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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

娼婦

雑記

タイミングずれちゃったけど。

こないだの夜、SNSの同世代以上の方々のTLはざわざわと静かな熱い興奮にざわめいた。「NHKBSでスティングが歌ってる。まさか今になってこんなことが。ああロクサーヌ。」

 

スティングなんて聴いてなかった。

高校の友人はみんな当時から聴いてたみたいだけどね。
ガイジンって苦手だ、わがんね、って思ってた。カルチャーも言語も異なる異人種、オレのような排他的シマグニ根性の持ち主にとって毛唐なんぞ人間として共通項を見つけただけで感動するくらいの恐怖の対象、異界のエイリアンだ。

(昔も今も考えは変わっていない。)

 

ただでさえ他人はわがんね。いわんやガイジンをや。
…でもね、まあだからこそ共通項を見つけるとなんかびっくりして感動するわけなんだよね。

 

スティングロクサーヌ
レゲエ調のリズムに乗せて娼婦への純愛をうたった歌。

PVがあんまりひどいんで放送禁止になったらしい。

 

で、娼婦である。
社会の底辺と言われている。下賤なんである。

で、文学っていうのは底辺や下賤に親しい分野なので、古今東西、娼婦は結構メジャーなモチーフである。娼婦文化。

とりあえず思いだしたのは、永井荷風「墨東綺譚」。
ここで象徴的なのは、作品中、娼婦の世界玉ノ井が、「川向う」にあったということがきちんと描かれているということである。主人公が橋を渡って娼婦のところへ通う、橋を渡るという、そのいちいちの描写。

橋を渡るというのは、儀式だ。

花街は、ケガレの場所としてまっとうな社会とは隔離されていた、娼婦の世界は異界。そう、川向う、橋を渡った「向こう側」にそれはあった。(今はどうだか知らないけどさ。デリヘル嬢とか援交とか宅配ピザみたいなシステムが便利だもんね。)(ここでは電話やネットが「橋」になっている。要するに「向こう側」に繋がる「メディア」なのだ。)

日常生活の中で橋の向こう側とこちら側を主人公は行き来する。世界の境界を超えるとき、洋の東西を問わず、川というモチーフは普遍的に現れてくるもののようだ。三途の川、ギリシャ神話のステュクス。(因みに川と橋のモチーフはムーンライダーズ鈴木慶一の歌にもよく出てくる。時間的な意味合いをダブらせながら、川を遡る、或いは取り返しのつかない新しい世界への橋を渡る決意のイメージ。)

 「日常現実」の外側に位置するもの。或いは、周縁。
それは、徹底的に蔑まれ貶められながらも、いつでもどこかで中央権力の閉鎖と停滞、息苦しさを救う解放の可能性であり、何もかもひっくり返す祝祭のパワーを宿したカオスと接したメディアである。

中央から外れ挫折しずり落ちてゆく個人(或いはそのオモテの顔に隠れた裏面)を受け止める場所、そこで、貶められた女たちは男たちの社会性の裏側に君臨する女王ともなる。

純愛。ロクサーヌ
穢れた者たち、河原者、賤民は、逆に言えばシステムの外側、中央権力の及ばない世界に属するものであり、自由と解放の民でもあった。娼婦はシステムに絡めとられた領域にあったが、どこよりも彼らに近いところにある。

ロクサーヌを愛し、売春をやめてくれといい、「こちら側」に引き取ろうとする歌詞の純愛は、社会的には認められないものだ。

娼婦を歌ったというだけで放送禁止になったくらいだもんね。オモテに出してはいけないのだ、押し込めておかなければならないのだ。隠蔽すべき穢れたもの。そして穢れていながらも必要なもの。男たちの下卑た卑怯な笑いの共犯性の中にその真摯な生命の尊厳を損なわれているもの、彼らがそこに頼りそこから密かに力を吸い上げねばならぬもの。

非常に不思議なのは、女を生活のための金銭によって穢した男たちは穢れていないとされていることだ。己の闇と穢れの部分を女に贖わせているという構図である。…公衆便子とはよく言ったもんだ。己の生命を繋ぐDNA、次世代の神秘の生命の行為と生きている自分自身の細胞が穢れた汚物か。

そんなに性が卑しいか。権力構造の支配の中に管理しておきたいか。

金銭によって性的関係をもった共犯者でありながら、対象の女たちを「蔑んでいる限り」お天道様のあたる「こっち側、男社会構造」の中のまともなパーツとして存在していられる。社会的な上層部にだってすましかえっていられる。穢された女たちばかりが社会の闇に堕とされる。まあなんというか男社会が円滑に運営されるためのシステム、奴隷制度の上に成り立った豊かさと繁栄の美麗な文化みたいな構造で、とりあえず盗人猛々しいといったところである。

いつだって、歌の中に、文学の中に、祝祭の中に、密やかに闇の系譜は息づきながら、たくさんのひとびとのさまざまな矛盾と痛みと涙を暗いエネルギイとしてため込み、次なる世界の革命の種子が熟するのを待っているということなのかもしれない。

(革命なんてあるんだろうか?)