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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「わがままいっぱいの国」アンドレ・モーロワ

子供の頃読んで、タイトルの印象とストーリーが頭のどこかにずうっとひっかかっていた。教育的な寓話的なイメージなんだけど、そのメッセージがよくわからなかったんである。

わからないまま心の奥のわからなさの森に、その豊かな魔法の国のイメージはしまわれていた。(参照、わからなさの森について「ネギを刻む」

で、読み返してみたいな、とずうっと思っていた本。

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「わがままいっぱいの国」アンドレ・モーロワ

驚いたのは、この本、amazon検索でも出版社(旺文社)の検索でも出てこなかった、ということ。一応全国学図書館協議会議選定図書、とかのハクがついた書物なんだけどねい。

あちこちの図書館あたってもあんまりなくて、隣町のボロボロのが保存庫にようやっと。

申請して、引っ張り出してもらった。

昭和49年の印。読んでたら解体してきそうなボロボロ具合。バーコード読み取りピッピッっていうんじゃなくて、貸出カードとでっかい日付印どっかんどっかん貸出システムの頃。

手に取った本の感触、記憶の通りの装丁、挿絵の印象にほろり。
ううむ、懐かしい、やはりおもしろい。

ミッシェールは夢の中で自分のゆめを占って欲しがるファラオにでたらめの解釈を教えて魔法の国への案内をしてもらい、「でたらめカラス」のテストを受けて、間違いだらけのでたらめの答えでめでたく妖精に認定される。

妖精に認定されると、空を飛べるようになるきれいな羽根や青空でできたドレス、素敵な万能の魔法の杖なんかをもらえたりするのだ。

…とりあえず楽しい。だが、このお話の寓意性や教訓の「わからなさ」がずうっと心の中にひっかかっていた。

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課題図書認定のせいか、巻末には教育的指導要綱みたいなのがのってて、「押し付けず、こどもに自分で、みんなが自分勝手好き勝手な国ではわがままがぶつかりあってめちゃくちゃになってつまらなくなって、結局秩序正しいおうちに帰りたくなることを読み取らせること。」みたいなことが書いてある。

さあっと読むと確かにそうなのだ。

先生や両親や大きいおねえさんに生活を管理され、やりたかったことが何にも自由にできず、おもしろくないことばっかりだった日の夜、七歳のミッシェールが夢の中で行ったのはわがままがなんでもかなう魔法がつかえる夢の国。でたらめで間違いだらけであればあるほど素敵な妖精になれる、魔法が使えるようになる国。

だけど、みんながみんな好き勝手にするのも自由、その邪魔をするのも自由、喧嘩や乱暴だらけ。言葉も歴史も算数も答えはでたらめが正解、論理や秩序体系は望みと気まぐれのパワーだけが正しいのひとことで押し流される。

きらきら輝く美しい女王様のパーティも会話はでたらめだらけのめちゃくちゃ、ミッシェールも一緒に来ていた弟たちもこの世界の過剰な奔放と無秩序にはうんざりしてしまって、おうちに帰るのだ。

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やっぱりおもしろい。

そして、そう。だけどね、表向きのこの「秩序の勝利」は、ラスト、二年後の後日談、選ばれたはずの秩序の国の理不尽やつまらなさをラストで再度繰り返すことによって、どこか非常にあやういものであることを強調されている。

すっかり秩序の国のよい子の優等生に育った9歳のミッシェールは、しかしある日、つまらない日々の秩序の中で理不尽な管理と仕打ちにあい、またあの美しく楽しい魔法の国で自由に空を飛んでみたい、と願う。

しかし、その道筋で彼女は道を教えてくれるはずファラオの夢の意味を、解釈の可能性を、更にはファラオ(夢)そのものの存在と意味を否定し、でたらめカラスの試験に秩序に則った正答を返すことによって魔法の国への入国を拒否される。自由に空を飛ぶ羽根も夢をかなえてくれる魔法の杖もない、妖精になる資格を失ったのだ。秩序を守り体現する側に立った大人に、それを打ち壊す可能性を秘めた万能の夢の妖精になる資格はない。二年前優等生の級友イボンヌがはじめからそうであったように。

そうして彼女はその夜、そのまま無事に安全な秩序のおうちのベッドへ帰ったんだよ、と語られて、お話はおしまい。読者をそのほのかなあじきなさ、寂しさのなかに取り残したまま。

秩序と理不尽とあきらめと安心の国、現実世界と、無秩序の国、ありあまるカオスとエネルギー、わがままのぶつかり渦巻くその魔法の国のエネルギー、きらめき、うつくしさ、たのしさ、自由さ、解放。

このコントラストの微妙なひっかかりの棘が心に埋め込まれるのだ。

気まぐれとでたらめの象徴、魔法の国のうつくしい女王様や何もかも壊そうとするのが望みのいじわるな妖精メラニーの歌う矛盾やナンセンスのような寓話の、その歌にこめられるメッセージ。

何が、どちらが正しいとは言いきれないんだよ、というこっそり心の奥にささやかれる秘密のメッセージ。

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この著者はフランスの哲学畑からの人で文学評伝で名高いらしい。「幸福論」で有名なアランの教え子であり、その哲学に通じていたとあるが、寡聞にしてアランという人を知らない。さっと調べてみたところ、良識(ボン・サンス)、合理性の哲学、生きてゆく知恵としての思想の中庸、のようなイメージである。スピノザの影響もあるという。

スピノザ一元論デカルトのように身体と精神、善と悪を二元論にしてみせることなく汎神論的な世界観を説いたという。身体と精神、そして主体と客体も対立する要素なのではなく、すべては神の属性としてのひとつらなりの実体であり、また、個々の関係性のなかに生ずる善と悪の二元論は一元的な絶対の神のもとには通用しない。

だから、ただ、思考スタイル、生き方のスタイルは、善悪を判ずることによりかたちづくられるものではなく、ただよりよく生きるための知恵、というのに過ぎないんだよ、と幸福の知恵を説くボンサンス。

なあんとなく、納得。

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秩序や正確さや知識と、夢のこと、うつくしさ、たのしさ、よろこび、わがままや奔放さのエネルギーとの関係性を、押し付けられた教訓、二元論的な正邪ではないしなやかな知の視点から、鳥瞰された論理構造として把握する。世界の姿を自分の目で見て頭で考えるための、その問題提起の種を、幼い心の柔らかなところにわからなさの塊のまま埋める。

その種は、子供が、秩序の、正義の物語の正しさの重圧と理不尽に出会い、その淀んだ閉塞に押しつぶされそうになったとき目覚める。きっと深い母なるカオスの地の底から小さな芽をふく。そうして、透き通った新たな未来を求め、閉ざされた原初、そしてまだ見ぬ未知の解放の空を求めて知の力を求めて伸びてゆく。

気まぐれとでたらめの国の女王は歌う。

「ただひとつのきまりはわたしたちの心のなかにあり、それこそすべての気まぐれをとりしずめるもの。なぜなら、かしこいだけは、ばかということ。ぎょうぎがよいだけは、ぶさほうだから。」

他者の望みもなにもかも壊そうとする悪しき気まぐれを象徴するメラニーは同じその歌を正反対の意味にすりかえて歌う。

「ただひとつのきまりはわたしたちの心のなかにある。それはどんな気まぐれもしでかすきまり、なぜなら、かしこいだけはばかだから、ぎょうぎがよいだけはぶさほうだから」

女王はやはり女王だ。母なるカオス。破壊と悪意の妖精メラニーが、その反動としての「支配する物語としてのあじきない理不尽を包含した秩序」への欲動を生み出す「無秩序の不都合」を体現するとき、女王はその二項対立を無化するべき内なる自由な心の中のトータルな知と秩序への道を示唆してみせるのだ。

これはむしろ、カントの「我が上なる星きらめく天空とわが内なる道徳法則(der bestirnte Himmel uber mir und das moralische Gesetz in mir)」だ。

無秩序と秩序の二項対立というのではなく。

…このとき、でたらめと無秩序と喧騒にうんざりしたミッシェールと弟たちが、自分たちだけで遊ぼうよ、と空いた部屋に逃げてきたときの描写が非常に新鮮な意味を持って見えてくる。

彼らは、「だってそうしたいんだもの」のめちゃくちゃなわがままのぶつかり合いの争いにうんざりした末、こんなことを言い出す。

「だめよ!わたしたちのあいだで、きまりをつくるのよ。ミッシェールがいちばんえらいってことにしようよ。」

教訓やお説教ではなく、生きていくための知恵としての秩序。

ここの示されるのは秩序とロゴスの世界のアルケーである。
何故秩序があるか。秩序の国の偽善と理不尽を糾弾するその論理の延長でありただ裏返しにされた同じ穴のムジナの偽悪ではなく、その二項対立の発生した根源に立ち還るということ。秩序の、ロゴスの、死と再生だ。

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今は確かにいい絵本や児童書いっぱい出てるけど、やっぱり派手で話題性があってわかりやすく受け入れやすいイージーな売れ筋のものばかりがメイン。こういう地味な古典が入手しづらくなってるのはなんだかなあ、なんて思ったりするんである。

知は、文化は、あらゆる書籍は、どんな権力からも、資本主義商業主義の嵐からも、ある程度無条件に守られなくてはならないものなのかもしれない。