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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

商品

なんだろうな。

人間を商品として扱うことを大変な罪として大学時代あの先生は話していた。

例えば女性を性的な欲望の対象となる商品として扱うとか。

奴隷制度とか、暴力に根差すもの、もちろん論外である。だが今現在、この身近な身の回りの世の中で商品でないものがあるだろうか。

あの頃
「人間を商品として扱うなんてだめだ。」

とのたまった共産党寄りの彼に学生のオレは言ってみた。

「商 品でいいじゃないですか。所詮自分だって今商品として魂を削った何かを売って貨幣経済の中に組み込まれて商品となって生きている。肉体的労働にしろ知的 ゲームにしろ思想にしろ物語にしろ。それはその論理の中でだけの話だから、そのロゴスの中にありながらそれを否定するのはヒステリックな感情論で論理にな にか違うものを求めている。それはそれに過ぎない、ということを把握してからの議論でないとその物語に全存在を絡めとられてしまうだけでしょう。」

そ のとき先生は言いたかったことをあんまりよくわかってくれなかったと思う。はじめから牙城をこしらえて逆鱗こさえて、そこに触れようとするものはすべては ねつけてハリネズミ反応、わかろうとしない人には何を言ってもわかってはもらえない。言い負かすためどちらかの否定のための議論ではない。議論の土台のと ころの論理地平を共通認識として可視化させるのが建設的でおもしろいと思うんだけどね。

問題の立て方が違う。商品として扱うから非人間的な のではなく、そこで人間性まるごとの蹂躙が行われるか否か。結局社畜とかブラック企業とかとコトの本質は全然違わない。問題はそれをあらしめるシステムが一体どのような論理、倫理の基盤を持っていて実際にどのように機能しているのか。そういうの管理してるエラいひとは実利面で有能であることはもちろんなんだけど、とっても賢くそういうこと認めるアタマの柔らかさをもっていてくれていてほしい。いいわるいの発祥を絶えず問い直す感覚。…あるいはそのために外部の監査機関的なものは必要とされるのだ。(新しい劇場版攻殻機動隊草薙素子が「お前たちは最高のパーツだ」とメンバーをチームの目的のために機能する部品として表現してみせても、部下たちは「オレたちはパーツ扱いはされても人間扱いされなかったことはないぜ。」みたいなことを言ってて実にカッコいかった。個人の尊厳の最後の砦、「ゴースト」に任せる。尊厳は基本だ。そしてその上でパーツ扱いする論理がある…まったくツボなんだな、攻殻機動隊。)

知が大切なのは、ロゴスの純粋性の限界を、換言すればその守備範囲と定義を見極めるということなんだと思うのだ。自分が今なにに捕らわれているのか。

そしてまた何を楽しがっているのか。

自 分の立ち位置ってことなんだよな。もし自分の思考スタイルの中に何かのバイアスを見出し把握することができるならば、そこからその前提で語ればいいだけの 話なんだ。そのバイアスの是非は己の裁量で認識するべきことだ。恥じることがあるならその恥じるべきことがなんなのか見極めるのだ。自分が無意識に守って いるなにか隠された意識。その無意識の壁を破る試みは己自身の意図的な自覚によるものでなくては不可能だ。

…とにかく楽しくなければだめ。そして楽しいということがどの文脈からやってきているのか納得しなくちゃだめ。

そう思うんだよ、オレはね。

自 分は商品だって都合のいい人間だって何の価値もないつまらない人間だって馬鹿にされていても誰にも相手にされなかったとしてもなんだってかまわない。人間 性を切り売りしている人がいても構わないと思う。それはただ現象で当然で仕方のないことなんだ。どんな言葉を使ってどんなフィールドの用語を使ってもそれ は同じ現象を異なる位相で語っているに過ぎない。完璧にニュートラルな言語はありえない。

だから、だけどそれだからこそそれに全存在を支配される必要は全然ない。そんなのひとつの物差しによって成る世界に過ぎない。ひとつの世界での解釈に過ぎない。

解放されることはできる。どんなかたちで蹂躙されても、絶対にパンドラの箱の底には残っているものがある。尊厳とはそういうものだ。

 

…だからさ。…ええとね、とりあえず、「生まれたからには生きるのヨ」。