酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「おそなえはチョコレート」小森香折 児童書とイデオロギー

小学生からYAくらいが読者ターゲットなのかな。とりあえず可愛らしいイラスト付きの児童書。

昔読んだもので、おもしろかった、という記憶はあるのだけど内容は忘れている。(そんなのばっかりですが。)図書館の2月バレンタインチョコレート本特設本棚に並んでたので懐かしくなってつい手に取ってしまったのだ。

開いてみたらやっぱり面白かった。

現実世界、日常性や親しみやすさ、人間臭さをまとった異界の者たち、妖怪、精霊、幽霊。それら擬人化された、「翻訳された層」での神霊、お地蔵さんやあぶらげ好きのキツネといったわかりやすい異界のアイコン的なイメージから、本来のその出自、深淵とカオス、畏怖、恐怖の対象としての不可知フィールドという神の側の世界のイメージまでを自在に行き来する振幅を孕んだもの。…日本古来の大衆的な神仏の在り方を、童話の中でほのかな畏怖を含めながらもあたたかく描いてゆく、このような守り神のキャラクターを描く一定のジャンル、それを定型として保有する童話というのは意外と多いのではないかと思う。

それは人間の「自然」へのまなざし(態度)から成立してゆく「物語としての自然の姿」すなわち自然観とまったく一致するものとしてある。当然だ。異界、不可知、とは自然の異名にほかならない。それはただ「世界」である。

世界に対する親しみ、愛情、慈しみ、日常から非日常の振幅。それは例えば太陽の暖かさ、豊穣の恩寵と、嵐や干ばつ、飢饉の恐怖等の脅威の二面性、親しみと恩寵と畏怖。惜しみなく与え、奪う母なるもの。…このようなかたちを一貫して日本の民俗的な妖怪やキツネ等の神仏の世界をテーマとしながら描いている富安陽子、幽霊や異界の妖怪(人間でないもの)との交流をファンタジックに描く柏葉幸子。(逆に言えば、大人の文学の世界では多く、この原初のまなざしが抜け落ちている。社会的物語ワールド以外を忘却した閉鎖的世界枠の中で完結しただ空回りする物語群にスレてしまい倦んでしまい徒にひたすら新奇と刺激のみを追い求め…そうしてそのために知はその源泉、マトリックス、故郷を忘れ、大地から切り離れた巨人アンタイオスのように力を失い穢れ老いてしまうのだ。)

このような異界の生命の描かれ方の振幅は、キリスト教の三位一体構造で例えて言えば、父と子と精霊、の父(真理・イデア。不可知)と子(形而下・ミメーシス。真理のアイコン)の関係性が、(例えばここでは)ファンキーでキッチュなものいうヘビのぬいぐるみの姿と蛇神様(存在としては一体、人間の知覚する姿としては二つのペルソナ)というスタイルで示されているとして読み取ることができる。単純に構造としてね。

 

短いお話でコンパクトにまとまってるんだけどなかなかシュールで奇妙な味わいの作品。アフォリズムに満ちたセリフをくだらないおしゃべりに混ぜ込むヘビのぬいぐるみ→蛇神様の描かれ方はどこかすっとぼけた味わいにくるまれていて、なんかイイのだなこれが。

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で、読んでからずっと児童書に仕込まれるイデオロギーという命題について考えていた。今力がなくてうまいこと文章にできないんだけど、すごくおもしろいと思うんだな、このテーマ。イデオローグを仕込みながら表現のさまざまを隠喩として読みこんでゆける児童書。児童書というジャンルはおろそかにされ過ぎている、もっともっと重要視され研究されるべきだ、と思うんだな自分。

もちろん教育制度自体はそういう意味で政治的社会的に厳しく管理されているんだけど、(教科書検定まわりのカンカンガクガクに象徴されているようなとこでね。)制度から漏れたところにある、本当はもっともっと影響力の強い広大な土壌をもったこの個的な読書文化のフィールドは軽視されている。…嘗てのサブカルみたいにさ。知能の低いものたち人間として認めがたい下賤なものたち「オンナコドモ」のなぐさみもの、こどもだましのこどものほん、取り上げる価値もない、的な扱いで。(本当の名作は、子供を子ども扱いしていない。下に見たりしていない。大人も子供も等しくふかぶかと読むことができる普遍のうつくしい言葉を綴ったものだ。)

それは人類の未来に関わっていることはもちろん、本当はどの人の心の根幹の原風景にまで刷り込まれてる、無意識界に作用しているものすごい深淵で重大な要素なのに。

トラウマや強迫観念そのものとしても現実と同じレヴェルで機能し得る概念的なるもの。結局社会全体を支配しその未来を決めてゆく陰の力。(今「みらい」と打ったらまず「味蕾」と変換されたんで結構驚いた。なんだこのパソ君は。)

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ふみか(記載はないけど小学校2,3年くらいかと。)がある日ゴミ捨て場で拾ったヘビのぬいぐるみ。チョコレートをお供えすれば魔法の呪文を教えてやるぞと言われてその気になるんだけど、それがみんなとなかよくやる魔法の呪文「ムリニ・ナカヨク・ナロウト・スルナ」とか宿題を終わらせちゃう呪文「ハジメレバ・イツカハ・オワール」とかインチキっぽくて、でも結局王道正論の智恵と真理に満ちていたりする。

ちょっとね、なんというか、若い女性向けに消費される星の数ほど出版され続ける流行りの新興宗教みたいな知ったかぶり人生の知恵な癒し本やweb記事みたいな匂いのする正論なんだけどさ。う~ん。安っぽく見られがちなこれらの有象無象の正論たち、それぞれ立派なんだけど。言論としての厚みをどうしてか感じられない。反論のしようのない既存の正論を上から目線で振りかぶられると、どこかに何か抑圧の恐怖を感ずる。なんだろう、この恐怖って。

零れ落ちてゆく、そこで許されないものを己が闇として抱えなければならなくなる恐怖、なのではないか、もしかしてそれは。

…だけど、これを敢えてインチキくさいバカバカしさを強調した信仰宗教仕立てにした蛇神様の設定やあほらしい蝶ネクタイのピンクとブルーのシマシマヘビのぬいぐるみ「スマスマ」がチョコレートのお供えを要求したりするヒューモアの中に、さらさらとひそやかに潜ませるナナメな工夫はうまいと思う。…権威から外れようと逃れようとする真理と王道が、己自身を風刺する姿勢を合わせもちながら、奇妙な矛盾のダイナミクスを孕んだまま、スマスマの口から流れ出る。ここには、全体性をおおらかに許しながらあえて正論を選んで行こうとする道筋を助けてくれる、なんの色もついていない構造そのものを指し示す「優しい怜悧さ」のような知がある。「自分で理解できるものだけが、真実とは限らない。」「みようとしなければなにもみえない」「『こどもをまもる』といえばおとなをだますのは簡単だからな。」

…でもとにかく本当にそれは王道だから、いかに手垢にまみれて陳腐に見えたとしても絶えずアンチテーゼによって否定されながら、逆にそれによって新しく止揚され生まれなおし続けなければならない「呪文」(ミッション)としての言葉なのだ。一度否定され破壊され意味を失い形式だけになったとき新しくまたそのアルケーを生まれ直す、それ自体は意味を持たない恣意以前のシニフィアンとしてのテクスト或いは音韻としての「呪文」、それが主体を媒介としてシニフィエと結びつく劇的な「読書の現場」のドラマを発生させるための装置として。

つまりね、くだらない俗っぽさで既に己を貶め既成の権威から逃れながら、すなわちアンチテーゼを仕込みながら主体にそのジンテーゼへのアクションを促す構造。児童書の、基本的構造、ビルドゥングスロマンを標榜する冒険物語の構造とそれは重なってゆく。

まあとにかく本を広げると物語と冒険が広がるとか、図書館ファンタジーとか、本好き要素てんこもりなんである、この人の作品は基本的に。(多分殆ど全部読んだぞオレ。)現実的な小学生女子の人間関係や心理の機微への繊細なまなざしと、深くうつくしい真理のカオス的の気配の瀰漫した異界性、ファンタジー要素、少女たちの心の中のその交錯した様子、その現実と幻想のアマルガムな感じを描き出す作風。

で、この作品はごく短く低年齢層をもターゲットにしてるようで、メインのストーリーは図書館に巣くうわろきもの。子供の魂を吸い取る「悪の本・ミステリー」。

こりゃもう、「図書館」という、あきらかに知の世界を象徴する世界でのでのさまざまの危険、「悪」「権力」を描き出しているとして読むのが楽しいに決まってる。ウンベルト・エーコ薔薇の名前」で修道院の図書館が世界そのものであったようにね。

…ということで、児童書に仕込まれるイデオロギーという命題なんである。
それは幼い命、次世代に仕込まれる未来に向けた爆薬なのだ。

(ここでの悪玉、図書館に仕込まれた、子供の魂を閉じ込める「悪の本」に描かれた魔法の言葉は「われにたよるもの、自由とひきかえに、のぞみをかなえん」であった。知の世界に潜む罠の暗喩として出木杉君くらいあからさまであるが、軽やかな味わいの中でのシュールさを滲ませる…巧い、と思う。)(これもひとつの作者の強い思想性ではあるのだ。楽しい物語の中に仕込むメッセージ→イデオロギー。このメッセージは、どうかすべての子供たちの心の中に刷り込まれてほしい、と私なんかはほのかに願ったりするんだがね。ほのかにというか、祈るような、希望を夢見るような気持ちで。)(自由を奪われることによってかなえられる望みとは一体どのようなものか、のぞみをかなえようとするときそれがもし自由を奪うものであると気づくことができるようになるとき、ここですりこまれたイメージがどうか作用してきますように。)

個の存在の根幹に近いところに仕込まれる致命的な爆薬。
無垢な生まれたての土壌に、はじめのことばが、世界像を描く基準が、そのイメージが、善悪が、よきものわろきものが、それが問答無用の物語としてあらかじめ仕込まれてしまう、「刷り込み」されてしまう。

どんなに歪んでいても陳腐でも卑しいものでも、まず刷り込まれてしまったらおしまいなのだ。真っ白なページに書き込まれる最初の言葉で、最初の贈り物で人生は決まってしまう。例えばそれは15歳で糸車の針に刺されて100年眠る眠り姫に与えられた魔女の呪いの言葉、祝福の言葉たちのように、ただ生まれたとき本人にはなんの責任もないところに与えられてしまう運命なのだ。

何が正義で何が悪なのか?
何が正しいものなのか?

聖書の初めの言葉のように、(はじめに、言葉《光》ありき。)最初の物語がまっさらな個の魂にイメージとしてただ仕込まれる恐ろしさ。問答無用という恐ろしさ。

あとからどんな論理が、理知が備わって教えても、心の奥底のトラウマは癒されることはない。たとえふさがったとしても傷後は残る。論理は常に絶対的なイメージと感情の後からやってくるものなのだ。

どうか人生の始まりの時に小さな命に、未来に与えられるものが惜しみない贈与であり問答無用の愛情であり美であり肯定であることを。どの人の心の深奥にも、まずそれが仕込まれていることを、前提であることを私は願う。

そうして、児童書、というジャンルにはその願いの尊さ(あるいは卑しさ)が仕込まれている。
もしそれがひたすら美しい優しいものであれば、宝物を、恐ろしい脅しであるならば、その呪いが、魂の深奥に。もし宝物があれば、それさえあればどんな嵐に出会っても、正しい明るいまなざしを以て生きていける人間の未来が実現できる。

…ような、気が、するんだよ。
イデオロギーを持たない書は存在しない。ならば、それがどのようなタイプのどのような可能性を持つ爆薬を仕込まれているのかをたらふく研究しておくべきと思う、という、ただそういうことなんだ。どのような毒になりどのような薬になりどのような滋養になりどのような救いになるのか、という未来に向けたその力の可能性を。

もちろん個性と年齢、判断力に応じた本を周囲は慎重に選ばねばならない。特に人生の始まりに与えられるものは注意深く選ばれた良書でなければならない。抵抗力がついてきてからでないと刷り込んではならないものはもちろんある。徒な恐怖や刺激、毒。それらは必要なものではあるかもしれないが時期と個性は選ばねばならぬだろう。

…で、イデオロギーということに関して。例えば児童書の古典的名作・ナルニア国物語シリーズでC.S.ルイスが作品の中にあからさまなキリスト教思想を仕込んでいる、と批判されたという話は有名なようだが、それは批判されることではない。批判とかホント訳分かんねえよ。世界観の中に思想的、宗教的なるものが存在しないなんて主張できてしまえることの方が奇妙である。…ナルニアにおいてはそれが自覚的だからこそ価値があるとすら言ってよい。

…知った上で親が実際に読んだうえで子供に読ませるかどうかを判断すればよいのだ。またそれを与えるのに適したその時期を。因みにあれは個人的に非常に好きである。幼いころ夢中になるという経験は実体験にしろ観念上の体験にしろ、まったく等しくただ一生ものの心の財産だ。心に豊かな世界のイメージ、わくわくする夢の力と、また「わからなさの森」というイメージのマトリクスという宝物を育む読書体験。夢見る力、己の世界を心の力で描き出す想像力、創造力。世界を変える力を、様々の外界の理不尽な雑音に耐え生きる力を育む。

読んでおくべき本である。
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このヘビの編みぐるみはマフラーになっているんだよ。ギラデリのチョコレートは無糖のカカオ100%。苦くてうまい。