酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

村上春樹「騎士団長殺し」 イデアとメタファとは?

(ということでコイツの再読にかかったワケである。)

*いつもの春樹パターン

冒頭、突然妻に別れを切り出され、それまで当たり前にずっと続くはずであった日常を失い、もはや失うべきものを持たなくなった「私」は家を出て、ひとり山の上に住んでいる。

周囲と日々の生活に流されてきた己の半生を振り返り見直し洗い直し読み替えようとする、青年から中年への過渡期の「人生見つめ直し時期」を得た主人公。将来を見定めるためのライフワークとしての絵画が、生活の糧のための肖像画なのか、己の魂からの純粋な芸術性・抽象画のものなのか、自分にとって「絵(芸術)」とは何だったのか?

世界と己の意味を読み替えるためのまなざしの力としての絵画という、二者が止揚されたトータルな芸術の力のテーマが示しだされる。

それに至る道を模索しようとする「私」の再生のための空白、これはその9か月の物語である。

それが大切なパートナーの問題と同根であるものとして、主人公の「己とは何だったのか」という疑問への思索と生き方への模索と絡み合いながらトータルに語られてゆくスタイルだ。

己の中の歪みや過去をすべて隠ぺいしたまま惰性のようにして続くと思っていた日常現実を突如失う体験。そのために日常現実の切れ目から入り込んでくる隠されたその己の深奥を見つめなおすまなざしを得る。己とは一体何だったのか?

そのようにして個と世界の関係性が問い直され見直されるとき、個と社会、それぞれのクロニクルが別空間、別ステージ、「闇」でつながり交差するという危険とチャンスが訪れる。それがエナジイの満ちた混沌の「異界」という要素だ。社会、現実、日常、理性で構築された論理世界と、封印され隠されていた「世界の外側」との接触だ。良くも悪くも春樹長編物語のおなじみの手法である。

*色彩・画家。芸術と「個」としての芸術家。

そしてその主人公の惑い、その空白を訪ねてきて、「肖像画制作」をあえて依頼する奇妙に若々しい瞳をもった年齢不詳の白髪の「免色」が登場する。ここで、封じたはずの肖像画制作、日常生活のためのよすが、とだけと思ってきた肖像画制作が、それが支えていた日常生活そのものの見直しのメタファとしても観なおされるものとなる。

免色の依頼は、「私」の中で魂のための純粋芸術と位置付けられた抽象絵画とは全く次元の異なる、単なる絵画テクニック切り売りと考えられていた肖像画制作というジャンルを、新たなまなざしで見つめ直す機会となったのだ。画家の中の芸術性が捉える外界、その他者の姿、肖像画

肖像画を、「画家の中の芸術性」が捉える視線によって、暴かれる対象のモデルとなった人間のその深み、個としての本質、抽象のレヴェル(芸術としての抽象的なフォルムと色彩の絵画に還元)に踏み込むものとして、肖像画と抽象画の二者を融合させる。免色の依頼はそれを促すかたちのものであり、彼なりの、己が「暴かれる」ことへの恐怖と欲望への衝動のかたちであった。そしてそれは「私」にとっては、今までの暮らしの読み替えと同義になるものであったのだ。

*他の作品のモチーフとの響き合い

免色という風変わりなこの名は、もちろん後の「田崎つくると彼の巡礼の年」につながる春樹の「色彩」モチーフの意味付けによる名づけとして、作品中で重要な意味をもった役割を担わされていると考えるべきだろう。田崎つくるの大切な高校時代の友人たち男女4人の本質を示しだそうとするその呼び名、アカ、アオ、シロ、クロ。

初読の時には何だかこういうことに気づかないのだ。春樹作品絶賛読み返しクロニクルをたどることによってはじめてみえてくる、さまざまに変奏されながら高く低く流れ続けるテーマとしての意味のイメージの通奏低音。その重奏による意味の響き合いを改めて味わう。

そうだ、そしてもちろんこの作品の主人公は画家なのだ。色彩とフォルムに世界を見出す。

そして真っ白な髪の免色だ。免色の色、白という無職。

そこから描かれてゆく色彩とフォルムというテーマ。二つの表情を見せる免色の肖像の仕上がり直前のイマージュに画家が最後に加えた、その二つの表情のイメージの違いの中にある「不在する共通性」のイメージ「白」を仕上げに、(画竜点睛のイメージか?)彼の肖像画は完成する(第一部p280)。

芸術の示しだす「本質」。
イデア、才能、という春樹独特の芸術構造というテーマがここに顕れている。

そう、そして、特筆すべきはこのもう一人の主人公、免色の魅力のことなのだ。

この人物の54歳という年齢設定は、主人公のそれと対比され、年をとったものならではの己の人生への惑い、寂しさ、個人的なクロニクルを経てインテグレードされたその謎に満ちた心性への示唆を主人公に与える役割を担っている。

あたかも漱石の「こころ」で、「先生」が己の心臓を破いてその血の痛みと犠牲と死、その教えをそのままなまなましく「わたし」に注ぎかけたように。物語構造として世代間の語り合いは過去と未来の語り合い、世界の時空はその豊かな響き合いのニュアンスをもつものとなる。

…ということで免色のその生い立ち、知識、行動、科白、態度は、主人公と相性のよさともに好対照を成し、彼らの会話を大変魅惑的なものにしているのだ。もちろん思いきり気持ちがいい度外れな金持ちっぷりの描写の楽しさは娯楽漫画や物語的なストーリーの快楽、こういうのは単純に、純粋にただ楽しい。

正直に言おう。
面白い。

もちろん私が新刊リアルタイムで慌てて読んだとき、なんだこれいつもの春樹ワンパターンなだけじゃないか己のモチーフテクニックの焼き直しだ新しい刺激もテーマも感動的にきれいなオチもナシ、つまんねえ、と思った最初の印象は、構造として実際それ自体間違っているということはない。だがそれはきちんとそのパターンの変奏の深み、響き合いの深み、そのおもしろさを読めていなかったせいであると言い直すべきである。

そう、これはこれである必然として生まれた作品である。これでいいのだ。(ここはバカボンのパパの口調で。)

その作品間の変奏の響き合いの広がりと余韻の中に広がる曼陀羅宇宙、そこにおけるそれぞれの物語の位置関係、響きの纏う論理の深さに耽溺してゆくところに読解の、読書の、世界を解読するための魂の自由がある、という気がする。「面白さ」とはそういうものなのではないか。

 *** *** ***

(これが前半部部分読書メモ。)地に堕ちた我が読書力ではあるが、ジミジミと短く制限とストレスに満ちた現状生活活動範囲の中で、一日ずつほんの少しずつ読み続けてゆく。(ああひとりの自由と安寧と体力が欲しい。)

*「イデアとメタファ」そして「物語と芸術」

…そしてぐいぐいと面白くなってきて、ついに「イデア」が顕れた。第一巻の目玉だ。(第一巻の副題は「顕れるイデア編」)絵の中の小さなサイズ、こびとのような騎士団長の、要するに人間の形をとったイデア、概念、なんとも解釈の可能性が面白い。奇妙な口の利き方をする奇妙な俗っぽさをまとった「イデア」。このイデアの役どころは「海辺のカフカ」で星野青年を導いたカーネル・サンダース。主人公の思考体系を翻弄しながらかきまわし、謎をかけ、ヒントを与え、考えるべき道筋、その進む道すじを示唆しその導き手となる。

ううやっぱり面白い。

そうだ、この「絵描き」は「物語」としての絵画を描いているのだった。
主人公は己の魂の超ー内部から響く、己の意図の外側からの声の導くままに対象を描く。聞こえてくる見えてくる、その対象が対象自身、己であると主張しているように見える(画家にそう見える)かたちを描いた4つの絵柄がそろったとき、「物語」がそれに促され動き出すことを感じる。そしてそのための「記録者」としての己の絵画制作行為を自覚するのだ。

「最初に免色の肖像画を描き、それから『白いスバル・フォレスターの男』を描き、(それは色を加え始めた段階で中断したままになっているが)、今は『秋川まりえの肖像』と『雑木林の中の穴』を並行して描いている。その四枚の絵はパズルのピースとして組み合わされ、全体としてある物語を語り始めているようにも思えた。
 あるいは私はそれらの絵を描くことによって、ひとつの物語を記録しているのかもしれない。(第二部・遷ろうメタファ―編p169)」

(ここで思い出されるのは注文の多い料理店「序」である。〈対象が語ってくるものを記録する媒体としての絵画制作・物語行為〉

「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」)

ここで、芸術家の表現行為とはすべて対象外界を芸術家自身のフィルターを通し「物語」化する行為、なのか?

…そうだ。

そうなのだ、彼は1Q84の天吾(物語を描くもの)だ。他者の物語を請け負い書かされる。そしてだが同時に己の隠された内側の物語をそこに描きこみ解き放つ。そこには主体と客体の境界を越えた第三のエナジイに満ちた異界要素、不可知要素が呼び込まれる。これが一連のミッションなのである。(このとき芸術行為とは、描かれる対象モデルから画家がその深層に隠されたものをえぐりとり、その本質的な個な形としてえぐりとり、そのとき織り込まれる画家自身の深層がお互いの個を超えた第三の要素を呼び込む、その一連の行為というミッションの構造から成る。

これが絵画における物語行為であり、このときまったく新らしい未知の、未来への物語が発動することになる。…これは天吾の物語行為とまったく重なる現象である。)描くものと描かれるもの、互いの個を超えた要素が呼び込まれるところに他者と外部が関わってくるのだ。このとき呪いや理不尽にまみれた世界のクロニクルが開かれる。個と無縁ではありえない社会的集合性。闇に隠されていた、イデアに統御される以前の遷ろうメタファ達。

封印されていたイデアは「私」によって井戸から掘りだされて開かれ、そして「私」に殺されて閉じられねばならない。封印を開き、閉じる。…ここは「海辺のカフカ」のモチーフと重なる。ナカタさんがその人生をかけて開き、閉じたもの。「海辺のカフカ」における神・カーネルサンダースは「騎士団長殺し」におけるイデア・騎士団長と同じものだ。

認知症の薄闇の中を彷徨う「騎士団長殺し」製作者である雨田智彦の意識を呼び覚まし、その人生を賭けた最後の願いをかなえるため、そして同時に己自身の願いをかなえるため主人公は己にかけられた呪詛・歪みとしての「邪悪なる父」の概念のかたちをまとったものとしての「騎士団長・イデア」をなまなましいかたちで刺し殺しその血を浴び、「目撃する者、記録する者・顔なが」のかたちをした「メタファ」を呼び出すことになる。

ここからが画家の意識の内部への旅の始まりだ。

そしてもちろんここで邪悪なる父、悪しき暴力の象徴の刺殺シーンとなっているものは「カフカ」ではナカタさんが猫殺しジョニーウォーカーを刺し殺すシーンと同じものだ。(このとき少年カフカの父も実際に殺されるものとなった。)双方共に己が殺されることを役割として希求し、己の血を浴びることを相手に強いるイデアとして在る。

「騎士団長」はカフカで言えば主人公にとって今まで導き手カーネル・サンダースに近いものであった「イデア」が、雨田智彦からの「騎士団長」の意味を重ねる、目覚めたその彼の視線を重ねることによって「邪悪なる父の意匠」としての猫殺しジョニーウォーカー、「イデア」を重ね纏う役割を負ったものとなっている。

先に免色の例にも構造的に重なるものであるが、繰り返し語られるこのイメージ、父殺し。

己の死、その心臓を破り滴る血を浴びせかける、痛みと罪業のリアリティの重みに満ちた、どこか呪いにも似た行為によってしか与えることのできない「教え」のかたち。…そうだ、これはまさに漱石の「こころ」の主人公の「父なるもの・先生」の教えの形とまったくおなじものなのだ。

そして私は問う。
何故。

何故このように、このようなかたちでイデアが殺されたときしかメタファ世界への入り口が開かれないのか。そのとき初めてメタファの世界への入り口が開かれることができるようになるのか?その構造とはなにか?

ここまで来てはじめて「イデア」と「メタファ」の意味するもののことを考えることができる。

…ものすごくエキサイティングだ。今までの長編小説で必ずと言っていいほど現れてきたこの春樹の異界冒険譚パターンの意味、その性質を共通して考え深化させる交響させる世界を構築する手がかりを持っている。

そうだ、それは既に第一部と第二部の副題にも既に示されているものだった。
イデア」は「顕れ」、「メタファ」は「遷ろう」。

可視化された既成のイデアが解体されたとき(殺されたとき)、その内実、それが形を成す以前(あるいは以後)(死後未生)の、意味が形を成す以前の、その形を成そうとするエナジイの熱く躍動し戯れる原初の混沌世界、森への道行が初めて解き放たれる。

ざっくり言って、まともな現実社会から混沌の異界への冒険、それは「整合されたかたちの論理を持つ社会・イデアの属するもの・イデアに属するもの」の破壊(犠牲を伴った殺害)、そしてそこから「個的なるもの、意味がまだ意味の構造を持つことのできないうごめき、その戯れ、遷ろうものとしての、不安定な混沌時空、意味以前と記号の戯れの世界・メタファの属するもの」へ、というクリアな二重物語構造を成すものとして考えることとなる。コスモスとカオス。

この行為の意味はイデアに不可避的に付随してしまった歪み(呪い・罪・理不尽から生まれる暴力的なるもの。)の補正、すなわち贖罪、浄化、そして再生、だ。

メタファ(記号、言葉)はイデア(それ自体空白としての真理を指し示す。)本体ではないがそれを指し示そうとして遷ろう多数の蠢きである。ここが個的にしてあらゆる可能性に満ちた、危険で不安定な世界であるのは当然であるといえよう。呪い、歪みを克服するための正しい言葉、正しいメタファ、正しい物語、…新しいプログラムはここから意志によってつかみだされなければならない。

 

*そして、呪いとは、歪みとは。

さて、初読の際の悪印象は、その中度半端な物語伏線回収に一つの原因があった。大風呂敷を広げておいて、なにひとつ気持ちよく回収されることなく、といった印象だったのだ。

「秋川まりえの肖像画」も「白いスバルフォレスターの男」の肖像画も、完成の可能性を見通しながら敢えて完成されないことが「今正しいこと」として選択される。今はしてはならない、その時ではない、と。

「私」がきちんと洞窟の試練を完遂できなかったこととそれは関連している。

だが「今正しいこと」を、彼は、そしてまりえは選ぶことができるようになる。
彼は己に欠けられた呪いとしての、理不尽としての過去の幼いときの妹や家族、そして妻の喪失に関する己の痛みをしっかりと認め受け止めそして悼み、妻との新しいやり直しの道を。
まりえは母を喪失した哀しみを、痛みを、初めて認め泣くことによって新しい自分のための人生を。

それが二人がそれぞれの未来の物語を望み選んでゆく新しい物語をつかみ取ろうとする、完成されないまりえ自身の肖像画を、顔のない男の顔を描き出そうとするための、そのそれぞれの結論だ。

「私」は妻とやり直すことができる。人生を望み、選ぶことができるようになる。妹の代替であるものではなく、彼女がかけがえのない他者であることと出会い直しながら。

  *** *** ***

まだまだきりなくまき散らされた興味深いモチーフやテーマはたくさんあるのだ。
私のノートは特に1Q84での感動した物語構造論理をメモにし断片で書き散らしたものだらけだが、一旦とりあえず切り上げないと春樹の大風呂敷包めない。

ひとまず結論的に言ってしまうと、印象から言って正しく「色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の旅」の流れを汲み、それに「1Q84」や「ねじまき鳥」やなんかの複雑な構造をからませた、つまり構造的に深化させた作品であると私は考えている。ここでレビューしておいた物語構造からいうと。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

「つくるは、クロに言う。自分はカラッポの器でいい、人との関わりの中で、その中身を支える喜びを支える器になれればいい。メディアとしての駅を愛する、入れられる物語内容によってその存在の意味解釈をどんどんと染め変えられる、唯一絶対の真実の物語などもたない、ただそのものとしての、世界、人生、現象。」

 

…あと、暴力と理不尽とエロスの関係性とかね。

まだまだいっぱい書いておくれ春樹先生。再再読祭りが開けるように。
そしてたくさん読みたいもの読み直したいもの書いてみたいものはあるのに私には何だかとっても力が足りない。

ああやっぱり私は図書館オバケになりたいのだ。f:id:momong:20210331102637j:plain今年は季節が早い。新緑眩い生命の賛歌の季節、生きねば。