酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

川上弘美「これでよろしくて?」読了

これでよろしくて?

これでよろしくて?

ギシギシと、胸が痛む。
何だか、泣きそうになった。


涙が出そうなほどに、痛ましく、切なく、かなしい。
その、どうしようもない「瑣末さ」が、深く胸を抉る。

大いなる政治経済、国際問題や地球規模の環境問題や飢えている国々の子供たちや、…その、誰もが否定できない、気宇壮大なる男性的な制度的・社会問題の陰に、ひっそりと軽んじられてゆく、日々の瑣末。ひとつひとつの、個々人の、心。


怒りで発熱してきそうに、瑣末だけど重大であさましく、いやらしい、人間関係の実態を議題として、ユーモラスに語りあってしまうのが、この、奇妙な「これでよろしくて?」同好会の女性たちである。

そのリアリティの可笑しさ。
あまりにも、鋭く、的確に、隠されている人間関係の「地位」関係を、あからさまに押さえてみせる、「老若女女」の「ガールズトーク」。


夫婦、嫁姑、親子、同僚、その人間関係。

おそらく、この小説の大きなテーマのひとつは、「この立場の者は、こうするべきだ。」「こうあるべきだ。」「こう感じるべきだ。」(そうでなければ、この社会で人間扱いされる価値も資格もない「非人」である。)という、個に暗に強要される共通の心のありかた、出来あいの人間像と人間関係の物語への、心の奥底に封印された、ざらりとした違和感だ。


そうして、それは、例えば、地位が下と自覚するべきとされる者、暗黙に、強要される、モラルハラスメント、抑圧、汚い力。それが、「暗黙」であり、「目に見えない力」であることの恐ろしさである。


寧ろ、「己の心の中の、牢獄」に、繋がれる、心理的な弱者。


それを強要するのはシステムであり、吐きそうにいやらしい、罪の意識のない、上の者の無神経なエゴイズムだ。(上司には、部下が感じている、その決定的な「地位による抑圧」が分からない。)(イジメをする側の、その「気軽さ」「罪の意識のなさ」は、いじめられる側の痛みをおもんぱかろうとはしない。)にんげんのこころを、腐らせる、ときには、死に至らしめる、見えない鎖。

常に、生き方、行動すべてを検閲され、落ち度をチェックされ、罪の意識に苦しむのは、弱いもの、下の者。女性、ヨメ。何も考えず、軽やかに天真爛漫に快く「いいひと」を演じつつ、人間を傷つけることができるのは、上の者。上司、男性、夫、小姑、姑、或いは、多数派。


…これは、もう、漱石の「明暗」だ。
決して、お勧めはしたくない、触れたくない部分、そのざらりとした不快さ。

だが、何て、素晴らしいのだろうか、と思うのだ。何もかもを、きちんと抉り出す、その、まっすぐな眼差し。

恐るべし、川上弘美


…何しろ、読みたてホヤホヤで、興奮冷めやらぬ。
いっぱい、言いたいことがあるような気がするが、もう眠い。


ラストの明るさ。
主人公菜月の、最後の、鎖に繋がれたままの自由を、強さを得て、変化を恐れず「今日の現実のひとつひとつの瑣末」を精一杯に生きようとする、その前向きさに、だが今、私はシンクロできない。

許せない、主人公の夫の「光」、そしてその家族の、菜月に対する、無神経と、無意識の格付け。

私は、菜月だ。その中途の、痛ましいリアリティの底に沈んだまんまだ。
(実際に菜月の立場になったら、おそらく、まったく耐えられない。)


…すべての男性原理社会的人間関係のシステムを、その「物語」を、激しく憎む。


 ※※*☆※※**食べ物・物語・言語 ※※*☆※※**


さて基本的に、私は、最近の川上弘美の作品よりも、初期のものが好きだ。

ごく初期の、牧歌的でほのぼのとしたファンタジックな味わいから、おどろおどろしさを含んだ異界まで、意識の底の方、「自我・個」の「枠」をらくらくと越えてゆくことのできる、夢の領域の、そのスパン。

だが、中期、というか、作家として作品数を重ねていくうちに、その特異な個性を持つ幻想性が、次第に影を薄くし、スタンダードな恋愛小説のような味わいへとシフトしていった印象がある。


そうして、「真鶴」以降。
最近の作品には、作風に、また別の、新しい模索と試みを感じる。


今回、それはどうも、川上作品に登場する食べ物への執着が、今まで特徴的であった居酒屋メニューではなく、洋食屋のメニューであったことと、無縁ではないような気がするんである。

女たちは、盛んに語りながら、旺盛にビーフシチューだのポークソテーだの、オムライスだのを平らげてゆく。

八戸みずほの「肉じゃが論議」のヒートアップぶりは、この、食べ物と人間心理の関係への川上弘美の思い入れを感じさせるシーンではないか。

「ほんとうは焼肉食い放題、とか、回転寿司の大トロタイムサービス、とか、油たっぷりのファーストフードものとかを、体が求めずにはいられないくせに、『温かな家庭のしあわせ』っぽい、ある種禁欲的な『肉じゃが』を建前では望んでみせるのよ、きっと」


今までの川上作品に特徴的だった「居酒屋メニュー」が、ここに至って、突然、洋食、それも極めて日本的洋食「現代のお袋の味」的なものの列挙に取って代わられているということ。

古来日本の薄暗い和室、(どこか、妖怪変化の生息する世界に近いところだ。)での伝統イメージを象徴する居酒屋メニューから、テレビコマーシャル、陰りのない団地マンション住まいの核家族、合理化された商業的的なぺっかりした明るさを感じさせる現代日本の現実社会を象徴する洋食メニューへ、の意図的な移行。それはあたかも、著者が、初期には寧ろ忌避していたそれらを、寧ろ、食いつぶそうとするしたたかさの決意かのように。(イヤそれほどに、執拗に拘りをもって洋食メニュー、登場するんですわ。)(もちろんワシはといえば、断然絶対の、居酒屋メニュー派です。)

すなわち、今までの(初期作品)、古代宗教的アニミズム色の濃い、民話的、民俗的な、原型質的な物語、夢を媒介にした、異界と地続きに溶け合う現実の危うさ(「現実」「個性」「自我」という枠の頼りなさ、異界の侵犯によるその枠の破壊は、逆説的に、その外側の世界(それは、「未生」「死後」に近い側かもしれない。)への解放をも意味する。)から、違うところへの作品世界のステージの広がりへの、模索、という可能性だ。

「違うところへ」。
それは、あたかも、ただひたすらの現実社会・或いは自我という牢獄、その物語の枠からの解放を願っていた、その地平から逃れ、高く舞い上がる知性という翼としての物語から、あえてその内部へと「舞い戻る翼の力」への展開への意志であるかのようで。

世界の、そして自分の心の中に組み込まれた牢獄のシステムを見据え、そこからはみだす自分の中のものを見据え、境界を正しく見極め、その上で、決して何からも逃げることなく、しかし、つぶされることもなく、主体として、日常をどのように選びとり、立場をどのように選び取り、人間関係の中に、その不確かな自分をしっかりと位置づけて生きてゆくか、ということ。

本能的な「恋愛」のみではなく、その次へ。
社会システムの中での結婚という意義、瑣末な(とされる)日常での摩擦との折り合いの中に、如何にして、何にも目をふさがずに、けれどしたたかに強く、前を向いて生きてゆけるか。(主人公は、ラストに、不妊治療と向き合い、当初は特に強くはのぞんでいなかった子供を、意図的に、望む。何かの重みを負おうとする。)


…女性たちによって語られる物語内容と、その語られている現場の落差への意識への高さ、そのリアリティも、非常に好きだ。(レストランの濃やかな描写と、論議の内容の落差、「物語内容と物語られる現場」食べる様子と語る内容が等分に描写されながら、意識が水準の違う二層に引き裂かれて分散し、主人公は、ぼうっとなってしまう。舌平目を食べようかどうしようか、眺めて迷いながら、60代の女性の話「思春期の息子にばばあと呼ばれるときの、悪くない気持ちと、男の人に、おい、オマエ、よばわりされるときの気持ちの類似」について考えているうちに、目の前で舌平目を食べられてしまったりするときの気持ちが混じる、その現場。)

その「語られ得るもの、人生という物語」という「物語の多重構造の当然」の、…「言語」という、不思議さ。

この、眩暈がしそうに、世界を豊穣にする、(困難にする)感覚。語ること、書くこと、物語にすること。


…そうして、周囲の風景のような、店の中で食事をする他のお客、人々それぞれの抱える、「物語内容」人生の重みや内容にまで。思いは、ぼうと広がってゆくことになる。


何しろ、でも、川上作品、そのすべてが、とにかくとりあえず、強烈に面白い。
彼女こそ、正統なる「フェミニン」の権化であるような気がする。ずぶずぶと異界に沈み、やすやすと個を超え、瑣末に深遠を見る。


いっぱいいっぱい、書いてほしいなあ。
(私としては、初期のファンタジックにして異様な、「子供パワー」から「オトナの現実・恋愛→社会」に行ったんだとしたら、次はまた「子供に戻るご隠居」的に展開して、またあの、初期作品の場所に、くるりと戻っていって欲しい。)


…ということで、秋はお芋である。

オーブンでこんがり焼いて、ほくほくほぐして、シナモンとヨーグルトかけたオヤツなんかも、なかなかいい。

お弁当にするなら、やはりきんぴらであろう。