酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

パンデミック

世の中コロナである。

パンデミックってどうして起こるんだろう。
現代ではインフォデミックとかいわれてたりするんだが。

社会全体が総立ち、な、このわさわさの緊迫感。東日本大震災以降こういうリアリティは結構如実にはなってきてたんだけど。フラフラッぷりに拍車がかかってどんどん土台が崩れてゆく雰囲気。(雰囲気は「空気」であり実感とリアルを呼ぶ。)

まあねえ、人間をおバカにして貶めるものはダメにするものはひたすらに己の恐怖と不安なのだな。昨日と違うもの、未知なるものへの恐怖。どんな恐ろしいことがあっても不思議ではないのだという感覚。恐怖がヒトを狂わせる。このとき人類の力強い脳足りんは遺憾なくその能力を発揮し盲目的な破壊活動を開始する。個人レヴェルから組織レヴェルまでずずずい~っと。それは共振している、同じものだ。

マスク買占めに続いてインフォデミックによる完全な人災、ヲイ、昭和のオイルショックかよのトイレットペーパー買占め。(確かにアレがいきなりなくなると思ったとたん問答無用の恐怖に襲われる。現代日本殆どすべての家庭においてそうであろう。うむうむ。実に確かに。)カップラーメン的なる非常食や缶詰米類まで品薄になっているという。(ウチの母も「缶詰安売りしてたからついでにいっぱい買っといたの。重かったワ~。なんか何があってもなんとなくしばらく安心ヨ。」)

人類の歴史に進歩の文字はない。

社会のあらゆる層に跳梁跋扈する妖怪は流言飛語にデマに差別にイジメに陰謀説、破壊残虐、無知蒙昧ダブルスタンダードへの無自覚或いは恥知らず精神の招く阿鼻叫喚。

そしてけれどその泥の中にきらめく蓮の花のように高貴でうつくしい英知の輝き。純粋で圧倒的な優しさとひとびとの連帯と日常へのタフネス。

いつも楽しみにしてるカルディの珈琲試飲もサーティワンの試食も魚屋恒例のマグロの解体ショー即時販売会(実に血なまぐさく残酷なショーではある。食肉人種が人間でこれをやったらとか一瞬想像したら卒倒しそうになった。)も中止、小中学校いきなり全国休校とかもうひっくりかえったが、図書館も二週間閉鎖とかもうね、(まあ一番危ない感じはする。古本屋とか図書館はただでさえ。だけど劇場やライブがダメで満員電車とパチンコ屋は健在てなんなんだよ。)政策に正解というものはない。どこかになにかのしわ寄せと不都合は来る。

でもさ、

でもさ、政治がこんなにもいきなりむりやり末端の毛細血管から社会の機能をみんなとめてしまおうとする状況ってホントに生まれて初めてな気がする。細胞が壊死してしまうのではないか。そう、アワアワ慌てて安直に末端からシメる。シメやすいとこからシメる。お上のやることが今何もかもへたっぴいな感じがしていけない。SNSという情報と多様な精神文化のるつぼの怖さを近視眼で脳味噌がアップデート不能に老齢化したお上はやっぱりあんまりわかってない。ダイバーシティの肌触りをわかっていない。他者への敬意、畏れというものを。

…とにかくねえ、すべての層において恐怖心ばかり煽られて人心が荒れるのだ。お上が本来まずおさえこまねばならぬのはここだ。人心が荒れればもう世の中どんな信じられない愚かで残酷なアンビリーバボーナンデモアリの下地はバッチリだ。

前述したが何しろ一番怖いのは、「この先何が起こるのかわからない。」未知という恐怖と不安によるパニックなのだ。それらはすべて寂しい不信と蒙昧からくる。

「権力」に、ジャーナリズムとお上に求められるのは、その本来であるところの人間の誠実さと真摯さである。

真摯さとは合理のことである。大衆にゆるぎない信頼に足る感覚を与える人間性は基本である。能力を発揮すべきはそのスタート地点からだ。アタマと心がまっすぐでマトモであるということ、両親の愛に包まれた幼稚園児のレヴェルくらいに。

実はウイルスより何よりも怖いのは人心が荒れることなのだ。無理が通れば道理は引っ込む、人心が荒れればお上もアワアワする。アワアワしないでまず初動でこれを押さえるのが有能なお上なんだと思うんだがな。ノブレスオブリージュ、権力をもつ資格。(無能なトップがあるとき実務のしわ寄せを食うのはおそらく官僚レヴェルの層なんだろなーなどと思ったりする。シン・ゴジラの物語思いだす。カップラーメンで風呂にも入らず徹夜のひとたち。)過労に疲労困憊。ここでひっこむのは冷静沈着。出張ってくるのは集団的ヒステリー、感情的な諍い。連携の悪さ。孤立する個々の情報、細胞間の血流が滞れば末端の個々の細胞は無能っぷりを引き出され能力は壊死してゆく。現場の声を聞く耳を持たないお上とメディアの社会ではもっとうまくできるはずのこともうまくいかなくてこじれることになる。人間社会のあほらしくて悪いことは結局みんなそこからやってくる。ひとりひとりみんなおバカになるからだ。そして人心というのは結構たやすく荒れる。私の精神なんぞなんかもうカナリヤのようにいの一番に荒れるレヴェルにあるのでよくわかる。

シンガポールの大統領の演説、真摯であること誠実であることが眩い。ニュースになってた。

これ。https://note.com/kanikana/n/n49894138904d

イタリアの小学校の校長先生の学校がコロナ休校になるとき生徒にあてて書いた手紙もニュース。なんか両方とってもマトモでこのマトモがニュースになるってなんかなあ、な気もするけどなんか安心するんだな、ニュース。

https://www.asahi.com/articles/ASN316KWHN31UHBI02W.html

心に響くのはどうしてかな。考える。無理が通って道理がなくなってるわけじゃなくてちゃんと生きてるんだよ、のサイン。そして、子供らに向けたマトモなメッセージはすなわち未来に向けた希望と祈りであるから、なんじゃないかな。

彼はイタリアの文豪マンゾーニが、ペストが流行した様子を19世紀に描写した国民的文学作品「いいなづけ」の一節を紹介しながら説いてゆく。

「社会生活や人間関係を「汚染するもの」こそが、新型コロナウイルスがもたらす最大の脅威だ。」
「「目に見えない敵からの脅威を感じている時は、仲間なのに潜在的な侵略者だと見なしてしまう危険がある」」

「外国人に対する恐怖やデマ、ばかげた治療法。ペストがイタリアで大流行した17世紀の混乱の様子は、まるで今日の新聞から出てきたようだ」

こっちのが具体的で詳しいか。(朝日新聞は無料は途中までしかないんだ。)

大体な、映画なんかでも普通怖い宇宙人が襲来したら責任なすりあったりいがみ合ったりしてないで地球人全員団結して立ち向かうんだよ、細かいあれこれは一時的にでもこの際全部「置いといて」さ。敵味方なく知性教養良識行動力勇気フル活動にふりしぼって提供し合って助け合って楽しく協力しあって共通の敵と闘って、あとのゴタゴタは後回し、なアタマにしないとちきうじん全滅やん。まず自分の安全圏護るのはアタリマエだけど、それを守りながらさ。知性とココロの問題よ。差別とかイジメとか論外でしょう。

でさ、学校休校になったこの機会にこそ文学を読め、と。自分のアタマで考えろ、と。さすが校長先生だな。そうだ、教育者は教育者のできることを精一杯。

だとしたら、科学者や研究者、医者に期待するのは、彼らの誇りである。できることを、その専門を精一杯。ただまっすぐマトモに、精一杯。

政治家や大臣たちは彼らの専門をマトモに精一杯。…で、統括のプロでしょう、彼らってさ。国としてオーガナイズするとこの。

それぞれの立場が垣根を取りはらいツーツーに合理的に連携し合ってマトモに協力し合えば人類は信じられないくらい今とは比べ物にならないくらい素晴らしくスピーディに問題解決を見出してゆけるのではないだろうか。聞く耳を持つこと相手の専門を敬うこと敬いあうこと。同じ人間としてすべての人民を侮らないこと。

それはそれぞれがそれぞれの専門に、誇りを持ち喜びをもつ、それぞれの頭でたゆまず考え続ける個の生き方のスタイルであり、またそれは実は社会集団の中の員としての、ひいてはその集団の品格、命の力、誇りと尊厳のスタイルとなる。うつくしいナショナリズムの本質はそこに在る、ような気がする。

メディア、すなわち統括するものとしての政府とジャーナリズムが正しく機能すれば、末端の、現場の細胞レヴェル、すなわち自治体レヴェルはその機能をいかんなく発揮することができる。個性として、人間性の延長として。ジャーナリズムを操作し政権闘争に明け暮れ、人間を信頼せず信頼させない、真摯さを感じさせない答弁、権力が忖度を強い「何かが起こったとき」その責任を末端にアウトソーシングするお上なんてのは本来からいえば真逆のスタイルなんではないんかね。何のためにお上は、法は、あるんかね。わからん。

自治と細胞同士の連携プレー、その専門レヴェルとオーガナイズレヴェル、その社会活動は生命の流れのように全体のホメオスタシスな平和と日常という健康、その回復に向けて機能することができる。)

…ということで、ニュースはあれこれとびかうんだけど、例えばお仏蘭西の合理性を刺し貫いたマトモっぷりには時折恐れ入るのだ。
日本の大臣のやりくち、記者会見なんかとどうしても比べてしまうよな、やっぱ。

https://www.designstoriesinc.com/panorama/olivie-veran-tv/

みんなが知りたいことに率直に。ピシッと答える頼もしさ。
専門家のレヴェルなんて日本だって負けてないはずなのになあ。

 

 

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大体ねえ、ライム絞ってラッパ飲みするとやたらとお洒落でうまいコロナビールの売り上げが名前のせいで風評被害にあってるとかもう現実とは思われません。あなおそろしやナンデモアリ。

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…で、というのとはそれほど関係ないんだけど、昨日私は我がバイブル、とっときのエリクサー、安房直子さん開いてしまったのだった。

これがな、やっぱり救われちゃうんだよな、まだじいんと効いている。護ってくれる。「北風のわすれたハンカチ」やはりいい。そして「小さいやさしい右手」。これはなんだか本当に泣きそうになるのだ。いつもいつでも。

このかなしみが救いとはどういうことぞ。理不尽、どうしようもなさ。
けれどもっともっと巨きなものに贖われている罪、祈り。

残酷を圧倒的な優しさで包む。残酷は残酷でなくなる場所へ。うつくしいとはどういうことぞ。

とかね。
哀れなちっぽけな自分のこの汚らしく穢れた罪もおおきなものに赦されてよいのやもしれぬ、という感覚なのではないかねい。ひたすら絶対的に赦されていればひたすら絶対的に赦すことができる、のやもしれぬ、とかさ。ようわからん。とりあえず効くからとりあえずそれでいいのだ。そしてこの気持ちが万人の中にあればもしかしてなにもかももっとうまくいくのに、というようなことを思う。

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ということで、古い春樹も読み直している。(関係ない。)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。読み始め、当時はあんなにおもしろかったのに、もうこりゃアカン、この文体の臭み、もう耐えられんという感覚。…だったけど、入り込んでゆくと慣れてくる。

いや~やっぱり面白いよ、すごいよ、最近のよりずっと面白いと思う。上巻を読み終えた。
(このまま下巻にいくかね、と思ったけどほかに読まねばならんが入り込んできたので中断するかも。)主人公が白アスパラと牡蠣の燻製の缶詰を空けてウヰスキー飲むシーンがあったんだけど、普段は生のグリーンアスパラ派なんだがおんなじことしたくなった。春樹作品は丁寧な食べ物の描写も好きなんだよな、おいしそうで。

春が来る。まだきちんと青空の日曜日がある。
無力な自分、ただ騒ぎが穏やかに収束する日を祈るよ。

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