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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

きゅうりとにんじん

きゅうりとにんじんには忸怩たる思いがある。

このふたつには生の状態だとヴィタミンC破壊酵素があると中学生のとき家庭科で教わったからだ。家庭科でヴィタミンの重要性を叩きこまれたばかりの女子中学生は貴重なそのCが破壊されてしまうというニンジンキュウリ恐怖をそのとき致命的なものとして脳内に刷りこまれてしまったのである。

件の酵素は熱を加えるほかには酸によって働かなくなるということだったので、以後ニンジンキュウリを生で摂取する際には必ず酢によって調味することにした。

人参に対してはカロチン豊富、目や皮膚、粘膜系にいいという信仰がある。ぜひとも摂取したい食材である。ということで、加熱して常食する。人参はうまい。カレー焼きが好きである。えらい野菜である。…だが、問題は胡瓜君。コイツにはさして愛着がない。従って私がこれなる単なるヴィタミン破壊分子を敢えて購入することはほとんどない。

トルコでは、(イスタンブールの下町なんかで)真夏にはトルコ人たちがキュウリをおやつにして歩きながらポリポリかじっている姿をよく見かけた。屋台で売ってるのだ。ひんやりしたキュウリは身体の余分な熱を冷まし水分を補給する。陰陽道の理にかなった賢いおやつだ。…しかし惜しいかな調味は塩のみである。私は彼らのヴィタミンC欠乏を非常に憂えた。(敢えて指摘はしなかったがレモンを絞れとかいろいろ言いたくて仕方がなかった。)(彼らはジャガイモたらふく食するし新鮮なフルーツも豊富だったからまあ補充できていたんだろう。)

…根深く刷り込まれた現代人のヴィタミン信仰である。脂溶性のAやEは蓄積されるため過剰摂取による害もあるが水溶性のCやB群は摂りすぎると排出されるしいつでも不足しがちであると常に恐怖心を煽られている。そして摂れば摂るほどあっちこっちでいいことばっかりのものすごく大切なヴィタミンであるという思い込みが強い。いいもんとわるもんで言えば、絶対的ないいもんなんである。ヴィタミンCは絶対善、正義。真善美。

本当はバランスなのだ。蛋白質も炭水化物も脂肪も各種ヴィタミン、酵素も。人間が抽出してみせた大きなカテゴリだけではなく、食物はそれそれが絶対的に固有の栄養素を保有している。それら抽出された栄養素というのは似た構造と働きを持つというだけのカテゴリ分けされた便宜上の抽象概念に過ぎない。多様な固有成分は、あらゆる解釈の、論理の地平のフィールドで相互に作用しあい食い合いながらミクロからマクロに至るまで、トータルに正しくうつくしい生命界のホメオスタチスを保っている。いいもんもわるもんもない。たいせつなのはバランス。

でもダメなの。私は一旦刷り込まれたものはおいそれとは払拭できないタイプの人間である。三つ子の魂、論理が教えても感覚は絶対に言うことをきかない。そして私は私の中の「いいもんとわるもん」分け衝動をここに激しく自覚した。最初に刷り込まれた「わるもん」レッテルはおいそれとは剥がせない。それは恐怖、マイナス感情とセットだからだ。

 多かれ少なかれ人は何か新しい概念を学習し覚えるとき、何らかの感覚的及び感情的なイメージをセットにしている。いかに無機的な暗記ものだとしてもだ。漱石が「文学論」で「F+f」〈Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味する〉という公式的概念を提示したアレを私はいろんな場面でしょっちゅう思い出す。実に感慨深い。漱石は本当にどこからどうつついてもおもしろい。

例えば足し算や掛け算習ったときはどんどん何か増えて豊かになってく感じがしてなんとなく気持ちが充実して楽しい。が、引き算や割り算は財産が減ってくような、身を切られてゆくようなイメージがして貧しく切ない気持ちになる。増える、減る、の大枠の感覚的イメージ醸成によって数字の概念を個的なものとして脳内に取り込むのだ。数字フェチとか擬人化とか、そういうとこから来てるんだと思う。

経済の分野を見てみれば企業イメージというファクターは商品そのものよりもむしろ重視されている場面もあるのではないか?踊らされている自覚は十分にある。

何かを学習した時の環境、その風景、現場丸ごとは絶対にどこかその対象の影に避けがたく含まれてしまっていると私は思う。例えば味覚の嗜好、その好悪に関してはそのセオリーがポピュラーに認められた領域である。精神的に良くない環境で覚えた味はその悪感情と共に「嫌いな食べ物」になってしまう確率が高い、という類の論のことだ。

(あんまりいきなりこの数字の譬えっていうとなあ…おそらく殆ど誰にも通じなさそうな譬えだなやこりゃ。もっとうまい説明を思いつきそうなもんだがとりあえずこれって言ってみたかったのだ。増えると豊かな気持ちになるとか原始人的な人間の基本だからさ。己が原始人であることのしみじみたる自覚と納得。)

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「麦派」で述べたように甥っ子が世界の要素をすべて「いいもん」「わるもん」に二分割しようとしたとき、私は反射的に彼に「世界には完全ないいもんも完全なわるもんもいない。」と決めつけて返した。なんて偉そうなんだ。なんだそのわかった風な口にききかたは。いやらしい。鼻持ちならないスノッブなパリサイ人である。ということでここにひそかに恥じいっておく。実にいたたまれない。穴があったら入りたい。宇宙から抹殺したいくらい身の程知らずのイヤミなヤなやつである。同じことがあったら同じこという確信はあるけど。

…まあ小学生の質問にぽやんと脊髄反射で答える叔母の図、ということで許されてほしいと思っている。

意味づけしたいのだ、しないと怖いのだ、せずにはいられないのだ、ニンゲンって、きっと。

…とりあえず、ということで、きゅうりはわるものである。
きゅうりに悪意がないのは分かっているし食すときには酸処理を行い、なおかつC豊富といわれる食物を心して摂取する。が、何かタブーを侵すような一瞬の緊張感を避けることはできないんである。きっと一生。

ごめんね、きゅうり。