酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

新宿逍遥

<新宿、街は地球の表皮に救うがん細胞のようなパソコン機能構造。その機能とバグ、ゴミ、各アプリケーション、機能同士の相互関係、影響。迷宮、そのクリーンアップ、リセット、汚泥そぎ落とし廃棄処分としての再起動、最終戦争、世界の終わり。あるいはもっとラディカルに星まるごと買い替え。世界の廃棄。あらゆる宗教の語る終末論。>

久しぶりに朝の新宿を歩いていた。
たくさんのイメージが頭に浮かんだ。

本当に汚らしい街だ。ごみごみとして雑然として。だがピカピカにふんぞりかえった大いなる歴史と権威とセンスを誇る一流店がそこにまじりあう。住み分けがなされていない、節操のなさ。これが極東アジアの特徴的スタイルか。これが日本のイメージか。風俗、ゲームセンター、電気店、安売り店、百貨店、一流店、流行店、老舗。るつぼ。奇妙に活気があり奇妙に汚らしい。近未来ディストピアSFのイメージ。どこかに無秩序な力業、治外法権、暴力の匂いがする。

(私は新宿が実は嫌いではない。少なくとも渋谷よりは好きである。)

互いに互いを風刺し合うのか、異なる次元の裂け目によって主体自体を変化させているのか、今の己に相応しい場所だけを嗅ぎ当てそこにフィルタリングされてゆくパーツとなるか…おそらくそのすべてを意識に浮かべてそこを歩く主体は多様な世界にバラけてゆく。

風景の底を歩きながら、その各々の細胞内にあっては統一されたものである世界のトーンについて考えた。(ここではあられもなく露呈されているのだが、世界とは結局すべてはそのようなものだ。)そして自分がそのどこに入り込んでもついて回る奇妙な違和感について考えていた。どこにもしっくりとはまることのできない、常に外を感じている。どれがホームベースなのかわからない。その寂しい心細さ、故郷のなさ。いつからだろう。物心ついた時には既にそうだったのかもしれない。本当の故郷がどこか別の場所にある、といつでも感じていた。自分がいるべき場所。(天の父とかそういう宗教的なイデアが故郷であるという感覚の発想はこういうところから来ているんだろう。「ここは、これは、本当ではない。」)

今ここにあるどこにも完全に属することができず、常に疎外を意識野に感じながら生きる種類の人間であることと、ものを書くことへの思い、あるいは知への思い、というのは無縁ではない、ということを考えたのである。

意識したときそれはすでに自明のものとしてあった。というより自意識とはその既成の世界という物語から芽生えたものであり、それへの疑問は己の成り立ち自身への疑問であった。自明のものからはみ出ている個所、そのアポリアに何か別の、世界からはみ出た別のものがある。意味以前が。「有」以前が。マトリックスであり真理であり虚無である故郷が。

システムと物語を対象化する視点、その論理を求め続ける、己の疎外感の理由を問い続ける。何故?何故?何故?別の物語によって対象化され、わかったと思った瞬間、そこにだって安住はできない。常に、反転、反転、反転。悟りの矛盾、悟ったと自覚した瞬間それは悟りではない。けれど別のもうひとつによってしかひとつの物語は対象化できない。

何故寂しい、何故苛立つ、何故その物語にそらぞらしさを感じる?どこにいても、どの論理にも。

どんな正義も信じないが、だが。
…実はどの正義も信じている。

それはすべてを超えたところがあるものであるからっぽのイデアを映す(いや寧ろそれをあらしめる)ミメーシスであるから。メタ・物語。常に外部であるところ。絶対に得られないもの。大学で習った、文学で言うロマンティック・イロニイの原理もそれと同構造である。

何故自分はこうなのだ…己の存在の在り方、ひいてはその存在理由を問うことそれはイコールである。

細胞を統べるトータルな法(ダルマ)がある、全体性を保持するナニカがある。それを信じた言葉がニーチェのおおいなる外部としての星空と心のうちなる道徳律の、その共通の信念、その宣言としての吐露ではなかったか。「構造」という存在の美しさに対する信仰のようなものだ。そしてそれは西田哲学のいう時空構造、生命構造が矛盾し反転し合う「限定」「逆限定」の関係性のなかである種の「動的平衡」を保つ世界像、その複合機能体系としての大いなる調和に内包された世界構造、それへの信仰のような世界像への思いと同一であると私は信ずる。

そして文学の意味は、意味を生成しながらその意味をずらし続ける、己の成り立ち自体を相対化し続ける言葉自体のその本質にある。ここに言葉のフィールドからのアプローチとして、動的平衡から世界像を浮かび上がらせる手掛かりが仕組まれている。

*** *** ***

昨日は昔の恩師と吉祥寺の喫茶店で長話をした。晴れた土曜の午後だった。
自分が壊れてしまう場所への恐怖とそれを乗り越えるというテーマについて話をした。彼はホメロスの神話を持ち出した。私は彼のその解釈に対し反駁を試みた。あれこれの異なる解釈を例示する。神話は構造だ。いくらでも可塑性を持った論理の迷宮。(その豊穣は、楽しい。)うん、そうか、と豆鉄砲ハトな顔をして言うから、そうですねい、でも先生がやっぱり正しいです、と言ってみたら、先生は何だかにこにこと楽しそうに笑ってやたらとチャイに砂糖を入れてかき混ぜた。(砂糖の入れ過ぎはよろしくないです、と言おうと思ったけどやめておいた。)

壊れてしまうということとそれを乗り越えるという意味の同時性。すべてを失うのかすべてを得るのか。本当はそうではない。問題はそこだ。

To be or not to be that is a question.

帰りたい。
帰りたくない。

信じたい。
信じたくない。

わからない。