酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

麦派

貧乏人は麦を食え。

ということで米よりは麦を食う。麦派である。

発音がいい、ムギ。
子供の頃ムギチョコが好きだったからに違いない。脳に「ムギ=ムギチョコ=うまい菓子」という刷り込みがなされている。あと、麦こがし練ってむにゅむにゅ食べるおやつ。(関係ないけどココアの粉そのまま舐めるのとかホットケーキレアタイプ《表面だけ焼いた生焼け》も好きであった。あの頃みんなに馬鹿にされたけど、時代はオレに追いついた。見よ市民権を得たパンデロー。何が半熟カステラだ。今さら生焼けケーキありがたがって行列しやがって。)
 
日本酒より麦酒を好むという嗜好もきっと自分が麦派だからに違いない。
 
(ところでだな、母の思い出話によると、戦後TVの番組の中でヒロノミヤさんとこのご一家はあさごはんにオートミールを召し上がっていたそうな。カラスムギの粥である。ということはご一家も貧乏人ということなんであろう。)
 
貧乏人スピリットに則して言えば、麦の中でも偉そうにお大尽なメインストリームを構成している小麦大麦より、からす麦とかライ麦、はと麦なんかがいい。それからもちろん蕎麦。(精白した小麦粉によるコナモンは加工度が高すぎてまったくダメである。やわらかなハイジの白パンなどは最悪の部類として認識される。)
 
どの穀類に関しても貧乏人は精白しないのが基本なのだ。全体食主義。皮をむくとか芯を抜くとかいう発想はキライだ。(が、日本酒の大吟醸は好きだ。ええとだな、これはだな、要するにだな、つまりだな、…酒はチガウのよ、酒は。ハンパはいかんのよ酒は。「おやつ大魔王」のとこで書いたけど、つまり、嗜好品は別枠。精一杯の精髄、アンチ自然そして退廃、磨きぬいた精髄を、エッセンスを、具体でなく抽象を、イデアを追ったもの。身体的な糧とは違う部類。だから酒と菓子は別っこな。)(でも麻薬は抽出加工しないほうがいい。大麻やコカの葉、アヘンはいいがLSDやヘロインはだめ。)(形而上にぶっとびすぎて永遠にアッチ側に行ってしまう。形而下世界ではにんげん存在として壊れてしまう。)
 

ところで家人はワイン好きである。
ワインとチーズ、紅茶の人である。ワイングラスの用途別だか何だか知らないが得体のしれないさまざまの形状のグラス類を棚に山ほどしまいこんで偉そうなうんちくたれて悦に入っている。シャンパンというといちいちシャンパーニュといわなくては間違っているとかスノビズムまるだしでしつこく繰り返すので鬱陶しいことこの上ない。まったく気が知れない。ということで異界の生物とみなし接触しないようにしている。

で、オレは圧倒的に麦酒に枝豆、珈琲の人間である。主として缶や瓶からぐいぐいラッパ飲みするスタイルを旨とする。(スタイルもへったくれもない。)珈琲は濃いやつをストレートで喫する。ミルクだの砂糖だのは犯罪的異物混入である。喫茶店でうっかり添えられてきたりした場合には直ちに排除する。…香気薬効毒気成分が血流をぐいぐいめぐって脳髄にカーンときてふにゃふにゃいってるうちに脳天から香りの湯気が立ち昇ってくるような飲み方が好きである。

で、思ったんだけど。

珈琲か紅茶かとか呑兵衛か甘党かとか、猫派か犬派かとか、きのこの山たけのこの里かとか、人間を二分割する遊びがあるやん。心理ゲームや占いのようなもので面白いっちゃ面白いんだけど、うっかり真面目にとらえると大変な馬鹿らしいことになったりもするやつ。

ともかく、なんでカテゴライズってみんな好きだし面白いって思うんだろって考えるとこれは興味深い。…つまりだな、これはだな、まあ基本的に二項対立とロゴスをその本質のところに刷り込んだ人間の本能なんではないかとも思ったりするんだな。とりあえず二元論から議論は始まる。こうか、こうでないか。ありか、なしか。0か1か。

モノの性質を考える、イメージを構成するよすが、議論のためのたたき台を構成する。基本は、これか、これでないか。で、自分はどっちのカテゴリに属するファミリーなのか。集団に帰属する保証された安心のアイデンティティ。仲間と敵を分別し楽しく安心する。それを基本に、第三項なりなんなりいろいろキャラクタライズされて白黒グレーゾーン形成に発展応用されていく。

ゲーム世代(じゃなくてもそうだけど、仮面ライダー世代でも赤胴鈴之助世代でもおんなじだけど)甥っ子が小学生のころ、すべてを「これはいいもん?わるもん?」というカテゴリで考えようとしたあの無垢でつぶらな瞳を思い出す。彼は世界をいいもんとわるもんに二分割していいもんに味方する正義の味方だったのだ。

いいもんとわるもんはまあどの倫理基準に照らすか、という問題だから別っことしても、ほんとうはそんな確固たる区分なんてないんだけど、どっちかっていうと…とかやってくとなんとなくなんとなくなにかが形成されてきてしまう。

人間レッテル貼り作業は自分へのレッテル貼り作業も含めてどうしてこんなに魅惑的なのか。男性性女性性とかもそうだし、どの人間にもどっちの要素もあるんだよっていうのが見えなくなってしまう危険も大きい。何かを考えるときのよすが、議論のたたき台のための仮定に過ぎないということを見失わないようにしないとアカンのではないかと思うんだけどな。更に言ってしまえば批判されるための。批判的発展の次なるステージのためのたたき台。だからそこをゴールにして思考停止するのってさ、なんかとっても危険だと思うんだ、しみじみ。思考はそこに滞っていたら固まって縛られて化石化してしまう、気づいたときはがんじがらめに支配されていて、結局誰かの定めた道筋を辿ることしかできなくなっている。貧しい世界に閉ざされ息ができなくなっている。

まあ敢えて言うけどな、「オレはこういう人間だ。」
だからそれはそれでいいのだ。ただそれはその考えの土台を可視化するための、見通すための、そこから自由に解放され、透き通った楽しい考えによる世界を得るための始まりなんだ。