酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」再読に際して(文字の大きさ云々)

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先週書き綴ったものから)

冷たい雨の日曜日。

朝の悲しさと絶望、身体は眠く怠く痺れ魂も暗く沈む。どうなることかと思ったけど、午後、懐かしい街、私は昼下がりのカフェにいた。

座り心地のいいソファ、仄暗い落ち着いた照明、古い音楽。
各々の時間を包まれた人々の静かな気配、珈琲の香り。

この熱い一杯は魔法だ。手を暖め胸の奥に灯を灯し心を暖めてくれる。祈るような優しい音楽の向こう側に時代の見た夢のことを思いながら目を瞑る。そしてここに住んでいたころ読んだ本を読み返す。

自分の物語、本の中の物語は重層して私の魂はふわふわと漂いだす。自由になる。過去の方向だ。…だけど未来はここにあったのだ。閉ざされた世界の終わりの話を読み、そのひとりの安らぎに共振しながら身を沈める。

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(今日だ。)
何故子供向けの本の方が大人向けのものよりも大きな文字なのか。視力は寧ろ老眼になってゆく大人よりも子供の方が遥かに優れているはずである。

学生時代読んだっきりの「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」、古い文庫を再読しようとして、文字の小ささに閉口した私は、ふと疑問に思った。(もしやこれは生まれて初めて抱いた疑問やもしれぬ。)

それは、文字の形状および語彙を惰性によって読み取る、つまり予めインプットされた脳の既存データから構成されたアルゴリズムによって読書がなされているということと関連があるのだろうか、聴覚的要素を中心に置くことなく視覚的要素から情報をダイレクトに読み取るバイパス回路の発達とか。その発達は、ある程度予想と正確なプロセスの省略の能率化を含む…云々。子供はそのトレーニングが不足しているためにまだその脳内データベースを活用するアルゴリズムが十全に機能しない。‬文字の形状から音韻や意味を取り出す恣意として構成された意味ネットワークからくるテクストを、そのマニュアルを最初から丁寧に参照しながら追ってゆかねばならない。初心者マーク付きの丁寧な運転だ。

そして人間は言語をまず音韻から習得する、というプロセスがある、という、識字率が異様に高いこの国では普段忘れられてがちな言語構造について。

(そしてそもそも明治の言文一致運動がおこる以前には、書き言葉と話し言葉というのは言語として「異なるもの」だったのだ。基本概念からして違う。)(この辺りに関してはここでも言及した。)

文盲、というが、普通に話すことができるのに文字を読めない人間の率というのは世界ではものすごく高いし、日本でだってつい最近までそうだった。そう、つまり読むという行為は純粋に実生活における具体性・身体性からは完全に遊離しながら、観念としてはそれに直結している奇妙な精神活動なのだ。

吉本隆明が何かの文芸批評の文章の中で読書行為に対し「脳内で半ば音韻化しながら」という表現を使っていた。この「半ば」というところがミソである。

そう、逆に大人にはひらがな、すなわち表音文字だけの文章は非常に「読みにくい」。意味が取りづらくなる。子供レヴェルとおなじになるんである。脳内で音韻から意味を立ち上げるプロセスに立ち返ってやりなおさねばならん。逆にいうと、読み方がわからなくても意味が分かる、という表意文字漢字の特質が「書き言葉」の特質として音韻の要素について考えさせてくれる。いわゆる速読テクニックに関わる領域の作業を行っている。インデックスに従って既知の要素から物語を組み立てる思考法になっているのだ。パターンからの組み合わせなのだ。あらかじめ与えられた(インプット済みの)データからの新たな構築。

…ここから浮かび上がってくるもの。

…うむ、そう、これはなんというか、発想というか構造の基礎が実にAIなんだな、感覚的に。書くこと、読むことにおいてオリジナリティ或いは想像ひいては創造とは何か、という定義づけテーマにまでひろがってしまうが。

AIにない人間にだけあるその先のレヴェルとしては、クオリア、というのだろうか。情報の蓄積が一つの飛躍を孕んで様々な統合レヴェルにおける個的観念を発生させているところがある。たとえば先の吉本隆明の「半ば」という言はその構造について触れたものであると考えられる。身体性から観念性への、そしてその統合へのなだらかなステップ。

各感官からくる官能がその統合に至る道筋が読書という行為に含まれる、その読書行為の構造。物語論と関わってくる。語る、語られる。ということと書く、読むという行為の領域の重なる部分と決別される部分と。そして、データの統合に過ぎないAI領域からの飛躍、プラスαしたWHOLE。…これはおそらくナラトロジーの領域にかかってくる。

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この、ラングとパロールエクリチュールとの絡み合う言語構造をその豊かさを、私は考えながら感じながら、その本を、昔の春樹をできるだけ丁寧に読んでいた。三月名残雪の土曜日。

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風景、料理や食べ物のこと、その丁寧な描写、独特の気取った比喩表現に込められたもの、そして音楽。できるだけ丁寧に味わいたいと思った。感官を研ぎすまし。そこにこめられたものを。

作品クライマックスに近く、ダニー・ボーイがでてくる。慌てて探して聴く。

…そしてやっぱりラスト、主人公が最後の意識の中で聴き続けるボブ・ディランメドレーを聴きながら読み終えたんである。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。

私自身も発売リアルタイムで読んだ当時ほど共振し陶酔できていないかもしれないし、時代や文体の臭みとかなんとか、ツッコミどころ満載であったとしても、やっぱりこの作品にこめられた真摯な心の蠢きの断片にはかけがえのない魅力がある。

そして、当時は読了後熱烈に続編を希望したが、今は、その切り落とされた物語の向こう側の形がないままでもあってよいし、あったとしても「それはまた別の物語だ。」(エンデ「はてしない物語」)っていう風に思う。いや書いて欲しいけどね。今彼があの続きを書くんならどういう形になるだろう。

そして続いて読みたくなったのはさらにさかのぼって「羊をめぐる冒険」なんである。懐メロならぬ懐本、なんかこれって己自身の人生の総括にかかっているような気もせんでもないが。

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肝心の作品内容に関しては思うところが多すぎて、全く触れなかったけど、ちょっとだけ備忘録。春樹作品の中の女性は大きく「他者」としてくくられてもよいのではないか、という思い。そして、これはすべては己の中の物語なのではないかと。「世界の終り」パートの僕、「ハードボイルドワンダーランド」パートの私。そして、世界の終りの僕の影は羊をめぐる冒険の中での鼠を想起させるものがある。

これは、「さまざまなエクリチュールが異議を唱え合う(ロラン・バルト)。」という存在としての矛盾に満ちた己という不可視のテクストの提示としての作品であり、ラストの在り方とは、それらをすべて他者へ、外部へと投げ渡した形になっている、というものなのではないかと。ハードボイルドワンダーランドでの私は移行を死として受け入れ、すべてを赦し祝福し愛おしみ哀しみながら意識を投げ渡し、世界の終りでは、己の影に、己の作り上げたがんじがらめの自我の安寧の牢獄「壁」からの外部への脱出を託して、牢獄を作り上げた責任を引き受ける。図書館の女の子、という他者、外部への愛をその救済への祈りとして。投げ渡したその先は、常に構築され続ける物語として、おそらくはほとんど読者に投げ渡されたメッセージとなっているのだ。

モチーフとしては、図書館、象工場。(象の墓場)春樹作品のなかでの象、の持つ意味は、そのイマージュは、意外とプレテクストの所以が面白そうだ。(インタヴューしてみたいものである。)