酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

色っぽさに関する考察の否定に対して

語ることの野暮と禁忌を理由に言説を否定されるということ。
 
論理の不整合によるのではなく、反論でもなく、同じ論理の土俵で語ること自体を拒否したままでの否定は卑怯である、と、とりあえずまずその反発のありかたにはムっとした。思考停止の真理の高みからの問答無用の否定ではにっちもさっちもいかない。反論にならない「いうもんじゃない、やるもんだ。」では言葉のフィールドにいる意味がない。
 
だがそれをわざわざ言うということにはその論者による意味がある。理由がある。これもひとつの論理である。
 
…ということで、頭が冷えて血中アドレナリン濃度が下がってつらつらと考えてみると、確かにおもしろい。
 
いろいろと論点が明確になってくる。
 
言語のフィールドからどこまで不可知のフィールドに近づけるのか、輪郭をなぞれるのか。
 
そんなことは必要ない、感動はただそのものだ、そのまま大切にしておけばいい、という思考停止、真理の場所、それはそれで確かに正統である。だけど、言葉による観念はその領域を侵すのではなくただ大切にその輪郭をなぞろうとするものでもありうる。
 
論理・観念・言葉によって不可知の意味そのものを証明しようとする、その輪郭の周辺を丁寧になぞる意味はそこにある。それは、唯一の、その場のその時だけの、決してなにものにも還元なされえない、語りえない穢されるべきではないかけがえのない「そのもの」「そのかがやき」の躍動を、わびしく閉ざされた言語や観念のくびきにつながれた牢獄へ、「観念に堕」したものにするための行為ではない。断じてない。逆である。そこから絶対に完全に開放されている真理のフィールドが神聖なままにあること、その絶対性そのものを確認するため、証明するための行為なのだ。少なくとも私はそう考えている。
 
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「色気」という語感には、論理の成立の基盤には幅がある、問題はそこにある。そこからときほぐすことが論点を明確にする。さらなる発展を生む。
 
「 色気というのは性衝動に由来しているのではなくて、人間的魅力に由来すると考えた方が素直です。それは異性に特化した意味での「色気」というのはあるけど、それは単に異性の「性的魅力、セクシャルな魅力」だと言い切ってしまえばそれだけの話だ 」
 
だからこの「人間的魅力」と「セクシャルな魅力」という異なるふたつのものとしてとらえられるべきはずの「魅力」をひとつの「色気」ということばで表しているというその不思議さのことを私はこの文章の中で一貫して述べているわけです。「それだけの話」にはそれだけでない奥行がかくれている。
 
ひとつの言葉の中には、一つの概念のなかには、おそらく歴史的なその変遷のうちに、ねじれた論理地平に並立する意味の振幅、そして複合し混濁した領域がうまれている。そしてその混濁には理由がある。
 
エロスとタナトスのエロス、色即是空の色。「人間的魅力」と「セクシャルな魅力」と同じように、世界現象、有そのものを指し示すはずであった言葉が日常においてはセクシャルな意味合いを持たされている、というこの符号の一致の理由を、大いなる男女の性差という差異を「ただの差異」というレヴェルに還元し単一的な「差異への欲動」という原理に適用することによって説明してみたかった。
 
日常におけるシンプルな衝動に直結する性的身体的な魅力と、芸事、芸術性の高みに至った人間的魅力までの「色気」の意味の振幅は、果てしなく遥かな距離感を感じさせるものであるかもしれないが、一つの言葉で言い表しえている以上、切り離すべきではない。その意味の振幅を見極めることは、寧ろ双方の意味を、思考停止に頼る必要なく、そのままに深く芳醇な豊穣の意味として醇化する。双方の、人を惹きつける力の共通項を私は「差異への欲動」という原理で論じてみたかったのだ。
 
芸能としての色気、この、人を惹きつける輝き、その人間としての魅力。これが人を魅了しているという現象を、私はここですなわち生命の輝きとしての差異にひきつけられている現象として考える。
 
輝くもの、観念ではなくまるごとの生命として人間として「ときめいて」(語源通りの意味で、時を、世界を、意味を、力を得て)いるものは、エネルギーであり世界のはじまりであり、有への、現象への、喜びへの、意味への意志、換言すれば虚無を蹴散らして存在を歌い上げる力、駆け上る力、差異への意志そのものである。ひとがその意志の輝きに惹きつけられるその現象を、私は差異への意志の気配としての色っぽさに惹かれるものとして、色気という語感の中に読み取った。
 
 私の言説を、大切なものをちんまりと貧しい形に貶め狭い観念の中に閉じ込めしまいこもうとしたのだと解釈したとき、それを意志的な問答無用の激しさで言下に否定した、その人のその激しさを、私は今尊敬する。尊いものを尊いものとして守ろうとする強さと純粋さを。それはおそらく私のもっていない輝きへの意志のかたちだから。
 
(でも、もいっかいまた問答無用で上から目線否定されたら、きっともいっかいアドレナリン放出するだろうけど。)
 
「大人になったらわかるよ。」
多分それは本当だろう。だが大人になってわかってしまった時すでに子供の時のそのわからなさには戻れない。観念の追っていた可能性のフィールドには戻れない。ビフォーアフター。ビフォーは無知であるかもしれないがアフターはビフォーを凌駕するわけではない。何かを失ったから何かを得たのだ。けっしてどちらかがどちらかを否定するべきものではない。