読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「女のいない男たち」村上春樹

「女のいない男たち」というコンセプトアルバムのようなかたちで次の6編が収められている。(前書きでも作者本人が述べているように、それは或いは寧ろ、「女を失う男たち」というイメージである。)


ここで失われる「女」とは、「男」にとって何を意味しているのだろうか。

6編の短編を読み進めるうちに、共通して根底に流れるこの本全体の意志、テーマ、コンセプトが次第にくっきりと浮かび上がってくる。じんわりとした各篇の感動の、相互共振複合作用による深まりとともに。

浮かび上がってくると断然面白くなってくる。コンセプトアルバムの醍醐味だ。


 ●ドライブ・マイ・カー

 俳優である家福が「演技をする」というモチーフを語る。
 あるいはそれは人生においての演技というテーマに繋がってゆく。

 家福は妻を病で亡くしている。愛しあい理解し合う女性と結ばれ、幸福な結婚生活が続くはずだった。

が、家福の妻は陰で浮気を繰り返しており、家福は気付かない振りをしていたが実はその事実を知っていた。妻が病に倒れ死に至るまでの何十年も表面上理想の夫婦を演じ続けていたわけである。

愛する妻を失った家福はしかし、その後も妻の理不尽な浮気の記憶に苦しみ続け、耐えきれずその浮気相手の男とコンタクトをとる。そして浮気に気付かない振りをしたまま彼と友人となり、様々に語り合う。

これは、その語り合った体験を語る物語だ。


 語られる対象、質問者は、家福の運転手として雇われた渡利みさき。生後間もなく亡くなった家福の娘が生きていれば同じ年になる24歳の女性である。

父に捨てられ、母に八つ当たりされその不器量さを罵られて育った不遇な娘だ。人間関係の中にいるよりも車を運転するという確かな技術の論理の世界の中にリラックスしていられるタイプの。
 

家福の妻の浮気、みさきの両親の仕打ち、その理由のなさ。人生の理不尽さの周囲を物語は巡る。


すべてを理解したいと切望している愛する相手を理解できない。彼女の理不尽な浮気の理由が家福には理解できない。(他者としてその「わからなさ」を知りたいのなら、それを己自身のわからなさとして寧ろ己の深奥の方から把握してゆくべきではないか?と家福の妻の浮気相手は語る。)

家福は俳優として仕事で演じ、また実生活では家庭内で演じてきた。(浮気に気付かないままの仲のよい夫婦の演技)

仕事では演じた後、自分に戻る。だが実生活で演じているとき、既に戻るところは前のところとは違うのではないか、戻る真実の自分とは何か、という疑問が、みさきの質問に答えようとする語りの中に露呈してゆく。

俳優が物語の役柄を演じる際、現実との差異が分からなくなるくらい己をその世界、その役柄に入れ込んでしまう感覚。それが、実生活における現実と演技の境目の曖昧さをも浮き上がらせ「いわゆる現実とされている己のアイデンティティとは一体なんなのか」と問い直される物語の構造である。

家福の妻の浮気、或いは他者への理不尽な仕打ち。どうしようもなく人が陥ってゆくそのテーマをみさきは「病」と呼ぶ。

「そういうのって、病のようなものなんです、家福さん。考えてどうなるものでもありません。私の父が私たちを捨てていったのも、母親が私をとことん痛めつけたのも、みんな病がやったことです。頭で考えてもしかたありません。こちらでやりくりして、呑みこんで、ただやっていくしかないんです。」
「そして僕らはみんな演技をする」
「そういうことだと思います。多かれ少なかれ。」


ここで演技とは、この理不尽という「病」に対応するための方法論であったのだ。大抵の場合、無自覚に。

そしてあるいはそれは、その病、不条理・理不尽とは、「現実の自己」という幻想の裏返しの形をとった真理に通じているのかもしれない。




 ●イエスタデイ

 語り手「僕」の大学時代の短い間友人であった木樽とその理想的な彼女、青春時代の物語。

 どうしようもない木樽。

 彼は人々が一生懸命目指すティピカルに幸福な人生のモデルに対する己の疑問「人生これではいけない」から逃れられず、けれどその所以はわからない。そのどうしようもなさがピュアに押し出される木樽の青春時代(イエスタデイ)は周りをも傷つける形で巻き込むものであり、その一生をかけて償われるべきものとなる。或いは彼の一生を通じて照らし出す。功罪両義として。

この作品集の中で、この話だけは男は女に去られていない。寧ろ去ってゆくのは男の方、木樽である。

強いて言えば、語り手の僕の孤独がその喪失を最も純粋なかたちで受け持っているのか。それとも求めつつも遠ざけてしまう、真実を求めるあまりお仕着せの物語としての彼女でない彼女を求めるあまり、現実社会で普通に彼女を求めることのできない己の中の逆説、不条理に囚われた木樽はやはり不条理に囚われたことによって「女を得られない男」となった者にカウントされるのか。



 ●独立器官

「内的な屈折や屈託があまりに乏しいせいで、そのぶん驚くほど技巧的な人生を歩まずにはいられない種類の人間がいる。(中略)そのような人々はまわりの屈曲した世界に、(言うなれば)まっすぐな自分を合わせて生きていくために、多かれ少なかれそれぞれに調整作業を要求されるわけだが、だいたいにおいて、自分がどれくらい面倒な技巧を用いて日々を送っているか、本人はそのことに気がついていない。」

 エリート医師渡会。仕事に、趣味に、戯れのような恋愛に、一見人並み以上に充実した人生を理想的に楽しんでいたこのプレイボーイ中年は激烈な遅い初恋によっていきなり提示されたあまりにも直裁な内的疑問に激しく懊悩する。

「わたしとはいったいなにものなんだろう。」
(これは「イエスタデイ」の木樽の疑問と響きあう。誰もが目指すコース、幸福で恵まれた順調な人生に対しての疑問。そのつくられた環境と役柄をはぎとられたときの自分とは、そしてそのとき己と他者との関係とは?)(これは「ドライブ・マイ・カー」における「演技」のテーマだ。「まわりの屈曲した世界に合わせて生きていくために面倒な技巧を用いて=演技して=日々を送っている。」)

これは無自覚に演技している自分と本来の自分の乖離に気付いてしまい、約束された絵に描いたような幸福な人生から道を踏み外した者の物語である。

短い間友人として彼の聞き手となった「僕」は最後にこう語る。「自分がなにものであるか、末期近くになって彼にはその答えらしきものが見えてきたのかもしれない。」

末期。それは、相手の女性の手ひどい裏切りによって痛ましい拒食から悲惨な死に至る彼の悲劇の結末のことである。

渡会医師は、また語り手は、女性の嘘、裏切り、その「どうしようもなさ」を、ここで彼女の人間性とはまったく別次元の「独立器官」の為す技として位置付けている。それは社会的な物語やシステムによる幸福から離れた異次元の不条理に属する人生の論理である。彼らの人生を「本人の意志ではどうすることもできない他律的な作用」で或いは「高みに押し上げ、」或いは「谷底に突き落とす。」「心を戸惑わせ、美しい幻を見せ、時には死にまで追い込む」。

善悪を超えた不条理。だが一貫して語り手は創られた物語としてのアーティフィシャルな社会的幸福像の外側のこの論理に対しこのようなスタンスをとる。

「そのような器官の介入がなければ、僕らの人生はきっとずいぶん素っ気ないものになることだろう。あるいは単なる技巧の羅列に終わってしまうことだろう。」

「独立器官」の「他律的な作用」は、いわば善悪の彼岸から押し寄せる理不尽の力の波であるといえるだろう。


 ●シェエラザード


謎めいてファンタジック、浮世離れした設定である。

語り手の羽原は外出できず、何らかの組織によって「ハウス」に幽閉され(或いは保護され)ており、外界から隔離された生活を送っている。「1Q84」での青豆の逃亡生活を思い起こさせる思わせぶりな設定だ。

ここに世話係として人妻の女性(性交の度にひとつ物語をしてくれるので「羽原はシェエラザード」と呼ぶ。)が週に二度通ってくる。買い物、雑用、性交。

「私の前世はやつめうなぎだったの。」

この、湖の底の石にくっついてゆらゆらゆれている感覚のおそらくは心象風景を彼女はこう表現した。
やつめうなぎだったとき、彼女は「やつめうなぎ的思考」の中にいて、それは人間の論理とは全く異なるものとして理解を超えているとされる。

…ここでの「どうしようもない理不尽、超―論理、独立器官」のモチーフはこれだ。

高校生だった頃、恋い焦がれた初恋のクラスメートの男の子の部屋に忍び込み、ストーカー的な変態的な行為を繰り返した思い出を彼女は語った。片恋の苦しさどうしようもなさを、彼の部屋に忍び込み小さなものを盗む興奮によって解消したという。そのときの感覚が安らかで静かな「やつめうなぎに戻った気持ち」だという。

そのとき社会的常識や論理を外れた「やつめうなぎ的思考」の不条理の中に彼女はある。

「そして私は何も考えていない。というか、やつめうなぎ的な考えしか持っていない。その考えは曇ってはいるけれど、それでいてとても清潔なの。透明ではないけれど、それでいて不純なものはひとつも混じっていない。私は私でありながら、私ではない。そしてそういう気持ちの中にいるのはとても素晴らしいことなの」

平凡な35歳の主婦の中にある問題を抱えた17歳の女子高生、普段は量販店のさえない下着をつけているが時折はっとするような娼婦的な派手なものを身に付ける。歪んだ病的な欲情のかたちが表面上の平凡な日常の幸福の裏面からがっちりと絡みついてくる。

そのような「女」の持つ人間を超えたやつめうなぎ的不条理、換言すれば「独立器官」を語るシェエラザードの存在、その語る物語が、羽原をして「現実のなかに組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。」と言わしめる。

つまりこれが一貫してこの短編集を流れているテーマ、アルバムコンセプトの「男」にとっての「女」像だ。

組織から与えられた役柄による細い一本の糸によって繋がっている彼女との関係を、すべての女たちとの関係を、即ちやつめうなぎ的思考の物語を失う未来の確信が彼を何よりも哀しい気持ちにさせる痛みであった。


 ●木野

この作品集の中ではこれと次の表題作が一番好きだ。

初期村上作品に特徴的に見られる、独特の濃厚な異界的世界観の不可思議で不気味な論理の力が満ちている。すべての事象アフォリズムに満ち、象徴的で隠喩的な響きを帯びる。見えない謎の敵に怯えながらの心理劇仕立てのスリリングな冒険逃亡譚。敵はこの世の論理のものではなく、外部、或いは自己の内部、優れて倫理的なるものに関わっている。

類似の匂いを持った異界譚系譜として、彼の次のような長編が思い浮かぶ。

羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」そして「1Q84」。


どれも複雑な構成をもった大作なので単純にひとくくりにすることはできないが、共通した見えない敵、この世の外部或いは自己内部としての超次元的な異界との交流、悪しき物に追われる心理的恐怖をからめた冒険譚の形式をとる。


…表題の「木野」とは木野が自分の名をつけたバーの店名である。

彼はやはり妻の浮気に遭い、それまでの暮らしからドロップアウトした「女のいない男たち」のひとりだ。伯母の店を譲り受け、小さな酒場を開く。好きな音楽、ほどほどのお客、というほどほどの成功。どこかあきらめと空虚さに満ちていながらひっそりと安らかな居心地の良さをそなえた居場所をもった日々を送っている。

店の守り神のような灰色の雌猫、そして謎の常連客、強面の神田。

だが悪しき物の侵入によってその危うい調和は壊される。不吉な暗い欲望と暴力の影を身にまとった女の侵入(店に、そして木野の精神というテリトリイ内に)を許したために優しい守り神の猫が去り、蛇が現れる。木野を守る(木野の店を護ってくれていた古い柳の木のイメージに重なる。)神田の忠告によって木野は店を閉め、逃亡生活をおくることになる。理由もわからず、ただ不吉なこの世の外の論理に怯えて。

そしてその「不吉さの両義性」に気付いた時、それを呼び寄せる己の心の空洞に気付いた時、彼は悪しきものがホテルのドアを、心のドアを叩き続ける間、ただその柳の木のうつくしい命の姿を、灰色の雌猫の姿を、己の人生の中での喜びや美しさ、価値あるもののひとつひとつを必死で思い浮かべる。不吉な不幸のイメージと闘い続ける。

「目をそむけず、私をまっすぐ見なさい、誰かが耳元でそう囁いた。これがおまえの心の姿なのだから。」

「両義」だ。己の心の中に共存している良き物と悪しきもの。
妻の裏切りにあった時、理不尽に出会ったとき、ただひたすらに傷つくことを恐れ、痛みを感じるべきときに痛みを感じることなく、空っぽの無感覚の方角へと逃げた。その代償を突きつけられる。

「そう、おれは傷ついている、それもとても深く。木野は自らに向かってそう言った。そして涙を流した。その暗く静かな部屋の中で。」

…この描写は、村上春樹作者本人の作風の変遷に深く関わっているように思われる。初期の、不条理や悪しきものをただひたすら否定し、拒否し、己の美学の世界に閉じこもって社会の不条理を拒否した静かな隠遁を楽しむ価値観を持つ作品から、社会に対して積極的に関わって行こうとする転換。オウム事件、震災によってあらわにされたさまざまの社会的な問題にがっぷりとコミットしたテーマの作品を次々と提起してゆく。

癒されるということが決してない、どうしようもない原罪的な痛みの存在を、それでも認め、向き合い、そして。


…そして。

その先が、おそらく我々個々の読者へと投げ渡されているものだ。

私は、この、己の記憶の中の生きる価値のある世界の美しさへの執着の描写が大好きなのだ。「羊をめぐる冒険」のクライマックスで「鼠」が表白する信念にゆるやかに重なってゆくこの揺るがない価値観。


「俺は、俺の弱さがすきなんだよ。苦しさもつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「…わからないよ」


小さな小さな日々の喜び。自然の営み。虚飾や技巧に満ちた大きな物語や権力、歪んだ暗い欲望によって生み出される悲劇や惨劇、そんな悪しきものに対抗できる唯一の方法は、他者の論理によらない、己自身の人生にのみ根ざしたこれら「小さな声」なのではないか。



 ●女のいない男たち


この短編集のテーマを端的に総括する素敵に詩的な短編だ。書き下ろされたこの短い一篇は、そんなあとがきの役割を担った様相を帯びている。

まず冒頭で、主人公の「男」「僕」は、「女」、かつてつきあった彼女「エム」をその自殺の報せという形で徹底的に失う。

続いて流れてゆく彼女に関する回想と想像の独白。

〆の一篇にふさわしく、独白は、この象徴的なテーマをすべて現実に起こった出来事からは離れた隠喩の世界、真理という次元で捉えようとする文体として観念的にまとめられてゆく。

実際はそうではなかったけれど、このような出会いをするべきだった女性についての思い、考察。

例えば、14歳のときに生物の授業で消しゴムを半分割ってくれた女の子と一瞬で恋に落ちた。「僕はエムをそのような存在としてとらえたい。」「(ほんとうはそうじゃないのだけれど)それが僕らにとっての、真に正しい邂逅の年齢であったのだ。僕らは本当はそのように出会うべきであったのだ。」

「僕は多分事実ではない本質を書こうとしているのだろう。」



「僕」から彼女を奪おうとするものは「水夫たち」のメタファーで表わされる。それはライバルの男たちであるかもしれないが、個人の顔ももたない複数形の水夫たちは「女」がそのときその「男」からさらわれ失われるための世界のあらゆる阻害要素であるということかもしれない。「僕」のライバルである彼らもまた彼女の死を悼む。


自分とは異なる音楽の趣味、自分では決して聴かないジャンルの音楽をエムは好み、「僕」の人生のシーンに持ち込んだ。例えばその「理解できなさ」己にとっての「理不尽」の味を人生に持ち込むことこそが女、他者の大切な本質であり、価値なのかもしれない。


女のいない男たち

女のいない男たち