酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

中央線が好きだ。

中央線は我が青春時代を記したタイムラインである。

必ずしも一方向のベクトルではなく。駅ごとに、歴史が刻まれている。

1Q84」の中の猫町のエピソードを思い出す。各々の駅に、街に、各々の、固有の時空が存在する。(固有の文化があるのとはまた別の意味で。)

そして浮かび上がってくるのは、その地の持つ独自性、多数の世界をつなぐ鉄道というメディア空間そのものである。

電車に乗っているときの気持ちのことだ。

…独立したメディア空間としての鉄道のテーマは、賢治の銀河鉄道にその原型が示されている。

吉本ばななの短編にもその系列のものがあった。深夜疲れた帰り道、いつもの通勤電車に現れる、「ほんとうはこの電車は可能性としてはどこまでも続いてるのだ、お金を出して切符を買い足せば、の、その現実としてのファンタジーを示唆する謎の女性の話。

解放、可能性としての動的なメディア、鉄道。

いみじくもそのメディア論を展開していたのは、吉本隆明の「宮沢賢治」だった、ような気がする。(うろんな記憶による)

(ココデハナイドコカ、の系譜は、今考えてるショーン・タンの「帰属」欲望、或いは「異国への郷愁」というテーマに繋がってゆく。ドコカへ行ってしまいたいメディア・ファンタジー)

そこでは、メディアとしての鉄道は、まさしくメディア空間、どこでもない狭間空間としてある。可能性と夢の宛先だけを示唆する。例えば賢治が岩手から東京へ、更には螺旋を描くようにして東京からイーハトーヴへと旅立つための。

ムーンライダーズ「Don't trust over30」では、博文さんの逃避或いは解放の美学が車や鉄道(枕木)に託される。ヤナちゃんの「風博士」でもやっぱり風と枕木が等価なのだ。解放のメディア・ファンタジー。

「枕木に耳を当てて聞いていた歌のように♫(柳原陽一郎)」「長い線路をひとり歩いてそっと枕木に腰を下ろしたい♫(鈴木博文)」



何もかもを愛しとらわれそこにコミットし、同時にそこから自由な存在でいられる。偏在する故郷としての独立した実体を持たない夢だけのメディアというモチーフの可能性のようなものがそこには示されている。

賢治の銀河鉄道的な意味合いのテーマでいえば、同様の意味合いを持つシーンが昨今のNHKに朝のドラマでもよく取り上げられている。「ちりとてちん」で主人公が母の熱唱する「ふるさと」に送られて出奔するシーン、あまちゃんで若い春子が、ユイちゃんが上京するシーン、あらためて鉄道というモチーフの持つ意味にわくわくした。

若者の上京。明治から昭和の伝統としての。漱石の三四郎、賢治の銀河鉄道中島みゆきのファイト。それは閉ざされた日常、閉鎖的ムラ社会からの未来と希望への解放のメディア。

賢治は岩手と東京を幾度も往復し、都会のモードと故郷の貧困に執着した。そして挫折と希望の往復電車の中で、双方を融合させた理想郷を夢見た。どちらにもどこにも属さないメディア空間。メディアは不完全であるが故に限りない宇宙への解放のエネルギーそのものとなる。(「こんな不完全な幻想四次鉄道なんかどこまででも行きますぜ…」)

銀河鉄道という抽象への昇華だ。


メディア空間のバリエーションとしては、図書館がある。開けばひとつひとつ無限の世界の可能性を開く一冊一冊の本が無限に収められた驚くべき異空間。宮沢賢治ひかりの素足」では、死後の理想郷のようなところで、神のような超越者のイメージを持つ「巨きなひと」が子供らに「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひってゐるやうなものもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうな本もある、お前たちはよく読むがいゝ。」と、一冊の本をひとつの時空、世界としてみなせば仏教での「インドラの網」曼荼羅を思わせる構図を示している。

春樹が図書館のモチーフにこだわり、図書館の地下に異界を設定した図書館ファンタジーも結構好きだ。

どこの世界にも帰属できない類の人間が魂の故郷として設定された架空のメディア空間に己の安らぎを求める。そこには絶え間なく働き続ける想像力の力の中にのみ動的に現在できる真理の可能性が潜んでいる。