酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ねじまき雲 カフェの効用


「1時間半毎に注文必須」・「3名以上お断り」・「撮影制限有」・「店主本位の店なので、守れなかったら退店してもらう」

…この店、禁止事項だのなんだのの注意書きながめてるとだな。
なんだか高飛車で偉そうで怖い人が出てきそう、いかにもワシは客選ぶぞの雰囲気をウリにしてるような営業方針、居丈高な美学、或いは流行りの営業戦略に乗っかるための看板と宣伝文句のノリノリの感じのヒトがでてくるのでは…なんて印象をもってしまうんだよな、どうしても。

イージーグルメ漫画やドラマに逆に洗脳されておるやもしれぬ自分。
しかししかもコロナ禍以降、これがもっと細かい制限注意事項で厳しくなっておる。

実際同じ方針でやってるとこも多いはずだしそうするべきであっても、なんかわざわざそれを宣伝みたいに言いたてなくても、というような心理になっちゃうんだな、日本人的なんだろな、なんとなく。己の甘えのシタゴコロの言い訳ということか。でもとりあえずシタゴコロからは逃れられないの、実際現場で肌で人間同士直接で思い知るまでは。凡人だもの。(みつを)

ということで、不親切そう、威圧的に偉そうで怖くてヤーネー…な敬遠したいイメージがハードルだったんだけど、まあね、なんだかんだね、実はやっぱり行ってみたかったのだな自分。

小さな可愛い自家焙煎珈琲屋。そして何しろ地元で結構ご近所行動範囲なんだもの。にんげんだもの。(みつを)


まあよく考えると論理から言えばハードルこさえて客を選んでおくってのは実際当たり前でさ、お店全体を守るため、スタッフと他のお客さんみんなのためのお店の自衛手段なんだもんね。世の中ホントにいろんな人がいるんだし。

それにしても実際、ただでさえ、だったのに、当然ながらコロナ以来、営業はものすごく不安定で限定的。

今は週二回、午後三時から、メニューも普段より少なく限定なそうな。(珈琲メニュはお店のスペシャリテ、一杯一杯丁寧に淹れる本日のネルドリップしかない。)(…これが高いのヨ。ピイ。)

で、先週金曜日、おお三時過ぎだ、珈琲飲みに行くぞの都合ができた、ううむ今このときしかないっ、と飛び込んだんである。


ああ、やっぱり入ってみてよかったな、とその空間に包み込まれた瞬間思った。

これはおひとり様専用のお店である。
4~5人で満員。向い合せの席はない。無遠慮な大きな声はここに満ちた優しい調和に相応ない。


「お好きな席にどうぞ。」
入ったときに先客が2名、もちろん一番居心地のよさそうな狙い目のいい席は取られちゃってる。ちぇ。

とはいえどこにすわっても素敵だもんね、と気を取り直して穏やかな空気の流れる場所にゆるゆると入り込む。

…ああやはり不思議に素敵な空間。

可愛いグラスに入った水とメニュを持ってきてくれる。


メニューはじっくり検分する。どんな成り立ちを持つ珈琲であるかを予習するのだ。あれこれ想像してちょっと迷って心を決める。本日の珈琲はモカ・イルガチェフだよ。

奥に隠れた厨房の方でお客さんの邪魔にならないようにごそごそ活動してる店主とスタッフの方に念を送ってアイコンタクト。

注文を取りに来てくれる穏やかな所作とタイミングの一連のゆるやかさ、場の調和を乱す禁忌以外マニュアルのない、人と人とのやりとりの穏やかな調和に特化した、隠れ家としてのこの小さな場所の力。(恐れていたイメージとは裏腹で、とっても感じがよくて親切で優しい。写真も人を写さなければ大丈夫ですよって。)

ステマティックに合理的に組織された大手の喫茶店やチェーンカフェとは別の場所、友達のうちにお客に行って、珈琲淹れてもらうときのような気持ちの、その原点としてのおもてなしサーヴィス、外界の社会とは別の法則が働いてゆく閉鎖空間という場所を利点として生かすということ。

だからさ、このお店はこの「サイズ」だからこそなんである。店主とお手伝いのスタッフの方がひとり。

そして運ばれてきたご自慢の珈琲。


…イヤさすがにこれはご家庭では出せない味でしょう、と衝撃を受けるような深い味わいをもたらしてくれる一杯でありました。

ふくよかに幸福な余韻に沈む、丁寧にこの時間空間そのものを取り込み頂く心持ちを可能とするだけの力量を持った一杯。

珈琲を喫する濃く豊かな味わいと深い香り、その芳醇な時間の中に、その場所の主人にもてなされる、サーヴィスを受けるお客さんな気持ちを見出す。日常性に支配される人間関係の余計な気を遣うこともなく、心の中のそのエッセンスだけをおいしいとこどりの豊かな安らぎ。そんなこの場所独特の心持ちをまるごといただくことのできる濃い一杯。


…実はワシは、結構どのカフェでも好きなんだよな、セルフサーヴィスな合理的大手チェーンも古きよき喫茶店も、それぞれの個性をもちそれぞれの味わい方がある。

珈琲そのものについても、ちょっとギルティ邪道フレーバー珈琲なんかも大好き、おいしい、だけど正統派、やっぱり素晴らしい、とかね。

その「場」にのまれ、どの世界にあってもその中にのまれた自分としてその場を楽しむことができる、そのひとつの場所とのひとつの関係性の中に、自分の多チャンネルを意識し解放として感ずることのできる、その場に取り込まれることによる他からの解放という一種の逆説。

学校の中の自分、職場の中の自分、家族の中の自分、ネットの中の自分、書き言葉の中の自分、そしてそのどこからもはみ出た自分。

アイデンティティが関係性の中でさまざまに分岐しているように、その場の中の関係性の中にだけ存在するアイデンティティとなる。他から解放される、多チャンネルという意味と多様性の意味。

世界は外側にも内側にも無限に広がっている。
ドアを開け、境界を越え、特定の場所に入り込むことは、その場を支配するモノのある種の神域に、或いは心の内側に入り込むアナロジーともなる行為だ。その内側とは、己の内側でありながら外側になる、反転した時空は、誰と繋がる関係性の中に成り立っているのだろうか?個を超えることによってはじめて個は成立するという構造を感ずるのは一種の陶酔である。

日常から非日常に入り込んだとき、その無限のチャンネルを個の内部に個からの解放と個としての存在の肯定の両立として感じることができるとき、ひとは心の中の牢獄、すなわち世界を多様から閉ざす唯一の現実、唯一の正義のフリをした権力構造の牢獄から解放されることができる。

そして読みかけの本を読む。
ここだからこそ読める。このかけがえのない濃密なひととき。
やっぱりカフェは救い。


…ということなど考え、しかし、いろいろまあ勝手なワガママ言いたいなあってとこもあるんである。

一、恐れていた通り(お洒落なんだが)お尻の痛くなる固い木の椅子。いや素敵に可愛いんだけど。(おざぶ持ってくか…)

一、Macディスプレイの環境ビデオ、花や空の美しい映像ではあるんだけど個人的にこういういかにもデジタルヒーリング画像、っていうの自体あんまり好きではない。(これが目に入らない席を確保すればよい。)

一、窓からの風景は日常の中で見慣れた駅前ビルではなく静かな森や古い商店街、住宅街であってホシイ。(とりあえず意図的に日常は目に入れない。外の光とだけ感じるのだ自分。)

一、これが致命的。ひっきりなしに通る車の騒音がひどくてせっかくのカフェ時空に魂が入り込みにくい。防音システムつくって…(ううむやはり無理難題か。)

一、高い。(しかしうまい。まさに「喫する」珈琲。これはご家庭では出せない味、今までで一番の衝撃やも知れぬ。)プロ。本当に一杯一杯すごく心をこめて丁寧にもてなされてる心持ちになれるお店。看板の高飛車さと裏腹なホスピタリティ。

実はこのお店の正式名称は「ねじまき雲(陽)」で、お客さんを受け入れる喫茶店としてオープンしたんだけど、もともとの珈琲修行所というか焙煎所は青梅の「ねじまき雲(陰)」。こちらで本格的に自家焙煎、珈琲の探求をしているそうな。なんだかやっぱりさすがだなあ、贅沢においしいなあ、この一杯の味わい、なんて感じたよ。

…とにかくとりあえずだな、おかげで日常の牢獄に責め立てられることなく読みかけの本の中に入りこめたんであるよ。

すっかり心が新鮮に生まれ変わったとこで、ゆるりと立ち上がり、「ごちそうさまでした、珈琲とってもおいしかったです。」とお会計。珈琲淹れてくれた店主がにこにこと少し不器用な言葉で「よかったです、嬉しいです」と返してくれる。

で、「ありがとうございました。お気をつけておかえりください。」なあんてほのぼのと送られてほのぼのとした心持ちで小さな隠れ家からすぽんとはみ出してきたワケだ。

とりあえずね、ひとくちひとくち、そしてその余韻。じいんと感動したはずの一杯の珈琲のあの味わいのこと忘れてしまう己のニワトリアタマがかなしい、もう一度しっかり思い出したいから私の言葉の物語にしてみたいからまた行きたい。読みたい本をひとつ抱えて。

その日その日、とにかく本日を動かす分のねじを巻こう、世界を動かすねじ、心にパワーのねじ。