酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

栗子さん(命題その1 モンブランは神である。)

時は遡る。
実は、その事実が発覚したのは、すなわち栗子さんが自身が再びモンブランを実食する消費者になる、という概念の存在を、驚嘆すべきリアリティを以て己の心の中に確認したのは、その年の初めである。

それは天啓であった。
ある晴れた早春の日曜日、清新な大気の中にほのかな花の香り、街には優しいざわめき。柔らかくぬるみはじめた青空をふと見上げた時、冬景色にひんやりと凝っていた栗子さんは、胸の奥に一点、柔らかな異物を感じた。ほのかな青空のその彼方から降りこぼれてきた、何か。

まばたきをひとつした。

ほのあたたかい。なんだろう。それは優しい陽だまりの記憶に似たものであった。全く新しい世界の予感でありながら、過去に向かっていこうとする懐かしさの感情を伴っていた。封印されていたものがほどけおちる。栗子さんは、そこに身体性を孕んだ記憶への回帰衝動という四次元的時間軸を発見した。

動的側面から言及してみよう。それは逆ベクトルをもつ対立項の共時存在であり、一律に平面的な解釈によってのみ成立した閉鎖的直線状の時間軸の煮凝りを瞬時に煮溶かし、全く新しいなめらかな次元における時間軸を打ち立てる流動的ダイナミズムをもっていた。…視覚的構造的側面からとらえてみるならば、そこには重なりながらずれてゆく螺旋の形状を描く時間感覚が現れたのである。失われたものを新たに取り戻そうとすることによってうまれる螺旋の感覚。それはふわりと甘く優しく慕わしい遥かな陽だまりの風景であると同時に未知の未来を拓く凛として勇壮なる道標であった。そうだ、それは無意識の薄闇の中もどかしく発見されることを待ちながら心の中に鎮座していた世界の卵のようなものであったのだ。

生まれたのは、溶かすもの和らげるものあたためるもの。或いは、許すもの。
その感覚に、栗子さんはふと或る詩の一節を思い出した。(著者自身はそれは詩ではなく「心象スケッチ」であると主張しているようですけどね。)

「これらなつかしさの擦過は
寒さからだけ来たのでなく
またさびしいためからだけでもない (宮澤賢治春と修羅第一集」より「カーバイト倉庫」)」

初版本におけるこの「なつかしさ」という言葉は、出版後作者によって推敲手入れされた宮澤家本においては「なまめかしさ」という言葉にとってかわられるものとなっている。このあたりの微妙な感覚の振幅を栗子さんは痺れるような切ない甘やかさをもって味わっていた。

モンブランだ、と思った。
ふわりと甘い、切ない懐かしさ、精神の官能を擦過する柔らかななまめかしさ。

…無意識の領域、水面下ではおそらく何十年もかけてゆっくりと育っていたのだろう。意識野に発現したとき、それは既に確かな存在感と歴史を伴っており、逆らい難い天啓としての確信とともに厳然と存在していた。アプリオリなるモンブラン。そしてそれは以後栗子さんの意識の多くを占領するものとなったのである。思考の基盤にモンブラン。常在するモンブランモンブラン人とはこのようなものか。その現象の流れとその厳かな絶対性は栗子さんという意識にとって一種の驚愕ですらあった。

幼い頃、日常の中のちょっとしたイベントだった。例えば土曜日の午後や日曜日の記憶。客人や帰宅した家族のお土産のケーキの箱を開けたときのあのときめき。艶やかに美しい宝石のようなケーキたちを家族や友達とじゃんけんなどしつつ競い合うようにして選んでゆく。もちろんぽってりと柔らかなチョコレートケーキやケーキの王道苺ショート、ふわふわチーズケーキにクリームたっぷりシュークリーム、どれもこれも大好きだったけれど、なんだかやっぱり栗子さんは自分が特別に好きだったものであったような気がするのだ、モンブラン。つやつやと大きな黄色い栗が、黄色くむにゅむにゅとした中華蕎麦(ちぢれ麺タイプ)状に絞られた栗ペースト(マロン・ストリングス)の上にでんと鎮座したアレ。(栗子さんは、子供の頃からお正月の栗きんとんを大層愛していたが、就中そこにおけるあの瓶詰の栗の甘露煮という固形パーツを格別に愛していた。あればかり掘り出して食べるという共同体内においてあるまじき行為を家族からの非難をあびるぎりぎりのところまで行っていたことは知る人ぞ知る事実である。末っ子であったためある程度は大目に見てもらえたことが、その後の人生における栗子さんの重大な欠点を構成する原因の一要素となったという指摘に対し、彼女はなんら反論するつもりはない。)

いつでも、楽しい時間だったような気がするのだ。日曜の午後の陽だまり、或いは夕食後、TVのついたリビングで、或いはお客さんや友人たちとの華やぎの中で。お茶やコーヒーの準備、コトコトとあたたかい音と気配、笑い声、お喋り、いい香り。いつも世界の明るい側面のところにそれはあって、いつでもふわふわと優しいたまごいろをして、ひたすら甘くておいしい幸せの約束としてそこにあった。

身体の糧ではない、心の糧のある場所。形而下としての存在のためではない、形而上の存在のための食のイデア「兜率の天の食(天上のアイスクリーム)」(宮澤賢治「永訣の朝」より)。決して生物学的にはありえないその意味としての、恩寵としての味覚の純粋な喜びのため。朝昼晩ではない、時間の隙間に垣間見える純粋な楽しみそのものを追う小さな祝祭空間を開くための、儀式のための食。それは、現実生活の閉鎖された日常的時空間から解放される異空間に通じるべき無時間の夢の美学をもっていなくてはならないし、幸福な意味に満たされていなければならないものである…とすれば、それは真理、或いは神、以外の何であり得るだろうか?

ここから引き出されてくる命題は以下の通りである。

命題その1.モンブランは神である。

概念というのは意識の中で或るレンジを持っている。それは、意識されるレヴェルと無意識のレヴェルを広範にカヴァーするものであり、大抵人はその焦点を意図的に搾り、他を隠蔽して己の世界を構成させている。己の意識の光の当たる範囲の外に配置すること、その隠蔽の多くはさまざまな形での自己防衛(厳密に言えば、そのほとんどは自己正当化)のためである。自己防衛本能のサーモスタットが働き、回路を遮断する。あらまほしき己を否定する都合の悪い論理を通常人は己の水面上の意識野での思考パターンに受け入れようとはしない。それは自我の破壊を意味するものであり、受け入れやすい人間は多かれ少なかれ病気になる。尊厳を損なうことなく受け入れられるキャパシティとは、そのままその人間の格と器の大きさに関わっているものと推察される。(芸術一般を耐える創作者としての能力もそこに関わるものであるのではないか。)(それは学問であっても宗教だであっても同じことだ。そこに耐える力、知とはそのようなものを核とするものではないのか。)

栗子さんにとって、スイーツを食する消費者となる、という概念は論理としては存在したが、それが己にあてはまり得るのだという思考回路が遮断されていた。栗子さん(プロローグ)において述べた通り、それは論理による抑え込みであり、意図的な自身による洗脳行為による。そうしなければならぬ、と生存本能が命じたのだ。

栗子さんの古き良き時代の終焉、その近代は、神的存在なるモンブランの封印、その死から始まったともいえるのかもしれない。神は死んだ、というところから。以後モンブランはただ形骸化されたイコンとしてのみ機能していた。

では、さらに遡ってみよう。地上に神のおわした時代へ。

…というところで、気が向いたら「命題その2」に続く。