酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

100分de名著「法華経」

ずうっと中断していた100分de名著の録画をようやく消化し始めた。「法華経」である。

やたらとチック症的なまばたきを繰り返すのがちいと気になる繊細で優しいおじさんな雰囲気の指南役の仏教研究家の先生がごくシンプルに法華経一般の概念を説明してくださる。原典サンスクリット語から現代語訳をされたそうだ。大変なもんだ。

原典の言葉の解説ってのは歴史と意訳を重ねて重ねて意味がブレブレにズレてきたものを正してゆくよな素敵な親切である。あれこれおもしろかった。賢治の理想のデクノボーのモデルと言われる常不軽菩薩の意味がサダーパリブータ(SadAparibhUta)というものすごく両義的な深い意味があるとか、レトリックとして捉えられる「方便」がupāya(原義「近づく」「到達する」の名詞形であることから仏の智慧による衆生を済度に近づけるためのもっとも効率的で巧みな方法という意味であるとか。)

ざっくり入門シンプルにってとこがいいのヨ、この番組。100分のダイジェストだからな。それでいてエッセンスをとらえてたりする。論文の序文みたいなもんだ。一番大切なとこはホントはみんなとってもシンプルなのだ。

で、でてきたんである。「真の自己」の概念。
実はこれがなかなかふかぶかと心に突き刺さった。そのシンプルな難解さに感動した。

思い出すのが「本当の自分・自分探しの旅」というコピーの類。
いや実に手垢がついて臭みを帯び、お笑いワードになっているほどいろいろ揶揄される恥ずかしい言葉である。

「癒し」とかそういうのもなんかなあ、背筋にむずむずきちゃうような恥ずかしさがあって個人的にとても使えない。(私は実は絵文字とか《笑》とかもハードル高くて使えない不器用な人間である。)もともとあんまり安売りしちゃいけない言葉がみょうちきりんなメディアで流行らされてなんかこう本来の意味をゆがめられ薄められて汚らしくなってしまう感じってあるもんだ。「名前を言ってはいけないあの人」とかいう概念の発想は何だかこういうとこからもきていると考えていいのではないかしらなどと思いついたりする。「名前」っていうとこで意味のカテゴリは広がりすぎてしまうけど。

 

真理、とか言う言葉さ、例えばそういうの。

その、人間が語りえなくなるところ、無言になる地点、虚空。それを語ろうとするために本を一冊書くくらい、ひとことひとことの言葉って大切なのだ。きっと。はじめにことばありき。ロゴス=神みたいなもんだからな。

…とはいえ使わねばならぬこともある。ゴンゴンと、とワシは考える。誤った使い方をしてはいけない、常に鑑み鑑みしながら己の中で納得してからどすんという重たい決意と思いを込めて、一言つかう度にどきどきしながら疲れながらあらゆる揶揄に百の言葉で対応できるだけの理論武装をしてから覚悟をもってゴンゴン使うものなのだ。いや実際どうでもいいんだけど。好みの問題だから。

 

ということで、おじゃる丸での(おじゃる丸は基本的に卓越した崇高な思想を孕んだ素晴らしい番組であるとはじめてみたとき私は大変感動してしばらく随分とハマったものだ。最近観てないけど。実に類を見ない。原作者はうつ病で自殺しちゃったけどな。)自分探しキャラクター、フリーターのケンさん。(おじゃる曰く「ふらふらのケン」)自分の天職を求めてあちこちでちいと元気にバイトをしてはすぐにクビになったり「これは本当の自分じゃない。」とやめてしまう元気な若者である。だけどひたすら前向きで陽気でいいひとでかっこいい若者なんである。…なにしろこのおじゃる丸の批評性の暖かさが大好きだなオレ。(作者自殺しちゃったけどな。)(しつこい。)

 

のことなど思い出したりしたのであるが。
いやそれは関係なくて。いやこれくらいこねくり回した後で再び幾度でも立ち返ることのできる<言語・世界>というのはふかぶかと三千世界であり、曼陀羅網であり、いやとにかく素晴らしいんだなどと思ったりもして。(その真理とはおじゃる丸の住んでいる月光町のあの世界に立ち返っていく、と言ったっていいことなんだと実は今私は考えている。)

 

…いやだからね、要するに、ブッダの悟りってのは、真理を悟るってことは、実は真の自己の発見である、というそういうさっくり言えてしまうことなんだけど、これがなんかものすごくて。

つまり、これは真の自己とは何か、っていう問い直しだからさ、要するに。それが真理という虚無である、という地点であるところ。解放とはすべてを手放し失うことである、ということ、そしてそれがすべてを得るということと同義である、ということ。自我が解体し世界が輪郭を失い空となり裏返って色となることを感覚する、主観と客観がその境目を失う臨界点であるところが仏教的な悟りの意味であるという、西田幾多郎の言う「純粋経験(主客未分)」。

「自分とはすなわち世界である。」

なんというか、人類の苦しみや喜びの歴史が営々と紡いできた叡智、仏の叡智のその深みと光に照らされたようなトリップ感を感じたワケよ、なんとなく。

ううむ。
おもしろいたあこういうことよ。

いっぱい考えたいなあ、世界にはその価値がある、自分で言葉に紡ぎたいなあ書きたいなあと思えるこの一瞬見える構造、風景のことなんだ。


で、とりあえずこの記事は備忘録。(そればっかりですが。)

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これは、法華経の美の象徴、白蓮やらお釈迦様関連で、蓮写真。隣町の蓮池で撮ってきたもの。今年は見に行けるかなあ…上野の不忍池のもきれいなんだが。