酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

地元デート

ちょっと久しぶりの友人としっとりおデート。

わざわざ横浜の方から来てくれるっていうから地元のいいとこ見せなくちゃ、とひそかに張り切る。

この季節、西国分寺駅周辺で見られるとこといえば、まあにしこくんの脚線美と新緑麗しい武蔵国分寺公園くらいである。そして、書物好きの友人なのだ、これはもう是非都立多摩図書館に連れて行ってあげたい。

ということで、あいにくの荒れ模様、不穏なお天気だったけど、メーデーデート。

図書館は思ってた以上に喜んでくれて嬉しかった。「宝の山やあ~っ!」とあちこちにひっかかってなかなか書棚から離れず。ちいとくたびれて膝痛くなってきた自分、いささか心は痛んだがそこはかとなく幾度かせかして書棚からひきはがし、近くの珈琲屋に連れ出す。

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居心地のいいカフェは地元の誇り。

クルミドコーヒーはどこもかしこも胡桃でいっぱい。温もりが嬉しい、実にいわゆる隠れ場な雰囲気のカフェである。そして「おひとつどうぞ」とテーブルに置かれた信州山胡桃。殻割りながら味わって食べる国産胡桃はこっくり味が濃くてやっぱりおいしい。(胡桃をつまみながらの珈琲ってなんだかちょっとオトナな気がする。深夜書斎でひとりウヰスキーなめながら胡桃を割るお父さんを覗き見て大人の一人の時間の深み、ひとときの永遠、その夜の時間の豊かさや秘密に匂いを感じ取る子供っていう物語のワンシーンを思い出す。あれは誰のどんな作品だったかなあ…。)

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友人注文のてんこ盛りサンド。来た瞬間「ワー可愛い!」と叫んでしまう可愛さであった。イヤこの写真では伝わらないようなインパクトの可愛さでしたな。

(ちっちゃい。でも可愛い。可愛い。でもちょっとちっちゃい。…そんな忸怩たる思いを抱かせる一品。)

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ふわふわチーズムースはちょっとクレメダンジュ風。胡桃のカケラと蜂蜜檸檬をかけていただくスタイル。

 

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外は嵐、中は暖かなシェルター安全地帯。

ふにゃふにゃでもそもその私には、読書家で創作家で物知りな彼女はつい甘えてしまううんと頼もしい友人なんである。

人のことばかりで自分のことは自分の中に圧し潰して、人にぶちまけられない長女気質のひとである。とても敏くて賢いひとなので、奥歯にもののはさまったようなものいいをするワシの気持ちのひそやかな部分を一生懸命汲み取って励ましてくれようとする。

そういうのって、ときにえらく沁みてしまうもんなんである。

 

だから、彼女の抱えてる重たさを垣間見たときは、少しでもそれを軽くしてあげられるようなことが私にもできればいいんだけど、って思うんだな。それはかなりな衝動として。いやほんとのところ。

人間、優しくされると優しくなれるもんだと思うんだな、実際。
優しさとは一体何ぞという問題はさておいて。

 

ガラス窓に吹きすさぶ嵐の新緑はちいと暴力的なエネルギーに満ちた季節の風景。「なんかおもての嵐、わくわくするね。」と言ってみたら激しく同意された。

シェルターな時間はいいもんだ。

「シン・ゴジラ」と「小さな巨人」

普段、映画もドラマも熱心に観る方ではない。TVもほとんど観ない。
活字派である。隠遁している。
 
ということで、去年これは絶対と誘われて、久しぶりに劇場で観た映画であったせいか、単に傑作だったせいか、すっかり衝撃を受けて知恵熱的にシン・ゴジラにイカれたクチである。
 
ということで、新しく始まった日曜夜のドラマ「小さな巨人」。
シン・ゴジラの主役矢口蘭堂役の長谷川博己と人気だった「尾頭さん」市川実日子だっていうから、と、うかうかのせられて。
 
…というかまあ父が観るというのでついでに。
実家のリビングでぶつぶつ言いながら一緒に鑑賞した。第一回。
 
はあ、なるほど。
 
…というのが感想である。

イヤ実によくできていると思ったのです。ほんとに。
それなのに、おもしろくない。

いやおもしろいって言えばおもしろいし大層評判もいいようで楽しめる人は楽しめるものなんであろうと思うんだけど。
 
…という感じのエンタテイメント。

そうか、ドラマっていうのはこういうものなんだよな。人間ドラマ。社会ドラマ。善良なる人々が善良に楽しむエンタテイメント。
 
正直言って、オレあんまり。
 
ハアよく出来とりますなあ、ほんに才能のある器用有能な人々がケチのつけようのないきれいに出来上がった豪華で優等生な作品拵えとるんですなあ、っていう遠いまともな世の中を寂しく傍観するカタワものな気持ち。
 
あきらかにシン・ゴジラを意識した雰囲気作り。

だけど、あの映画のときの大興奮はまったくない。
独断と偏見かもしれないし、連続ドラマと映画を比べるのは畑違いっていうことももちろんあるし、そもそも狙いが違うとかいうのももちろんあるんだろうけど。
 
同じように現実をカリカチュアライズしたファンタジックな虚構エンタテイメントだとしても、いやそれだからこそ、奇妙に似ているからこそ、後世に残る作品と消費される時代一過性の作品との違いを目の当たりにしたような気がして、まあそういう意味で興味深い。
 
ネットでの評判みてみたら、とにかく好評で、よく知らんのだが大ヒットドラマ半沢直樹シンゴジラ足して二で割ったようなものらしい。
 
とりあえず、警視庁の中のエリートと現場たたき上げの二項対立で、巨悪を正義が倒す、っていうようなものらしい。

白い巨塔とか巨悪に立ち向かう正義の士。舞台は警察だけど、企業ドラマみたいなもんである。
 
企業ドラマに興味がない。で、謎解き犯罪ドラマにも興味がない。
だからあんまり、なんだよな。当たり前か。
 
だけどさ、企業ドラマっていうのは人間ドラマなんだよな。義理人情と企業利益からまって、利己的な金と名誉とるか社会正義や人情で義を通し弱い者の味方になる道をとるか、って二者択一的な。意匠は変われど、基本、それは任侠ものとまったく同じ精神レヴェルのためのエンタテイメントである。定義された物語ができあがっててその組み合わせのダイナミクスで物語ができあがる。その外側には出ない。だからふかぶかと精神内部に切り込んでゆくような何か現実側に切り込んでくるような知的な面白さっていうか文学性は出てこない。全部どっかで見たような設定とキャラクター。このお約束が楽しいっていうのはあるけど。役者の味で。ドラマ通の人だったら先見え見えだったり謎あてっこな知的ゲーム風な感じを楽しむんだろうな、推理小説みたいに。
 
 
で、ゴジラの方は規定の物語の枠をぶち壊すような文学性があるのかっていうと、あるんだな、これが。

深刻ぶった社会の歪みを拡大強調して正義の怒りを鼓舞するようなエセ現実ファンタジーではなく、逆に荒唐無稽にファンタジックな設定をしゃあしゃあと打ち出した虚構怪獣映画であるからこそ、カリカチュアとしての可笑しみとぶっとびの卓越が可能になっている。
 
そうだ、「小さな巨人」は実はカリカチュアなんかではなく、現実の劇画化であり、それは寧ろシステムを美化するタイプの物語である。カッコイイのだ。怪物役としてのティピカルな悪役ですら一種ピカレスク浪漫すら思いおこさせる「オトナ社会の酸いも甘いもかみ分けた現実のキビしさを踏まえた苦み」とかなんとかな美学をもっている。さまざまの物語の組み合わせ、感情の葛藤と犯罪ドラマの謎解きのからまった複合物語を楽しむためのドラマ。
 
ゴジラの方は、そういう「人間ドラマ」なんかじゃない。ここに悪役や愛や悲しみ悩み苦しみ憎しみ、どろどろな人情ドラマは存在しない。ただ単に突然降りかかってくる理不尽な巨大な災厄にあらゆる手を尽くして立ち向かう「力」の発動、そのシンプルで小気味よい対決がある。ダイナミクス。ケがれた日常の破壊、ハレとしての破壊的祝祭、終末思想、日常の破壊なカタストロフへの陶酔、そしてそこからのひたすら前向きな再生への意志。すべての宗教が唄うその死と再生のための破壊的非日常祝祭空間がシンゴジラのアクションシーンだ。(しかしゴジラ背中のビームのシーン、あのうっとりするような圧倒的な巨きさの哀しみ、あのひたすらの哀しみはなんなんだろう。)
 
前半の政府の中の非効率的で理不尽なシステムへの皮肉は明らかだが、ここでそれは怒りを呼び起こすよりも笑いを呼び起こす要素となっている。滑稽なのだ。憎めない。憎むべき人間がひとりも出てこない。ここには圧倒的な世界の理不尽というすべての小さな社会的理不尽を圧し潰す自然のアタリマエがあるだけだ。
 
それは、ウエットであるかドライであるか、という違いかもしれない。
一方は、淡々と流れてもいい日常生活や社会生活における人生を劇的で深刻な文字通りドラマティックな味付けをしようとするウエッティなドラマ。他方は、ひたすら降りかかる災難にわたわたと対応する人間たち、その個々の人生のたくさんのドラマを圧殺したところにある活劇アクション、その乾いたカリカチュアの味わいをもつ叙事詩的な映画。

小さな巨人の人間ドラマ、犯罪ドラマの伏線と謎には答えがあり、閉じられている。が、シンゴジラのそれに答えはない。投げかけられた思わせぶりな伏線、暗示はすべてが空白という真理であり、その続きが読者に開かれ投げ渡されてしまった「思考」のための空白という爆弾である。…それは「記号」、野生の思考を促すテクストなのだ。
 
ということで、ゴジラは読み込むべきテクストとしてあり、巨人はテクストとしてはとらえられないブツである。

ゴジラは常に解釈され続ける開かれたブリコラージュであり、巨人は閉じられ完成された物語構造を持つ堅牢な建築物であるからだ。(ブリコラージュ、野生の思考に関してはこちらの記事参照。
 
開かれたテクストのその記号は、読者に解釈を促し続ける。人はこのように、本来無意味な世界に意味を見出し続けることで生きているんじゃないかな、と思うんだな。

…なあんてしのごのいって、来週一応録画予約したワレである。
ころりとこりゃ面白いやとか言い出すかも。まだ第一回しかみてないもんね、小さな巨人

桜の樹の下には

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桜の季節に思い出すことって言ったら、やっぱり桜の木の下の屍体のこと。で、これに関して、学生時代ゼミの飲み会でみんなで議論したこと。
 
イメージとして、どんな屍体が埋まっているか?
 
っていうテーマ。
シンプルに考えれば、どっちかっていうとおどろおどろしい怪奇物語風のイメージを思うし、その場のメンバー大体が「その物語の中の犠牲者としての乙女、若い美女。」と、桜の美しさの代償としての乙女の痛ましさと怨恨の美学のイメージをさまざまに語った。
 
が、そこで我らが先生はここぞとばかりのドヤ顔を見せ、「屍体老婆説」をぶち上げたんである。
 
曰く、老いさらばえ生を終えたひとりの老婆の人生まるごとが、その一生を凝らせた本質が、恐ろしいほど美しい桜の花のその爛漫の美しさとして昇華した、っていうような。爛漫の桜の妖艶な霊気漂う美しさを、その純粋なイデアの形で。
 
物語性というよりは純粋に豊かな絵画的イメージを呼び起こすその美しいクオリアを孕んだ御説は世界の見え方が変わるような革命的感動ですらあった。
 
その場の全員が一瞬にして「屍体老婆説派」に転向したのは言うまでもない。
 

「ぼくの死体をよろしくたのむ」川上弘美

さまざまなテイスト、さまざまな趣向を凝らした18篇からなるオムニバス。
川上弘美のこういう面が好き、これはあんまり、とか、同じ川上弘美ファンであっても、どの作品を好むか意見が別れるところかも。)(そしてこのどれもが、いつか作者の中で膨らんで生まれてくる大長編のタマゴ、その書き出しであってもいいような気がする。)

どれも川上弘美らしい、豊かな情趣、そして透き通るようにピュアでまっすぐなエロティシズムを湛えた不可思議な世界を醸し出す文体だけど、極めて技巧的、また冒険的なかたちをもった作品も見られるように思う。共通するのは、どこかがズレた奇妙なひとたちの、ズレた感覚の奇妙さをそのまま日常と地続きのものとしてまっすぐに受け入れる視線。不条理をゆがめることなく投げ出したそのままの世界、それに対する違和感をもあわせすべての.まるごとを、なんというか、ほとんど馬鹿正直な態度でそのような世界を受け入れる。

怒りや正義や、また恋愛感情にしても、激情的なるもの、激しいものはここにはない。ただ、遭遇する奇天烈な状況、ただ自然に湧いてくる己の感情をすべてそのままぼんやりと受け入れ、見つめる。変だなあ、と思いながら世界のことも自分のこともただその不思議をそのままに受け入れる。それは、現実世界で当たり前だとされていることの、その奇妙さ滑稽さをもまっすぐに映し出すことになる。それ自身の隠蔽された不条理と残酷さを。

そしてそのズレからにじみ出る、独特の諧謔

ただそのあわあわとした柔らかさを味わう。生きることをそんな風に味わう。

読後残るのは、世界の「どうしようもなさ」に対する、色調の淡い、しかしふかぶかと沁みいる致命的な感情。これはボディブローのように効いてくる、胸の芯のどこかが細かく細かく震えながらしゃくりをあげているようなこの感情。それは、おそらくただなすすべもなくさまざまを失ってゆくことの受諾とそれによる「切なさ」である。

 

 *** ***


「生まれつきの人」

「ルル秋桜」で、語り手の変わりものの女の子「ひとみ」(目をつぶった人々の写真の切り抜きを「死体写真コレクション」なるものとして宝物にしている。)と絵画教室の教師(杏子ちゃん)とのこんな会話の記述がある。

「でも、どうしてみのりはあたしに意地悪するんだろう」(みのり→ひとみの姉)
「そういう生まれつきの人なのよ」

 

杏子ちゃんはまたこんな風にゲイを説明し、ひとみはこう思う。

 

「自分と同じ性別の人しか好きになれない生まれつきの人のことをいうのよ」
あたしはさっきより、もっと感心した。生まれつきの人って、ほんとうにいい言葉だ。それならあたしは生まれつき死体の好きな人なのだ。

 

大切な死体切り抜き写真コレクションを姉に盗まれ隠され嘘をつかれ、それを姉の机から発見して責めたら、逆切れされたひとみ。マトモな母は日頃から娘のそのコレクションを気味悪く思っていたために姉の味方になり、逆に被害者のひとみを叱る。いじめる側に正義あり。完全なる理不尽である。

 

「ねえ、正義は勝つと思う?」
杏子ちゃんが聞いた。
「思わない」
「じゃあ、愛は勝つと思う?」
「思わない」
「死体、いいのがあったら、あたしも切り抜いてみるね」
杏子ちゃんのその言葉に、あたしはほんの少しだけ、なぐさめられる。でも、杏子ちゃんの切り抜いた死体が気に入るかどうかは、わからない。
「もしだめな死体だったら、断っても、いい?」
あたしは聞いた。いいよ、と杏子ちゃんは答えた。それで、あたしはもう少しだけ、なぐさめられた。

 

ただまっすぐなそのありのままの感情と思考が、どこかできちんと許され認められるものである、という感覚は、すなわち己の存在が無条件に愛され許され認められるという、存在のセイフティ・ネットとしての感覚である。古来、人類はそれを社会帰属意識や宗教によって補おうとしてきた。

…ほんとうは、そのような場所があれば人はきっと踏み外さず己や他人を害することなくなんとか生きていけるのだ。親兄弟に否定されたひとみのまっすぐな「生まれつき」、自分の存在そのものを「杏子ちゃん」という大人に認められたことに対するこの「少しだけのなぐさめ」の、ゆるく淡いけれど根源的なもののことを思う。川上弘美の真骨頂はここにある。ほんのりしたやさしさとそのひんやりとした切なさ。どこかダイバイーシティの思想の原点のようなものを思い起こさせる。…何はともあれ矯正しない、赦しと他者への尊重の感覚を、「テゲテゲの緩さ」としてどこかでもっていないと、その社会は必ず終焉を迎え破局を迎え、戦争に至ることになる、ような気がする。

 

異界やSF的な状況設定ではなくても、登場人物たちはその異質さでもって既にこの現実世界からはズレている。あてはまらない「法」に則って生きている。まっすぐなのだ。

 

…ひとつひとつの作品に、語りたい思いはあるが今の私には力が足りない。
(どうも村上春樹の「女のいない男たち」のモチーフと重なるところが大きいように思うのだ。この「生まれつき」のテーマと、春樹のいう「病気」。女性の裏切りをそのひととなりとは関係のない独立器官としてその存在を認める「独立器官」。女性の「やつめうなぎ的思考」。(この作品に関してはここでの投稿で言及しています。「シェヘラザード」)彼はそれを技巧や演技でカヴァーしようとする人々の悲劇をも描く。)(もうひとつは、「喪失」への思いのこと。)

とりあえずひとつだけメモ。
今の私にとって一番胸にぐっときたのは、最後の「廊下」である、ように思っている。人生における最大の愛と失恋の大きなドラマ、ゆっくりと一生をかけその喪失を証明し、(喪失というか、それはある意味不思議な成就でもあるんだけど)(もう一人の「自分」という謎の設定)感覚。そしてさらに、その失われた「己の全人生を通して最愛だったはずもの」が、その観念的な純粋さのことが、実は今の日々、年月と日常の中で既に思い出せなくなっている己自身を「発見」し、それを泣く。

川上弘美らしさはここである。泣きながらただ今の夫との日常現実に戻ってゆく、その記述の〆がたまらない。(「土曜日は映画を見に」「儀式」なんかも、なんというか凄まじいものがあると思うんだけど、それはもう、もちろん。)

スプーンと貞操

愛用のスプーンがある。

特に高級品でも思い入れのある品というわけでもない。
確か、マレーシア航空に乗ったときに出来心でお土産にしてしまった機内食用のステンレスの大量生産スプーンである。このスプーンを借りて、機内に持ち込んだおやつを食べたりしててなんだか気に入ってしまったのだ。

(茹で栗なんか持ち込んでむにむにと食べながら奇妙にこの世離れした光に輝く美しい雲を見ていた。甘栗ではなく茹で栗の場合スプーンが必要なんである。)(ちなみに甘栗の場合はたとえ「くりわり君」を使用しても指先が黒くなるのは避けられない。)(オレは昔から栗が非常に好きであった。ケーキのチョイスはモンブラン。)(万年筆の選択はその限りではない。)(父は愛用していたが。)(ゾーリンゲンのペーパーナイフとか登山ナイフとか大事にしてた。なんかオレのパパってひょっとして昭和のミーハーブランドボーイだったんかしらん。)

そいで、なんとなく毎日使ってたら使い心地がよくて馴染んでしまった。マレーシアスプーン。形と大きさの相性がよかったのだろう。ほかのスプーンを使うとどうも居心地が悪い。食べ物の味が変わってしまう。うちにいるような気がしない。枕が変わると眠れないとかそういう感じで、落ち着かない。

持論として、箸だのスプーンだの茶わんだのは、基本的に専用であるべきだ。他人のものを使いたくないし、自分のものを他人に使われたくない。(ここで私が賢治の「永訣の朝」において記述された一節、賢治と妹がそれぞれ愛用した茶わんの藍の模様の描写を想起したのは偶然ではない。日本ではその人が着るもの使うものには古来魂が付着することになっているのだ。)


…と言ったら、「心が狭いなあ。」と言われた。

そういう問題じゃないだろう。
衛生上、という気もせんでもないがそういうことでもない。

何だろう。

思うに、愛である。
大体だな、己の愛する妻を他人と共有できるか?他人が妻を我が物顔に使役したり犯したりすることを許せるか?

ということを考えたりしてて思ったんだけど。
自分、スプーンは嫌だけど恋人ならまだ人と共有できる、というようなことを。というか独占したいけどそれが無理というならば許容できる。全員仲良くそういう関係であることを承知の上で納得しそれぞれを尊重できるならそれでいい。その人との時間を大切にすることになんの変わりはない。そりゃとりあえず全然嬉しくないけど、それはただ不安だからということに過ぎない。

だけどスプーンを使われるのはイヤなのだ。

モノを愛することは自分に所属するものを愛することで自分の領域をまもり愛する、自分の延長、自分の世界と時間を愛することである。もしかして、人を独占し所有し隷属させ己の延長として愛したいという欲望の代替であるかもしれない。支配するという方向性、己だけを愛する者という保証を得たい、それによって安心したいという子供っぽい己のアイデンティティとテリトリイ、安全領域のまもりかた。

モノを愛するように己だけの救済の対象を求める。それは決して己を脅かす他の何かによって穢されてはならない。

何だろうな、こういうの。


 *** *** ***

 

そのために独占し支配する、エゴイスティックに対象の女性を愛するというテーマでは、例えば太宰の「人間失格」のエピソードのひとつのことを思い出す。

(実はちゃんと読んでいないんだが、TVの討論番組見て、あらすじだけ知っていて非常に気にかかったエピソードがあったのだ。ちゃんと読まねばならんのだが。)(そういえば自分、小学生の頃は、読みたくない課題図書はろくに読まずに当たり障りのない優等生な読書感想文を書くという犯罪的テクニックに長けていた。)(読みたくないときは仕方ないのだ小学生。)

ちゃんとテクストを読めば、ここでの主人公の感情、思考スタイルやテーマは全く違うところにあるんだけど、まあ一般的なシチュエーションとしての、「例えば」ね。

穢れた己を救ってくれる無邪気さと明るさ、清らかさを持った娘との、ひとときの幸せな結婚生活を得た主人公。
それを壊したのは、その妻を襲い強姦した暴漢、そして主人公がその現場を目撃してしまった事件による。

二匹の獣のようである、と主人公は罪もない被害者の妻を救うこともなくその現場をただ卑しいものとして傍観する。
「穢された妻」という感覚。

そして「穢された」というありもしない己の罪の意識に傷つき主人公にとっての聖性を失う妻。
何の罪もなく、暴力の被害者は社会的にセカンドレイプされるものとなる。

これ、スプーンで考えるとどうかなあということなんである。

スプーンに罪はない。
だが生理的嫌悪感を催すほどに大嫌いな人間が勝手に使ってしまったその現場を目撃したとする。

イヤである。

もう使いたくない。ガシガシ洗って消毒してもなんかイヤである。目撃してしまった風景はその存在にこびりついて、スプーンを使おうとするたびにいちいちよみがえってくる。思い出したくもない光景が。(あるいは薬液ではなく長い間日光消毒して、呪術的な意味を添加した禊というプロセスを経たら大丈夫かもしれない。「読み換え」「浄化」である。)


だがスプーンは泣く。彼女に罪はない。暴力的にただ穢されてしまったのだ。可哀想なスプーン。

だがイヤである。

…この辺だなあ。

 

癇癪を起こしてポイと捨ててしまうかもしれない。

二人して嘆き、スプーンが他人に穢されないようしっかりと注意し守るべきだった己がつい目を離してしまった落ち度を悔い謝り、二度とないことを誓う。キミに罪はない、穢れなどない。一層大切にする。
と、愛は深まる。こともあるかもしれない。

…が、いくらそうやって理性が教えても、以前と同じように愛することはできないかもしれない。
(できるかもしれない。)

この辺だなあ。

ウン。きっと。世間でのこういう事件にまつわるさまざまってさ。


 *** *** ***

 

で。

 

…人にはそれぞれの逆鱗というものがあるものだ。
ということで、私の場合、怒りに目がくらみ全身の血液が沸騰し闇夜に理性がぶっ飛び脳天ぶち抜け世界を滅ぼしたくなる瞬間というのは、

1.中近東のISとか、ムラ社会とかで、女性がものすごい理不尽な拷問を受けて人間扱いされず汚辱と苦悶の果てに殺されてる現実を認めねばならないとき。

2.自分のスプーンが勝手に触られたとき。


ではないかと思う。ウン。

和スイーツ

最近私の頭は甘いもののことばかり考えている。


各種クリームコテコテのパフェ(プリン入りなどであるとより一層望ましい。)(以前依怙地になって「パッフェ」と表記する店があって何となくよろしいこだわりであると思っていた。)やケーキ、さくさくナポレオンパイ(クラシックに苺とカスタードがよかろう)、とろりとチョコレートのかかったクリームエクレア、ふわっとさくっとしゅっと溶けるような卵色、しあわせのスフレパンケーキ、ぽってりやわらかい豆大福(つぶあん)、苺やチョコレートやチーズや栗やなんかのものすごくおいしそうないやものすごくおいしい夢のようなお菓子たち。

頭がいっぱいでほかのことを考える隙間がない。
どうかしている。

心身がどこかしら変調をきたしているのかもしれない。

 

…まあもともとパン屋や菓子屋は好きなんである。
店の前を通りがかるとその幸せの香り、その美麗なる飾り窓の前を無関心に素通りすることなど私にはできない。

で、いつものようにうっとりと(横目で)眺めて歩きすぎてから、ふと思った。
なんだこの「和スイーツ」って用語は。

和菓子と言えばよいではないか。

が、昨今の百花繚乱菓子業界、あらゆるタイプの創作菓子の咲き乱れるこの業界においては、和と洋を折衷した和素材洋菓子、洋素材和菓子が脚光を浴び、著しく発達した。そのため和と洋の境界線が曖昧となり、和素材を使用した洋菓子、和のイメージを持つ菓子をすべて和スイーツという一語で便利にくくる必要性が生まれた、といえばまあそういうことか、と頷ける。

またこれは古臭く地味で堅苦しいイメージの伝統和菓子に軽やかで華やかな流行やお洒落さ、モードを取り入れるための経済的戦略のための語でもある。

…市民権を得て久しい言葉である。スイーツ。
で、これは果たして日本語の「甘味」とどう重なりどう異なる言葉なのか。

語義通り受け取れば双方甘いもの、甘い菓子ということできちんと重なるはずの語である。


が、文化的背景から考えると微妙に違う気がする。

大福や団子(甘い小豆餡)は甘味と呼ばない、ということはないが、大体が茶屋で扱うべき和菓子であり、煎餅や甘辛団子等と共に「お茶請け」に分類される。菓子ではあるが普通一般に甘味とは呼ばれない。甘味処と呼ばれる専門店が扱うのは主としてあんみつ、みつまめ、ぜんざい、汁粉等の汁ものである。

そしてぜんざいやあんみつの事を普通あまり和菓子やお茶請けとは呼ばない、やはり甘味である。

これらすべてを和スイーツは一括する。白玉小豆抹茶ミルククリームあんみつも抹茶小豆ロールも栗羊羹も栗饅頭も(オレは栗が好きである。)卵と味醂、蜂蜜の滋味馥郁たる福砂屋のかすていら(父の好物である。)も等しく和スイーツなのだ。そしてそこで初めて華やかな一流パティシエの創作洋菓子と同じフィールドに立つ資格を得る。和菓子職人がパティシエに変貌する瞬間である。

またここで流行や創作、新しさや個性を競うフィールドにある単なる「和スイーツ」と「伝統和スイーツ」という峻別が生まれる。

和菓子職人かアートなパティエシエか。マイスターかアーティストか。或いはその双方の真髄とは果たしてなんなのか。伝統芸能における一見個性を圧殺したところからにじみ輝き出る個性と伝統の関係、創作という要素。アートという言葉はそこにどう関連してくるのか。

 

…とかなんとかいう問題意識はさておいて。

 

乙女の牙城とされ、スイーツ(笑)とその気取ったブランド虚栄を孕んだ商業主義に踊らされる愚かで浅薄な少女趣味を揶揄され蔑視され、スイーツ男子なるつまらない言葉が派生し、…求道としてのスイーツは商業主義に穢され貶められた。コンビニスイーツは高級菓子を模倣しその権威を借り、職人たちは大企業の資本に魂を売る。

しかしその結果としての大衆に手の届く甘い夢が実現し、街には麗しいスイーツが咲き乱れているのだ。甘いファンタジー。(昨今流通しているファンタジーというこの語にも個人的には忸怩たる思いがある。これはまた後日。)

 

…だからさ、何が言いたいんだ自分。(わからなくなった。)

ええと、そうだ、つまり言いたかったことはだな、死ぬ前に一度、こないだKITTEで行列してた千疋屋の限定苺のスペシャル苺パフェと資生堂パーラー無花果パフェと吉祥寺アテスウェイモンブランとHERBSの苺とチョコレートのケーキ(苺のチーズケーキでもいい)をだな…。

とかそういうことを思っていられれば、とりあえず今日を生きていける、ような気がするんである、ってことなんだよ、ウン。

酒と言葉

私にとってそれは、街の雑踏の無名性の中に解き放たれたとき、その圧倒的な幸福感の中に生まれるものだ。

出口を求めて魂から噴出して渦巻き泡立つ純粋な喜び、快楽、言葉の奔流。

 

そして私がそのわずかな一片を細々と紡ぎ出すことができるのは、アルコホルによってここから解放されるほんのひとときだけ、かもしれない。

 

見知らぬ懐かしい街の中を歩きながらずっと銀河鉄道の夜のことを考えていた。