酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

話し言葉と書き言葉 その2 三位一体

眠れないので飲みながらつれづれに書き綴る酩酊君です。

ええと、書き言葉と話し言葉について。

普段から何となく感じていた引っかかりについてである。
…人の話す言葉と書く言葉の乖離、同一人物なのに人格としてその言葉が与える印象が違うという現象についてである。

チャットなどでは見えにくいが、ある程度の長文になってくるとこの現象は如実だ。「ひとり語り」はそもそもが書き言葉的なところに近い。実際、プレゼンだの講演会だのでは、「書き言葉を話し言葉に翻訳する」という逆転した流れが必然である。

ラジオ講座なんかで、いかにもシナリオ通りの科白で「~なんですよ。」「~なんですね。」などと「砕けた口調で話しかけるような文体」を演じる言葉のしらじらしさを思い出してみるといい。なんと不思議に独特な不自然さをもっていることか。顔を持たない不特定多数に対して、いわば抽象に対して親しげに語りかけてみせる不自然さ。パブリックという抽象概念に具体としての話し言葉(パロール)を用いるのは「不自然」なねじれをもってしまうものなのだ。…こうして考えてみると、言うなれば、書き言葉はよりパブリックな性格をもち、話し言葉はよりプライヴェート、というよりはドメスティックな性格をもった言語だということができるのではないか。話し言葉はより厳しく「現場性」に縛られている、ということだ。

「言文一致運動」以前の、文語体としての書き言葉と口語体としての話し言葉の乖離は象徴的なものだ。

実際に文語体で書くわけでなくても、話し言葉と書き言葉では使う文法、ルールが無意識に使い分けられている。例えば内面での思考の流れと会話に顕れている言葉の意味するところの流れとの乖離があるとしよう。そこには言語的重層構造が出現している。話し言葉と書き言葉の乖離の構造はこれに似ている。論理的思考のレヴェルと(言いたいこと)それが実際のコミュニケーションの場に引っ張り出され受肉されたときの、その現場に適応してメタモルフォーゼしてしまったかたち。(TPOに縛られている。)

話す人格と書く人格が微妙にずれていたりすること。これを敷衍すると、それが実は言葉の持つ本質に所以するというところに通じてゆく。例えばリアルでの人格とネットでの仮想人格の関係とかね。

しかし「ずれていたりすることがある」というよりは、寧ろ一致してる方が稀有(というより偶然、あるいは恣意的)であるということをここで私は言っている。いかに話すように話し言葉を綴ってみせても、やはりどうしてもそこには実際にその人が語っている身体性を伴った「現場の言葉」とは微妙だがあきらかな乖離がある。

…そしてしかし、それは、どちらが本当でどちらがうそ、ということではない。(どちらが演出でどちらが本音であるか、ということではない。)身体性を剝奪された書き言葉、というのは全体性を剥奪された、と解釈されがちだが、それは換言すれば身体性、現場性の呪縛から解放された独立した法の下にある言葉であるということもできるからだ。ネットでの人格がリアルでの人格から解き放たれることのできる、その解放のための変幻自在なペルソナであったように。(「書くこと」が、いわゆる「癒し」、心理的病理の治療行為に通じてくるのはこの関係性の構造による。)

そのどちらもがそのひと自身である。このことを考えるとき、私は、なんというのだろう、一種、感動、を覚える。人間のいうもののアイデンティティというものの深みというかワケわかんなさというか。そういう構造的なところに潜む神秘の個所に目を開かれる思いがするのだ。

人間はいくらでもシンプルにもなれるし複雑怪奇にでもなれる。それは分析次第なのだ。人間のどの「層」と「構造」をみるか、という。そして全体性というものを考えるとすれば、それは、ゲシュタルト心理学が主張しているように、要素の集合ではなく、構造を持った全体であるそのこと自体による不可知のプラスαの付加を意味している。



で、この書き言葉と話し言葉の構造とその混乱をソシュールやバルトの考え方にあてはめて分析してみるとどうなるか。

ソシュールが構造言語学でランガージュ(言語)をラングとパロールの二層の構造としてとらえたものに、ロラン・バルトは第三の要素、エクリチュールの概念を加えた。次のようなものである。

まず、抽象的な(文法レヴェル)言語層としてのラングがあり、個的な具体性をもった活用レヴェルとしてのスティル(パロール)(話し言葉)がある。(身体性を伴った発話の「現場」である。)

そして第三の層がエクリチュール、書き言葉。これは「社会性を書き込まれたもの」としての様式化された言語層である。「キャラ」とか「クラスタ」とか、プロファイリング、類型化されうる社会的人格だ。つまり、これを駆使することによって、容易にネット上での仮想人格を演出しうるレヴェルであるということを示す。

すごいな、ぴったりだ。まさにエクリチュール、「書き言葉」というこの語が、言語によって人格を演出する概念となっているのだ。…書くことは、すなわち人格の自己演出、物語演出としての言語であるという定義を導き出すこの言語構造、わくわくする。

言語の、この三位一体構造。

第三項エクリチュール、ってとこの発想が一番おもしろい。大体が、三位一体ってすごくいい言葉なんだとしみじみ思った。

二項対立プラスワンっていうのは基本なんだな。ヘーゲルのテーゼ・アンチテーゼ・アウフヘーベンだって、立体構造をもった三位一体のヴァリエーションのひとつとして考えたっていいのではないか、などと思う。第三項は必ず二項対立の織りなすのっぺりと平面的な論理地平の外部へと通じる、矛盾からの跳躍、革命のダイナミズムを孕んだ動的な要素なのだ。

三位一体、父と子と聖霊にあてはめるとするならば、父はラング、母はパロール、そして聖霊エクリチュールだ。(神とはそのすべての「全体」としてある。)それは、霊と肉と、なんだろう、霊の存在を肉のレヴェルで具現してみせる力、或いは気、動き、ダイナミズム、関係性。(抽象・具体・メディア《ミメーシス》)

そして、全体で一としての言語をこの三要素として分析して考えると見えてくるものとは、ということだ。

ネットでの言辞はほとんどすべてがエクリチュールである。
それら跋扈する「リアル」の現場から解放された言葉の妖怪たちは、ラング、パロールの領域にも影響を及ぼしてゆく。文法は変化し、パロールにはネット用語が応用されて。ヴァーチャルがリアルを多様なものとして読みかえる。…浸潤してゆく。

あたかも、現実が芸術を模倣してゆくように。

私は、楽しいと思う。このナンデモアリの言語の野放図な時代を。
同時に、反動としての、言語を粛正する時代のきな臭さが漂ってくるこの窮屈な時代を恐怖する。

混乱とは可能性だ。ひとりの人間の中の人格の数的無限は、世界の数的無限だ。
顔を合わせ、ボディランゲージと触れ合いをふくめたパロール・コミュケーションと、抽象的なSNSによるエクリチュール・コミュニケーションを合わせて、決めつけることのできない相手の多面性を認めてゆく。より(ワケワカンナイ)相手の人間性への無限に対する感情が、混乱と決めつけへの欲望ではなく、ひたすらの畏敬と愛情であることを、私は、私の幸せのために、祈る。とりあえず。

新たな時代がどう転んでゆくか。

これは次なるひとつの時代のための序章である、と、そんな風に思うんである。

話し言葉と書き言葉 言文一致と情報革命

60代以上の年配のご婦人は各々独自の仮名遣いにこだわっておられるケースが多い気がする。指摘してもスルーされるということは、なにかこだわりのようなものがあるのだろうか。一応、を「いちよう」と表記し「つ」のローマ字を「tu」と綴る。こないだは「スパームウン」という単語表記をしておられた。

最初に脳内に刷り込まれた語感と表記の結びつきのイメージ、言語感覚というのは容易に翻すことはできぬものだ。

そもそも書き言葉と話し言葉というのは本質として異なった言語基準にある。日本語では、明治の言文一致運動を以て初めて、アカデミックな文語体であった書き言葉が口語体の日常言語への可能性に開かれたのだ。

一部の知識階級のものであった書き言葉が、大衆の言葉に開かれたということは、革命だった。


文語体の品格を重んずる知識階級からは根強い反発もあったという。大衆に開かれるという意味はすなわち玉石混交の混乱を招くという意味である。

いままできれいにならされた地平に並べられた粒ぞろいの言葉、文語体でチューニングされ構成されていた「知」の世界の調和或いは馴れ合いと停滞は、異質な大衆の言語、口語によって破壊され、不協和音を響かせはじめる。

「シロート」さんとして同じステージに立つことすらできなかった種類の人々の異なった思考回路が安定した停滞の中にまどろんでいたアカデミズムとしての知の世界構造(それは往々にして権力と結びついて発展してきた。)に殴り込みをかけたのだ。それはもちろん「書き言葉」全体の品格と質の低下を招いたであろうし、同時に、次の時代を拓く「知」のより深化したレヴェルでの新たなるパラダイムを構築する起爆剤ともなった。破壊と混乱、再構成、死と再生のミッションのとき。

…この「言語」における革命、混乱の社会的な構図は、優れて現代的なひとつの社会のイメージを想起させる。

言語、をそのまま情報、に置き換えてみよう。

マスメディアだけに許されていた特権であった情報管理、情報操作の「権力」が、インターネットによって一般に開かれた、この現代社会の情報革命と混乱の構図である。びっくりするほどぴたりとあてはまるではないか。

と構造を重ねて考えてみると、とっても面白いのだ、言文一致運動の顛末。


そしてそれが行きついた先である現代の、例えばボーダーレス文学(ボブ・ディランノーベル文学賞だもんな!)という状況。

 ***  ***  *** 

とにかく情報革命以来、世の中混乱している。
世界じゅうで、さまざまな価値感がぐちゃぐちゃに乱れた価値基準崩壊の乱世になってる感がある。

つまり、逆に言うと、現代がそのそもそもを問い直すべき革命の「そのとき」なんだってことになる。

あらゆる「権威」「常識」が覆され、新たな指針が模索されつつある、いわば乱世。世界中で天変地異やキナくさい戦争、テロ、紛争の気配。(自然災害と社会の変動って確かに連動しているものだ。暮らしの基盤に不安が訪れ人心は荒れる。人心が荒れれば国は荒れる。)停滞の時代に押し込められていた矛盾が吹きあがる。良識も悪弊も渦巻いて何もかもぶっ飛ばされる、ただ力が吹き荒れる、ナンデモアリ。トランプあり、ドゥテルテあり、ネタかと思ってたらホントに大統領になっちゃう暴言王。ヒットラーの時代は近い。内実を持たないキレイゴトなんかぶっとばせ!各々が己に都合のいい正義を振り回すのだ。

それは、もちろん、本当にうつくしい正義の顔だってもっている。権威の中に安住できていた「オトナの事情」的なるモノ、内部の閉鎖空間で通じていた世の非常識なる常識、腐りきった非人道的行為も、世界中のあらゆる外部の目に、瞬時にもれなくさらされてゆく。

(それは単純にテクノロジーによって実現した革命なのだ。)(つまり、自然の成り行き。)(必然。)

大学も病院もお大臣も大企業もエラいさんも。

「自称」を付け合って知力の限りを尽くし罵りあってるコメンテーター評論家の世界ばかりが、有象無象社会の隅々までぐう~んと広がった。みんなが平たい場所で通じない言語を飛ばしあう。

あらゆる秘密と制度に守られていた権威はそのヨロイをはぎとられさまざまの多様な価値観のもとにさらされる。

本質を失い形骸化した権威なるものの失墜の危機、すべてが白日の下に。

その功罪。開かれることは澱みや汚穢を防ぐ為にとても正しいことであっても、ときに正しくなくなることもある。悪意に対しても何もかもが開かれてしまうから。例えばネット炎上の功罪だ。

誹謗中傷の野放し、悪意と疑心暗鬼の跳梁跋扈、保身、陰謀、日和見ポピュリズム、衆愚。プロフェッショナルなるものやオーソリティの軽視。積み上げられた歴史への、或いはおおいなるものへの畏怖の欠如、バイアスのかかった頑迷さによる信念同士の秩序のない意固地のぶつかり合い。

そしてその必然は、反動、或いは逆説としての保守からの締め付け、問答無用の力の権威の出現、奪われる自由と権利、流れつく先はきっと…戦争だ。


…なあんてね。世の中よくわかんないからあれこれ怖い方へ考えてしまうんだよな。
今夜もいい加減酔っぱらいすぎだ。(ウコンシジミサプリって買ってみて飲んでるんだけど。)(麦酒で飲みくだす阿呆である。)も少しちゃんと整理して考えないといけないけど酩酊君のときの勢いも必要なのだ。全然まとまってないのでぼちぼち整理する予定です。(気が向いたらね。)

おやすみなさい寒い寒い。

矜持と堕落

信念や矜持でばっかり生きてる人ってかっこいいし尊敬するけど、ときにくたびれてしまう。おバカで信念のない自分が蔑まれるのがやだなあと思って構えてしまうからかな、と思う。

確信をもって言うけど、オレに信念ってもんはない。

で、強いて言えばこの「信念がない。」「矜持がない。」ってのだけが我が信念であり矜持なワケで。(なんか逆説的だが。)これはこれで難しいのヨ、なかなか。

 

 春樹の「羊をめぐる冒険」の「鼠」のアレだな、あの徹底した弱さにこだわろうとする思想。「俺は、俺の弱さがすきなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。(中略)…わからないよ。」

 

でもさ、だからさ、矜持とか信念とかそういうかたくなでストイックな、一種自己陶酔な美学こそ諸悪の根源でもあると思うんだよね。

光を持とうとするから同時に闇を生んでしまうシンプルな構造で。

その信念の拠り所となる価値観や倫理は決して「唯一絶対の真理」ではない。故にその相対性は、己のみを正義とし他を否定する盲目と蒙昧により、それぞれの正義と正義の不毛なぶつかり合いを呼ぶ必然をもつ。ストイックな自己陶酔、思惟の流れの滞りとしてのかたくなな信念が、そのフレキシビリティを欠いた余裕のなさが、日常の小さないさかいから世界的な戦争まで、諸悪を、あらゆる悲劇をうみだしてきたのだ。

 

…あらゆる相克を生み出す「強さ」(或いは「権力」「有」)のアンチテーゼとしての鼠のいう「弱さ」とは?という問いの答えは、「僕」から「鼠」への「羊が鼠に求めたものとはなんだったのか?」という問いへの答えに重なってゆくものだ。「すべてだよ。何から何まですべてさ。俺の体。俺の記憶。俺の弱さ。俺の矛盾。」

…存在そのものだ、その在り方だ。
(ここで「羊」が何を示しているのかは解釈が難しい。が、とりあえずこの「鼠」の、己の弱さを見つめるありかたと鋭く対立する権力的なるもの、暴力的なるイメージに通じている。)

この「弱さ」とは、否定、拒否、といった反骨、というよりは、ひたすらただ光(力)によって生み出された闇(力に蹂躙されるもの)としてのアンチテーゼなのだ。弱さ。それはあらゆる否定を拒む。力を拒む。

鼠は、自分を「愛している」。すなわち「世界を」「存在を」まるごと、激しく愛し肯定しているのだ。)(それは「異邦人」のムルソーの、「己の内側に生ずる内発的自然」的なるものに対する異様な誠実さと奇妙に正反対な方向性を持ちながら重なってゆくものだ。)矜持と信念のアンチテーゼは外部権力の物語によらない自己肯定(或いは世界全体の肯定といういわばアプリオリな「前提」)に通ずるという命題がここに顕れてくる。細い、細いかすかな光としての可能性。

 

…まあね、だからといって矜持を持たない生き方は虚無に近いものでもあるんだけど。そうして拠り所を持たない恐怖と堕落の恐怖とも背中合わせなんだけど。

(堕落と節操がないのとは全然違う。)

(賢治のデクノボーは堕落じゃないしさ。)
安吾堕落論で言っているような堕落は、アンチ信念としての堕落である。それは人間存在の根幹を絶望で腐らせる闇としての堕落とは異なる。寧ろ、信念が目をそらす箇所の矛盾から目をそらさない態度、パンドラの箱の底の底にある生命の強靭さの源泉にその重点がおかれた種類の堕落である。これは私がここでいう「節操のなさ」にとても近いものだ。堕ちよ、堕ちつくしあらゆる矛盾をただそのものとしてなめつくした先にあるものに辿りつけ、と。)(「信念」や「美学」は人が若く美しく穢れないままに死ぬことを尊ぶ。恥辱にまみれ生きる老醜のその醜怪さよりもカミカゼ特攻隊の自爆を人生の価値とし、60の老婆の現実よりも永遠の20歳の美女を好む。信念に照らし合わせたときにその基準による「価値」のない存在を否定する。)

 

美学とそれに反してゆく、或いはそれによって損なわれる現実の生活、生命の姿という二つをどうやって止揚するか、という命題を、彼らは語っている。意味や物語無しで人は生きてはゆけない。

 

…結論はいつも同じだ。これらは常にその矜持を否定する力に砕かれながら新たに再構築してゆく思想のスタイルであり、それを為すものである知性の根幹、その源泉のようなものの存在をあらしめる思想の論理構造を指し示している。

ニーチェニヒリズム力への意志」を「権力への意志」として、それを否定からの飛翔としてとらえようとする姿勢であっても、それはいいのだ。

 

ああホントとにかくね、いろいろ全部めんどくせえ。

(とにかくもう聞く耳持たないクレバーで立派で愚かな人間たち、めんどくせえ。)
(そしてどうして酔っぱらった翌日は二日酔いになってしまうのだ。)

誕生日

母からメッセージを受け取った。

 「早い年月。J病院であなたが生まれた瞬間、はっきり覚えています。退院した日、おばあちゃんが花を一輪さしてくれていて嬉しかったこと、つい先日です。」

「小さいころから苦しいことの方が多い○○(本名)で可哀想でしたが今からそのぶん幸せになりましょうね。」

昭和の時代のその日のことを、記憶にないその記憶を私の脳は捏造する。そのとき一輪挿しのおかれたテーブルの、その部屋に差し込んでいた午後の光のつくりだす陰影の詳細な風景までなまなましく描き出す。

リアルとはそういうことだ。

 

生きなければ、しっかり生きなければ、と思う。

続「異邦人」

真綿で首を絞められるような一日の始まり、一週間の始まり。空転する思考。陰惨な赤い空。

 

誰か隣にいたらいいのに、泣いてすがる。怖い夢を見ただのさまざまの悪い考えのことなどをいうかもしれない。だがそれらがなんであってもどうでもいい。問答無用でただ抱きしめてくれればそれでいい。そのときの衝動のまま。

大切なのはこの「問答無用」だ。

 

身体が機能し生きようとしているような、そこにある必然の大前提のことを考える。

 

「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である」というその大前提の命題。(これは到達点ではなくあくまでも基本としての前提である。)

 

そして世界の無関心が冷たいものではなく優しいものであることに対し心を開いたムルソーのことを考えている。

 

世界は無関心で人間は無意味だ。

だがそこから始まる。なにもかもは等しく無意味に(無償で)「存在する」権利がある。

だからただそのとき大切なのはただ「問答無用」ということなんだ。みっともなく泣いてすがるからどんな形でもただ少しの間抱きしめてくれればいい。

 

そしたら優しさも強さも生きる希望も見いだせるはずだと思うんだけど。何の裁きもなく代償もないところから、己の中からおのずと構築されはじめるものとして。

 

苦しいのは寂しいのか虚無が死が怖いのか虚無そのものなのか。

全部同じものひとつのもの。

 

カミュの異邦人の印象が頭の中にこびりついている、ムルソーと司祭のことを考えている。

もう私にはそんなに時間がないということを考えている。

 

なんでもいい、信じたい。溺れているから藁でも掴む。どんなにみっともなくても何でも信じる。この朝を救ってくれるものを信じる。そうだ、なにか宗教を信じたい。

 

たたく扉が見つからない。

朝の憂鬱。カミュ「異邦人」。

恐れていた朝は恐れていた通りやってくる。

 

空いっぱい奇妙な砂色の光で満たされる瞬間を見た。これが朝か。

 

不吉な光の中で、カミュ「異邦人」について考える。

昨夜読み終えた。実は今まで通して読んだことはなかった。(知識としてショッキングな出だしや有名な一節を知ってたくらい。)

…有名だけど読んだことないっていう古典は多い。(そればっかりだ。)特に海外のものは「ガイジンはわからない。」というハラがあって敬遠してたんだが、ふと読みだすとのっけからぐいっとひきこまれるような面白さだったので正直おどろいた。

「今日、ママンが死んだ。」Aujourd' hui, maman est morte.

 

…こんなに面白いとは。そして一気に読んだらちょっとヤラれた。

どうしておもしろいのか。こんなに心が哀しみながら安らぐのか。…ひどく難解ではあるんだがどこかで何かがわかるような気がしている。それを考える興奮とその静けさとのアマルガムがおもしろいという現象なのか。

難解さとシンプルな面白さがひとつの律動をもって言辞の美しさを構成している。そのまっすぐな言辞は不思議に心を鎮めてくれる。

 

ムルソーの非常に奇妙な形なのにナチュラルである不思議なつよさをもつまっすぐさ、誠実さ。「ごく普通の社会人」としてのその「普通」さ。

(文庫の背表紙に書かれた内容紹介には「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソー」とあるがこれはまったく納得できない。彼は終始一貫している。『通常』の解釈なんだろうけど。)

そしてそこにあぶり出される異様な冷淡さ、無関心。「彼に欠けているナニカ」についてあれこれ思う。「己の内側に生ずる内発的自然」的なるものに対する異様な誠実さ、その他に対する傲岸なほどの冷淡さというその奇妙なつよさとセットになったもの。それは隠された恐怖のような感情である、ということについて考える。ラストの爆発的な怒りとそれによる浄化の感覚はその発見と昇華なのではないか、という命題について。


これはなんだろう。その強さは不条理を突き抜けるものということなのか…?

今すっきりとその構造、論理は見えていない、わからない。でもおもしろい。

 

とにかく私は己の心がムルソーの心理にあまりにもたやすく共鳴することにかすかな安らぎと、それと同時の戦慄を見出した。

そしてそれは司祭に対しても、なのだ。対照的な彼ら二人の言動に対し、同じ尊さを、羨望を、尊敬を、感じた。彼らは真理を求める、一つの真理のためにはおそらく死をも選ぶ積極性を持った人間である。(ここで真理とは解放、救済、幸福と同義のものとなる。)

すべてが擦り切れてゆくような痛ましさ、独房のなかでのやりきれない日々の描写の後、なお失われないムルソーの真摯な己への誠実さ。その極限状態において牙をむく司祭への反感、何もかもそぎ落とされたその研ぎ澄まされた純粋なつよさの凄み、双方の信念と矜持のぶつかりあいは、…圧巻だ。


白井浩司の解説のこの言葉が深く胸の中に刻み込まれる。
「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である、という命題は、到達点ではなく出発点であることを知らなければならない。」

たくさんのことを考えさせてくれる。

司祭は司祭のやり方で、検事や弁護士は検事や弁護士のやり方で、そしてムルソームルソーのやり方で。その勝利の賜物としていずれもただひとつのものを目指している。誰の中にもこの全員がいる。

(私は司祭かムルソーになりたい。そして誰にも何にも裁かれる必要はない。)

 

とにかく今朝、目がさめて私は生きている。

 

今日はこれから始まる。

この虚無と恐怖と寂しさにどう立ち向かうか。

やなさんといっしょ~十五夜編 2016

久しぶりに愛しのカレ柳原陽一郎のライヴに行ってきた。

実は渋谷で毎月やってるんだけど、渋谷は遠いし迷うし何しろ嫌いな街なのでなかなか行けないのだ。今回は我がテリトリイ吉祥寺だったから思い切ってどっこいしょ。

…青山の方は幾度か行ったことあるんだけど、本家の吉祥寺曼陀羅は初めて。
ビル裏口から入ろうとしたことに気づかず、中に入れないじゃないかとパニックを起こした。ちゃんと正面入り口で待ってくれていた友人と必死で連絡を取り合い大汗かいてようやっとたどり着く。ヤレヤレ。

木曜だったせいか、思いがけず余裕で一番前のいい席。ゆったりと円いテーブルと可愛い木製の背もたれ椅子。

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地下の穴倉、秘密のアジト風、かっこいいバーカウンター。

非常に居心地がいい。開演を待つ間、のんびりと飲みながら、これまた久しぶりの友人としみじみ話す。

ほどよい大きさとほの暗さの閉鎖空間、ほどよい距離感のひとびと、その周囲のざわめき。

三々五々、それらしい人が集まってくる。おひとりさま、おふたりさま。皆それぞれにあるいは携帯画面を覗きあるいは文庫本を開き、飲み物をすすりぼそぼそと話をする。時折飲み物や食べ物を買ってくる静かなる行き来の、そのごそごそ具合。

秘密の穴倉は閉ざされているから外部から自由になれる空間だ。
そして、互いに干渉することは決してないが、ライブハウス独特の、その開演前の不思議な親密感を共有している。

その風景の一要素となる。

日々の中、ひとりひどく辛く思っていたことも、こんなところでは語ってゆくそばから重みを失い客観化されてゆく。目の前の風景の幻想的なリアリティ以外はただ単に頭の中の物語の織りなした出来事に思えてくる。(宗教勧誘とかオルグ、自白強要取り調べ室とか密室セミナー違法販売とかこういう心理を利用するんだな。)風景の一コマとなる自分を感ずることはこんなにも快いトリップだ。

そして気安い友人に聞いてもらえて笑ってもらえたりしているのだ。

すべてはココロ閉ざされたりつぶされたりする必要のない大したことじゃないことのように思えてくる、世界は多様であってよいのだ、ただその一コマであるだけでよいのだ、と、じんわりと解放されてゆくひとときの非日常。

こんなゆったりとこんな至近距離のいい席であの超絶いろっぽい愛しいカレの唄聴けるなんて、頑張って出て来てヨカッタ、なんとか日々を生きのびててヨカッタ…。

 ***  ***  *** 

で、まあ友人とね。まあね、近況報告。
まあとりあえず悩みを打ち明けたりするんであるよネ。

「最近酷いウツなんだよねえ。特に朝が激しい。虚無と絶望だ。」

深刻である。

彼女は即答する。

「血行が悪くなっているせいだよ。朝は血の流れが滞ってるもんだ。」

…そうだった、ここしばらく血行を良くする健康法に凝っているんだった、ヤツは。すべての不都合は血行の悪さに還元されてしまう。いやしかしここでこう外すか?もっとほかに精神的な理由があるとか思い至らんのか。

しかしなんなんだろう、この確信に満ちた口ぶりの説得力は。私はたやすく説得された。

「そうかあ、そうなんだ!」
「そういや、マッサージチェアとかお風呂入るとかで随分元気になるもんなア。」

彼女は満足げにギネスをすすって言い募る。

「そうなんだよ、夜に希望に溢れて眠りについても朝は絶望してるっていうのは私もよくあるよ。すべては血行だよ、血行。冷えと血行。」

…いやまあねえ、そこまで断言されてしまうと何だか愉快になってくる。真実とはそういうもので、ま、いっか。信じる者は救われる。

何しろ「そうかあ」と言って何故ここで二人して大笑いしているのか非常な謎である。

試しにもひとつ愚痴ってみる。

「体調がひどいせいもあるんだよねえ。」

「血行だよ。よくしないと。」
わかったよ。

「そしてね、もうひとつはね。」
と彼女は一呼吸おいて意味ありげな流し目をくれる。

「造血よ、ZO・U・KE・TSU!」
ここは確かにローマ字の発音であった。

夢に見そうな色っぽい流し目であった。

脳に刷り込まれた「ZO・U・KE・TSU」。

このとき「造血」という語は既にそのシニフィエシニフィアン構造における記号としての意味作用を離れ、純粋な音韻として認識されたのだ。意味と無意味の狭間を漂う、現象の生成する異質性、リゾーム。(ドゥルーズ)それは我が脳内で芸術、そして信仰の範疇へと飛翔した。

…流行語になってもいいんじゃないか、アイドルが歌ったら国民の健康に寄与するんじゃないか、医療費削減になるんじゃないか、この圧倒的な説得力。「ZO・U・KE・TSU」ソング。

…で、まあひじき食えだの鶏肉食えだのこまごまと指示を頂いたワケである。

 

***

 

 肝心のカレの唄はというと…

実に素晴らしかった。

前座に女子大生デュオが数曲演奏したんだけど、まあきれいな声で上手な演奏で、まあそりゃ確かに悪くないよねえって思ったんだけど、…悪くないだけっていうのはそれほど楽しいことじゃない。

ようやくカレと交代。

「歌手はうたうだけ」最初の一節を歌いだした途端、空気が変わった。
え、と思った。

音量が変わったのかと思った。ヴォリュームをあげたのかと。

違う。

魂へと鳴り響くその音量が変わったのだ。
頼りなく分散し手持無沙汰に浮遊していた意識がまるごとぐいっと取り込まれる。圧巻だ。精神がまるごとその歌声の圧倒的なうねりにまきこまれ捕らわれてゆく快感におぼれる。

唄の内容に関しては語りたいことが山ほどある。感動は言葉にできないし語るべきではないという。だが神や真理は語りえないものであるがゆえにそれを求め続けることを放棄するというのは違う。

論理へと翻訳したがるのは私にとって賛美のひとつのスタイルなのだ。神を讃えるにはさまざまなスタイルがある。音楽で、絵画で、舞踊で、そして言葉で。

(イヤ今それできないんですが。力足りなくて。)

とにかくね、何しろ超絶色っぽいのです、カレ。
くたびれたおじさん顔、トランス入って妖しく泳いでる目つき、そして少しひんやり怖いような冷酷さを秘めたどうしようもない哀愁。

きっと直接話したりしたら怖いひと。そういういろっぽさ。

私を魅了しつくすのは、そのどうしようもない哀愁を自ら笑いのめす突き抜け感だ。そしてその先にたとえようもなく切なく美しい祈りの歌がある。復興の唄が。

(ちょっとなあ、って思うよな苦手な傾向の唄もあるんだけどね。まあそれはまた。)

 ***  ***  *** 

帰り道、楽しかったネーとしみじみ語りあいながら電車にのった。
カレが唄いだした瞬間、空気が変わったという印象で意見が一致したことがなんとなく嬉しかった。

「一瞬で空気をつかむ、プロってああいうものなのかと思ったよ。」
と彼女は表現した。

 

…あと、もうひとつ。

「君はいないほうがいい」って唄があったんだけどね。なにしろミもフタもないあじきない罵りソングでメロディもひとりよがりっぽいやたらと陰鬱でアートな印象で、あんまり好きじゃないなアとワシは思ったんだけど。

彼女がこう言ったのは何だか脳髄に刻み込まれた。きっと一生いろいろ考え続けるためのネタになっちゃうな、と思った。

「あれ、ホントわかるよねえ。」

「歌はつまんない政治家とか権力者のことだったけど、目の前のひとのことで、時々ホントあんな風に思うんだよねえ。死ねばいいのにって。」


「きみは死んだ方がいい♬」と高らかに歌い上げる新曲のあのあじきのない残酷さは、なにか馴染みのある歌を思い出す、とずっと考えてた。思い出した。キヨシロの「きみはそのうち死ぬだろう。」、アレだ。