酔生夢死DAYS

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安房直子論

 

安房直子。美しく柔らかく、少し怖いような、類稀な作品を多く残した童話作家であり、熱烈なファンは多い。


民話的な要素を色濃くもった彼女の作品群の、骨太で深い独自の魅力は、どのような構造の中に秘められているものなのだろうか。

ずっと考えてみたいと思っていたこのテーマに関して、いくつかのアプローチを提唱してみたいと思う。

 

さて、安房直子の物語は、その多くが、まず、現実へのアンチテーゼとしての異世界を配した、古典的なまでにクリアな二項対立の「物語」の構造として捉えることができるものだ。

童話集「銀のくじゃく」の解説において、工藤直子はそれを「もうひとつの国」と呼び、「現実」の社会的日常世界に対立する個的な幻想世界として位置づける。そしてさらに「遠い野ばらの村」の解説では、松谷みよ子が、それを「いまいる自分の世界に閉じ込められたように思うとき、ひとは息苦しくなります。(中略)こういう世界もあったのだ、そう思ったとき、置き忘れていたゆったりとした心持ちが戻ってきました。」

という、一種の開放感をもたらす世界として受けとめている。

「窮屈に枠どられた現実世界」対「その外部としての『もうひとつの世界』という構図がここにはある。

だが、安房直子安房直子たる所以は、類型化された民話的、民俗学的な「物語」、言わば、語り手の個性のない集合的な物語体系の中に位置づけるところには収まらないところにある。その確かな存在感と独自性は、この単純な民話的二項対立構造の、一体どこからやってくるのだろうか。

以下、テクスト群から

1「異類婚姻譚
2「成功(成長)物語」
3「死」

の三方面からのアプローチで、これをモチーフとして前面に打ち出しているものを取り上げ、そこに描かれる、日常世界に対する一種の「外部」としての「異界」、そのユニークな魅力を探ってみたい。

 

 

1、異類婚姻ー美と欲望の起源

 

まず、オーソドックスな「嫁入り」譚として、女性が異界に引きこまれてゆく話型である。

これらの物語に通底するものは、主人公の娘の醸し出す、美しさや憧れの力によってストーリーが展開してゆくという特徴、いわば物語の原動力としての美と魅惑のエネルギーという構造であり、その強い存在感である。ここで、異界は、美と魅惑のエネルギイの源泉として位置づけられている。

この構造は、一見、若い娘が華やかな美しさをに憧れるという、ごく一般的な特性として扱われる。

自分の美しさを不思議な青いアイシャドウで飾って眠ることによってうまれる夢の話「夢の果て」、また毎日貧しく汚れて働いている農家の娘が、華やかな世界 に憧れて、蜂の世界に入り込んで踊り狂う「野の果ての国」などが、この原理をストレートに現わしている例として挙げられる。

このような美と憧れ、そして異類婚姻との繋がりを「海の口笛」「鳥にさらわれた娘」「日暮れの海の物語」の三篇から見てみたい。

 

ここでの異界はいずれも海に設定されている。知恵遅れの娘とかけはぎ職人の父が、水色の絹のドレスの仕事を頼みに来た若い男(海のイ メージを持つ)の注文を受け、夜な夜な、そのドレスの穴から覗かれる海の魚を食べ、ついにはその海の中に吸い込まれてゆくという「海の口笛」は、謎の海の 男が(父親ごと)その娘を嫁に迎える物語である。

男がかけはぎの仕事のお礼に約束する宝石類は、単に美しい高価なもの、というものではなく、当然婚約指輪を意味しているものだったのだ。

 

職人と娘の住む家は、「ある港町のさびれた裏通り」、すなわち、海と陸との境界領域としての意味を持つ港町、しかも、陸の法則、何もか もが合理的で不思議のない社会法則に則った「表通り」世界からはみだしたもの、混沌と不思議と怪しさを受け持つ側としての「裏通り」に設定されている。

 

そしてある日やってくるのが、次のような客だ。

 

「男は、たった今、海からあがったばかりのように、潮のにおいのする木綿の服を着て、なぜか髪はびっしょりぬれていました。ぬれた髪の毛は海草ににていて、灰色の目は夢を見ているようでした。」

 

明らかに「向こう側」「もうひとつのくに」としての海と夢の意味を背負ったこの使者が、「こちら側」へと、その触手を伸ばしてくることによって、この海と陸、或いは現実と夢の二項対立の物語は動き出す。

 

「鳥にさらわれた娘」では、主人公、尋常ならぬ美しさをもった娘、ふみが、やはり、シギの作り出す海の宝石に魅せられる。娘らを狂わせる美の魔力が、それらの宝石にはこもっているのだ。

 

その魔力とは一体どこからやってくる、どのようなものなのか。

 

「日暮れの海の物語」で、カメがさえの花嫁衣裳にと置いてゆくのは、「うす桃色の桜貝が、まるで花のようにちりばめられている反物。青 い波の上を、まっ白い千鳥の群れが飛んでいる反物。そうかと思うと、赤いさんごや、ゆらめく緑色の海草が大きくえがかれている反物。そして、まばゆい金銀 の帯地…」であり、「そんな美しい布を着物に仕立ててしまったら、大抵の娘は、その着物がほしくて、相手がかめだろうが魚だろうが、どうでもよくなって、 お嫁に行く気になるかもしれません。そうです。何やらたしかに、そんな魔力が、この反物には秘められているようでした。」というものであった。

これらの美しい品々、宝石や着物に惑わされる娘らの欲望は、一見、モノの高価さ、経済的価値に目が眩んだものと同一視されがちだが、それは、これらの物語の中では、決してそのような欲望としてのみ解釈されるべきものではない。

 

ここにある美の価値は、いわゆる金めのものへの執着という経済社会的価値観とは別のものである。


一体誰が、金銭的価値や社会的な虚飾で身を飾るために(流通価値や使用価値のために。)亀の妻になって海へ沈む矛盾を侵すだろうか。現実世界「内部」のものである金銭の魔力とは対極に位置するところの、「外部」、異界の魔力。寧ろその核心は、最もピュアなところから湧き上がる、モノそのもの、というより も、既にそれを突き抜け、そのモノの媒介する別世界の広がり、その夢(その世界を感受する力)のパワーのところに由来してくる。

 

つまり、その美しさに魅了されるとき、日常の色褪せた世界を離れ、別世界を夢見る恍惚、という二つの世界が対立項として存在しはじめるのである。

 

モノへの欲望をとことん純粋なかたちに突き詰めていったときの、そのような原型を、ここには読み取ることができるのではないだろうか。

 

すなわち、それは、超自然、エネルギーに満ちたカオスとしての「向こう側」からの力が、現実界、人間界に食い入ってきたときにもたらさ れる「魔法」の力、自然界の、人知を超えた力のメタファとしての「美しさ」なのであり、人の心をこの世の現実から連れ去るような、狂おしく危険なパワーに 満ちているのだ。

 

そして、ここではその異界が「海」に設定されているのである。検証してみよう。

 

「それから長いこと、ふみは光る玉を見ていた。光る玉は、朝の海のきらめきに似ていた。おけの中から取り出して、窓の光にかざして見る と、その金色がまたちがって見えた。耳に当てると、海の波の音が、かすかに聞こえるようだった。ふみはますますこの玉に魅入られた。もう決して手放せはし ない。(中略)(海の泡を)さがしあてて、ぼく(シギ)くちばしの中であたためる。そうすると、くちばしの中で、玉はひとりでに光ってくるんだ。朝の海で あたためた玉は金色に、夕方の海であたためた玉はばら色に、そして、夜の海であたためた玉は、青くなる。」(鳥にさらわれた娘)

 

シギのつくる宝玉は、海の、自然の営みの移り変わる美しい光のエッセンスであり、先に引用した「日暮れの…」で、カメがさえに持ってくるものは、ただ美しく彩られている布というのではなく、そのひとつひとつの柄がすべて海の独自の美しさを表現したもの、海の美の精髄としての芸術品だった。(桜貝、波、千 鳥、海草)

それらは、いわば海そのもののメタファとしての意味を持つものだ。
娘らは、それら自然界のもつパワーとしての美しさ、いわばモノを通して顕れる力、モノの背後に巨大に広がる世界そのものの豊かさ、美しさ(ここでは海という自然界)を殆ど直接に欲望しているともいえるのではないだろうか。

ふみの魅入られた宝玉からは、海の波の音すら聞こえる。単なる物質的な意味での美を超えた、優れて霊的な意味での美が発信されているのだ。

それは、自分の手の中の小さな玉の中に、自分の外側の、遥かに巨大な自然の美しさが、まるごと内包されていることの、そのミクロコスモ スとマクロコスモスの矛盾の止揚されたところにある驚きと眩暈に似る。そしてその欲望と恍惚は、一方的にその美を手の中に所有するというレヴェルを突き抜 け、主体である己自身を逆に巨大な美の側へと犠牲に供してゆく、あるいは「『そちら側』へと開放されてゆく」かたちでの「嫁入り」のダイナミックな反転へと突き進む性質を持っているということになる。

欲望そのものが、「美という力の象徴としてのモノ」を所有するかたちから、その美の根源としての大いなる異世界への自己そのものの供出、否、還元、一体化への欲望へと変容していくことによって、そのベクトルの反転が行われるのである。

ピュアな形での欲望は、その対象に関して生じる恍惚と未分化であり、つまりは文字通り魂のあくがれ出る意味での「あこがれ」という逆ベクトルを含有しているのであって、一方的な所有のかたちに留まれるものではないのだ。

このような自我の枠の崩壊とこの世からの逸脱という異界への嫁入り物語は、構造からいって、「死の物語」と重なってくるものである。このことについては、「天の鹿」の解説と合わせて、後述したい。

 

 

2、食いあいと反転

 

さてもうひとつ、この美と欲望と反転、の構造について述べたい要素がある。

反転する欲望のベクトルによって発生する、食うー食われるのような、いわば食いあいの関係である。


これは、安房直子のテクストにおいて、大変重要な役割を果たしている、文字通りの「食べる」行為の描写と、いみじくもアナロジーなものとなっている構造だ。

 

それは例えば、「海の口笛」では、先に述べた海の男が娘にと約束するお礼の指輪、宝石という小道具と並行する形で、かけはぎ屋と娘の食べる、ドレスの穴の中に広がる不思議な海の幸「びっくりするほどおいしい魚」の話が展開する。

 

それは、「かけはぎ屋は、もうあのふしぎな魚の味に、とりつかれていたのです。」という、やはり「欲望」をもたらすような、魔術的な魅力をもっていた。そのおいしさとは、「あの大きな海を、ひとまとめにして口に入れたら、こんな味がするでしょうか。海の匂い、海の響き、海の色……それを みんなあわせたら、こんな味がするでしょうか……」と描写されるものであり、味覚という科学的に分化されたひとつの感覚にとどまらず、五感以上を総動員する意味の全体性、或いは五感の弁別される以前、すなわちその源泉としての原感覚の領域、クオリアのようなものに通っているのだともいえるものだ。

もちろんその行為は、不思議な魚を、海そのもの、その全体性のメタファ(あの大きな海をひとまとめにして口に入れたら)として味わって いるという意味をもっている。このときの彼らの感覚の描写から、その意味論的情景を「海」が人間界の「外側」である巨大さをもったまま、まるごと一人の人間の存在の「内側」に食い込んでくる、矛盾を実現する反転のモチーフ、その圧倒的な力のリアリティの情景としてイメージすることができるはずだ。

 

外部、異界としての自然界、海。
それを「食べる」という、自己の内側へ取りいれる行為によって、あたかも「鳥にさらわれた娘」で海の宝玉を手中にしたふみのように、かけはぎ屋と娘は、海のパワーを体内に所有することになる。

「そのうちに、かけはぎ屋はふしぎなことに気づきはじめました。魚を食べだしてから、自分の体がとても軽くなり、若がえってきたので す。その上、髪の毛がしっとりと重くなり、いつでも、ぬれているように見えてきました。それは、娘の方も、同じことでした。娘の髪も、しっとりとつややか になり、ほほまで、ばら色に見えるようになりました。」

だが、このような自然界の魔法の力は、いつでも安全で整然とした合理性と論理性に支配されている人界のそれとは異質なものである。(だからこそ「魔法」「不思議」と呼ばれるのだ。)

ここで、その「魔法」とは、一体どのような「力」であるのか?

「自然界のカオスとしての「異界」と、この世、コスモスとの差異によって発生する力。」

すなわち、「不思議」「魔法」とは、「こちら側」の枠内の規則性へと取り込まれる瞬間に、その差異のエネルギーによって、さまざまなかたちで発現されるカオスの力なのであり、もともとその力そのものとしては、善悪を持たず、恵みと危険さの両義をもっている。

そしてひとりの人間の枠に押し込めておくには、それはあまりにも危険で巨大な力なのだ。


そのため、一度そのあやういバランスが失われれば、主体の「この世」でのアイデンティティ、自我の枠は壊され、そのエネルギーの源泉、自然のカオスへと還元されてしまうことになる。つまり、逆に取り込まれてしまう、「食われてしまう」ようなかたちになるのだ。

 

これは、最初に来た謎の男が、かけはぎのお礼に約束した指輪を娘の結婚指輪として、「たとえば、海の色をしたエメラルド、それとも、とびきりおおきな真珠、それとも、まっ赤な珊瑚。」と提示して見せたような海の美を与え、「ひょっとしたら、指輪をはめた娘ごとどこかへつれて行ってしまう のではないだろうか」というかけはぎ屋の考えどおりに、二人を海の中へ吸い込んでしまう「嫁入り」の反転の物語の展開に重なる原理である。これはまた「こちら側」から見れば、「死」の領域に吸い込まれることと全く同義であるといえるだろう。

 

このような安房直子の物語において、異類婚姻譚と重ねられるものである、二つの世界の内ー外の反転と食いあいの原理は、直接に「食べる」というモチーフによって、例えば短編「小鳥とばら」などに前面に押し出されているテーマであると考えられる。

これは、ある春の真昼、少女が不思議な屋敷に迷い込む幻想的な物語である。小鳥に変身したバトミントンの白い羽根を追いかけてその庭園に迷い込んでから、美しくエレガントだがどこか不気味さを湛えた、少女の夢の中のような世界が描かれる。

「ふっと、少女はめまいがしました。ああ、だれかが、わたしに魔法をかけてる。たしかにそうだ…いそいで帰らなきゃ…。そう思いながらも、少女の足は自分の足を止めることができません。少女の足は、あやつり人形のようになっていたのです。」

遠い現実の冷静さをどこかに感じながら、あたかも物語の中の登場人物を演じるようにふるまってゆく、感覚が二重になったこのような夢の論理が、薔薇園や蜜蜂のうなり、美しい庭園の描写とあいまって作中に瀰漫している。

これは、その「夢」を読み解くという作業によって、少女の心理学的な成長物語として読むこともできるストーリーだ。彼女は意地悪な友達の飛ばした羽根の小鳥=他者に対する劣等感を食べ、また自己の夢の中に埋没する危機を乗り越える自己克服の儀式をも経て現実に帰還し、魅力的に成長する。

しかし、ここではその「小鳥とばら」という、少女が身に着ける力のメタファの源を求めるとき、例えばコンプレックス克服といったような 「現実」の影(メタファ)としての幻夢、という論理概念は採らない。むしろ逆に、現実という冷え固まった合理的論理と約束事によって成り立つ世界、枠どられた理性だけの世界が外側に排除したもの、すなわち、収まりのつかない極端な力、いみじい力の場としての「外部」、極端な美と危険のエネルギーにみちた場 としての異界像をとらえてみたい。それが、あたかもたったひとつのリアルであるような顔をした「現実」の論理から全てを解釈しつくすことを拒む安房直子の テクストが、その全作品を通して具現しているひとつの基本原理を浮かび上がらせると思われるからだ。

 

少し細かく筋を追ってみよう。

白いシャトルを追いかけるうちに、それが白い小鳥に変わり、少女は幻夢の庭園に迷い込んでゆく。春の森、薔薇園、優しげな美少年と美し いその母、という典雅で少女趣味的な春のモチーフの連続の中で、少年に撃ち落される小鳥、そしてその死体を、少年の美しい母が、薔薇の花びらとともにパイに詰めて少女に食べさせ、少女を一本の薔薇の木に変えてしまおうとする、という、一種グロテスクな物語が展開されてゆく。

魔法、すなわち現実側の論理に支配されない妖しい美、なまのエネルギーの渦巻く混沌とした夢の世界の中で、小鳥とばらのパイというモチーフの示すものは、少年が「(小鳥とばらのパイを食べれば)小鳥みたいに明るくて、ばらの花みたいにきれいな女の子になれるよ。」というように、小鳥の 可憐さと薔薇の美しさという魅力のメタファであり、少女がそれを食べることは、その力を自己の枠の内側に取り込む行為、その儀式としての意味をもつ。そし てその源泉は、渦巻く力の場としてのカオス、自然界に近いところにある「春の森」の美しさそのものであるといえるだろう。

妖精、或いは魔女を思わせる謎の母子は、その[人界ー異界]の媒体項に位置し、生のまま、自然のままの小鳥とばらという力をパイに加工する役割を担う。「魔法」の顕れるところは、いつでも二つの世界が接する地点、その差異のエネルギーのあふれだす媒体の位置である。森を庭園化し、自然物 をパイに加工する彼らの半人工的行動は、人間が自然側に属する力、その恵みを社会科、経済システム化する瞬間、その差異の発生する始原の地点を顕わにして いる。天使や妖精が、力と観念的なもの、そして物質と肉体的なもの、神と人間、形而上と形而下の中間、媒体の位置にある存在だとすれば、彼らは飼いならされる以前の カオスに接しているのであり、いつでもその恵みと危険さの両義を示す存在であるのももっともなことなのだ。

さて、ここでの異界「春の庭=森」のイメージと意味を具体的に追ってみよう。

それはまず次のような描写から始められている。

「こんなに明るくまぶしい春のま昼に、その庭だけは、海の底のようでした。庭のなかには、木々が、うっそうと生い茂り、緑のこけが、地面をおおっていました。それは、庭というよりも、静まりかえった大きな森でした。」

異界としての「海の底」のイメージを重ねたこの「森」は、飼いならされた自然としての「庭」、或いは、人的秩序を持つ自然としての 「庭」と、生のままの「森」との境界線上に揺れ動く境界領域をかたちづくっている。またそれは、「こんなに広い森ひとつがあの生垣のなかに、すっぽりはいっていたなんて、そんなことがあってもいものでしょうか…」というように、外側からは見えない内側の広がりという、別種の空間法則を持つ異界を感じさせ るような、矛盾をはらんだ、いわばクラインの壺的反転の周到な仕掛けがなされたものである。

そして、少女がパイを食べる際には、やはりその「春の森」との関連の描写が見受けられるのだ。

「小鳥とばらを、パイにいれたら…ああ、きっと春の森みたいな食べものができるわ!」
「小鳥とばらのパイをすっかり食べおわったとき、少女の胸のなかには、美しい春の森がひとつ、できたようでした。」

ここには、前述した「海の口笛」で、海のパワーを自己の内側に取り入れた父娘と全く同じ構造が見られる。そして、更にここでは、「春の森」の[中にいる]少女が、食べるという儀式によって、小鳥とばらに象徴される春の森全体を[内側]に取り込むという反転の図式の鮮やかさが大きな特徴と してあげられるのだ。

パイの中の食べられる「小鳥」と食べる「少女」が、薔薇に包まれるという体験の類似によって次元の枠を超えて重なってゆく構造は、春の森の巨大な力と少女の存在の枠組み、そのアイデンティティの間に揺らめく「食うー食われる」のダイナミックな緊張と目くるめく美的色彩をはらんで物語を形成する。そのくだりを追ってみる。

銀のパイ皿の上に薄く延ばされたパイ皮に薔薇をしきつめ、少女と少年は死んだ小鳥を花びらで覆う。「静かで美しい儀式ー死んだ小鳥は、たくさんの赤い花びらですっかりおおわれて、ふと、しあわせそうでした。」

そして次に、そのパイを食べて眠くなった少女は、少年の母に誘われて、壁も絨毯もカーテンもベッドもばら色の部屋で、ばらの花びらでで きたふとんにもぐりこんで目をつぶり、「しめやかな雨のように」降る薔薇の花びらの夢をみる。「花びらは、少女のてのひらにも、顔にも体にも、ふりつもります。そして、まるでさっきの小鳥のように、少女は、ばらの花びらに埋もれてゆくのでした…」

少女はパイの中身の小鳥を食べ、その幸福な春の森の力を自己の内側にのみこんだ。そして次に、そのアイデンティティ、存在の枠組みは、 ここでまるごと自然の側へと飲みこまれようとする反転の力にさらされている。つまり、少女が自然の側へと[食われる]べきパイの中身の小鳥、春の森全体の力を象徴するものとして供せられている反転の構図ができあがっているのである。

 

自在に伸び縮みするスケールと次元の繰り上がり。食う食われるの現象を通して、パイの中のミクロコスモスとしての小鳥の命が、一つ上の 次元、マクロコスモスとしての少女と春の森の関係の現実というレベルを枠どる、いわばコスモスのモデルとして機能する。その反転の力とは、少女を薔薇の木 に変えてしまおうとする少年の母の[魔性]の力であり、その企てが成功すれば、春の森の中の薔薇の木=少女という内ー外関係が再び成立し、少女は少女とし ての存在を失い、大いなる自然の力の一部へと還元されてしまうことになる。「しめやかな雨のように」降るばらの花びらの描写は、明らかに少女としての存在の葬儀のイメージを帯びたものだ。

このようにな、いわば食い合いと反転の限りない重層、その命と力のやりとりが、この物語のスケールの変幻自在さによる眩暈の…豊かさの…秘密なのである。

そして、その命と力のやりとりの物語が、自然ー人間の対立項をもって成立しているとき、少年とその母、そしてパイの存在する「庭園」の意味は、その 二世界の境界、媒体的な役割を果たす第三項の色合いをもって見えてくる。それは、自然・カオス、すなわち人間界、論理的世界の外部からくる無限のエネル ギーの食い込んでくる世界の結節点であり、その差異のパワー「魔法」のあふれだすべき窓口なのだ。

境界領域としてのフィールド「庭園」には、自然の純粋な魅力と危険さ、「人間的な」優しさの中間に位置する、妖精的な不思議な母子と魔法が生まれる。少年の母は少女を薔薇の木に変えようとし、少年は少女を逃がす[人間的な]優しさをもっている。安房直子の作品において「魔法」とは、常にそのような 不可思議からやってくる両義の力に他ならないものなのだ。

さて、このような構造を踏まえたとき、異類婚姻譚、嫁入りの意味が、二つの世界を結びつける媒体としてあらたに見えてくるのではないだ ろうか。異類婚姻譚と死、自然界の不思議という安房直子のライト・モチーフが総合的に重なり合ったものである「天の鹿」という長編からそれを見てみよう。 ここでの魔法の力は、山の中の不思議な鹿の世界として描かれている。

 

3、婚姻と死

 

ストーリーは、猟師の清十に殺されたが、生肝を抜かれたために「天の鹿」になれず、生にも死にも属せない幽霊となってしまった牡鹿が、自分の肝を食べた娘を捜し出して天界に還るべく、清十と三人の娘を「鹿の市」に連れて行く、というものだ。ここで、この物語の大きな魅力である、怪しく美しく賑わう鹿の夜市の、美しい宝石や布地、食べ物や花の様子が、魔術的な魅力を持って娘らを魅了する。

だが、そこに至るまでの道筋は、山の闇と危険と不気味さに満ちたスリリングなものだ。魅惑、無限の恵みと危険。自然界の持つその両面を、余すところなく示しつつ、山中他界的な鹿の世界は、末娘のみゆきを牡鹿の花嫁として取り込んでいくこととなる。

ここで、この異類婚姻譚は、花嫁衣装の白無垢が、生家での一旦の死と、他家での別人格としての再生のための死装束の意味をもっていたよ うに、嫁すことー死ぬこと(別世界で今までと異なるものとして生きること)、そのアナロジーの構図の示す色、一面の「白」のイメージを現出させる。


…白い花を持ち、牡鹿と共に白い初雪に埋もれてゆくみゆきに聞こえてくるのは、次のような歌であった。「とろろん とろろん 花嫁さん 白い花抱いて おやすみなさい あしたの朝の旅立ちまで 静かに静かに おやすみなさい」

この「旅立ち」とは、一体どこへの旅立ちであったのか。

父清十が、一晩中みゆきを探したその初雪の夜が明けたとき、彼はみゆきが白い鹿の群れの中の一頭の牝鹿をなり、白い雲の群れとなって文字通り「昇天」してゆく神々しい姿を見る。勿論みゆきは雪の山中で眠ったのだから、凍死したとしか考えられない。そして、しかし同時に、そのシーンはあく までも嫁入りのめでたさと天に生まれ変わる神聖さ、朝陽に向かってゆく再生の晴れやかさの意味に染め抜かれている。

「死」というこの世の外部が、不吉さを反転させた神聖な美しい場、天上と重ねられているのだ。みゆきの買う花の白、天から降り注ぐ初雪 の白、そして最後に天に駆け上る雲の白、と、白のイメージは鮮やかに連鎖して純化上昇してゆく。ラストシーンの圧倒的なその白のイメージは、みゆきの死を 天に駆け上る聖なる婚姻として意味づける力を持つ。

俗界としての人間界から自然界から、山、鹿を媒体として超越界としての天に至るという山中他界観の構図がここにはある。人間界のアンチ テーゼとしての自然界を示し、更にその自然界(山中異界)をメディアとして完璧な外部としての天上へ引き取られてゆく死=婚姻の幸福な物語の構図である。 そしてここでもやはり、魔法と不思議のあふれかえる鹿の市は、不気味さと魅力をたたえた両義の境界領域、メディアの場としての山中異界、天の使者としての 動物の領域であったということができるだろう。

死と婚姻のアナロジーは、その不吉と至福のスパークするいみじさが、この世の枠の外部へ、というひとつの現象の両面性であることを示している。このような「外部への物語」が存在するとき、限られた社会システムと日常の閉塞に、人は縛られて絶望する必要はない。

「海の口笛」では、娘は知恵遅れというハンデによって社会的な幸福から見放されており、「鳥にさらわれた娘」では、ふみの家は村社会の エゴによって冷たい目にさらされていた。その、通俗としての社会システムから排除されたが故に、彼女らは、より大きな、清らかで美しい世界への憧れと意味の反転、完全な解放を得るのだ。

これらの物語に共通する、輝かしい外部での再生、その予感で終わる物語構造は、実は、憧れの力、世界を感受する力そのものが、「イデアとしての、実は空白であるところの外部」を「存在させしむる力」であることを示している。

だが、「小鳥とばら」においては、少女は、取り込まれることなく、現実世界に帰還する。
このとき異界は、どのような位置を持つのだろうか。

「あたしねえ、(中略)体が小さくて、運動がへたで、気がよわくて、ほんとうに、どうしようもない女の子なのよ」という劣等感を持って いた少女は、世界観の反転する異界の体験を経て戻ってきたとき、「ばらの花のようにきれいになって、小鳥のように明るく」なった自分をはっきりと感じている。

今いる私たちの小さく限られた日常世界が、輝かしい一面の生命と美の喜びに満ちた「外部」にすっぽりとくるまれているものであるという構造のリアリティ。それが一旦提示されたなら、例え日常への帰還の物語となっていても、構造自体が崩されるものではない。世界の感受の方法は既に組み替えられている。

主人公が異界から帰還したとき成立するこのような成長物語のスタイルは、不思議な力を手に入れたといういこと、即ち輝かしい不思議のパ ワーに満ちた外部(春の森)から、それを己の内側に手に入れる通路を手中にしたという意味をもつ。換言すれば、それは、ミクロな日常生活、価値観に閉じ込 められ、そこに打ちひしがれることなく、社会的に規定された自己の枠を超えた外部の喜びと力の源に、常に接し続けているということなのだ。ここでの「成長物語」 は、異界との食い合いの儀式を経て[我が内なる外部]という世界観を身に着けたという意味での成長物語なのである。

少女が身に着けた不思議な魅力とは、少女の内側に納まった春の森からやってくるものであり、その源を辿っていけば、少女のアイデンティ ティの核心は、外部へと裏返ってゆく。そのような限りない力の通う外部への四次元的通路が自己の内側に開かれた存在。この、少女の新たな日常が、世界間の交流によるダイナミクスを失わないままに「現実」を生きてゆく理想のモデルとしてここに提示されていると考えることもできるだろう。

安房直子の異界は、基本構造としては、その殆どすべてが、以上述べてきたような共通の性質を持っている。


もちろん、物語のバリエーションが持つ具体的なイメージのリアリティは、作品ひとつひとつに独自の意味の輝きを与えており、到底ここで汲みつくせるもので はない。ただ、その独自性、個別性がすべて共通した世界構造を基盤にしたところからうまれていることは、いえると思うのだ。

 

読者の心を魅了してやまないその美しさと優しさと怖さ、その世界の豊かさの秘密を、丁寧に拾いながら追い続けていきたい、と思う。