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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

春の宵

雑記 おはなし

15の春に出会った時から、おそらく一生の友人である。

M子とは、高校時代、毎日顔を合わせ、学校中をかけまわっていた。周囲からはいつも一緒にいた、という印象を持たれていたようだ。(珍妙なチビペアだったんである。)夏休みも冬休みも部活はほとんど毎日のようにあったから、長期間顔を合わせないということは殆どなかった。学校を2日も休めば心配して電話で確認する。部活の後は皆で校庭の隅でアイスかじったりモスバーガーになだれこんだりして飽きもせずさらにしゃべり笑う。花咲く噂話情報網、いわゆる女子活である。女子高生パワー偉大なり。

昼間は一緒、夜には電話、オマケに一時期交換日記までやっていた。一体何をそんなに話すことがあったんだろう。(本気で喧嘩もした。もちろん。)

卒業してからつきあいはゆっくりとフェイドアウト、それぞれの人生の怒涛の時期にはぽつぽつと連絡を取ったり取らなかったり。

で、現在、M子とはほぼご町内なところに住んでいるが、忙しい人であり結局滅多に会うことはない。会見するとなると、まあどっこいしょという感じになってしまう。オトナってヤーネー。(「馬鹿な話さ大人になるなんて♪」(ムーンライダーズ「卒業」))

でもたとえ何年ぶりであっても、顔を合わせた途端あたかも昨日会ったばかりのように話すことができるのは、これはもう不思議なくらいなんである。

 

昨夜、地元の古い名曲喫茶で久しぶりに酒抜きで話をした。夕闇の迫る時刻の待ち合わせ。

歳を取ってお互いそれぞれさまざまな年月を過ごし、あの女子高生だった頃とは違う人間になっている。だが、相変わらず、なんというのだろう、価値観の共有、或いは感性の共有、というところはズレていない。確かにお互いそれぞれの道を経て変化したはずのこの価値観と感性が、成長(変化)後の今でも、思い出話というのではなく現状としてしっくりとわかりあえるところにある、というのはどうも非常に不思議である。

既に根っこのところを共有してしまったからということだろうか。そこさえ押さえてあればその後の枝葉の変化ヴァリエーションなぞ簡単に見通せる。

話が通じる、ということなのだ。
いいたいことが理解できる、理解される、というのが不思議なのだ。ものすごくラクである。

こういう表現方法によってこういうことが言いたいのだ、というパターンのようなものがお互いに見えている。(あと、決定的なのが「笑いのツボ」な。)

そして、数十年を経て初めて見えてくるお互いの像、というものももちろんある。

「あの頃、キミはああだった。」

お互い自分では忘れている自分の言葉を相手はずうっとおぼえていたりする。一度放たれた己の言葉、己の行動の、生きてきた軌跡は、自分で忘れていても、(それは或いはひどく決定的に)他者に影響を及ぼしていたりするものなのだ。このような、長い時間をかけたあとの後出しの理解には何やらどかんとした感慨を覚える。

で、昨日言われてすごくびっくりしたのは、自分が彼女によって彼女よりも精神的に強くまた冷酷さを持った人間であると評価されていたという事実である。

私は常に自他共に認める小心者のビビリ野郎であって、全然そう見られてると思ってなかったからものすごくびっくりした。

 

しかし、そう言われるとそうだったような気もしてくる。(言われるとすぐその気になる洗脳されやすいお脳の弱さは私の特徴である。)で、恋愛関係のカテゴリに入ったとき、傍目から見ていても相手は気の毒であったと。対象に対し異様に冷酷であったというんである。そうかなあ。

…そうか、自分を支配し蹂躙しようとする要素に私はものすごくハリネズミだったのかもしれない。

怖がっていただけなんだけどね。飲み込まれることを。

  ***  ***  ***

そうして、私にとっては生まれて初めての種類の、論理を越えた胸の中の凍るような寂しさのカタマリについて我々は話をした。私は人生で初めてのように恐怖し狼狽していたが彼女はそれは昔から日々の中に普通にある波のひとつだと語った。

明日が昨日までの続きとは限らないのだという不安について我々はたくさんのレヴェルでのたくさんの事例を挙げて語り、若いときと違い希望を持ち続け生き抜こうとする力はもう持てないんだろうというところに合意した。

次の連休の夫と実母との楽しい三人家族旅行について、現地でのうまいもの情報について目をきらめかせて彼女は語り、私はそれを激しくうらやみながら祝福した。

帰り道を歩きながら、この店はうまい酒を出すとかあのケーキ屋はものすごく不味いとかあの家の庭の羽衣ジャスミンはみごとだとか、日々を営む世界を祝福しながらしゃべり続けた。

抽象も具体も一緒くたで、すべての語りは平たく散らばり等価であった。共有されるこのひとつの時空間の中で同価値同次元にあった。

深い重い絶望感や悲しみや恐怖と理不尽と、それぞれのさまざまを抱えていることは平たく語ることによって客観化され、笑いとばすエネルギイに変換させてゆくことができる。痙攣するよな目まいがするよなその平たさを私は言祝いで、そうして笑った。

そうだ、笑い飛ばすために語るのだ。
そして私はひとりでは笑えない。


今ひとりではこの暗闇の恐怖を持ちきれないと私は弱音を吐き、人に頼れと彼女は言った。

ウン、とにかくもがいて生きてみよう。それによって取り返しのつかないことになっても痛い目にあっても失うものがあっても、きっと私は後悔しない。

一日も無駄にせず楽しいこと追っかけて生きていこうねと誓い合って別れた春の宵である。