酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「なめらかで熱くて甘苦しくて」川上弘美

う〜ん。

もともと感性の鋭さが好きなんだけどいささかぶっ飛ばし過ぎてる感のある激しい一冊。さまざまな作風を模索しているその実験的な作品の一環であるようにすら思える。

どれもふかぶかとした実力を感じさせてくれる隅から隅まで川上弘美ブイブイ、な作品なんだけど。

五編の短編から成る。
この連作を通して読むと、これはなんというか、「重たい夢の連続の中を押し流されてゆくイメージの明滅」系列な作風で人生を鳥瞰してみせている印象がある。主語、主体を曖昧にぼやかせてゆくきわめて日本語的な特性を最大限に生かした夢幻能。

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死や性の影に縁どられた世界を見つめながら少女の視点でその成長を追ってゆくaqua、死と青春の愛の邂逅、terra、そして生と性にまつわる出産の体験を生きる女の視点で純粋な生命に向き合い、人生を約めて綴ってみせるaer、と前半三作はそのまんま女性の人生のステージ前半をなぞるスタイル。

この三編は鋭い感性で描かれてはいるが、それぞれに一篇の小説、物語としての枠組みが整っている。

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aqua、田中水面という感受性の強い少女の視点で、同じ田中という姓をもつ同級生田中汀との関わりが描かれる。また都市伝説的に団地で殺された女の子の噂のエピソード、おそらくレイプされたうえで殺された小学生の子の名前は田中渚。

「水」に関わる名で三人はどこか繋がっている。

水面は、小さな頃は汀の家庭の貧しさに同情し、成長して行く過程で己も父の浮気、母の精神の破綻に出会う。

世界の悲しみや暴力や汚いものや、性。

水面の中でさまざまの不条理に対する感情が、この水つながりの「名」のもつ呪術性に絡め取られる。己のアイデンティティの中に持ちきれない怒りや悲しみのような感情を、不条理の犠牲者の象徴、面識もない殺された女の子に委託して、その子のために爆発的に号泣するところで作品は終わる。

陽の光を受けて川の流れのように光る道路をひたすら号泣しながらおおまたで歩き続けるラストシーン。そのようにしか進めない人生の川を象徴するように。

「自分のことを思って泣いてるんじゃない、清子(母)や三津夫(父)のことを思っているのでもない。わたしは殺されたD号棟の女の子のことを思って泣いているんだ。」

「世界は大きくてあたしたちは小さすぎる。」

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terraは、身寄りのない女子学生が自殺したところから始まる。

そして語り手の、一見死んだ子の恋人の同級生であるかのような女の子が一体誰なのか、意図的に読者を騙すような文体がしかけてある。

推理、発見のこの仕掛けは、語り手が読者を裏切る実験的なスタイル。謎解きの構造的な面白さをねらっているといってもよい。

しかし最後、種明かしがされるとき、感心するとともに、これは、単に知的な面白さを狙ったものではないということもわかる。

己の過剰な生とそれゆえの自死の意味を理解することができない、他人事のように己の生と死を客観する分裂した人格の幽霊の感覚。

この分裂の理由がラストの切なさ、軽やかな死の悲しみを深くする。彼女の生と死をただ受け止め、義務でもないのに死後の身辺の整理のゴタゴタ、納骨まで引き受け、最後まで弔う、恋人の男子学生の誠実な暖かさを救いとしながら。

物語として非常に巧みな構造だと思う。


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さて前半三作のタイトルは、それぞれが水、地球、大気という「要素」であった。そしていよいよ後半、四作目はignis「篝火」。物語は混迷の度合いを深めてゆく。

性。人生に、世界に、エネルギー、不条理と熱を与える「男と女」である。

女が、恋人の青木との日々、過去を語る。そしてさまざまの「男と女」のエピソードを語る。信頼、愛、浮気、裏切り。男と女が激しく傷つけあうとき、相手を刺すと自分が同じだけ傷つく、というなまなましく痛ましい幻想のシーンが印象的だ。

「その男は青木ではなく、その女はわたしではない。その男は青木であり、その女はわたしである。」

アイデンティティを超えた普遍としての「男と女」の物語。神話、とすら言ってもいいような気がする、男と女のアルケー。

繰り返し現れる光る犬の幻想的なイメージが謎めいて、気になるところだが、このイメージにおそらく確定したロゴスとしての意味はない。だが、とにかくたっぷりと意味の元素を含んで視覚を官能的に刺激するなまなましいイメージだ。

伊勢物語」にインスパイアされた作品だという。きちんと伊勢物語を読むとこの作品への理解が深まるはずだ。

おそらく普遍としての男と女のテーマが繰り返し語られるのであろうという予想をしつつ課題にしておく。

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そして、ラスト、第五話、mundus。

各要素が出そろったの総括としての「宇宙、世界」だ。

物語としては一番激しく破たん、崩壊したきわめて詩的な文章である。錯綜した記憶のイメージを自在にひらめかした人生まるごとの切れ切れの幻影と夢幻のイメージの連続ででできあがっている。(初期の川上弘美の匂いが濃厚で、実はこの中では一番好きである。)

これを頭で理解するひとはおそらくいない。子供とともにある「それ」という人格は一体なんだろう、祖父を侵す謎のアカヤマイとは一体なんだろう。何の隠喩なんだろう。

…答えはない。これは感じるものだ、感じるというレヴェル、ロゴス以前。だがそれはしかしやはりカオス以上なのだ。

なんだろう、これの表わす過去の匂いのするこのイメージは一体なんなのだろう、と必死で考え、追う。

世界、現象という大きなカオス。

コスモスという仮面一枚の下でわからなさと親しく暮らしている己のリアルをあぶりだすこの不条理。考え出すと溺れてしまう程のイメージの奔流、夢の不条理、意味の源泉、過剰としての混沌。

これをひたすら追いかける人間の永遠の宿命、苦悩と快楽と恍惚を感じさせる。絶妙のカオスから意味を生成しようとするダイナミズムの場、そのバランス。

「宇宙、世界」とはそういうものだ、という作者の認識が窺えるではないか。混沌を描きながら見事に緻密に計算されてタイトライズ、構成された一冊である。

なめらかで熱くて甘苦しくて

なめらかで熱くて甘苦しくて