酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

キリン2

そんな現実など、俺は認めてやらない。
 
 
あいつが出て行った。俺のせいじゃない。
 
初めの頃はあんなんじゃなかった。いつからだったろう。あいつは些細なことで突然爆発し、泣きわめいて一方的に俺を責めたてるようになった。自分勝手で筋の通らない理屈。訳が分からない。なんだヒスかよホルモンの関係かよ、めんどくせえなあと思っていたら、最近急に静かになった。
 
そうして今日帰ったら部屋はがらんとしてダイニングテーブルに置手紙。
 
別れようとか言ってなかった。出てゆくとひとこと告げることさえしなかった、きちんと話しあおうとすらしなかった。
 
そんな一方的な話があるか。いきなり置手紙の出ていきますの一行でおわりかよ。
不満があるなら行き違いがあるなら、まず冷静に伝えてくれるべきだろう。そうしてふたりで話し合えばよかったじゃないか。
 
ちきしょう。
むしゃくしゃする。夕食後、俺はバイクを出して街はずれの海沿いを走った。
 
***
 
海は漆黒の闇の上にわずかな月明かりを映して波立ちさんざめき、空はその海を映してはるかに広く高かった。水平線の遥か彼方には向こう岸の街灯りが瞬く。
 
俺は闇の中を閃く光の筋となって走る。
うつうつも理不尽もどこかにぶっとんでいく。
 
…はずだった。
ゲスな白バイさえいなければ。
 
ゲス野郎。物陰で獲物を狙って張ってやがった。ハイエナだ。
21km速度超過、違反点数2点、反則金12000円。
 
ちきしょうちきしょう。
 
***
 
暗い部屋に戻り、戸棚から安いウイスキーの瓶を出し、コップでぐいぐいあおる。喉が焼ける。機嫌の悪い俺がこういう飲み方をするとあいつはやたらと怒っていた。「酒の神さまに失礼じゃない。」とかよくわかんねえ理屈で怒っていた。ホントにわかんねえよ。違うだろう、それは。
 
カーンと酔いが回ってくる。
 
「わかんねえよ。」
 
声に出して言ってみる。
俺の声は奇妙にがらんと響いてから薄暗い天井と壁にしみこんでいった。
 
「違うだろう。」
 
部屋は一層静けさを増して、静けさはしんしんとした重量をもって俺を圧迫した。
くだらねえ。一挙に倍増した虚しさに笑って、俺は新しくコップに酒をついだ。
 
酒瓶の横にはいつものようにキリンがいる。
キリンはこういうときじっと黙っている。俺のキリンはもともと寡黙な方だと思う。他の奴のはよく知らない。
 
身体の色は、基本的に夕焼けのオレンジ色。あまい水色から珊瑚色、沈んでゆく深い紅から澄んだ藍まで、輝きが褪せてゆくまでの夕暮れのグラデーション、その時間差スペクトルをすべてゆらゆらと映しだす。自慢のうつくしいキリンだ。瞳の色は濃い群青から藍。表面にけぶるような微細な金色を帯びている。
 
「…いつもより夜に近いな。なんだ、プルシャン・ブルーっていうのか。」
 
輝きの褪せた夕暮れの後、雲でくすんだ鈍色のような青。
 
「さびしい色だな。…ああ、そうだな。あいつのキリンも一緒にいなくなったしな。」
あいつのキリンは朝焼けの海の色だった。俺のキリンの夕暮れ空と不思議なうつくしい対比を見せていた。もうあの風景は見られないのか。
 
「…今、水、用意するからさ。」
 
キリンは小さな声を出す。
「ウイスキー、一滴混ぜてちょうだい。」
「わかった。」
 
俺はコップに水を入れて酒を一滴たらし、キリンと一緒に窓辺に座った。
「頼むよ。」
「いい香りね。」
「安酒だよ。」
 
いつもの儀式。夜を映した水面がゆらゆら揺れる。月明りはない。代わりに部屋の薄暗い電球が映って見えた。水の中の電球がゆらゆら崩れ俺の視界は反転する。
 
俺の部屋は水のような大気にみちて揺らめいていた。
 
キリンが、ついっと俺から離れる。軽いジャンプ。奴は埃だらけの天井につりさげられた裸電球の向こう側へと消えて行った。暗い灯りのその向こうの闇。
 
空を飛んだ?空を泳いだ?
 
「おい、どこに隠れた。」
つるつるとした電球の闇を見つめていたら、そこに、すうっと灯りが灯った。
 
俺ははっとした。優しい灯り。
薄暗く薄汚れた天井と埃っぽい裸電球の風景が、一瞬、まるで遥かな天国の入り口のようにうつくしく見えたんだ。
 
電球はもともと点いていたはずだ。だが灯りは確かに新しく灯った。
 
キリン?
 
やわらかな灯りだが光源のフォルムははっきり見えない。
ぽかんと眺めていると、その光は視界がにじむようにして電球からはみ出し、まるいかたちに浮き上がった。
 
ひとだまのようだ、と俺は思った。
それは長い尾をひきながら、ふんわりと落ちてきて、
 
そして、俺の中に入ってきた。
 
「えっ?」
 
身の内が、ほうっと明かるんだかと思うと、俺は吐き始めた。
びっくりした。
 
身体が裏返るかと思うほど、際限なく、俺は吐き続けていた。
 
内臓からの吐瀉物ではなく、それは、別の宇宙からの光の流れのようだった。
 
俺の身体の内部がどこか違う宇宙に通じていて、それは輝きの世界で、そしてそこから際限なくその輝きが俺を通してあふれ出してくるのだ。
 
苦しかった。涙が滲むような嘔吐の苦しみ。しかしそれは何か圧倒的に強く大きなまばゆいものが俺の中の澱んだものをすべて輝きで押し出し洗い流し浄化してゆく恍惚、陶酔に包まれる感覚でもあった。
 
圧倒的な光だった。
汚猥などなかったかのように。腐臭を放っていたはずの腐った人生のパーツが押し流され光の中で焼き尽くされていくようだった。俺の組織が何か違う宇宙の都合によって組み替えられてゆく。
 
キリン・リンリ。
 
誰かが言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。意味などわからない。
テレビのバラエティかなんかでタレントが自分のキリンのことあれこれ自慢しながらよくわからない言葉をたくさん使っていた。「大切なんですよ。」と言ってたことだけ覚えている。
 
***
 
気が付いたら、いつものように、キリンは俺の酒瓶に寄りかかってテーブルの上からこっちを見つめていた。
 
俺は泣いていた。
 
***
 
 
…そうか、俺、泣きたかったんだな。
 
***
 
「そうよ。」
 
したり顔でキリンのやろうはこう言いやがった。イヤな奴だ。俺はキリンをそっと手の中に包んでみる。手のひらが、ほんのりあたたかくなる。
 
…もう一度だけ、この手を伸ばしてみよう。
 
なんとなく、そう思った。あいつが俺にどんな通信を送り続けていたのか、俺が何を壊してしまったのか、取り戻せるのか。あるいは、新しく始められるのか。
 
その手が再びとられる日がくるのかどうかはわからない。おそらくだめだろう。
 
構わない。
そうだ、構わない。でももう一度だけそっと手を伸ばすんだ。
 
 
なあ、俺のキリン。どうしていつの間にそんな晩秋の夕暮れみたいなゆらゆら甘い優しい色をしてるんだ?