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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

タチコマの神とインドラの網

雑記

攻殻機動隊S.A.C.「機械たちの時間」。

学習型のAIを進化させた戦闘ロボット「タチコマ」たちが小説を読むようになって来たり、個性やゴースト(魂、のようなもの)、神について考え議論するようになってくるシーンがある。

バトーに可愛がられ個体認識された一基のタチコマがこんなことを言う。(これはバトーが気に入りの一基に違反の天然オイルを与えたために起こったと思われるバグ的な事象にあたる。タチコマたちは、基本的にすべての体験を情報化、デジタルデータとして同期し共有しているため、電脳に個体差、個性は生まれないシステムの下に管理されている。)

「なんだか前には良く分かんなかった神って奴の存在も近頃はなんとなく分かる気がして来たんだ。もしかしたらだけどさ、数字のゼロに似た概念なんじゃないかなって。要するに体系を体系足らしめる為に要請される、意味の不在を否定する記号なんだよ。そのアナログなのが神で、デジタルなのがゼロ。」

 …感動的に納得した。体系を体系たらしめる記号、0としての神。そして意味の不在を否定する記号としての神。真理と神はここで同一のものとなっている。それ自体を語ることはできないもの、空虚であるもの。(そして神とは「意味の不在の否定」すなわちアプリオリな絶対の「有」「存在」である。)

 

そしてもうひとつ、このデジタルによるアナログ解釈に関して思い浮かんだのは賢治だ。(というか賢治ヴァージョン仏教的世界観。)

0と1の間に全てが収束し、また同時に無限につながり広がるものである0と1の差異による世界の存在、個別性、意味の発現。いわば数学的に「内ー外」の概念を無化するこの世界構造の電脳原理と、賢治の、「ひかりの素足」における天上の図書館のモチーフの構造の重なりのことである。

いくらでも本のある場、図書館という世界の無限の広がり、その中の一冊の本を取り出してみれば、一冊の中に全ての本が含まれている本…そして、一つの珠が他のすべての珠を映しこみ内包する構造を持つ世界の網、仏教のインドラの網の論理の共通性のことを考えたのだ。一冊の本は一つの世界として考えられる。この、求心と遠心の目まいのするような無限の広がりへのダイナミクスをもつ世界構造。追っても追っても果てのない宇宙の広がりと同義である、その豊穣。

(インドラの網は、帝釈天の宮殿にかけられた巨大な球状の網(華厳経)。その結び目には,美しい水晶の宝珠が縫い込まれ、全体が宇宙そのものを表現しているとされる。また宝珠の一つひとつが他の一切の宝珠を映し込んでいる。)(網全体がこのひとつの宇宙全体を示すものであるが、またひとつひとつの宝珠に宇宙のすべてが収まっているというめまいのするようなダイナミックな構造をもっている。)

賢治の童話「インドラの網」では、見えていながら見えていない、聞こえていながら聞こえていない、有と無、0と1の狭間にある感覚を、荘厳な法悦に満ちた夜明けの風景として絢爛に描き出している。

(「インドラの網」は青空文庫にありますね。ここ。)

すべては無=空(虚無)(0)であり、同時にすべてが有=色(現象)(1)である、その「明滅する有機交流電燈」であるところである世界の在り方。

これが、タチコマの言う「意味の不在を否定するものとしての(0=空=無)」の構図にあまりにもぴったりとあてはまるのだ、すべての世界の美をあらしめている無。その力によって、色即是空からすみやかに反転する空即是色の描写。0によって成り立っている1という構造を看破する世界感受のありかた。0は神だ。

これは世界との交感、主体と客体の一体化であり、すなわちモノではなくコトである世界、現象としての世界観である。これに神という概念としての0を持ち込むデジタル概念は、デジタルという概念が、一つの現象の異なる論理での解釈法であるというだけでアナログ的なる世界に反するものではないという事実をはっきりと意識させてくれる。無限の0と1の明滅による無限の有と無の明滅の表現。

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もうひとつ。少し飛躍するかもしれないが。


例えば、時折、かなしいのとせつないのと幸福感とがすごく近いところにあると感じる感情について私は考える。それはさまざまの幸福のスタイルの中でも究極の絶対の幸福であると思っている。すなわち、決して得られないイデアとしての、物語としての、おそらくクオリアとしての幸福、意味をかたちづくるエナジイそのものの場所。

…これはきっとタチコマのいう、ゼロ、そして神、なのだ。イデアこそが、空白としての記号であり、またそれ自体が神である。とすればそれがあらしめている体系こそがミメーシスとしての世界全体である、という構図が現れてくるのではないか、と。

ミメーシス(1)があって初めてイデア(0)が成り立つという、逆流させた論理も、ああ、いいな。

 

何だかそんなことを考えている。

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世界中のどのタンポポにも、いつも一つの同じ本質が現れているのに気づくだろう。つまり、それは時間を超えているだけでなく、場所をも、いや空間をも超えていると言う方が良いだろう。それが実は本当のタンポポなのだ。 『エンデのメモ箱』