酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

チョコレート・コーティングと真理の相対性

チョコレート・コーティングには独特の魅力がある。
晴れた日曜の朝、焼きたての幸せの香りのするのパン屋でチョコレートをとろりとかけたデニッシュ・ペイストリーをトレイにのっけていて、私は非常に幸福な気持ちになった。

コーティングされたチョコレートとフィリングとしてチョコナッツペーストやチョコレートクリームになったもの、それからチョコチップになったものと、全部違うのだ。就中コーティングは飾りである要素が強いにも関わらず味わいに非常に個性的な魅力やこだわりを生み出す魅力がある、ような気がする。

何故か。
例えば食材としては同じものであり、胃の腑におちてしまえばみんな同じなのに、味わいが違うと言い張る、それは食文化のひとつの局面だ。もちろんそれはバウムクーヘンやミルクレープを塊のままかじるか層を剥がして食べるか、そんなこだわりにも通ずる。パリパリチョコととろりチョコの違いとか。

…ということで、私は幸福な暖かい香りを放つパン屋の袋を抱えてさまざまの真理の相対性の生まれる構造を描き出す曼荼羅図について考えるに至った。

つまり、チョコレート・コーティングについて一生懸命考えていたのであるが、(それはもちろん楽しいからである。宮沢賢治が「水仙月の四日」で厳しい雪景色の中砂糖を抱えて凍えながら家路を急ぐこどもが一生懸命カリメラ⦅カルメ焼きのことだな、お祭りなんかでよく実演してる砂糖を焦がした甘い菓子⦆のことを考えながら歩いていたシーンを描いていたことなどふと思い出す。心の中に甘いものや楽しいもののうまれる力で満たすその意味の暖かさによって外界の厳しさから身を守りあるいはそれを染め変えようとする健気なちっぽけなものの生命の力、幸福と夢の創造力。因みに例えば菓子のレシピ本熟読なんかの快楽もそこに通ずるものであると私は思っている。シミュレーションと夢と想像・創造力の関係。それはおそらく地図上で旅をする嗜好とかそういう思考構造とも通じるものだ。それはコトを現実に行っている時よりもより真理に近いところにある。イデアなのだ。)

そして、文化の側面についていえば、それは起源の隠蔽、法と正義、カスタネダに伝えられたドン・ファン(正確には、その友達のドン・ヘナロ)の逆立ちの教えを思い起こさせるものである。

インディオたちの教えと呪術を学ぶためにフィールドワークでノートをとり続けるカスタネダを大笑いして、「お前は頭だけで逆立ちして座ってるんだ」という批判のためにドン・ヘナロは頭で座ってみせるのだ。

「気流の鳴る音(見田宗介)」。インディオたちの教えの重要な部分、言語以前の起源が隠蔽されてしまう、その言語フィールドにおいてのみ生きているカスタネダの逆立ちした立ち位置を自覚し学ぶための教えである。

それは例えば、生命体として生きるために食うのか、食う喜びのために生きるのか?国家や法の正義の美学のために幸福を奪われあるいは命を奪われるのか、(或いは捧げるのか?)または幸福に生きるために国家や法や正義があるのか?

それと同じ問題系に属している。隠蔽している自覚がないのだ。ただその振幅の中を無自覚にゆらゆらとさまよっている。

その起源は隠蔽され見える部分にのみ顕在しているところのイデアは言語以降の分野において奇妙に分岐し硬化してそれ自体それ自身のためだけに存在し続けるために独立してゆく。(お釈迦様の「方便」っていうタームのことも思い出すよな、これって。肝心な目的からズレたテクニックとしての枝葉の発生、そして分岐してくっていう構造に関しては。)

…ううむ、チョココルネ、チョコデニッシュ、そしてポッキー。
確か人間の意識構造をドボス・トルテ(クリームとケーキ生地が幾重もの層になったケーキ。ミルクレープ的なる構造を考えればよい。)に喩えた学者がいた。よくわかるぞ。おそらくその発想は仏教の十戒互具と同じようなもんだ。ひとりの人間の意識は単一ではない。仏界から地獄まで同時に多層として流れている。それなのに一層のところにあると扱いやすく考えやすく仮定してそこに焦点を当てて地と図の図となし、同時存在しているのに己には見えなくなった他の地の部分を隠蔽、否定、忘れてしまうのだ。

(これはまた自然と食文化についての関係構造を考えていることと同一でもある。身体が生きるために食うはずであったのに、魂の喜びがそれに反してくる「ところ」がある。それらは同時存在、つまり一致しているべきなのに。)

…その齟齬はどういうポイントからはじまりくるものなのか。

美学の始まり。幸福とは何か。快楽とは何か、魂の法悦が身体性とどのように一致し反するものなのか、それはおそらく永遠の二項対立とその止揚の生命サイクルのダイナミクスであるところであるはずの、「存在とは何か」というテーマに及ぶものとして在る。

自然と一体であるところのインディオの賢者たち、己の作り上げた観念の中でをそれを理解解釈しようと躍起になって頭で逆立ちするカスタネダ

自然と一体であるところのインディオの賢者たち、己の作り上げた観念の中でをそれを理解解釈しようと躍起になって頭で逆立ちするカスタネダ

個々の人とその集合を守るための法が国家や法の存続そのもののためのために逆に個に対する抑圧となっているダブルスタンダードのことを考える。

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身体性と観念性或いは倫理や美学が重なるところ、またそれが逆立し始める地点がどこかにある。同様に、それは性欲と芸術の分野にもいえるし、その拡張構造を考えたとき浮かぶ個と社会、自然の三位一体の構造やなんかの世界構造も見えてくる、ような気がする。一にして多数なるものの構造。

文化とは自然と対立するものなのか、反・自然としてそこから生まれた、父殺しの神話に示されるものとしてあるのか。自然を賛美し崇めるものなのか。その両面性のことを考えたのだ。己の発生した起源(父母)なる自然へのオマージュと冒涜との狭間で。

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ということで基本的にどのスタイルでもチョコは好きなんであるよオレ。

きのこの山たけのこの里の違いで争うゲームのようなのは、まああれはパロディな遊びではあっても人間が信条の枝葉の違いから宗教的な争い、権力構造や残虐な戦争にまで発展する人間の文化の構造を端的に表していると私は考えている。どちらもおいしいと思ってもひとたびプレッツェル的なきのこの山派の派閥の長にでもなったら、たまにはしっとりクッキータイプたけのこの里が食べたい、あれにも見るべきところがある、ハイブリッドだってあっていいはずだなどと思ってもそれがかなわぬものとなり、己の立場を危ういものとしないために殊更に声高にそれを罵らねばならぬこととなるであろう。

まあここできのこの山たけのこの里共産主義と民主主義に置き換えてみればよい。

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…で、私はとりあえず単なるカカオ中毒者である。ココアを㎏単位で購入、毎晩たらふく飲んでいるんである。これがたちまちなくなる。慎まねばなるまい。

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