酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

モモの時間、賢治の時間、井辻朱美。

パルメランの夢、だったかなあ。
あの世界のことをふいに思い出した。そうしたら、私は私の大切なものを忘れていたのだ、と、切なくなった。忘れていたことすら忘れていたのだ。

本のことである。井辻朱美さんの本。

私は井辻朱美さんのファンタジー世界の感覚が大好きなのだ。絶対にどこか宮澤賢治の世界に通じている。賢治チルドレン、というのはみなどこか共通の匂いがする。この人は独特の鉱物の短歌をこしらえる歌人で、そっちの方や海外ファンタジーの翻訳が本業みたいなんだけど、私は彼女のオリジナル小説のほうがずっと好きなのだ。(漫画家のますむらひろしに関しても同じように思う。賢治作品の漫画化よりも、そこから派生したかもしれないとしても、賢治の作品が、その存在が彼の内面と融合し花開いた世界、オリジナルのアタゴオル的世界のオリジナルティを感じる方がずっと素晴らしい、と思うんだよな。ちょっとだけガロ臭痕跡があったりね。)

さてストーリーである。
時間と鉱物と時計に憑りつかれた博士の魂が探し求めるのは、白亜紀の虹の化石。それは、濃い時間の流れていた時代の、その「時間の源泉」がそのまま封じ込められたかけがえのない宝玉のような岩石である。

これは、それを探し求めて時空を横断してゆく冒険物語。

博士は言う。

時計の刻むことのできる死んだ貧しい時間は、生きたカジキマグロ(だったかな?)を銛で打ち殺し、小さく刻んで缶詰にして、少しずつそれを食べているようなものなんだ、と。

虹の化石に閉じ込められた、時間の源泉、本来の生きた時間とは、その生きたままの新鮮なカジキマグロみたいなものなんだと。

…ということで、そこに巻き込まれてゆくのが、鉱物の魂をもった自動人形パルメランと遍歴帽子屋ロフローニョという魅力的なキャラクターである。

現代の時間が時計に刻まれるものになってから、我々はその薄められ管理された時間に、世界の本来の豊かさから、全体性から疎外された人間社会という現実、その閉ざされた閉塞の中にあるのだ、という風刺がここには含有されている。痛ましいほどリアリスティックでなまなましい概念が隠された美しいファンタジー

なぜこんな素敵な作品が廃版になって入手困難になってしまうのか私には理解できない。
(家出したとき、本当に身の回りだけかき集めて逃げ出したから、大切に集めた貴重な本、みんな本棚において来てしまった。かなしい。やっぱり四次元図書館が必要だな…電子本ならよかったんだけど。)

…さてどうして、この本(ついでに私の大切な本棚)のこと思い出したかっていうと、今私がいるこの世界、この時空、この時間についてすごくいろいろ考えていたからだ。必死で考えていた、といってよかろう。

つまり問題はいまの私のこのがらんどうな虚無感だ。これは実に大変な問題なんである。
まさに、生きるか死ぬか存在するかしないか。存在理由がなくなったときのこのパニックはなんなのか。カオスの恐怖。死の恐怖、生の恐怖。わからなさが恐怖になる構造。深刻である。生きる意味がない感覚。既に鬱病である。

…理由は理屈としてはわかっている。
人が言葉を、己の生きた時間としてのアイデンティティの源泉、そのオリジナルの物語を失ってゆくときの恐怖。世界が存在そのものが失われてしまう。はじめからなかったものになってしまう。虚無と死に浸潤されてゆく感覚的恐怖。

でね、喪失がたえられない世界のレーゾンデートル、その物語の豊かさ、それがつまりこのような概念を孕んだ「意味を与えるものである『時間』」から構成される豊かな世界とは何かっていうと、つまりその「時間」の豊饒を絶えず創造しつづける真理を感ずることなのだ、と。世界存在のリアリティとはその真理からやってくるものである。

世界を時空、時間と空間の問題としての構造としてとらえるアプローチからアクセスする。これが私にとって「アリ」なのではないか。と。それは必然的に三次元から四次元、高次元へのコノテーションを孕み、宮沢賢治的な心象風景、その世界観へと通じてゆくものでもある。

つまり、この感覚。「私の時間はどんどん薄っぺらになってゆく。」
この絶望感。両親の死の穢れを繰り返し思い出し、その虚無性とたけだけしく闘いながら私は考える。(穢れっていう表現に関してはいろいろ考えたんだ。またきちんと書きたい。)

私は、すべてがどんどん薄ぺらになってリアリティも意味もなくなってゆく離人症的なこの苦しみから逃れる論理を探していた。そしてこの「薄ぺらな時間」、という言葉が来たときその感覚がコンとわかったのだ。つるつると思い出したのだ。これらの本のことを。子供の頃の濃密な時間はもっとも深く永遠に近いところに根差していた。「濃い時間」。

成長するにつれ時間は時計と社会に根差した、それとは違う論理に所属する要素を持つものとなってきた。若い日々にはそれでもそれに適応し一体化し、食いつくし享受し、あるいは打ち勝つ力があったが、そのような「時間」は、社会は、或いは老い或いは社会の基準をはみ出した弱者の立場になったとき、いとも簡単に個を見捨てるものなのだ。そしてそれは残虐なものである。弱者となって気が付いたときには個としての自分にはもう何も残されていない。

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友部正人の「老人の時間 若者の時間」のイメージをちょっと思い出した。配られる時間は若者のところに集中し、若者は時間を持て余し焦り、時間を配られなくなった老人は時間が足りなくなって焦る。時間がなくなったとき、老人は旅人になる。…この世から消えてゆくのだ。この世とはすなわちこのかたちの時間の中の世界だから。この世からの逸脱とは、死の解釈のひとつのことである。

もちろんそれはまたエンデの「モモ」のテーマである。「時間」の意味。

マイスター・ホラ、時間の管理人の館で咲き続ける「時間の花」の秘密。
絶えず咲いてはしぼみ失われてゆく、だが流れる水のように咲いては散る、また次の花が咲いては散るその風景は既にひとつひとつの刹那の花としての個の意味のない全体性を孕んだ「一定」である。

たとえようもなくうつくしい花として示される、その柔らかな不定形のいのちの時間。
その一つ一つ、刹那刹那はかけがえもなくうつくしく、惜しげもなく過ぎ去ってゆくようでいて、既に永遠の存在という「美」につらなったものでもある。生命とはそのようなものなのだ。刹那であり永劫である。

そしてその概念の構造をアナロジーとしてあてはめてみたとき、それはまた個と集団、自我とその外側、という構造にもあてはまるものではないだろうか。個は個としてかけがえのない唯一であると同時に永遠の全体にも連なっている。生と死の関係性もまた然り。モモがそこで生が死の虚無性を凌駕し、すべてが存在としてうつくしく響きあう世界のマトリックス、星々の歌う宇宙の歌を聴き取ったのも必然といえよう。それが真理である、歓びと美、真善美である、そして愛である、という物語。

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ということで、冒頭のパルメランの時間の源泉、虹の化石、原初の、ほんとうの、真理としての時間に戻ってくるワケだ。「失われた楽園」の時間。

…パルメランの方にはそういう宗教臭はないけど、とりあえずモモの方では、この考え方は、アレなんだなあ。幸福とは神の世界の、贈与の美しさを、すなわち神を讃えることであるというキリスト教のエッセンス、美学。

それは、原理として理想的なキリスト教の感覚ではあると思うけど。
ひたすらによりよく与えられることを信じていれば貪ることも奪うことも憂うこともなく、ただうつくしく至高の神のもとにあるというヨロコビや幸福の感謝の中に存在できる、そのような、心の奥の秘密のマイスター・ホラの屋敷。

まあファンタジーの力である。読書と言葉世界の力。
時間とは本来そのような「いのちそのもの」としてあるものなのだ。生命の、存在の源、存在としての「時間」。

無償の贈与として、その与えられたままの至高の幸福をただひたすら享受するべきもの。小賢しく加工し貯金したり所有したり取引したり、そんなことをするべきものではないのだ、とこの作品は教えようとする。満ち足りて生活していたはずの人々のつつましくも与えあう豊かな日々の暮らし、いのちの通った時間を、催眠術のように心の中の奇妙な欲望を掘り起こして奪い取り、乾かして葉巻にして死んだ時間を生きる時間泥棒たち。(彼らが何のメタファであるかは読者各々が一生懸命考え続けなければならないことなんだろな。すべては各々にとっての正解。真理とそのようなものであるとワシは思う。)

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四次元について考える。
時間という要素を含めて世界全体を鳥瞰する四次元。点、線、面、そして時間。時間というのが全く前の3つとは異質であると感じてしまうのは、時間というのが本来多面であるはずなのに三次元世界では一面でしかとらえられない、計算できないからである。

宗教や哲学、将棋の天才、数学や文学、第六感。ただ彼らの直感が、そのたとえて言うなら「星の時間(ツヴァイク)」的な、三次元を決定的に凌駕する感覚として、その次元の風景をとらえることができる。

この三次元世界では形にできないナニカが、四次元世界ではクリアな像をもって、たとえて言うなら三次元世界を凌駕した、鳥瞰する視点を持てるのだ。

これが、仏教の世界観、インドラの網を通じて賢治がかたちづくり創造し主張した「春と修羅」の序文、銀河鉄道のテーマ、幻想四次元の構造に通じてくる。そのような、時間という要素を孕んだ高次元の視点を科学としてとらえようとした賢治の自由な視点、思想の方向性を示しているのではないか、と私は思っている。

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時間の伸び縮みとか濃さ、というのはね、たとえばね、小さいとき夜中に目が覚めると夜中はもっと永遠にあるもので、寝ないでいるとそれは永遠に続くもので今とは違う時間がながれていたんだけどな、と感じるその感覚。(またあの時間の中に入ることができたならうんとたくさん本を読んで夜中の街で猫のように冒険をしたりできるのに、というような夢を見るとうっとりするのオレ。)

あと、時折ふわっと閃く啓示のように思い出すシーンがある。そういうのは、トリガーがあったりもするんだけど、大体急にぽとんと落ちてくる。小学生の時遊びに行った友人の家の屋根裏部屋、その夢のような午後の光に包まれた時間、ちょっと埃っぽい秘密のアジトな漫画部屋で過ごした時間のこと。(ものすごい蔵書であった。漫画図書館である。主として手塚治虫全巻をそろえたコレクションが完備されていた。)

その感覚は、多分「失われた記憶を求めて」(注・未読である。有名な冒頭のシーンだけ。)で、マドレーヌの香りがふわりと記憶を呼び覚ました、というアレに似たものだと思う。おそらく同じもの。記憶は風景。或いは捏造を必然的に前提とした夢の物語創造。

もう一つ。例えば、この街の時間のこの本屋のこのコーナー、という特定の時空が私にはある。特別に開かれる心の中の時空チャンネル。夕暮れの光、本屋の賑わい、本屋カフェ。旅と本への妄想を倍音として響かせる、うっとりするような妄想。

本屋カフェが併設されたこのおおきな書店。
うう、美術に造詣があるわけでもないのにこの時間この本屋のこの場所に立つと絵と絵本の美しいコーナーに立つと、突然捏造された過去も未来もない記憶の中で強烈にしあわせになってしまう。この世界全部巡ってみたくなる。本を買い、そのままカフェへ、そして宿へ。そのまま駅から旅の空へ。空港のホテルから異国へ。

…っていうようなね。欲望の発生は物語の発生、幸福の発生。ああ、自分は実はそんなことができるんだ、と感じることができる。その不可能性の切なさをも秘めた妄想としてのエッセンス。

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子供の頃、本に夢中になって時を忘れた。

オトナの時計の客観的時間の中では、それは限られたほんのひとときのはずなのに、確かに限りなくその時間は永遠だった。風も光も窓の外。あの図書館の陽だまりで這いつくばるようにして読んでいた。足りない足りない、本が足りない、私は永遠にいくらでも読めると信じていた。世界はいくらでも豊かに広がっていた。日常に守られながら魂は自在に飛行する。

パルメランの時間の源泉の物語は、そのクライマックスのシーンの描写は、ネタバレになるから言わないけど、素晴らしく美しく切なく魅力的な世界なんだよ。

それは、からくり人形であるパルメランの中には記憶=記録されることができるけど、生きている存在であるロフローショには記憶できないもの。「失楽園」、ロマンティック・イロニイの原理のもとにある、所有することのできない喪失を前提とした「時間」「神の時間」、いわば空虚としての「真理」だからね。

パルメランが己の魂として選んだ鉱物、失われた神話の時代のドラゴンの護ってきたももいろ水晶がメルツェルの「罪」とのアマルガムとなって顕現した鉱物。それがハーモニカとなって演奏されるその音楽の鳴り響く間だけ、ロフローニョは時間の源泉の中に立ち戻ることができる。

ああそれにつけてもワシの本棚が恋しい。