酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

語る者語られる者(ごきげんだぜ夜中のハイロウズ改訂版)

作者とテクストは別物だと思っている。

音楽家とその音楽は別物だ。

だから作家とその作品、歌とその歌を拵えて歌った人を混同したままでファンになる、作品を愛する情熱がその作者とされる人間に対するものとして投影、仮託されている現象には常々疑問を感じている。疑似恋愛、或いは疑似信仰のようだ。<疑似。>一見ナチュラルだが、ひどく違和感を感ずる。歪みがある。ズレがある。

生身の人間としてのその作者と作品を創り出した作者は別物である。
これはナラトロジーの理論に通じる。生身の人間としての作者、テクストに内包された語り手としての作者、そしてその双方と異なる、語りの現場における物語の発生現象における語りの主体、という、物語る主体を三つの段階に分けて考える理論である。

今、この中で発生する「内包された作者」、という第二の位相に現れる作者のことを言っている。

内包された作者。

つまり、私は宮澤賢治夏目漱石という作者の描き出した作品に心酔し感動し恋をする。だがそのとき宮澤賢治夏目漱石ペンネームに仮託された仮想人格、テクストの発生する現場の純粋な思想、或いは祈りそのものとして、それが一つの人格的なものに投影、仮定された論理総体としての賢治と漱石である。限りなく生身の彼らに寄り添った、そこから抽出された「モノ(モノノケ、のモノね。魂。)」。(漱石はまあもともとペンネームであるんだが。)だから、第一の段階の作者(生身の人間としての作者)、実際の彼らがもし身近に存在したとしたら、やなやつだな、って思うことも多いと思う。もしかして嫌いかもしれない。もちろんものすごい尊敬する先生にはなると思うけど。

これに関して、例えば池澤夏樹は賢治詩「心象スケッチ」を読むというテーマの著作「言葉の流星群」の序文に、次のようにこの「内包された作者」と「生身の作者」との違いへの意識を宣言している。

「だから、ここではテクスト群だけを相手に、伝記的なことにはあまり触れずに読んでゆきたい。(中略)ここでは詩人をケンジさんと呼ばせてもらおう。いわゆる宮澤賢治とは別物の、仮想の人格、ただテクストを束ねるための名と思っていただきたい。」

 

この理論に沿って考えれば、例えば、感動する、泣いちゃうほど大好きな歌はたくさんあるけど、それを作り上げ歌いだすアーティストは、人間としてではなくアーティストとして歌の中にだけ存在しているのであり(内包された創造主)、歌われているその現場(語りの現場)にのみその母胎として仮定され現象する内包された作者、いわば生身の作者のイデアの部分を抽出したかたちでの仮想人格である。

その仮想人格の作者は出自である第一の段階の生身の彼らとは重なりながらも存在する位相をずらした第二の段階のところにある。似て非なるもの。その位相のズレは受け手において截然と区別されるべきものであると私は思っている。

受け手は、その生身の彼らから発される声、彼らを介して混沌の世界から濃しとられた、抽出されたロゴスであるそのピュアな感情、理論、祈りそのものに共振し、その母胎としてのイデアのレヴェルにある魂としての作者に恭順するのだ。ここには位相をずらした、ねじれたらせんのような作者への回帰構造がある。

決してそのフィルターである生身のレヴェルの人間としての彼らに戻って恭順するのではない。すでに位相の異なる形而上の作者へとらせんを描いたかたちで回帰しているのである。

歌い手(作者)が、巫女となって舞い踊る、踊り歌う姿の身体性の演出をも含め、恭順、信仰の対象となったそれら創造者はすべて、何か抽象なるものへ撃ち続けられる祈りの弾丸のかたちそのものとでも言うべき抽象化された位相にある。

 

そしてそれなのにここで偶像崇拝的な混同がなされてしまうとき、その意識の構造はおそらく次のようなものとなっている。

「創造者としての作者を、引き歪め矮小化し、具体的な一人の人間にまるごとかぶせて認識する、すなわちその発された限りなく解放されたピュアな祈りのエネルギーを己の中にいだききれず、わかりやすいというだけの理由で、閉じられた具体としての一人の生身の人間に閉じ込め仮託し、その生身の人物にすべての感動の責任をおっかぶせ引導を渡し神としてあがめる偶像化の姿勢。」

その安易な認識のスタイルは、世界に独裁と狂信の構造を呼び込む。

己自身の頭で己の感じた祈りに満ちたうつくしい世界を受け止め、「受け取ったものの責任」をもってその感動を自ら引き受け考え抜く豊かさ、具体から抽象へと突き抜ける、その位相を自在に行き来する自由な知性への扉を閉ざす。

それを防ぐ為のメソッドが、己のその認識構造をきちんと把握し、他者へと仮託しがちな、その安易な方向へ流れがちな思考の流れを是正する、決然として意志的な認識スタイル、知、なのではないかと思うのだ。

その態度が、何ものに投影しない責任を押し付けない、自分自身によって立つ、己自身の頭で考える生き方による、しなやかで寛容、透明ですっきりわかりやすい世界を現前させる認識の力になるのではないかと、何だかそんなことを考えている。

 

他者へとすべてを投げ渡してしまう人間の衝動は、それを利用したアラヒトガミとか独裁者とか狂信とか悲劇とか、そういう現象に通じてくるような気がするのだ。どうしても。

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さて、作者と、その発したもの。感情、思惟、祈り、信念、理論、哲学といったテクストは、受け手、読者が受け取った時点ではじめて現場性として物語を「現象させ」発生させる装置にすぎない。読者が存在し、語られることによってはじめて存在する世界。これが物語生成の現場、「語りの現場」である。

場所、時代、個人によって同じテクストは同じ原理を含みながら様々な変容を加えられたまったく異なる様相を帯びた読解がなされ、その時その場所だけの唯一の現象となってゆくだろう。同じ譜面から異なる指揮者と演奏者によって毎回毎回異なる感動を呼ぶ演奏がなされるコンサートのように。

このような世界認識の現場、この物語の発生する現場の構造を読者の側はきちんと把握すべきなのではないかと思うのだ。己はただの作者のメッセージの受動態としてだけのものではない。その現場に<関わっている>。

そうだ、内包された作者、生身の人間としての作者とその抽象としての作者は確かに限りなく寄り添っている。一人の人間である。シンプルに見て当たり前のことだ。だが作品を読み取りそこに作者の抽出された概念、メッセージを読み取ったとき、そこには読者を介在させることによってはじめて成り立つものである「読書の現場」が発生し、そこではじめて生きた物語が生まれてくる。

そのときだ。抽象としての作者が発生する。語りの現場、抽象の場。そこに生まれる物語、その意味。すべてはそのとき初めて唯一のものとして生まれる、現象する。その「世界(物語)の始まり」の場所、その現場で重要なのは、読者もまた創造者の一部となっているということだ。<読者もまた創造者である。>

テクストが読み取られる読書の現場に生まれる意味のフィールド、その発生現場においては、作者の魂を読者の魂が受胎し、まったく新しい第三項の世界が生み出されるという構造が成立している。

誰かの切実な祈りが、あふれほとばしる叫びとなってその誰かの手を離れ、テクストとして投げ出される。誰かがそれを受け取る。その魂がその祈りに共振し、新たな命を吹き込まれた世界。それはまったく新しい止揚された位相での祈りとなって、時空を超え、限りなく増幅し伝播し伝承されてゆく。そのような、エナジイの場としての世界、物語。

一人の作者の投げ出したテクストが、無数の受け手によって無数の豊かな世界を現前させる。そのひとつひとつが、すべてかけがえのない唯一無二の個の生きた世界であり、トータルに総合された世界像となる。インドラの網、曼陀羅模様とはそのようなものではないか。

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ハイロウズブルーハーツも大好きだが、その知性と感性と音楽に心がふるえちゃったり泣いちゃったりするんだがムーンライダーズやヤナちゃんなんかもそうなんだが、実際のヒロトとか慶一さんとかはきっとあんまり好きじゃない。激しく踊り歌ってるその魂にホレるのであってその人間にホレるのではない。

そのピュアへの「祈り」に、その精髄の部分に己の心が共振し、狂信するのだ。己の中に育まれる未知のその無限の豊かさに、エネルギイに、閉ざされた時空、閉ざされたアイデンティティの牢獄からの開放の力を秘めたフィールドに。