酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

少女漫画とBL

ええと、タイトル通りのBLを語るにあたっての前提として、まずサブカルチャーでのオタクアニメのことなんか繋がりであること。

で、いわゆるつきの古式ゆかしいオタク男子の一般的な嗜好の話からってことで。

画一的な萌えアニメの「美少女」たちの画一的な表情、そして胸と尻の異様に強調された(プロポーション的に埴輪である、太古の昔から男性の女性に対する嗜好というか発想というかその単純さには一ミリの変化もないようだ。)(限りなく赦し与える優しさとしての母なる豊穣の地母神ってとこかね。)(古事記では荒ぶる男神スサノオノミコトがこの自らを差し出しひたすら贈与する者である自然・豊穣の食物女神オオケツヒメノカミを汚らわしいとして殺してその恵みを経済社会の純粋利益としてエゴイスティックに奪う五穀の収奪農業を始めるんだよね。酷く恩知らずな話ではあるが実によくできている神話である。男性原理。経済至上主義の人間中心主義の中央集権の唯一神的なるもののはじまりの天皇制のはじまりの。)けれど知性レヴェルと顔は幼女、という、甘えと支配、支配欲エロ傾向がひとつの特徴であるとしたら、と考えた。(ひたすら甘える対象の母とひたすら支配する対象の幼女。浅ましいの一言ではある。)

それに対応するオタク女子の嗜好といえば、ということなんである。

BL。

大体、ボーイズラブなんていう言葉は、オタク一般が市民権を得て大手を振って世の中の表舞台を闊歩し始めるまでは存在しなかった。経済流通、業界内でメシノタネになるレヴェルになってこんな口当たりのいいお洒落語感を与えられるまでは。

それは、闇市場でひそやかに流通される、淫靡ないかがわしさそのものを喜ぶどこか反骨を秘めたニッチな世界。そして、それを指す彼女らの言葉は、単純に、ホモ。(はひふへほとまみむめものひと、とかいう言い方してましたな。)(ボーイズラブ、一文字間違った本屋の画像ネタには吹いたことがある。ボーズラブ…まあ坊主愛となると実際これは歴史の古いお稚児さん文化とつなげて考えられて、実に含蓄のある話ではありますが。古今東西、坊主とお稚児さんってのは切り離せない性愛文化だったようで。)

男子のアイドル系への嗜好欲望は、ある意味非常にストレートかつオープンでわかりやすい。男性一般の心理構造の単純さを象徴しているかのようだ。己の肉体的精神的欲望をがっつり直接満たしたい、主体はエゴ、欲望、己だ。何らかの原因により、現実の女性に向けられるはずの嗜好が、己の欲望にひたすら純粋な観念の形へと歪曲して振り向けられたかたちであると考えることができる。アイドル(偶像)へ、二次元へ。

が、女子のBL系の嗜好には、非常な複雑さと倒錯がある。よりゆがんだ欲望の形であり、よりヘンタイ嗜好であるともソフィスティケートされたものであるとも、とにかくその複雑な心理構造を示しだす嗜好であるということができる。己は対象でも主体でもないのだ。観客。傍観者。(まあいうなれば覗き趣味。)

きちんとしたデータや根拠があるわけではないが、印象から言うと、私の周囲には結構この傾向の趣味を持つ女性は多い。そして、彼女らはほとんど例外なく、優れた知性と高い学歴、そして自尊心、芸術性を備え持つ。道徳心や倫理観と独自の美意識を合わせもち健全な結婚生活子育て仕事をも両立させているケースも多いスーパーウーマンな尊敬すべき女性たちなのである。

彼女らは、いわゆる女性の武器を使って男性に媚びることを潔しとしない。化粧を施し服装に気を遣っても、それは社会生活において身を護るための手段、或いは己の美学のためであり、たとえそれがフェミニンなタイプの趣味であったとしても、それは反「モテカワ」「愛され」系であり、男性受けするためではない。

例えば、コテコテゴスロリや勘違いフリフリピンクハウス。こういうのは、寧ろ。「雄々しい」。品よくほどほどに甘く愛らしく、と絶妙に男性原理社会規範に適合するための媚びが、そこには一切ない。彼女らは寧ろ男性の性のイメージを消費する側に立つ。

これはしかしラディカル・フェミニズムともリーガル・フェミニズムともまったく異なる、思想性から離れた趣味趣向であり、寧ろただ単にこの男性原理社会の歪みをきれいに裏返してみせている、そんな印象があるように思う。

ラディカルはシステム自体の歪みを是正すべく、それを根底から揺るがす外部からの力を持った概念であるし、リーガルはそのシステムの中での対等を主張する内側からの力を持つ概念である。なんというか双方まったく異なった方向性、アプローチでありながら正攻法である、んだけど。

BLを消費する彼女らの在り方の意味するところは、そのどちらでもないのだ。彼女らはそのリビドーのあけっぴろげな解放を正攻法では目指さない。あくまでもそれは主体であることを拒む、歪んだ、しかしある意味もっとも純粋に観念的であり(イデアであり)、自己の枠を超えたところにある無垢でピュアな欲望発現のかたちとしてあるのだ。どちらかと言えばラディカルに属するが、ラディカルという理論に行き着く前のもっともっとその原点のカオスの領域へのまなざしを可能とする現象である。

例えば歴史的にいえば、古代ギリシャにおいて男色とは高い精神性と高貴さのカテゴリーに属し、また理想的市民社会のためのシステムのひとつとして機能していたという。男性社会へ参加するための少年へのミッション、文化の通達、通過儀礼としての性質を帯びていた、と。スノッブの仮面をかぶったエロジジさまたちの下卑た欲望による我田引水の歪曲がどのくらいその建前の論理に関与していたのか、その割合は定かではないが、要するに高貴で精神性に特化した理想のヒューマニスティックで文化的な市民社会とは、奴隷と女性を排除した特権階級を設定することによって成立していた。このため、女性は生殖と家事労働のための男性市民社会奉仕の道具としての生物であり、奴隷と等価であり、女性への性的欲望は野獣的な本能、生殖のための卑賎なものにカテゴライズされる。つまり「性愛」の卑しさ、その低きところは女性に引き受けられ、その高き精神性や魂の高貴さとしての「愛」の純粋の部分は男色の上澄みにのみ存すると。

…これを見事に裏返して見せたのが女子によるBL愛好という逆説なんではないかと思うのだ。既に諧謔と風刺ですらある、この倒錯と逆転現象。(最も、BL嗜好みたいな歪み抜きでこれを鏡のようにまっすぐ裏返したわかりやすいものはあるんです。例えば古き良きミッション系女子寮での「お姉さま」制度に現れてくる男子を穢れたものとし女性同士の愛情を至高のものとする少女趣味、いわゆる百合族趣味。だけど、これは本当に単純な裏返し。本番の異性愛に行き着く前の同性との予行演習段階として一般化されているもので、それ以上のところへは行き着かない。)(漱石の「こころ」にもそんな描写がある。「わたし」が「先生」を異様に慕うことの原理を先生はこんな風にいうのだ。そしてこれは前述したシステムとしての古代ギリシャ少年愛制度の思想的基盤に一致する。儀式として、彼らは男装した花嫁と初夜を迎えるのだという。同性との演習から異性へのジャンプの儀式である。…なんかねえ、へええって感じですが。同性がすべて拡大した個であり、他者としての異性との対幻想にジャンプするためのトレーニングが儀式化されている、と考えるとこれは実は感慨深いステップではあるような気がしますです。)

でね、前述したBLによる「原点のカオスの領域へのまなざし」ってのは、この裏返しの論理という男性原理に対する対立項(女性による男色嗜好)設定によって成立し見えてくる、二項対立の「その向こう側」へのまなざしの可能性のことをいう。それは、今あるシステムの歪みと矛盾を諧謔を孕んだ風刺によってあぶり出し客観する視点を可能とするアルケーへの視点を顕わにする可能性なんである。

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さて、では何故特化して女子においてばかり性欲なるものがこのようなエゴを超えた形で現れるのか?

…ざっくり言ってしまうと、性が非対称なものであるからだ。

つまり、女(おんな)性は、男性中心社会において消費されるモノであり、その野卑な下位部分を引き受ける欲望の対象物として在る。主体ではなく客体である。(主体であろうとするとき、女性は社会から逸脱した存在としてのその己のマトリクスと向き合うことになる。)男性にとっての女性の価値幻想、母なるもの娼婦なるもの穢れたもの聖なるものであるその両極としてのマトリクスは男性中心社会において人間としての主体性を剥奪された形で飼いならされ管理されるシステムにはめ込まれている。つまり、女性は男性(に都合のいい)社会に適合した倫理と道徳を植え付けられながら自我形成を行うことになり、そのような「対象物という性質を帯びた存在」として育つ。奴隷として生まれ獣として生まれ愛玩動物として生まれたものたちのように。そのなかでの価値と尊厳というステータスのお札をぶら下げた首輪を与えられながら。

物理的、肉体的に圧倒的に弱者の立場に置かれた生物の本能としての恐怖を男性側は理解しない。人間としての尊厳を奪われ屈辱を受け、心身を壊滅的に破壊される、強姦される危険に常にさらされながら日常を過ごしている。夜道を独りで歩いてはいけない、ミニスカートをはいて歩いてはいけない。欲望を刺激する方が問答無用な落ち度であり悪である。不倫で叩かれ社会的に抹殺されるのは圧倒的に女性側である。貞節の美学を強要されるのは女性のみである。

(この理不尽がまかり通る不思議な社会が今現在の日本である。いじめる側に、上にいる側に、下のものから、いじめられるものから見えるものは見えない。権力の側に都合の悪い被支配者の見えるものは見えない。或いは意図的にそれをゆがめ、或いは敢えて押さえつけ、或いは別論理へと移し替えてキレイゴトにする。己の正義が汚れないように。)

で。BL.

その理不尽、暴力で踏みにじられる己の存在のあらゆる意味での尊厳(あるいは生命そのもの)の危機、その恐怖の領域に抵触することなく相手側の論理に飲み込まれることなく、生物的本能としての性欲、リビドーを昇華するには、処理するには、ソフィスティケートされた様式が必要になる、という流れなんである。己は関わらない。傍観者である。女性が貶められるシーンに感情移入し心痛める危険もないBLという分野。確かに、生殖と本能という野生から外れたところにある極めて「文化的」なかたちでの純粋な恋愛のかたちではあるのかもしれない。

古代ギリシャ市民文化の基本概念に、ある種の形で彼女らは共振している。純粋なイデアとしての観念的な恋愛のピュアネスを嗜好する。性的な下位レヴェルの肉欲はそこに従属する。けっして生殖本能として第一義となるものではない。(すべての倒錯はこれを否定する精神性の尊重のためなのだ。)

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…もちろんこの考察は、この日陰であった日本のサブカル分野、アニメやオタクがアンダーグラウンドな被差別民的扱いであった時代の萌芽の時期の原理である。現在のようにその語義を広げ犯罪に通ずるような不潔でキモいダークなイメージを払拭して、ひとつの文化のジャンルとして市民権を得た現在の状況からはずれてきているように見えるかもしれない。

が、やはりこれはさまざまなプラスイメージを付加されていった歴史の中でのその当初の、ほとんど生きていく上でやむにやまれぬ状況によって発生した、くらく激しい情熱と気骨をもって生まれたその発生原理を語るものである。

確かに現在華々しく明るく百花繚乱に花開いているものとはその「クラスタ」の質が違う。コンピュータ・インターネット。IT革命が出だしの頃にハマりこんだマニアな電脳オタクたちの天才的かつ専門的な知識と、現在手足のようにスマホを操りネットの海を泳ぎ渡っている子供たちとくらい違う。

でもね。

なんかね、原点は同じものであるような気もするんだよね。
ううむ。

何にしろ、アンダーグラウンドってジャンルが昭和以前にもっていたその抑圧による鬱屈という本質を失いつつあるとき、反動としての抑圧の揺り戻し(戦争と思想統制)の危機が訪れてきているって、なんかそんな恐怖をほのほのと感じたりするんである。「私はエロイカより愛をこめて」のしょーさが大好きで、最近のものでは「タイガー&ドラゴン」とかも好きなんですが。タイガーの方が。いやそれどうでもいいけんだけど。

で、どうでもいいけど大切なのは、これが現実のなまなましさから離れた少女漫画っていう表現であるとこなんであって、これが実写になっちゃっちゃ全然駄目ってとこなんだと思うんだな、結局。

永遠の原節子、とかそういうのとまったく同じ聖域としてのレヴェルであると私は信じているよ、BL文化。