酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

フードコート

フードコートって苦手である。
好きになれないのだ。言ってしまうと嫌いなのだ。
 
郊外によくあるショッピングセンターなんかに必ずあるアレ。

高速道路のパーキングエリアみたいにいろんな食べものやのチェーン店のブースがあって、そこでセルフサービスでトレイで運んできて、共通のテーブルと椅子のしつらえられたスペースで食べる。ひとときの憩いの時間、談笑するファミリーやママ友たちの風景。同じグループで同じテーブルで、各々違う店の好きなものが食べられる。実に合理的なシステムである。

…んだけどなあ。

なんだかなあ。

学食やパーキングエリアや海の家や遊園地、そういうのならいいんだ、いかにもの一夜仕立ての移動遊園地的なつくりものだよ、旅人が通りすがるだけのひとときの非日常だよ、かりそめのお祭り会場だよって大声で主張してるものならいいんだ。
 
…ああそうか、フードコートっていうよりああいうショッピングセンターになじめないんだ、きっと。
 
ブロイラー。
 
…っていうと変だけど。人々の生活、その生態を市場経済システムの中で計算し枠取り決めつけて、コントロール、支配しようとする権力システムを感ずる。檻に閉じ込め餌を与え生きさせる。心身をほどほどに満足させてみせる。他に何を望むのだ?とそれは問う。(オレらはそれに答えられない。)統制された人民によって経済を、世相を、政治を、システムを、まわす。それによって、その動きを支配し食らうことによって統合的に複雑にからみあった現代の市場主義経済至上権力システム自体が円滑に機能する、というような合理的な世界モデル。
 
郊外でほどほどにひとしなみに人並みに豊かで慎ましい楽しみ、人生申し分ないハッピーファミリー、日曜日には家族でショッピングセンターに繰り出して映画を見たり、買い出ししたり。子供たちはゲームセンターで遊び、ファストファッションでぴかぴかでプチプラで出回ってる流行の服を手に入れ、ドラッグストアや100円ショップ、フードコートで各々好きなものを頼み、或いは大手チェーンの均質化した安心のこぎれいでほどほどおいしいたのしいファミリーレストランで食事。ぺらぺら耳当たりのいい若いアイドルのお手軽な流行のラブソング。絵にかいたような、幸福な市民生活がミニマムにひとつの施設の中で画一化されたテイストと選択の限られたセットメニューで仕切られる。
 
人間が均質化する。情報も流行も感覚もメディアで均質に与えられどこからかコントロールされている。個性や物語すら経済原理に食われてゆく。陰りのない安普請。文句のつけようのない幸福を絵に描いたような、…そうだ、絵に描いたモチ。真綿で首を絞められるようなこの感覚があじきなく寂しい。
 
隠れた裏道も路地も、想像の余地も残されない宇宙船の中の完全無欠な閉鎖循環システムのような息苦しさ、そのかりそめのにぎやかさと繁栄に満ちたゾーンを一歩でれば、そのコロニーを一歩出れば、収奪された大地、荒涼とした道路と荒地がひろがり、コロニーからコロニーへとひたすら移動する車が走る。
 
…「世界の果て」を感ずるのだ。息苦しい、切ないような文明の行きつく先、その功利性を追求しきったあとの世界の最終形態。
コロニーの内側に入ってしまえばそんなことないんだろうってわかってるけど。ハッピーファミリーは素晴らしい、善良なる小市民こそが至高だとほんとうに思ってるけど。
 
…どこの都市でも今は似たようなものだ。大都市だってグローバルな大手チェーン店に古くからの街は浸食されていっている。自然発生で下から生まれてきた街ではなく、資本が投入されて力のあるものが小さなものを食らって作り上げられる資本の帝国。
 
だが、ここにはまだ隙間はある。古くからの街は、やはりその伝統と誇りとを保ち、そこでは廃墟になってすら、ひとつの時代を風靡しその文化を担ったものとして己が存在した意義を、矜持を貫いたという一種の滅びの美学のようなもの、哀愁に満ちた気高さがある。風格。そしてとりあえずまだ街には「隙間」がある。裏通りがある。ファンタジーの、妖怪の息づくくらがりと夢見るための隙間がある。
 
だが郊外ショッピングセンター、フードコードには隙間がない。純粋に大手資本のみによって構築されるひとびとの生活像。「隙間」がない、「外」がない。ここにその裸の姿がさらされた現代の消費経済のナニカが象徴されている。
 
スーパーとファストフードとファストファッションとゲームセンターとパチンコ屋、ドラッグストアばかり最新鋭のぺかぺかの、生活に不自由がなければいい、というその合理性の寂しい郊外の田舎を、その閉塞を、息苦しさを私は何だかひどく恐れている。
 
譲歩して言えば、スターバックスミスタードーナツも、きちんとそのコンセプトを貫いている。大企業の資本の力で押しているものではあっても、地域の特色を生かそうとする戦略やら季節限定もの、テイストの方針やらには生き生きとした、なんというか、たくましい商魂、世界を活性化させる企業中枢部の優れた才能の集団の存在、その楽しさを感ずる。それはそれで悪くはない。…規模が大きくなりすぎただけ、といえばまあそれはそれかなあ。
 
だけど、郊外ショッピングセンターのフードコートにはそれすらもない。例えばスターバックスの提供するスタイルのようなもの、空間と時間の演出への誇り、それが個性であろうとする、おのれがおのれであろうとする矜持のようなものすらない。それはチョイスの自由さ、多様さではない、何かを奉じ大切にする美学の個性を持たぬのっぺりとした均質化への罠である。
 
魂の奥底のどこかで自由と開放と無限が激しく希求されているのを感ずる。きっとそしてそれは街へのノスタルジアの中にあるような気がしている。
 
今の、天変地異への恐れ、板一枚の向こうの破滅、暴力、荒廃した人心、物騒な世相、貧富の差、そのナンデモアリの恐ろしさは、この生ぬるい幸福像からはみ出したこのナニカの裏返しの噴出であるような、何だかそういう気がしている。