、それをより巨きな生命体の一部であるように感じさせる自我拡大(或いは自我枠の破壊と別な形での再構築)の仕掛けの構図、そのイメージを孕んだオートポイエーシスへと発展する。


揺らぎながら保ち続け継続する生命の営為を描き出す「スタイル」であるオートポイエーシスは、(ロハスやエコ、という新奇な意匠)より普遍的なレヴェルに存在し、あらゆる個別の思想を規定する基盤となる。…「野生の思考」という変幻自在なブリコラージュの思考スタイルである。

それは、自然そのままではなくそれを圧倒的に優先するでもなく、人間のための素材とし徹底支配、利用、強奪しようとすることでもない。テゲテゲと、まあお互いうまくやってきましょうや、といった共存のイメージをもっている。不都合があればちょこちょこっとその都度調整する。時代と場所に応じて節操なくその形を変え削り取り建てましする。(神話や言い伝えの些末な変容とヴァリエーション。)敬虔さや畏怖に近い信仰から小ずるさを孕んだ現世ご利益、或いはいたずら者のキツネやタヌキとの化かし合いや友情、それら親しみやなれ合いにも似た通俗までの振幅をもった思考領域の自在なフレキシビリティ。(おそらくこれは経済的な贈与理論にも通ずるのではないか。)

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…で、ポケモンがその擬人化の一つのヴァリエーションだとしたら。
このようなかたちで異界の力、自然の力を得ようとするスタイルが「現代の日本的なるもの」の特徴であるとするならば、ということなのである。或いは、土地の象徴を「ゆるキャラ」というあのかたちにして現前させるのであるとするならば。その親しみやすさ、一種の俗っぽさ、陳腐さ、愛らしいアイドルや仲間としての性格を付与された、或いは有能な手下として顕れてくる、この(超)自然の力の表徴というスタイルの意味するところは?

日本独自の特色としていうならば、それは「ユルさ」。
異国の文明文化何もかもをフレキシブルに取り入れながらも、それを独自のスタイルにアレンジして取り込んでゆく、したたかなライフスタイルは、この節操のなさ、ユルさ、のようなところにその根拠を求められるのではないだろうか。

そのバランス感覚は、馴れ合いや親しみ、幼児性をまっすぐに許容しながら最先端の技術や理論を手足のように使いこなす奇妙にアンバランスな「オタク」文化の特色である。それは、世界に冠たるテクニカルなスキルの卓越と極度の幼児性の両極の共存を可能とする。人間でないモノを何もかもを擬人化(いわゆる「二次元ヨメ」的なるもののイメージもこれに相当する。)し、「○○ちゃん」「○○たん」とし、時にはそれを性的な欲望の対象として「萌え」るその愛着、親しみ。モノではなくヒトとして、仲間として愛するものとして。

付喪神として、モノに個性を、魂を見るのは、古来日本人の特性なのではないか。身に着けた着物には魂が付着し、愛された持ち物にはその魂が付着し人格が生成される…ちと怖い世界ではあるが。人格、個性、という概念自体が現代のものとはまったく異なる定義から成っていた、極めてその外界との境界線の淡い危ういものだったのだ。

現代の人気漫画では、武器に、刀に、乗り物に、果ては個々の細胞や内臓、血液型にまで人格が付与され、贔屓のキャラクターなどを競う遊びがなされている。これは、もしやその流れを汲んでいるのではないか、などと思ったりするんだよね。八百万の神(妖怪)たち。

世界を、人間の支配や利益の対象でしかない、魂を持たない無機的な「モノ」としてというよりは、仲間として大切にする、愛すべき仲間として扱う。…そんな、世界との調和のための尊重の態度に、もしかしてそれは通ずるのかもしれない。

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自然の力を、神話化、擬人化した形で取り入れようとするという原理。

つまりこれが、ここでいう、現代に奇妙なかたちで適合してあらわれた「野生の思考」のひとつだということなのである。一つの正解をもち、定義と共通理解(一つの目的とその手段という「各論」)を前提とした論理構造をもつ「概念」としてではなく、さまざまの意味分野への拡大解釈のための揺らぎを持つ暗喩としての、「記号」。

それはまさに「概念」ではなく「記号」として対象を思考するひとつの「科学」のスタイルである。

記号はシニフィアンであり、暗喩と隠喩に満ち、それ自体は厳然とした一つの論理に片付けることができない。その意味する対象のシニフィエは定まるところなく揺らぐ広がりを持ち、解釈(文学の分野での言い方をするならば、テクストが読者によって読み込まれる読書の現場)を得てはじめて意味を生成しはじめる。抽象的な言葉の連なりから摘出される、そのときの、その時空に適応した具体が現れてくる変幻自在な可塑の論理。そしてけれど決してそれはきれいにそこにも収まりきることがなく、いつでも必然としてのアポリアを孕み、さらなるつじつま合わせの増築のなされる建築物としてのダイナミクスを孕んだ活性としての性質を持つ。…これが「野生の思考」ブリコラージュの論理なのだ。

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がっちりと構築された概念に根差した美学もいいんだろけどさ、いや確かにそれがなきゃ世界は成り立たないしつまんないだけどさ、節操がないってのが基本でな、いつでもそこ、「外側」を自覚する、その自在な思考が可能になる地点に立ち還るゆるみ、ていうかたちの知性、メタ認知っていうのかな、そういう自覚がなきゃ動きとれなくなって苦しいよな、って思うんだよな、オレ。

千と千尋の神隠し

金曜ロードショーつい観てしまった。
まあね、やっぱりなんだかんだいって千と千尋、おもしろかったですわ。
 
楽しげでわくわくするような怪しいファンタジーに満ちた街の風景、夜の世界と昼の世界の鮮やかな反転、水と空と雲と光の美しい描き方。
 
その光の色、その風景。懐かしいような切なさの、記憶の地層の最下層を切りだしてきたような奇妙に明るい永遠の真昼や薄暮(心象風景なんだな)のこの映像のことを考える。風景、そして動きの中に、リアルとは異なる表現の可能性は見いだせる、そのアニメーションの可能性を最大限に生かそうとする自覚的なテクニックの駆使されたアニメーションやCG独自の躍動感。それは物理的現実というよりは脳がとらえた意味としての動き、とでもいうべき(日常生活の中のリアルではありえない、イメージとしての躍動感。スピードとか人物の動きとかね、夢の中の、脳内で翻訳されたものの再生産、…意味のレヴェルなんだよね、言わば印象派としての動き。いわば現実ではない真実。この躍動感に関しては、ディズニー映画に如実だけど。)
 
銀河鉄道のモチーフが、銀河を水によみかえて再現されてるんだ、と思ったり、ハウルのイメージ(「ハウルの動く城」)と通じるハクの飛行や闘いや、魔法や力を求める若者のイメージ、その残虐な代償の描き方の意味するもの(監督の思い入れ、メッセージ色の濃いもの。)感じたリ、千尋結局ナウシカやん、とか思ったり。(カオナシに「森(おうち)へおかえり、」的なことを言う。)(あるべき場所へいるべき場所へ正しいところへ帰りなさいっていうのは宮崎駿のテーマなんかしらねい。)(「力」を求める若者の過ちの大きすぎる代償による寂しさや破滅は、ソフィーや千尋、女性の愛の力によって救われる、というお約束なテーマが宮崎駿アニメーションなのかもしれぬ。)そして、古来の日本のもののけたちの魅惑的な存在感、これらプレテクストの折り込み方。
 
銀河鉄道的な読み込みで言えば、片道切符の銭婆への家の道行きは、異界(「ムコウガワ」異次元、或いはそれは死の世界。)への旅。いや、さらに言えばそれはここでは、人間界ー妖怪たちの世界、という単純な二項対立の地平をも突き抜け超えてゆく、第三項としての「その外側」を志向して走り続けるメディアの可能性を示す構造となっている。
 
沼の底、行きついた果て、あの銭婆のおうちにみちる静かな死後未生の世界のイメージ。それは、世界以前のカオスに近いところにいる母(祖母、母の母、大いなる母の胎内のイメージがある。)の下にある安らぎ感。
 
…このイメージの連なりの構造は確かエンデの「果てしない物語」にもありましたな。物語の結末近く、何もかも忘れ失い疲弊した敗残をさまよい、もといた世界へ戻る方法を探すバスチアンが、束の間、「アイゥオーラおばさま(「変わる家」の主、植物の精のような女性、その身体は常に生きた植物に覆われ、花に覆われ、果実を実らせ、疲れた子の飢えを満たし無償の愛で包む。バスチアンのすべてを肯定する。安らぎの「母」だ。)」のもとで甘やかされ愛おしまれることで生きるための気力、何か、愛への思い、のようなものを得てゆく章があった。だがそれはやはり束の間の休息。変わる家は人を変え、送り出す運命の場所。そのままとどまり停滞する場所ではない。死と再生の場所。)
 
これを初めてDVDで観たときの感想、ここにアップしていた。(大昔だぞなもし。)やっぱり今ではこんな簡単なとこだけではなく、そして少し違う考えかも、とか、もっともっといっぱいいろんなことあるよな、と思ったりする。

千と千尋の神隠し1

ドライ・マティーニ

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土曜日撮った写真である。
地上43階のバーで夜景とジャズとドライ・マティーニ
 
こんなとこに連れてきてもらってアラびっくりでなんだかびっくりで。
 
楽しかった。(そうなのです。不思議に楽しかったのです。夜のキラキラ。ほんにありがとございます。<私信)気分はなんとなく春樹の小説であった。
 
なんだかそのときは言えなかったけど、普段メニューの選択にはすごく迷う自分が即断したこのカクテルのチョイスには実は理由がある。(「これにします。これをワシが選んだのはですね、云々…」などとこんなとこではじめたらなんだかヒジョーにこうるさい人間なような気がしたのだ。)(そういう人間だけど。)
 
森雅之の「リリックス」という漫画にでてきて、ずっと憧れだったのだ。こういうバーでマティーニ頼むのって。
 
「エスキモーズ・キッス」っていうお話。(今探し出して読み返した。)マティーニ飲みながら、その味のイメージの物語を考える作者。
 
北極の寂しい人魚がある月夜に寂しさに耐え切れず浮き上がり、水面に映った月影にキスしたら月影が砕ける。その光のカケラが流れ流れて、釣りをしていたひとりのエスキモーがそれをすくい飲んだ、その味がマティーニっていう、そういう話な。
 
最後のオリーブの話までちゃんとあるんだよ。(だからちゃんと最後まで食べた。)(しょっぱかった。)
 
この最後までが素敵なお話である。
この風景を飲み干すのに、この酒がグラスに映し出した光の色にふさわしい。
 
おやつとか嗜好品っていうのは、日々の身体の糧ではなく心が夢を食み育むための糧なのだ。どんなにあじきない時代や奇妙な時代や残虐な場所の世の中でどんなかたちであらわれても、物語は、人がひとときしがみつく安らぎの夢は、うつくしい世界への意味あれよかしの祈りの凝りであって、それは誰にも非難されなくていい。
 
五感第六感総動員で精一杯光の酔いを味わうことは、さまざまな物語で味付けすることは、そのまんまオリジナルな創造行為だと自分は思っている。その時間は自分の中でかけがえのないものだし、そのことをきちんと感じることが宗教で言えば神を賛美することであるということであってだな、…大げさだな、でも大げさだろうと小げさだろうとそれはそういうものなんだ。
 
ねむいねむい。
森雅之読み返したら懐かしくなった。この漫画をプレゼントしてくれた人のこととそのころの時間を思いだした。大昔だ。当時好きな話があったけど、やっぱり今でも好きだった。オレ成長ないな。
 
さて今夜もおやすみなさい世界。

ダイバーシティ

明るく晴れた日曜日、静かな昼下がりの中央線。

隣席には雑誌を開く上品な白髪の年配女性。
ちらりと覗くと、熟読されているのは、「たんぱく質勉強会のお知らせ」と「タラと長芋の揚げボールレシピ」の書かれた頁である。最近の研究によると、長生きに大切なのは動物性蛋白質なんですな…

昼下がりの金色の光が、ふいっと深く優しく切ない心を孕んだ、ような気がした。とろりと濃い、黄昏の蜂蜜色。

正面を見上げてみると、力強く仁王立ちしている男性。「銀と金」コミックスに没頭。裏社会で政治経済絡めてダークに活躍する男たちのファンタジックなストーリーらしい。

こういう美学好きだねえ、男性一般というのは。だから現実のこの世もこうなっちゃうんだよな、などとぼんやり考える。無表情な髭面の奥で、ハードでエキサイティングなわくわくの中にいるんだろうなあ、カレ。まあ、つくづく他人の美学につき合わされたくなんかねえやな。

それにしてもつくづくみょうちくりんな絵じゃのう。鋭さを強調する直線で極度にデフォルメされた奇妙な目鼻。少女漫画のまつげばっさばっさのキラキラおめめもうどうかと思うが。…まあどっちもどっちか。(どうでもいいけど私の最近の読み飛ばしヒット(あんまり考えないで楽しく細切れに読めるもの。)は「よしふみとからあげ」です。「聖☆おにいさん」とかね。永遠の大好きはますむらひろしアタゴオルシリーズだけど。ますむらひろしの作品はほとんど全部持ってるぞ。)

彼の横には、ピンクのハニーポップコーンのトートバッグ抱えて大きなクリームパンかじる女子高生。クリームパンとってもでかい。

こういうティピカルな女子高生にクリームパンは実によく似合う。

クリームパン最後に食べたのはいつだっけなあ。阿佐ヶ谷の好味屋の好きだったな。げんこつみたいなかたちのつやつやこんがりふわりのパンにケーキ用カスタードクリームがたっぷり詰まったやつ。スーパーで売ってるポリ袋に入ったやつとは違うよ。あの、やたら柔らかくてにちゃっと甘い添加物パンとはな。ぽっかりあいた空洞にヤマト糊みたいなクリームがちびっとなすられてるアレ。ありゃ工業製品だ。(実は昔結構好きだったけど。)

 *** *** ***

…不意に不思議な心持ちに襲われる。
こんなにも異なる世界を背負いながら、おそらく全く異なる風景を眺めながらここで同じ時空間を共有している。それぞれの物語を生きていても、同じ日本語を解し、一筋の細い糸を辿るようにして意思疎通をすることすらできるのだ、われわれは。それは永遠に完全理解には行きつかない。にも拘らず、何かのかたちを以て関わりを持つことができる。対幻想、共同幻想吉本隆明)のフィールドを共につくりだすことができる…というようなことを奇跡のように奇妙な違和感とともに感じたのだ。

(公園や街中や、そして特に電車に乗ったりしたときよく襲われる、この感覚が私は大好きだ。人はみなひととき銀河鉄道の同じ車両に乗り合わせ、それぞれの駅で降りてゆく、というような世界のありかたを、その構図を頭の中は描きだす。)

で、多様性の基礎についてしみじみと考える。昨今あれこれ言われているダイバーシティを語るにはこのあたりのことから考えねばならぬのではないか。

他者を理解する、あるいは理解できないことを容認し認め尊重する。
大切なのは、距離感、認め合い、尊重、その先なる、生かしあう場の構成。

…オレね、我が母校都立T高校のスローガン、卒業してからの方がしょっちゅう思い出すんだよ。「自主・自立・連帯」。

そして、それとセットで記憶されている、「自明の信頼と清潔な無関心」という言葉。

これは、山口 泉「ノート 水鳥のいる公園」の一節。水鳥を観察しているときの、水鳥たちの生態の在り方を、次のように考察した一節の中の言葉である。

「それは,互いに相手の存在を知覚しながら,しかも支配することもされることもない,傷つけることも傷つけられることも,脅かすことも脅かされることもない,自明の信頼と清潔な無関心に支えられ,他の生命と自分との関係というもののありようが,眼に見える距離と運動,さらに空気のなかのさまざまなディテールをもって確かめられるからである,と」

「清潔な無関心」。
なんと大切な言葉だろうか。そして極めて困難な。

一見、信頼、連帯に相反するものであるかのようでいて、決してそうではない。
自立を尊重し合うための「距離感」の大切さを如実に顕わした貴重な言葉である。

これは下衆の反対語といってもいいのではないか。「高潔」とまでは気負わない、ひどく自然でうつくしい存在の仕様を思う。高潔は、少し疲れる。矜持に通じるひきつれた修行僧のような厳しい表情の美学をまとっている。悲壮な禁欲や自己犠牲やなんかに通じるヒステリックな精神のリキみがある。

…偽善と偽悪の関係のように、ここで高潔と下衆とは同じひとつの論理と価値観にとらわれたままのウラオモテの現象に過ぎない。どちらかの否定のための両極の提示。

清潔な無関心、はそれを止揚する可能性を探る第三項だ。


そう、高潔なのは疲れてしまう。24時間タタカエマスカ。

オレほんとダラダラでグズグズで疲れるのって心身ともにダメなんよ。疲れるのっていうのは、自分かどっかの誰かのどこかに、無理や歪みや無意識の隠蔽やなんかがあるから疲れるのだ、て、思っている。

ゴンゴンゴンゴン加速して、滅亡に向かって進化発展パワーゲームなんかしなくてもいいのに。人間、一度味わった進化の面白さからは抜け出せない。後ろには戻れないんだからさ。もっとスローダウン、テゲテゲゆるみをもって楽々生きていけたっていいのに、世の中。立ち止まったら途端にドロップアウトということになってしまうこの社会。絶えず前向きキラキラ輝いて泳ぎ続けないと死んでしまうイワシのようだ。


なんかとにかく、周りに高潔すぎる人が多くてなんか困っている。中島みゆきの「蕎麦屋」(世界じゅうがだれもかも偉い奴に思えてきて/まるで自分ひとりだけが いらないような気がするとき♪)な気持ちなんである。(蕎麦屋たぬきうどんは食べないけど自分。)


…「清潔な無関心」。エゴや冷淡さと背中合わせでありながら絶妙に尊重と連帯への可能性の橋を繋ごうとするとき、この言葉は 相手を己の価値観の中に取り込まない、決めつけない、裁かない、支配下に置こうとしないという意味で、大きな意味をもつ。

尊重、ということは、どこかひやりとした冷淡さをも含んだ「あかるくつめたいとこ」(宮澤賢治の想像した貴い仏界のイメージ)に近い感触にものなのかもしれない。

自立は孤独か?
その否定としての連帯がある。

…難しい。

そのバランス感覚が、ダイバーシティに関するさまざまの問題を解決するための方策の、その基礎的地盤として、通奏低音として、必要となる概念である。

ような気がする。

ノーベル賞

今年のノーベル文学賞は、まずはいろんな人が春樹受賞問題についてあーだこーだ言ってていろいろ楽しかった。

とりあえず思ったことは、純文学と通俗文学の境界線についてあいまいになってる定義を問い直すときなんじゃないかなあということ。あとノーベル賞ってなんなんだってとこを。

あれこれ混乱している。
世界じゅうで、さまざまな価値感がぐちゃぐちゃに乱れた価値基準崩壊の乱世になってる感がある。

ここで大切なのは、双方の、歴史と現代におけるその意味の変遷、その文脈を押さえておくこと。新たに定義しなおしつづけること。この辺を曖昧にしたままのあーだこーだは何を言っても土台のない砂の城、不毛すぎる。

逆に言うとこの論議が、現代がそのそもそもを問い直すべき「そのとき」なんだっていう自覚と発見の発想になる、そこにつながるトリガーとなるんだったら、これは不毛なものではなく、むしろその素晴らしい機会であると思う。

ツイッターで音楽ツウな高校の先輩がこんなこと呟いてた。

ボブ・ディランは、有名な賞などを受けて、時代に定着させてしまわないほうがいいんじゃないのか、 などとひねくれたことを言う。」

「以前だったら泡沫候補って呼ばれてたような人がど真ん中にいたりするんで、中心と周辺が逆転した世の中に生きているんだと思ったが、すべてのものが周辺化してしまったといったほうが、正確なんじゃないかと思った。つまりこれは、空洞化というものなんでしょうか。」

茂木健一郎は、ノーベル賞の選考基準の冒険性を大層評価していた。これはおそらく「話題になる」ということそのものについての評価でもあった。一石を投ずるということ。賛否の論議が巻き起こることを予期した、或いは「それを期待した」決断である、新しいパラダイムのための世界中の思考の、議論の活性化を呼び起こすための英断であると。

この後、ボブ・ディランはマスコミの取材に取り合わず連絡も取れずツアーを続け、それに関して何らのコメントもしないという「ノーベル賞スルー」というファンをシビれさせるかっこよさを披露した。(ちなみに私は個人的には、「やっぱりすごいな、結構好きだな。」と普通に聴くけどそれほど熱狂的なファンではない。iPhone君にアルバム3枚入ってる程度である。)

で、同賞を選考したノーベル委員長のペール・ベストベリィ氏は21日、こうコメントしたという。「無礼で傲慢(ごうまん)だ。」

この煽情的なニュースの見出しで、メディアの狙い通りネットは燃え上がりましたな。権威をかさに着た傲慢。…だけど、これはマスメディア常套のイカサマ報道だ。だって、意図的に隠されたこの続きはこの科白だったんだから。「でもそれが彼ってものだ。」(知ってたさ。)

なんかカッコいいなあ。こういうのって。
とっても粋なオトナな感じがしてさ。

なお、発表から2週間以上も沈黙を続けたのはどうしてなのかという問いにボブは「でも、今はこうして話している」と煙に巻いてみせた。

また、ダニアス教授が授賞発表の際、ボブの作品をホメロスやサッフォーらのギリシャの詩人を引き合いに出して称賛したことについてどう思うかという問いには確かに自分の作風はホメロス的なところもあると次のように語っている。

「確かにある意味じゃそういうところもあるかもしれない。"Blind Willie McTell"、"Ballad of Hollis Brown"、"Joey"、"A Hard Rain’s a-Gonna Fall(はげしい雨が降る)"、"Hurricane"とか、この手の曲は、本質的にはホメロス的だよ」

ただ、歌詞の解釈については「どういうことなのかはみんなが決めればいいと思うんだ。学者とかが、いい答えを持ってるんじゃないのかな。俺にそれを説明する資格はないんだよ。俺には意見なんてものはないんだ。」と説明してみせている。

いざ授賞式、やはり彼は出席しなかったけど、誠意のあるメッセージを寄せている。


文学とは何か、音楽や演劇との関係は、物語と言葉とは何か、という問題に関して、とても一貫した態度をもったカッコいい人なんだなあ、このひと。目のまえの現実と理念の相克をリアルに闘ってきたひとの、こんな風な言葉や音楽に対する透徹した感性というのはそのままトータルに完成した美しい論理を宿した知性なんだ。

全文を訳したものがここにある。

シェークスピアと文学との関係を自分の作品と文学との関係になぞらえてみせたのは詩人ならではの見事な手腕だと思った。文学とは、という問いは自分(ディラン)が答えるための問いではなく、ただ自分が体現してみせる中にソレを読み取る人の「文学」に対する思考(「学者とかが、いい答えを持ってるんじゃないのかな。」)を促すものである、という宣言であるように思ったんである。

娼婦

タイミングずれちゃったけど。

こないだの夜、SNSの同世代以上の方々のTLはざわざわと静かな熱い興奮にざわめいた。「NHKBSでスティングが歌ってる。まさか今になってこんなことが。ああロクサーヌ。」

 

スティングなんて聴いてなかった。

高校の友人はみんな当時から聴いてたみたいだけどね。
ガイジンって苦手だ、わがんね、って思ってた。カルチャーも言語も異なる異人種、オレのような排他的シマグニ根性の持ち主にとって毛唐なんぞ人間として共通項を見つけただけで感動するくらいの恐怖の対象、異界のエイリアンだ。

(昔も今も考えは変わっていない。)

 

ただでさえ他人はわがんね。いわんやガイジンをや。
…でもね、まあだからこそ共通項を見つけるとなんかびっくりして感動するわけなんだよね。

 

スティングロクサーヌ
レゲエ調のリズムに乗せて娼婦への純愛をうたった歌。

PVがあんまりひどいんで放送禁止になったらしい。

 

で、娼婦である。
社会の底辺と言われている。下賤なんである。

で、文学っていうのは底辺や下賤に親しい分野なので、古今東西、娼婦は結構メジャーなモチーフである。娼婦文化。

とりあえず思いだしたのは、永井荷風「墨東綺譚」。
ここで象徴的なのは、作品中、娼婦の世界玉ノ井が、「川向う」にあったということがきちんと描かれているということである。主人公が橋を渡って娼婦のところへ通う、橋を渡るという、そのいちいちの描写。

橋を渡るというのは、儀式だ。

花街は、ケガレの場所としてまっとうな社会とは隔離されていた、娼婦の世界は異界。そう、川向う、橋を渡った「向こう側」にそれはあった。(今はどうだか知らないけどさ。デリヘル嬢とか援交とか宅配ピザみたいなシステムが便利だもんね。)(ここでは電話やネットが「橋」になっている。要するに「向こう側」に繋がる「メディア」なのだ。)

日常生活の中で橋の向こう側とこちら側を主人公は行き来する。世界の境界を超えるとき、洋の東西を問わず、川というモチーフは普遍的に現れてくるもののようだ。三途の川、ギリシャ神話のステュクス。(因みに川と橋のモチーフはムーンライダーズ鈴木慶一の歌にもよく出てくる。時間的な意味合いをダブらせながら、川を遡る、或いは取り返しのつかない新しい世界への橋を渡る決意のイメージ。)

 「日常現実」の外側に位置するもの。或いは、周縁。
それは、徹底的に蔑まれ貶められながらも、いつでもどこかで中央権力の閉鎖と停滞、息苦しさを救う解放の可能性であり、何もかもひっくり返す祝祭のパワーを宿したカオスと接したメディアである。

中央から外れ挫折しずり落ちてゆく個人(或いはそのオモテの顔に隠れた裏面)を受け止める場所、そこで、貶められた女たちは男たちの社会性の裏側に君臨する女王ともなる。

純愛。ロクサーヌ
穢れた者たち、河原者、賤民は、逆に言えばシステムの外側、中央権力の及ばない世界に属するものであり、自由と解放の民でもあった。娼婦はシステムに絡めとられた領域にあったが、どこよりも彼らに近いところにある。

ロクサーヌを愛し、売春をやめてくれといい、「こちら側」に引き取ろうとする歌詞の純愛は、社会的には認められないものだ。

娼婦を歌ったというだけで放送禁止になったくらいだもんね。オモテに出してはいけないのだ、押し込めておかなければならないのだ。隠蔽すべき穢れたもの。そして穢れていながらも必要なもの。男たちの下卑た卑怯な笑いの共犯性の中にその真摯な生命の尊厳を損なわれているもの、彼らがそこに頼りそこから密かに力を吸い上げねばならぬもの。

非常に不思議なのは、女を生活のための金銭によって穢した男たちは穢れていないとされていることだ。己の闇と穢れの部分を女に贖わせているという構図である。…公衆便子とはよく言ったもんだ。己の生命を繋ぐDNA、次世代の神秘の生命の行為と生きている自分自身の細胞が穢れた汚物か。

そんなに性が卑しいか。権力構造の支配の中に管理しておきたいか。

金銭によって性的関係をもった共犯者でありながら、対象の女たちを「蔑んでいる限り」お天道様のあたる「こっち側、男社会構造」の中のまともなパーツとして存在していられる。社会的な上層部にだってすましかえっていられる。穢された女たちばかりが社会の闇に堕とされる。まあなんというか男社会が円滑に運営されるためのシステム、奴隷制度の上に成り立った豊かさと繁栄の美麗な文化みたいな構造で、とりあえず盗人猛々しいといったところである。

いつだって、歌の中に、文学の中に、祝祭の中に、密やかに闇の系譜は息づきながら、たくさんのひとびとのさまざまな矛盾と痛みと涙を暗いエネルギイとしてため込み、次なる世界の革命の種子が熟するのを待っているということなのかもしれない。

(革命なんてあるんだろうか?)