酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

身土不二

アヴォカドの種やキウイの皮、グレープフルーツの白いワタを微妙にからめた薄皮部分。(ついでにいうと秋刀魚や鰯の骨やワタも。)結構クセになる我が好物のひとつである。

食材廃棄率低くする全体食を支持する己のポリシーからそれは来た。

で、朝西瓜の皮を処理しながら、このことはエコとか健康法とかそういうことも含みながらも、もっと違うところでも何かを、それが何を意味するかを感じている己を感じ、それを言語化しようとしていたら体内のミクロコスモスに心が飛んでいったということなんである。

まあ「身土不二」っていうアレで。
「身体(身)と環境(土)は(不二)」。身体は、食べ物を含め、環境から何もかもを交換している。空気、光、音、熱、湿気、世界の環境すべて。それはもちろん人間関係、社会環境も。「私は、私と私の環境である」

「私は、私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」(オルテガ

 *** ***

だからさ、どこまでが環境で、どこからが自分なのか。

食物連鎖とか進化論とかの思想的な方向性について思いを馳せる。それの持つ哲学(世界像)性。当初のダーウィンの思想から離れていった現代におけるこの概念の扱い。

…それらを寧ろイデオロギーに近いものとして考える。当時はキリスト教的な生物体系で神に模されたものとしての人間のためにすべての生物体系が存在してたっていうのが「常識」「現実」であって、それらを解体するための爆薬としての歴史的科学的事実を提示した革命的思想としての役割のが大きかったという背景は現代では忘れられているものであるから。

だからさ、これは哲学的なるものである、と。(哲学とは本来、古代には世界の総合的学問を意味するものであった。世界観ってことだ。すべての道はインド、ではなく哲学に通ず。)(ついでにいうと本当はフィロソフィーってのは「愛知」と訳すべきであるのに西周が「哲学」とか気取ったお堅いイメージにしちゃったから今こんな扱いなのだ、というような説に私は深々とうなずいている。)

つまり、上位消費者層としての人間と生産者としての植物や下位レヴェル消費者層、更には廃棄された部分を分解する分解者としての微生物。この分断されたヒエラルキー構造を無化する、生物が異なる関係性をもつ思想系について。

勿論これは近代的科学的なこの概念が常識、真理として流通しだす以前の世界観の多様性に垂直にダイブするためである。バランスを欠いたこの構造観念のために健康問題地球環境問題すべてが生まれてきているのではないか?白米ばっか食ってると脚気になるとか繊維質捨ててると胃腸の機能が低下するとか砂糖や油、糖質ばっか摂ってることによるいわゆる現代病の源となるというビタミンや微量栄養素不足やアンバランスに現象として表れている表面的現象も含めて。それは結果としての現象だ。

…そうではなく、感覚である。
動物、植物、微生物。生産者消費者分解者の分析分断というのではなく私の身体存在はその全てを孕み統括した「ほうる」としての一体であるという事実。目を閉じ己の内部の神秘に目を向けそれを体感として想像しようと試みる。

そしてそれは一つの個として取り入れた食物や酸素というメディアによって開かれ或いは繋がれた世界の一部でもある。反転する「ほうる」と「パーツ」。私は生産し消費し分解するものの総体。そしてその一部。マクロコスモスに反転するミクロコスモスのおなじみの構図である。

…で。考える。

身体が包括されているなら精神も包括されているはずだ。すべては一体。物質的に交換し入れ替わる細胞の一部。感情なんか脳の電気信号に過ぎない。

では、魂とは?
精神とは別個として考えてみたい。

それは或いは攻殻機動隊草薙素子のいう「ゴースト」。
人間存在とはパーツ+α。ゲシュタルト心理学だ。要素+α。


作品(攻殻機動隊)ではゴーストは個に属すものとしてとらえられるものではないかと思う。
だが、やはり個々の魂それはそれとして、集合体としてのマトリックスとしてとらえられるフェイズがあるとも考えるべきなのだろうと春樹読み返し大会を経て私はそんな風に考えている。 

 *** ***

…ということで私はブロッコリの茎も西瓜の皮も基本的には皆食べてしまうんである。
(くじけることもあるけど。)

西瓜の皮は赤い甘いとこは全て食べてしまうので問題なく、外側の固いとこも丁寧に取り外す。胡瓜味でぐにっと独特の歯触りを持つ身体にいい夏野菜である。中華漬けが万人受けするがぬか漬けもイケる。ぬか漬けは万能。発酵万歳。腸内フローラの微生物どもは既に我が第二の脳の一部。私は細胞やDNAの入れ替わる容れ物としてあるのだ。

(ところで近所の素敵居酒屋に貼り紙してあったキャッチフレーズのひとつに「発酵男女」ってあったんだけど、どういう意味なんだろう。気になってしょうがない。今度行ったら店主に質問してみたい。)

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「一人称単数」村上春樹

「一人称単数」
春樹新刊短編集、読了。

力の抜けた感じがして悪くなかった。感想を一言でいうと、年をとるってことは悪くないんだなってことかなあ。ひと回りして、戻ってきた、という感触があった。

デビュー当時の、章ごとに様々のシーンを重ねて多層の世界を組み合わせてゆくような、またそのひとひらひとひらが切れ切れの心象スケッチのようでもあるような初期短編集の物語構造。その多層世界同士の断層構造の裂け目に瀰漫する理不尽、不条理、カオスや虚無への敏感さ。そしてそれを感じ取ってしまうことによる世界に対する己のスタンスがわからなくなる、そんな居心地の悪さ。

その多層世界のあいだの「軋み」のようなものを周りの人たちのように当たり前に感じることができずその己の感じ方にどこか致命的な孤独感を潜ませている。そのほのかな違和感という基本だ。

 

石のまくらに
クリーム
チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
ウィズ・ザ・ビートルズ
「ヤクルト・スワローズ詩集」
謝肉祭(Carnaval)
品川猿の告白
一人称単数

割とね、深いのにどこか馬鹿々々しいナンセンスな味わいがあるっていうのかな。力の抜け方に春樹の作家としての技術的成熟という意味の年月を感ずる。ひとまわり、というのはそういう意味だ。戻ったというより螺旋を描いたというべきか。若さによるとんがりがなくなっている。

まことしやかな嘘というか、現実と幻想、そのあわいが溶解していくところに見えるものの、そのじんわりとしたところがポエジイと深淵だ。エッセイ風の小説。裁ち落とされた物語の余韻を読者に受け渡す短編ならではの特長がいかんなく発揮される。

思わせぶりで虚々実々な幻想性の中に現実との違和を見出し、その裂け目のカオスの中にこそ何らかの真実を感じ取って行こうとする。現実の裂け目からのみ見出す可能性をもつ「真実」(これは正確にいえば「真実」ではなく「真実の可能性或いは周辺」だ。」)。という確固たる作家の信念を感ずるような。(そしてそれはたとえば読者個々個別にしか辿り着くことはできないものとしてある。)

 

まあね、遊び心の部分のセンスは好き好きだろうけど。
あと作品として優れているかどうかもちょっと別として個人的に好きな部分ってある。(いやこれって作品として優れてるって言うべきなのかもしれないが。)

「ヤクルト・スワローズ詩集」なんかの、特に詩の本文のとこのおセンスは春樹の苦手な部分が凝縮しててちいと私には苦しかったところ。野球への興味のなさってのもあるけど。一人称単数もそれほど評価できない路線。多層世界の分岐点みたいな「1Q84」的物語構造自体は面白いことは面白いんだけど。

石のまくらに、は、ううむ、可もなく不可もなく、いいと言えばいいんだけど、こと恋愛や性行為に関連し傾き過ぎたものは春樹の志向にはちいと鼻白んでしまうところがあるのだ自分。

対して、「クリーム」「ウィズ・ザ・ビートルズ」「チャーリー・パーカー…」なんかはいいなあ、しみじみ。どうしようもない不思議と不条理と謎に満ちた世界をファンタジー仕立てで具現化している。

 

もうひとつ。(懐古であるというスタイルにそれは色濃く現れているんだが。)時代の中に生きていた自分を振り返る年取った後の「語り手の僕」の層があらかじめ設定され、物語を物語らせる入れ子的スタイルだ。それは、己自身を客観化し物語化する一つの超越された語り手層を設定し、年月が経ったあとそれが何を意味していたかをひとつの感情的な帰結として物語る。決して種明かしをするのではなく。それが他者に謎かけのようにしたまま語るスタイルで。そこに、「それでもなお」愛し求め関係しようとする祈りの姿勢、その生き方のスタイル、モラルのようなものが年月の中に新ためて確認され浮かび上がるのだ。


逃れられようもなく運命づけられた己の属する、己自身を構成している時代全体、そのルーツ、それに対するかけがえのない初々しい感性のアドレッセンスのセンチメンタリズムの中に一生を通して永遠に深く包み込む謎や死やモラル、のようなもの(モラル、というのはラテン語にあった「生活様式」としての語源的な意味をもトータルに含めて)、人生への姿勢を決めてゆくその決意を選択してゆく意志や祈りという個としての己のスタイルが、あとから振り返り物語る形の中に醸成される、そのナニカ。わからなさがわからなさのままにわかる、という、矛盾のダイナミクスがそこには成立している。激しい祈りや思いや謎を感じ考える態度に、生きてきた軌跡そのものを意味づけて行くような、

…特に「クリーム」の「わからなさ」は異様にイイ。これは沁みた。この不条理の中に孕まれる理不尽の重みと永遠の謎の迷宮は、思惟のための課題だ。

…これがね、最初に言った「年をとるってのはわるくない」っていった意味なんだよ。
人生も終盤に差し掛かったところで初めて成立可能になる物語というのはあるのだ。

品川猿、って評価するのは難しいかもしれないけどなんか好きだなあ、この奇妙な感じ。
ひなびたボロ旅館に泊まったらいきなり下働きの猿が出てきて背中流してくれたりして、偉く礼儀正しくて知性的で、ひととき一緒に麦酒飲んで人生(猿生)やかなわぬ恋のことなんかも語ったりしてね。切ないんだなこれが。川上弘美的なしれっとした奇妙な「ひょっとしてアリかも」を感じさせてしまう力業、眞正のウソツキ感覚。

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それにしてもどうも昨今の流行の本の表紙のイラストっぽさ一律過ぎてなんか苦手。なんかイヤ。

 

梅雨明け 原爆

朝から既に湿気もんやり本日不快指数急上昇猛暑予報。
まだみんな身体がこれに慣れてないから気をつけねばならぬのではの夏バテ熱中症注意報。

梅雨と一緒にコロナも明けてくれないかとあんなにも強く願ったのにかなえられなかったので私はかなしい。神も仏もないものか。

仕方ない。

ということでここしばらくの総括覚書としては、己の厳しい体調落ちくぼむ気合堕落する人間性に喝を入れようとあれこれ。生きねば。
 
山形のだし、これはいい。ねばねばはいい。
しかし鯖缶や納豆、生韮葱刻み味噌や大葉大蒜醤油玉葱酢漬け等作戦を決行した場合、長い間何をどうやっても口の中がとても辛い状態になる。これを繰り返すのは避けたいのでどうしたらよいか解決策を考案するのが今後の懸案である。
 
イヤ旨いことは旨いんだけど。とっても。
そして力も付きそうなんだけど。
 
…とにかく梅雨明け、水出し冷やし珈琲冷蔵庫に欠かせない。
水出し白桃煎茶なんかもぱらいそな甘露である。

グラスで氷がカラカラ鳴る音は良いものだ。風鈴の音のように不思議に懐かしい夏の記憶が耳に響く。
 
 *** *** ***
 
そして気が付くと明日はもう原爆の日だ。
だんだん風化される記憶、薄れてくる恐ろしさは戦争の足音と共に。
 
子供の頃広島で過ごした夏休み、私はあんなにもものすごい勢いで怖れていたのだ。はだしのゲン。大人になってからはこうの史代に魂を撃ち抜かれた。
 
…歴史ってのは繰り返すのかなあ。螺旋を描いて。人はいくらでも無神経に残酷になれるのだ。美学のためには。

人間は愚かってことなのか。これはそもそもやはり愚かなことなのか。よくわからないから考えなくてはいけないが難しいのでよくわからない。
 
とりあえず何しろ健康第一であると「ペスト」でカミュはそう言っていた。確か。
 
春樹再読大会はジミジミと続けている。1Q84オーウェルの先行文献を読んだ後ではなお一層面白い。

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小人さん

眠れない。飲み直している。酔っぱらっているのでこれを書いているのはわたしではなく小人さんである。
 
最近好きなもの。
せやろがいおじさんとオダジマ氏の言葉。
絶賛春樹読み直し大会。
 
嫌いなもの
マスク。コロナ。梅雨。自他の悪意。
こないだの事故による醜い古傷が鈍く痛む時間。
私をいじめるもの。
 
圧倒的な寂しさ。
これは死に至る。
 
戻りたい場所。
あれこれあるんだが、とりあえず記憶の中でまずヒットするのがトヨタマの日々。我がバイブル安房直子さんの空間。
 
唐突に人生を総括させていただくが、とりあえず生まれてきてよかった。
そしてこの卑しく哀れな人生において最も幸福であった瞬間は純粋でパワフルな感謝と祈りで満たされ、それが他のものが介在できない圧倒的なエナジイであるために個の枠が壊された一種法悦のときだけであると断言する。その感謝とは他者に対してであれ世界に対してであれ同じものとしてカウントされる。
 
この世の扉はすべて叩けば開かれる。欲するものは求めれば与えられる。難しいのは正しく叩き求めることなのだ。こんな簡単なことは私がおチビであった(いまでもおチビである。)高校生の頃からわかっていたことだが結局一生私はなんにも変わらない。
 
さあこれで遺書を残したからしこたま飲んで明日肝臓が壊れて突然死していても大丈夫だ。おやすみなさい世界。

楽しみにしてた100分de名著の録画、西田幾多郎の「善の研究」が些か期待外れだったので多少の腹立ちと落胆を抱えて眠ることにする。お願い神さま明日には嘘のようにコロナおさまってくれてますように。


ところで最近一番の収穫は野ブタ。をプロデュース、とオダジマ氏の文章である。憧れてしまう。


とにかく今日と明日なのだ。

おやすみなさいサンタマリア。

春樹再読

さて。コロナの日々は続く。
ということで世界中参ってるワケなので私も参っている。すべての個人がそうであるように非常に個人的に参っている。

ということで体調も悪く、この症状は…すわコロナか、と日々恐れ、さまざまに渦巻く不安と恐怖の渦の中、明日の身の上もわからず、アテにならぬお上。同調圧力隣組にひたすら籠れと言われる家の中はワタクシにとってひとときも心休まることのない虐待暴力看守付牢獄、自我とココロのひとときの解放区逃げ場所であった街は死に絶えた廃墟の趣、友人と会うことすら封じられ、出口も未来も見えない絶望感に襲われがちな自粛生活の中、ひたすらひっそりと息をひそめアマビエさまなど拵えている。

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(タコはともだち)

図書館の受け取り予約すらできず、ネットで見てしまう荒んだ人々の噴きだすもの、SNS、さまざまの人々の考えの行き場のない怒りやニュースの空虚な言説、厳しい状況で辛がっている人々、日々泥水のなかで咲く蓮の花のように気高く頑張ってる人々のことなどつらつら考え続けたりすると脳味噌すり減って煮詰まって弱い人間は悪い方へ行ってしまう。小人閑居して不善を成す。

わろし。あし。人心は実にこうやって荒むのだ。我が心もまた。

既にワタクシは病んでいるのであろうと思う。
幼少の頃より心身共に脆弱がウリである。かなりヤバいレヴェルであるのやもしれぬ。


で。

とりあえず「絶賛村上春樹読み直し大会」を自分のなかでにぎにぎとはなやかに繰り広げているわけです。

青春の思い出とともによみがえる、時代を共に歩んできたという、リアルタイムで読んできたという、その作家の変遷への思い。

ほとんど忘れてしまった内容と共に少し熱の覚めたある程度「時代が可視化される」感覚で見通せる、今だからこそ、という感覚があります。あの頃夢中になった問題意識、物語や表現に熱が冷めていてズレを感じたり、意味が違って見えていたり、その流れの中で別の視点が見えてきたりするのはわくわくするような別っこの面白さ。

…いろいろくたびれきったボロ雑巾状態なので長編再読っていう行為は結構ハードルが高い。すごく面白かったという断片的な記憶のあるものから食らいつく。

羊をめぐる冒険」、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」。そして「ねじまき鳥クロニクル」。

あらためて読み直すとものすごく読みづらかったり独特の形容の臭みが非常につらく思えたリ、アラ探し的なことしてる感覚を自分のなかにどうしても感じてしまったり。…ある程度熱のさめた、心が共振しすぎてしまわない視点からあらためて読むと、それでもなお強烈におもしろい、すごい、という普遍の輝きが雑味なくあらわれてくる。時代の匂いと個としての作家のかかわりの中の問題意識の変遷がものすごくおもしろいんである。

前述した三つの作品は共通した一つの流れを受け持っている、と私は感じているのだと思う。

そしてその一つの集大成として「1Q84」が挙げられるのではないかと。

羊をめぐる冒険で意味ありげに立ち上げられた命題、社会、世界、外部が個に強いる理不尽への問題意識にしぼられた時点での「デタッチメント」の側面においてはハードボイルドワンダーランドで一つの完成形を得る。

そして行動へ。
逃れようもなく己自身が罪と責任を負って選択し世界に参加してゆこうとする「アンガージュマン」の意識(春樹曰く「デタッチメント」から「コミットメント」への流れ)への意識が色濃くなってゆく「ねじまき鳥」。いったん美しい形で構築された物語構成はここで再度解体され、物語としてはある意味散漫な印象を持つような印象を受ける。
 
すべての人間の歴史を通じてその底の底にに共通するレヴェルからどろどろとした熱いもの、暴力、エロティシズム、狂、といった要素を、理不尽を、社会と外部にではなく個としての主人公の、己の内側に見出し抱え込もうとする自我形成の意識、そこに至る社会や歴史、外界との関りが非常に込み入った形をとる物語構造が構築され。そこにはさまざまの要素、複数の人格の章が取り込まれてゆく。

…そしてこれがその段階でのもう一つの完成系をみるのが「1Q84」なんではないかと、なんだかざっとそんな印象をもっているんだな。うむ。なんとなく。

で。

これと並行して高校時代の恩師に声をかけられて、SNSで【7日間ブックカバーチャレンジ】に参加したんであるが、その折、その先生から「おもしろいよ」と言語学者井筒俊彦丸山圭三郎を勧められた。読んでみてえなあと思ってるんだがいかんせん図書館閉鎖状態でお預け。仕方ないのでとりあえずツイッタの丸山圭三郎BOTで言葉の感触を探ってみるなぞしてみる。

仏教的哲学観念からプラトンパスカルからフロイトラカンソシュールニーチェにAI、ドラクエイカ天まで自在に語る。(私の大好きな「たま」に一番注目してるとこがさすがポイント高いのだ。)
『言葉・狂気・エロス』これ。タイトルだけでぐっとくる。三位一体的なものだ。或いは宿命的に同時発生的な…図書館開いたら眺めてみよう。

BOTで繰り出されてくる言説は短いながらいちいち鋭くストンストンとくるものだから、そしてこれが春樹読解、おもしろく読むためにものすごく影響したものだから(特にねじまき鳥)、いや~コロナ禍のせいで瀕死のダメージを受けても蘇らねば自分、生き残れたらただでは起きないのだ、なんていうしたたかな希望を抱けるような気持ちになる。いやすぐ挫けるけど。

ちなみに今「ノルウェイの森」。大ベストセラーであったわけだが、当時どうしても好きになれなかったし、今もあまり評価できない。…が、違った読み方をできるようになって、別個の評価機軸を持てるような気がして、それなりに面白いのだ。あれこれ言いたいことは出てくる。

だが言っておきたい。これは一つの退行であると言ってよい、と思うのだ。
いうなれば、ひとやすみ。風景描写がひたすら快く、愚かな社会の理不尽はあくまでも外部に押し付けられ、おなじみの本命女性キャラクタはひたすら「背負う者」であり主人公の「あて先」の意味しか持たず弱く淡くひたすら透明で純粋でかなしく滅びゆく者として魅力に乏しく、小林緑(笠原メイやピンクのスーツの太った17歳の女の子といったサブ主役少女キャラにカテゴライズされる)や突撃隊や永沢さん、レイコさんといった「運命と罪と理不尽を背負いそこに塗れながらただひたすら生きる」役を負ったキャラクターはやたらといきいきとした魅力にあふれている。会話が小気味よい。
 
我が本棚にないんだが、読み直したいのはやはり「ダンス・ダンス・ダンス」、「1Q84」の1.2だなあ(3はあるがこれだけではどにもならん)。図書館はよ開いてお願い…

100分de名著「法華経」

ずうっと中断していた100分de名著の録画をようやく消化し始めた。「法華経」である。

やたらとチック症的なまばたきを繰り返すのがちいと気になる繊細で優しいおじさんな雰囲気の指南役の仏教研究家の先生がごくシンプルに法華経一般の概念を説明してくださる。原典サンスクリット語から現代語訳をされたそうだ。大変なもんだ。

原典の言葉の解説ってのは歴史と意訳を重ねて重ねて意味がブレブレにズレてきたものを正してゆくよな素敵な親切である。あれこれおもしろかった。賢治の理想のデクノボーのモデルと言われる常不軽菩薩の意味がサダーパリブータ(SadAparibhUta)というものすごく両義的な深い意味があるとか、レトリックとして捉えられる「方便」がupāya(原義「近づく」「到達する」の名詞形であることから仏の智慧による衆生を済度に近づけるためのもっとも効率的で巧みな方法という意味であるとか。)

ざっくり入門シンプルにってとこがいいのヨ、この番組。100分のダイジェストだからな。それでいてエッセンスをとらえてたりする。論文の序文みたいなもんだ。一番大切なとこはホントはみんなとってもシンプルなのだ。

で、でてきたんである。「真の自己」の概念。
実はこれがなかなかふかぶかと心に突き刺さった。そのシンプルな難解さに感動した。

思い出すのが「本当の自分・自分探しの旅」というコピーの類。
いや実に手垢がついて臭みを帯び、お笑いワードになっているほどいろいろ揶揄される恥ずかしい言葉である。

「癒し」とかそういうのもなんかなあ、背筋にむずむずきちゃうような恥ずかしさがあって個人的にとても使えない。(私は実は絵文字とか《笑》とかもハードル高くて使えない不器用な人間である。)もともとあんまり安売りしちゃいけない言葉がみょうちきりんなメディアで流行らされてなんかこう本来の意味をゆがめられ薄められて汚らしくなってしまう感じってあるもんだ。「名前を言ってはいけないあの人」とかいう概念の発想は何だかこういうとこからもきていると考えていいのではないかしらなどと思いついたりする。「名前」っていうとこで意味のカテゴリは広がりすぎてしまうけど。

 

真理、とか言う言葉さ、例えばそういうの。

その、人間が語りえなくなるところ、無言になる地点、虚空。それを語ろうとするために本を一冊書くくらい、ひとことひとことの言葉って大切なのだ。きっと。はじめにことばありき。ロゴス=神みたいなもんだからな。

…とはいえ使わねばならぬこともある。ゴンゴンと、とワシは考える。誤った使い方をしてはいけない、常に鑑み鑑みしながら己の中で納得してからどすんという重たい決意と思いを込めて、一言つかう度にどきどきしながら疲れながらあらゆる揶揄に百の言葉で対応できるだけの理論武装をしてから覚悟をもってゴンゴン使うものなのだ。いや実際どうでもいいんだけど。好みの問題だから。

 

ということで、おじゃる丸での(おじゃる丸は基本的に卓越した崇高な思想を孕んだ素晴らしい番組であるとはじめてみたとき私は大変感動してしばらく随分とハマったものだ。最近観てないけど。実に類を見ない。原作者はうつ病で自殺しちゃったけどな。)自分探しキャラクター、フリーターのケンさん。(おじゃる曰く「ふらふらのケン」)自分の天職を求めてあちこちでちいと元気にバイトをしてはすぐにクビになったり「これは本当の自分じゃない。」とやめてしまう元気な若者である。だけどひたすら前向きで陽気でいいひとでかっこいい若者なんである。…なにしろこのおじゃる丸の批評性の暖かさが大好きだなオレ。(作者自殺しちゃったけどな。)(しつこい。)

 

のことなど思い出したりしたのであるが。
いやそれは関係なくて。いやこれくらいこねくり回した後で再び幾度でも立ち返ることのできる<言語・世界>というのはふかぶかと三千世界であり、曼陀羅網であり、いやとにかく素晴らしいんだなどと思ったりもして。(その真理とはおじゃる丸の住んでいる月光町のあの世界に立ち返っていく、と言ったっていいことなんだと実は今私は考えている。)

 

…いやだからね、要するに、ブッダの悟りってのは、真理を悟るってことは、実は真の自己の発見である、というそういうさっくり言えてしまうことなんだけど、これがなんかものすごくて。

つまり、これは真の自己とは何か、っていう問い直しだからさ、要するに。それが真理という虚無である、という地点であるところ。解放とはすべてを手放し失うことである、ということ、そしてそれがすべてを得るということと同義である、ということ。自我が解体し世界が輪郭を失い空となり裏返って色となることを感覚する、主観と客観がその境目を失う臨界点であるところが仏教的な悟りの意味であるという、西田幾多郎の言う「純粋経験(主客未分)」。

「自分とはすなわち世界である。」

なんというか、人類の苦しみや喜びの歴史が営々と紡いできた叡智、仏の叡智のその深みと光に照らされたようなトリップ感を感じたワケよ、なんとなく。

ううむ。
おもしろいたあこういうことよ。

いっぱい考えたいなあ、世界にはその価値がある、自分で言葉に紡ぎたいなあ書きたいなあと思えるこの一瞬見える構造、風景のことなんだ。


で、とりあえずこの記事は備忘録。(そればっかりですが。)

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これは、法華経の美の象徴、白蓮やらお釈迦様関連で、蓮写真。隣町の蓮池で撮ってきたもの。今年は見に行けるかなあ…上野の不忍池のもきれいなんだが。