酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ダイバーシティ

明るく晴れた日曜日、静かな昼下がりの中央線。

隣席には雑誌を開く上品な白髪の年配女性。
ちらりと覗くと、熟読されているのは、「たんぱく質勉強会のお知らせ」と「タラと長芋の揚げボールレシピ」の書かれた頁である。最近の研究によると、長生きに大切なのは動物性蛋白質なんですな…

昼下がりの金色の光が、ふいっと深く優しく切ない心を孕んだ、ような気がした。とろりと濃い、黄昏の蜂蜜色。

正面を見上げてみると、力強く仁王立ちしている男性。「銀と金」コミックスに没頭。裏社会で政治経済絡めてダークに活躍する男たちのファンタジックなストーリーらしい。

こういう美学好きだねえ、男性一般というのは。だから現実のこの世もこうなっちゃうんだよな、などとぼんやり考える。無表情な髭面の奥で、ハードでエキサイティングなわくわくの中にいるんだろうなあ、カレ。まあ、つくづく他人の美学につき合わされたくなんかねえやな。

それにしてもつくづくみょうちくりんな絵じゃのう。鋭さを強調する直線で極度にデフォルメされた奇妙な目鼻。少女漫画のまつげばっさばっさのキラキラおめめもうどうかと思うが。…まあどっちもどっちか。(どうでもいいけど私の最近の読み飛ばしヒット(あんまり考えないで楽しく細切れに読めるもの。)は「よしふみとからあげ」です。「聖☆おにいさん」とかね。永遠の大好きはますむらひろしアタゴオルシリーズだけど。ますむらひろしの作品はほとんど全部持ってるぞ。)

彼の横には、ピンクのハニーポップコーンのトートバッグ抱えて大きなクリームパンかじる女子高生。クリームパンとってもでかい。

こういうティピカルな女子高生にクリームパンは実によく似合う。

クリームパン最後に食べたのはいつだっけなあ。阿佐ヶ谷の好味屋の好きだったな。げんこつみたいなかたちのつやつやこんがりふわりのパンにケーキ用カスタードクリームがたっぷり詰まったやつ。スーパーで売ってるポリ袋に入ったやつとは違うよ。あの、やたら柔らかくてにちゃっと甘い添加物パンとはな。ぽっかりあいた空洞にヤマト糊みたいなクリームがちびっとなすられてるアレ。ありゃ工業製品だ。(実は昔結構好きだったけど。)

 *** *** ***

…不意に不思議な心持ちに襲われる。
こんなにも異なる世界を背負いながら、おそらく全く異なる風景を眺めながらここで同じ時空間を共有している。それぞれの物語を生きていても、同じ日本語を解し、一筋の細い糸を辿るようにして意思疎通をすることすらできるのだ、われわれは。それは永遠に完全理解には行きつかない。にも拘らず、何かのかたちを以て関わりを持つことができる。対幻想、共同幻想吉本隆明)のフィールドを共につくりだすことができる…というようなことを奇跡のように奇妙な違和感とともに感じたのだ。

(公園や街中や、そして特に電車に乗ったりしたときよく襲われる、この感覚が私は大好きだ。人はみなひととき銀河鉄道の同じ車両に乗り合わせ、それぞれの駅で降りてゆく、というような世界のありかたを、その構図を頭の中は描きだす。)

で、多様性の基礎についてしみじみと考える。昨今あれこれ言われているダイバーシティを語るにはこのあたりのことから考えねばならぬのではないか。

他者を理解する、あるいは理解できないことを容認し認め尊重する。
大切なのは、距離感、認め合い、尊重、その先なる、生かしあう場の構成。

…オレね、我が母校都立T高校のスローガン、卒業してからの方がしょっちゅう思い出すんだよ。「自主・自立・連帯」。

そして、それとセットで記憶されている、「自明の信頼と清潔な無関心」という言葉。

これは、山口 泉「ノート 水鳥のいる公園」の一節。水鳥を観察しているときの、水鳥たちの生態の在り方を、次のように考察した一節の中の言葉である。

「それは,互いに相手の存在を知覚しながら,しかも支配することもされることもない,傷つけることも傷つけられることも,脅かすことも脅かされることもない,自明の信頼と清潔な無関心に支えられ,他の生命と自分との関係というもののありようが,眼に見える距離と運動,さらに空気のなかのさまざまなディテールをもって確かめられるからである,と」

「清潔な無関心」。
なんと大切な言葉だろうか。そして極めて困難な。

一見、信頼、連帯に相反するものであるかのようでいて、決してそうではない。
自立を尊重し合うための「距離感」の大切さを如実に顕わした貴重な言葉である。

これは下衆の反対語といってもいいのではないか。「高潔」とまでは気負わない、ひどく自然でうつくしい存在の仕様を思う。高潔は、少し疲れる。矜持に通じるひきつれた修行僧のような厳しい表情の美学をまとっている。悲壮な禁欲や自己犠牲やなんかに通じるヒステリックな精神のリキみがある。

…偽善と偽悪の関係のように、ここで高潔と下衆とは同じひとつの論理と価値観にとらわれたままのウラオモテの現象に過ぎない。どちらかの否定のための両極の提示。

清潔な無関心、はそれを止揚する可能性を探る第三項だ。


そう、高潔なのは疲れてしまう。24時間タタカエマスカ。

オレほんとダラダラでグズグズで疲れるのって心身ともにダメなんよ。疲れるのっていうのは、自分かどっかの誰かのどこかに、無理や歪みや無意識の隠蔽やなんかがあるから疲れるのだ、て、思っている。

ゴンゴンゴンゴン加速して、滅亡に向かって進化発展パワーゲームなんかしなくてもいいのに。人間、一度味わった進化の面白さからは抜け出せない。後ろには戻れないんだからさ。もっとスローダウン、テゲテゲゆるみをもって楽々生きていけたっていいのに、世の中。立ち止まったら途端にドロップアウトということになってしまうこの社会。絶えず前向きキラキラ輝いて泳ぎ続けないと死んでしまうイワシのようだ。


なんかとにかく、周りに高潔すぎる人が多くてなんか困っている。中島みゆきの「蕎麦屋」(世界じゅうがだれもかも偉い奴に思えてきて/まるで自分ひとりだけが いらないような気がするとき♪)な気持ちなんである。(蕎麦屋たぬきうどんは食べないけど自分。)


…「清潔な無関心」。エゴや冷淡さと背中合わせでありながら絶妙に尊重と連帯への可能性の橋を繋ごうとするとき、この言葉は 相手を己の価値観の中に取り込まない、決めつけない、裁かない、支配下に置こうとしないという意味で、大きな意味をもつ。

尊重、ということは、どこかひやりとした冷淡さをも含んだ「あかるくつめたいとこ」(宮澤賢治の想像した貴い仏界のイメージ)に近い感触にものなのかもしれない。

自立は孤独か?
その否定としての連帯がある。

…難しい。

そのバランス感覚が、ダイバーシティに関するさまざまの問題を解決するための方策の、その基礎的地盤として、通奏低音として、必要となる概念である。

ような気がする。

ノーベル賞

今年のノーベル文学賞は、まずはいろんな人が春樹受賞問題についてあーだこーだ言ってていろいろ楽しかった。

とりあえず思ったことは、純文学と通俗文学の境界線についてあいまいになってる定義を問い直すときなんじゃないかなあということ。あとノーベル賞ってなんなんだってとこを。

あれこれ混乱している。
世界じゅうで、さまざまな価値感がぐちゃぐちゃに乱れた価値基準崩壊の乱世になってる感がある。

ここで大切なのは、双方の、歴史と現代におけるその意味の変遷、その文脈を押さえておくこと。新たに定義しなおしつづけること。この辺を曖昧にしたままのあーだこーだは何を言っても土台のない砂の城、不毛すぎる。

逆に言うとこの論議が、現代がそのそもそもを問い直すべき「そのとき」なんだっていう自覚と発見の発想になる、そこにつながるトリガーとなるんだったら、これは不毛なものではなく、むしろその素晴らしい機会であると思う。

ツイッターで音楽ツウな高校の先輩がこんなこと呟いてた。

ボブ・ディランは、有名な賞などを受けて、時代に定着させてしまわないほうがいいんじゃないのか、 などとひねくれたことを言う。」

「以前だったら泡沫候補って呼ばれてたような人がど真ん中にいたりするんで、中心と周辺が逆転した世の中に生きているんだと思ったが、すべてのものが周辺化してしまったといったほうが、正確なんじゃないかと思った。つまりこれは、空洞化というものなんでしょうか。」

茂木健一郎は、ノーベル賞の選考基準の冒険性を大層評価していた。これはおそらく「話題になる」ということそのものについての評価でもあった。一石を投ずるということ。賛否の論議が巻き起こることを予期した、或いは「それを期待した」決断である、新しいパラダイムのための世界中の思考の、議論の活性化を呼び起こすための英断であると。

この後、ボブ・ディランはマスコミの取材に取り合わず連絡も取れずツアーを続け、それに関して何らのコメントもしないという「ノーベル賞スルー」というファンをシビれさせるかっこよさを披露した。(ちなみに私は個人的には、「やっぱりすごいな、結構好きだな。」と普通に聴くけどそれほど熱狂的なファンではない。iPhone君にアルバム3枚入ってる程度である。)

で、同賞を選考したノーベル委員長のペール・ベストベリィ氏は21日、こうコメントしたという。「無礼で傲慢(ごうまん)だ。」

この煽情的なニュースの見出しで、メディアの狙い通りネットは燃え上がりましたな。権威をかさに着た傲慢。…だけど、これはマスメディア常套のイカサマ報道だ。だって、意図的に隠されたこの続きはこの科白だったんだから。「でもそれが彼ってものだ。」(知ってたさ。)

なんかカッコいいなあ。こういうのって。
とっても粋なオトナな感じがしてさ。

なお、発表から2週間以上も沈黙を続けたのはどうしてなのかという問いにボブは「でも、今はこうして話している」と煙に巻いてみせた。

また、ダニアス教授が授賞発表の際、ボブの作品をホメロスやサッフォーらのギリシャの詩人を引き合いに出して称賛したことについてどう思うかという問いには確かに自分の作風はホメロス的なところもあると次のように語っている。

「確かにある意味じゃそういうところもあるかもしれない。"Blind Willie McTell"、"Ballad of Hollis Brown"、"Joey"、"A Hard Rain’s a-Gonna Fall(はげしい雨が降る)"、"Hurricane"とか、この手の曲は、本質的にはホメロス的だよ」

ただ、歌詞の解釈については「どういうことなのかはみんなが決めればいいと思うんだ。学者とかが、いい答えを持ってるんじゃないのかな。俺にそれを説明する資格はないんだよ。俺には意見なんてものはないんだ。」と説明してみせている。

いざ授賞式、やはり彼は出席しなかったけど、誠意のあるメッセージを寄せている。


文学とは何か、音楽や演劇との関係は、物語と言葉とは何か、という問題に関して、とても一貫した態度をもったカッコいい人なんだなあ、このひと。目のまえの現実と理念の相克をリアルに闘ってきたひとの、こんな風な言葉や音楽に対する透徹した感性というのはそのままトータルに完成した美しい論理を宿した知性なんだ。

全文を訳したものがここにある。

シェークスピアと文学との関係を自分の作品と文学との関係になぞらえてみせたのは詩人ならではの見事な手腕だと思った。文学とは、という問いは自分(ディラン)が答えるための問いではなく、ただ自分が体現してみせる中にソレを読み取る人の「文学」に対する思考(「学者とかが、いい答えを持ってるんじゃないのかな。」)を促すものである、という宣言であるように思ったんである。

娼婦

タイミングずれちゃったけど。

こないだの夜、SNSの同世代以上の方々のTLはざわざわと静かな熱い興奮にざわめいた。「NHKBSでスティングが歌ってる。まさか今になってこんなことが。ああロクサーヌ。」

 

スティングなんて聴いてなかった。

高校の友人はみんな当時から聴いてたみたいだけどね。
ガイジンって苦手だ、わがんね、って思ってた。カルチャーも言語も異なる異人種、オレのような排他的シマグニ根性の持ち主にとって毛唐なんぞ人間として共通項を見つけただけで感動するくらいの恐怖の対象、異界のエイリアンだ。

(昔も今も考えは変わっていない。)

 

ただでさえ他人はわがんね。いわんやガイジンをや。
…でもね、まあだからこそ共通項を見つけるとなんかびっくりして感動するわけなんだよね。

 

スティングロクサーヌ
レゲエ調のリズムに乗せて娼婦への純愛をうたった歌。

PVがあんまりひどいんで放送禁止になったらしい。

 

で、娼婦である。
社会の底辺と言われている。下賤なんである。

で、文学っていうのは底辺や下賤に親しい分野なので、古今東西、娼婦は結構メジャーなモチーフである。娼婦文化。

とりあえず思いだしたのは、永井荷風「墨東綺譚」。
ここで象徴的なのは、作品中、娼婦の世界玉ノ井が、「川向う」にあったということがきちんと描かれているということである。主人公が橋を渡って娼婦のところへ通う、橋を渡るという、そのいちいちの描写。

橋を渡るというのは、儀式だ。

花街は、ケガレの場所としてまっとうな社会とは隔離されていた、娼婦の世界は異界。そう、川向う、橋を渡った「向こう側」にそれはあった。(今はどうだか知らないけどさ。デリヘル嬢とか援交とか宅配ピザみたいなシステムが便利だもんね。)(ここでは電話やネットが「橋」になっている。要するに「向こう側」に繋がる「メディア」なのだ。)

日常生活の中で橋の向こう側とこちら側を主人公は行き来する。世界の境界を超えるとき、洋の東西を問わず、川というモチーフは普遍的に現れてくるもののようだ。三途の川、ギリシャ神話のステュクス。(因みに川と橋のモチーフはムーンライダーズ鈴木慶一の歌にもよく出てくる。時間的な意味合いをダブらせながら、川を遡る、或いは取り返しのつかない新しい世界への橋を渡る決意のイメージ。)

 「日常現実」の外側に位置するもの。或いは、周縁。
それは、徹底的に蔑まれ貶められながらも、いつでもどこかで中央権力の閉鎖と停滞、息苦しさを救う解放の可能性であり、何もかもひっくり返す祝祭のパワーを宿したカオスと接したメディアである。

中央から外れ挫折しずり落ちてゆく個人(或いはそのオモテの顔に隠れた裏面)を受け止める場所、そこで、貶められた女たちは男たちの社会性の裏側に君臨する女王ともなる。

純愛。ロクサーヌ
穢れた者たち、河原者、賤民は、逆に言えばシステムの外側、中央権力の及ばない世界に属するものであり、自由と解放の民でもあった。娼婦はシステムに絡めとられた領域にあったが、どこよりも彼らに近いところにある。

ロクサーヌを愛し、売春をやめてくれといい、「こちら側」に引き取ろうとする歌詞の純愛は、社会的には認められないものだ。

娼婦を歌ったというだけで放送禁止になったくらいだもんね。オモテに出してはいけないのだ、押し込めておかなければならないのだ。隠蔽すべき穢れたもの。そして穢れていながらも必要なもの。男たちの下卑た卑怯な笑いの共犯性の中にその真摯な生命の尊厳を損なわれているもの、彼らがそこに頼りそこから密かに力を吸い上げねばならぬもの。

非常に不思議なのは、女を生活のための金銭によって穢した男たちは穢れていないとされていることだ。己の闇と穢れの部分を女に贖わせているという構図である。…公衆便子とはよく言ったもんだ。己の生命を繋ぐDNA、次世代の神秘の生命の行為と生きている自分自身の細胞が穢れた汚物か。

そんなに性が卑しいか。権力構造の支配の中に管理しておきたいか。

金銭によって性的関係をもった共犯者でありながら、対象の女たちを「蔑んでいる限り」お天道様のあたる「こっち側、男社会構造」の中のまともなパーツとして存在していられる。社会的な上層部にだってすましかえっていられる。穢された女たちばかりが社会の闇に堕とされる。まあなんというか男社会が円滑に運営されるためのシステム、奴隷制度の上に成り立った豊かさと繁栄の美麗な文化みたいな構造で、とりあえず盗人猛々しいといったところである。

いつだって、歌の中に、文学の中に、祝祭の中に、密やかに闇の系譜は息づきながら、たくさんのひとびとのさまざまな矛盾と痛みと涙を暗いエネルギイとしてため込み、次なる世界の革命の種子が熟するのを待っているということなのかもしれない。

(革命なんてあるんだろうか?)

旅するパン屋

夕方、ヤレおうちだ、と思ったら、なんか音楽が鳴ってる。

ウチのマンション玄関前に移動パン屋さんがとまっていた。
知らなかった、今でもあるんだ。

 

子供の頃、一時期、岡山のものすごい田舎の山の上に住んでいた。それはもういちいち山を下りないと買いものもできないくらいのレヴェルの田舎であった。家の裏手は岩山、窓から見はるかすのは瀬戸内海。

で、時折調子っぱずれの音楽を鳴らしながらやってくるパン屋やポンポン菓子屋のトラックがとっても楽しみだったんである。そんなこと思い出した。(確かメロンパンがうまいパン屋だった。)(ポンポン菓子屋とは、米と砂糖をもっていくと、ポンポンポンポンと鳴る機械にかけてお菓子に加工してくれる業者である。)(できたてあったかくておいしいのだ。)(あんまりおもしろいので機械に入れて回す作業やらせてもらったことがある。よく考えるとお金払って労働させられたんである。)

コドモにとって、パン屋やポンポン菓子屋のおじさんはまれびとでわたらいびとな旅人で、地方を回るサーカスの人みたいなイメージをまとっていた。あとね、月に一度「学習と科学」やら「小学〇年生」とかを配達しに来てくれる本屋さん。本当に楽しみだった。(もちろん付録がミラクルな「科学」のほうがずっと好きであった。花の汁リトマス試験セットとか指紋検出セットとか。)楽しみは、宝物は、価値は、どこか遠い異国の都会からやってくる、ような感覚だな。

価値の発生や流通というモノやコトの流れの原点は、なんだかそんな物語を孕んでいる。(今の日本ではほとんどなくなってるけど。)

 

…見てたら、女の子がものすごく一生懸命パン選んで、袋抱えて踊りながら帰って行った。(ホントに袋振り回して踊ってたんだよ。パン嬉しかったんだね。)(気持ちはわかる。)

画像に含まれている可能性があるもの:食べ物、1人以上、室内

ケイトウ

鮮やかな色彩のあの花の鶏頭、ではない。

ニワトリアタマである。

…知り合いに、言い当てられちゃったんである。「momong ハ ニワトリアタマ。」

ぎょっ、とした。

髪の毛のかたちのことではない。

三歩歩くと、忘れてしまう、脳みそのことである。

 

…そうなんである。

辞書を閉じた瞬間、何を調べたか忘れてしまう。
冷蔵庫を空けたとたん、何を出そうとしていたか、忘れてしまう。

ああ、困るなあ。
小学生の頃は、何もかも、ぜーんぶ覚えてたような気がするんだけどな。(…頭がよかったんだな。)

脳みそが弱くなってしまったのは、まあ仕方ない。だから、忘れては困ることは、ぶつぶつと頭の中で、繰り返し唱えることにしている。

「かばんに入れた葉書、ポストへ。ポスト、ポスト、ポスト。」
「○ちゃんからもらったお便り、返事、返事、返事。」
「冷蔵庫の煮豆、煮豆、煮豆。(食べ忘れないように。)」

…「ボタモチ、ボタモチ、ボタモチ…どっこいしょ。」の落語の世界である。

本当に、やっぱり、ちいと情けない。

頭よくなって、何もかもつうつうと分かったら、泉のように楽しい知恵が湧いたら、楽しいだろうなあ、なんてぼんやり夢見て、うっとり。

だって、何をするにも、いちいち、「ああ、どうしよう。わがんねえ。きっと、ワシには絶対不幸がおこって、トラブルがやってくるんだ。きっとうまくいかない、ダメだ、ダメなんだ。」というふうに思っちゃうんである。

 

…さて、このマイナス思考に関しては、古い歴史を誇る。
思い起こせば、さまざまの三月、入学や進級のたびに、不安でいっぱいであった。新しい教科書がどさっとやってきて、眺めたら、たくさんの難しそうな内容。

「…ああ、もうダメだ、こんなに難しそうなこといっぱい、勉強して分かるようになんてなれそうもない、きっとテストで赤点とって、ワシにお先はない。」などと絶望した15の春のことなんぞ、思いだす。

過ぎてしまえば、結局、なんとかなってるんだけどねい。
実に、このマイナス思考と優柔不断というのは、厄介者である。

セーターひとつ編むんでも、糸だま転がして、悩む悩む。

「…ううむ、身頃と袖、ここまで編んだはいいが、袖と縁編みのデザイン、どれをどう使って、どうすればよいんであろうか…ああ、失敗して、今までの苦労が水の泡に…」
Yarn1_2

ケイトウの花で糸を染めて編み物をする童話もあるよ。柏葉幸子「地下室からの不思議な旅」)

話し言葉と書き言葉 その2 三位一体

眠れないので飲みながらつれづれに書き綴る酩酊君です。

ええと、書き言葉と話し言葉について。

普段から何となく感じていた引っかかりについてである。
…人の話す言葉と書く言葉の乖離、同一人物なのに人格としてその言葉が与える印象が違うという現象についてである。

チャットなどでは見えにくいが、ある程度の長文になってくるとこの現象は如実だ。「ひとり語り」はそもそもが書き言葉的なところに近い。実際、プレゼンだの講演会だのでは、「書き言葉を話し言葉に翻訳する」という逆転した流れが必然である。

ラジオ講座なんかで、いかにもシナリオ通りの科白で「~なんですよ。」「~なんですね。」などと「砕けた口調で話しかけるような文体」を演じる言葉のしらじらしさを思い出してみるといい。なんと不思議に独特な不自然さをもっていることか。顔を持たない不特定多数に対して、いわば抽象に対して親しげに語りかけてみせる不自然さ。パブリックという抽象概念に具体としての話し言葉(パロール)を用いるのは「不自然」なねじれをもってしまうものなのだ。…こうして考えてみると、言うなれば、書き言葉はよりパブリックな性格をもち、話し言葉はよりプライヴェート、というよりはドメスティックな性格をもった言語だということができるのではないか。話し言葉はより厳しく「現場性」に縛られている、ということだ。

「言文一致運動」以前の、文語体としての書き言葉と口語体としての話し言葉の乖離は象徴的なものだ。

実際に文語体で書くわけでなくても、話し言葉と書き言葉では使う文法、ルールが無意識に使い分けられている。例えば内面での思考の流れと会話に顕れている言葉の意味するところの流れとの乖離があるとしよう。そこには言語的重層構造が出現している。話し言葉と書き言葉の乖離の構造はこれに似ている。論理的思考のレヴェルと(言いたいこと)それが実際のコミュニケーションの場に引っ張り出され受肉されたときの、その現場に適応してメタモルフォーゼしてしまったかたち。(TPOに縛られている。)

話す人格と書く人格が微妙にずれていたりすること。これを敷衍すると、それが実は言葉の持つ本質に所以するというところに通じてゆく。例えばリアルでの人格とネットでの仮想人格の関係とかね。

しかし「ずれていたりすることがある」というよりは、寧ろ一致してる方が稀有(というより偶然、あるいは恣意的)であるということをここで私は言っている。いかに話すように話し言葉を綴ってみせても、やはりどうしてもそこには実際にその人が語っている身体性を伴った「現場の言葉」とは微妙だがあきらかな乖離がある。

…そしてしかし、それは、どちらが本当でどちらがうそ、ということではない。(どちらが演出でどちらが本音であるか、ということではない。)身体性を剝奪された書き言葉、というのは全体性を剥奪された、と解釈されがちだが、それは換言すれば身体性、現場性の呪縛から解放された独立した法の下にある言葉であるということもできるからだ。ネットでの人格がリアルでの人格から解き放たれることのできる、その解放のための変幻自在なペルソナであったように。(「書くこと」が、いわゆる「癒し」、心理的病理の治療行為に通じてくるのはこの関係性の構造による。)

そのどちらもがそのひと自身である。このことを考えるとき、私は、なんというのだろう、一種、感動、を覚える。人間のいうもののアイデンティティというものの深みというかワケわかんなさというか。そういう構造的なところに潜む神秘の個所に目を開かれる思いがするのだ。

人間はいくらでもシンプルにもなれるし複雑怪奇にでもなれる。それは分析次第なのだ。人間のどの「層」と「構造」をみるか、という。そして全体性というものを考えるとすれば、それは、ゲシュタルト心理学が主張しているように、要素の集合ではなく、構造を持った全体であるそのこと自体による不可知のプラスαの付加を意味している。



で、この書き言葉と話し言葉の構造とその混乱をソシュールやバルトの考え方にあてはめて分析してみるとどうなるか。

ソシュールが構造言語学でランガージュ(言語)をラングとパロールの二層の構造としてとらえたものに、ロラン・バルトは第三の要素、エクリチュールの概念を加えた。次のようなものである。

まず、抽象的な(文法レヴェル)言語層としてのラングがあり、個的な具体性をもった活用レヴェルとしてのスティル(パロール)(話し言葉)がある。(身体性を伴った発話の「現場」である。)

そして第三の層がエクリチュール、書き言葉。これは「社会性を書き込まれたもの」としての様式化された言語層である。「キャラ」とか「クラスタ」とか、プロファイリング、類型化されうる社会的人格だ。つまり、これを駆使することによって、容易にネット上での仮想人格を演出しうるレヴェルであるということを示す。

すごいな、ぴったりだ。まさにエクリチュール、「書き言葉」というこの語が、言語によって人格を演出する概念となっているのだ。…書くことは、すなわち人格の自己演出、物語演出としての言語であるという定義を導き出すこの言語構造、わくわくする。

言語の、この三位一体構造。

第三項エクリチュール、ってとこの発想が一番おもしろい。大体が、三位一体ってすごくいい言葉なんだとしみじみ思った。

二項対立プラスワンっていうのは基本なんだな。ヘーゲルのテーゼ・アンチテーゼ・アウフヘーベンだって、立体構造をもった三位一体のヴァリエーションのひとつとして考えたっていいのではないか、などと思う。第三項は必ず二項対立の織りなすのっぺりと平面的な論理地平の外部へと通じる、矛盾からの跳躍、革命のダイナミズムを孕んだ動的な要素なのだ。

三位一体、父と子と聖霊にあてはめるとするならば、父はラング、母はパロール、そして聖霊エクリチュールだ。(神とはそのすべての「全体」としてある。)それは、霊と肉と、なんだろう、霊の存在を肉のレヴェルで具現してみせる力、或いは気、動き、ダイナミズム、関係性。(抽象・具体・メディア《ミメーシス》)

そして、全体で一としての言語をこの三要素として分析して考えると見えてくるものとは、ということだ。

ネットでの言辞はほとんどすべてがエクリチュールである。
それら跋扈する「リアル」の現場から解放された言葉の妖怪たちは、ラング、パロールの領域にも影響を及ぼしてゆく。文法は変化し、パロールにはネット用語が応用されて。ヴァーチャルがリアルを多様なものとして読みかえる。…浸潤してゆく。

あたかも、現実が芸術を模倣してゆくように。

私は、楽しいと思う。このナンデモアリの言語の野放図な時代を。
同時に、反動としての、言語を粛正する時代のきな臭さが漂ってくるこの窮屈な時代を恐怖する。

混乱とは可能性だ。ひとりの人間の中の人格の数的無限は、世界の数的無限だ。
顔を合わせ、ボディランゲージと触れ合いをふくめたパロール・コミュケーションと、抽象的なSNSによるエクリチュール・コミュニケーションを合わせて、決めつけることのできない相手の多面性を認めてゆく。より(ワケワカンナイ)相手の人間性への無限に対する感情が、混乱と決めつけへの欲望ではなく、ひたすらの畏敬と愛情であることを、私は、私の幸せのために、祈る。とりあえず。

新たな時代がどう転んでゆくか。

これは次なるひとつの時代のための序章である、と、そんな風に思うんである。

話し言葉と書き言葉 言文一致と情報革命

60代以上の年配のご婦人は各々独自の仮名遣いにこだわっておられるケースが多い気がする。指摘してもスルーされるということは、なにかこだわりのようなものがあるのだろうか。一応、を「いちよう」と表記し「つ」のローマ字を「tu」と綴る。こないだは「スパームウン」という単語表記をしておられた。

最初に脳内に刷り込まれた語感と表記の結びつきのイメージ、言語感覚というのは容易に翻すことはできぬものだ。

そもそも書き言葉と話し言葉というのは本質として異なった言語基準にある。日本語では、明治の言文一致運動を以て初めて、アカデミックな文語体であった書き言葉が口語体の日常言語への可能性に開かれたのだ。

一部の知識階級のものであった書き言葉が、大衆の言葉に開かれたということは、革命だった。


文語体の品格を重んずる知識階級からは根強い反発もあったという。大衆に開かれるという意味はすなわち玉石混交の混乱を招くという意味である。

いままできれいにならされた地平に並べられた粒ぞろいの言葉、文語体でチューニングされ構成されていた「知」の世界の調和或いは馴れ合いと停滞は、異質な大衆の言語、口語によって破壊され、不協和音を響かせはじめる。

「シロート」さんとして同じステージに立つことすらできなかった種類の人々の異なった思考回路が安定した停滞の中にまどろんでいたアカデミズムとしての知の世界構造(それは往々にして権力と結びついて発展してきた。)に殴り込みをかけたのだ。それはもちろん「書き言葉」全体の品格と質の低下を招いたであろうし、同時に、次の時代を拓く「知」のより深化したレヴェルでの新たなるパラダイムを構築する起爆剤ともなった。破壊と混乱、再構成、死と再生のミッションのとき。

…この「言語」における革命、混乱の社会的な構図は、優れて現代的なひとつの社会のイメージを想起させる。

言語、をそのまま情報、に置き換えてみよう。

マスメディアだけに許されていた特権であった情報管理、情報操作の「権力」が、インターネットによって一般に開かれた、この現代社会の情報革命と混乱の構図である。びっくりするほどぴたりとあてはまるではないか。

と構造を重ねて考えてみると、とっても面白いのだ、言文一致運動の顛末。


そしてそれが行きついた先である現代の、例えばボーダーレス文学(ボブ・ディランノーベル文学賞だもんな!)という状況。

 ***  ***  *** 

とにかく情報革命以来、世の中混乱している。
世界じゅうで、さまざまな価値感がぐちゃぐちゃに乱れた価値基準崩壊の乱世になってる感がある。

つまり、逆に言うと、現代がそのそもそもを問い直すべき革命の「そのとき」なんだってことになる。

あらゆる「権威」「常識」が覆され、新たな指針が模索されつつある、いわば乱世。世界中で天変地異やキナくさい戦争、テロ、紛争の気配。(自然災害と社会の変動って確かに連動しているものだ。暮らしの基盤に不安が訪れ人心は荒れる。人心が荒れれば国は荒れる。)停滞の時代に押し込められていた矛盾が吹きあがる。良識も悪弊も渦巻いて何もかもぶっ飛ばされる、ただ力が吹き荒れる、ナンデモアリ。トランプあり、ドゥテルテあり、ネタかと思ってたらホントに大統領になっちゃう暴言王。ヒットラーの時代は近い。内実を持たないキレイゴトなんかぶっとばせ!各々が己に都合のいい正義を振り回すのだ。

それは、もちろん、本当にうつくしい正義の顔だってもっている。権威の中に安住できていた「オトナの事情」的なるモノ、内部の閉鎖空間で通じていた世の非常識なる常識、腐りきった非人道的行為も、世界中のあらゆる外部の目に、瞬時にもれなくさらされてゆく。

(それは単純にテクノロジーによって実現した革命なのだ。)(つまり、自然の成り行き。)(必然。)

大学も病院もお大臣も大企業もエラいさんも。

「自称」を付け合って知力の限りを尽くし罵りあってるコメンテーター評論家の世界ばかりが、有象無象社会の隅々までぐう~んと広がった。みんなが平たい場所で通じない言語を飛ばしあう。

あらゆる秘密と制度に守られていた権威はそのヨロイをはぎとられさまざまの多様な価値観のもとにさらされる。

本質を失い形骸化した権威なるものの失墜の危機、すべてが白日の下に。

その功罪。開かれることは澱みや汚穢を防ぐ為にとても正しいことであっても、ときに正しくなくなることもある。悪意に対しても何もかもが開かれてしまうから。例えばネット炎上の功罪だ。

誹謗中傷の野放し、悪意と疑心暗鬼の跳梁跋扈、保身、陰謀、日和見ポピュリズム、衆愚。プロフェッショナルなるものやオーソリティの軽視。積み上げられた歴史への、或いはおおいなるものへの畏怖の欠如、バイアスのかかった頑迷さによる信念同士の秩序のない意固地のぶつかり合い。

そしてその必然は、反動、或いは逆説としての保守からの締め付け、問答無用の力の権威の出現、奪われる自由と権利、流れつく先はきっと…戦争だ。


…なあんてね。世の中よくわかんないからあれこれ怖い方へ考えてしまうんだよな。
今夜もいい加減酔っぱらいすぎだ。(ウコンシジミサプリって買ってみて飲んでるんだけど。)(麦酒で飲みくだす阿呆である。)も少しちゃんと整理して考えないといけないけど酩酊君のときの勢いも必要なのだ。全然まとまってないのでぼちぼち整理する予定です。(気が向いたらね。)

おやすみなさい寒い寒い。