11月。
朝の天気雨が上がった後、便りが届いた。
銀杏が色づき始めた駒場の街で、金と緑の朝陽の木漏れ日の中を歩いているよ、と。
「気持ちのいい季節だね、今日もがんばろ、なんて気持ちになるよ。」
そうか。
私は、晩秋の低い朝陽が辺り一面に金緑のひかりを降らせるまばゆい朝のカプセル、その黄金に輝く銀杏並木の風景を思い浮かべた。そのひかりにふちどられて枯葉を踏みながら歩く自分を感じた。カサカサと音がする。枯葉の匂いが立つ。風景に包まれている。
ふいと美というものについて考えた。うつくしいとはなんなのか。
そうだ、ああ、それをまるごと返信として彼女に伝えよう。
そんな考えの周辺のことを。
そう、考えたのだ。
その便りの中の昧爽の歓びの正体のことを。またそれを表現しよう、伝えようという衝動の持つ意味のことを。
時間と空間と世界と主体がひとつであるというその認識=感覚。美と呼ばれるものが真善美と並び称されるものが、実は三位一体としてひとつのものであるということができると悟る瞬間の永遠、その感覚の周りを言葉は巡る。己の枠を超えて伝えたいという衝動をもそれは内包している。
主体と客体が融合したところにある、次元の超越。その、世界と一体であることを体感する場所のことを美と呼ぶのではないか。
「草枕」での漱石の芸術観を思い出す。対象と一体となること、主体の無化による芸術の成立、という、これはひとつの命題だ。(ここで美は芸術は、学問や科学と呼ばれるアカデミズムと両輪をなし、(それと等価であり)ともに真理、宗教と三位一体としてイコールである。)
そしてそれらは必ず「表現」されなくてはならない。
それは、書かれなくては「なかったこと」になってしまうのだ。
*** ***
私は朝のニュースを眺め、あれこれと社会の難しい問題を語る人たちの議論を眺め、そのいちいちの真面目さにいちいちうなづいて困っていたところだった。
もっとも惨たらしい事件は人為により、あらゆる問題の難しさはすべて人的災害、人為であることによる。
めんどくせえなあ。
天災はすがすがしいほど圧倒的で難しさの入り込む余地はない。人はみな最も純粋に容赦なく、そして美しい生死を認識したものとして原初の生命に戻ることができる。この上なくシンプルで、難しいことは何一つない。非常にそれは残酷であり、けれどそして例えば太陽の輝き、海の青さ、生命の歓びという美の恩寵(美とは生命の歓びであると仮に定義しておく。)も、友愛の義の純粋も実はそのうらがえしであり、アナロジーとして等価である。絶対性なのだ。(友愛や正義に関して言えば、それは物語であり、ただ祈りに過ぎないものなのではあるが、また祈りであることによって実存からの真実でも有り得ると私は思っている。)
めんどくさくて難しい。
難しいのは嫌いだ。世界はもっともっと簡単であってよい。己の無力と無能が全く苦痛の意味をなさないところであってよい。
みんながそんな風に思えばさ、もしかしたら、もっとゲンジツは簡単で有り得るんじゃないかと思う、もっともっともっともっと。
クリスマスソングを聴きながら思う、11月を思い出す12月。
天災だろうと人災だろうと、招かないで済むことになるはずだと思う。
あらゆる難しい考えはそのうつくしい「簡単」に行き着くためにある。
ジョン・レノンが歌ったように、12月に殺された彼が歌ったように。(オレ、この歌のキヨシロヴァージョンも好きよ。)(リンクのyoutube、レノンのあと、キヨシロが歌ってるよ。)