酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

何故子供の本ばかり読むのだろう

感性が子供なんである。
別に気取っているわけではない。精神的な成熟度もそれに準じているし、よく天才神話に言われるようにそこに付随した突出した才能などがあるわけでもない。

成長しそびれただけだ。まあ要するに単なる落伍者である。
皆最初は私と同じくらい字を書くのがヘタだったのにいつの間にか同じように汚い字を書いているのは私だけになったし皆同じように子供の本を読んでいたのにいつの間にか子供の本ばかり読んでいるのは私だけになった。それだけのことだ。

皆が平気でわからないものに順応し変化してゆくのが私には理解できなかった。
大学時代普通に友達タメ口だったのに、社会人になってほんの1~2ヶ月経ったら「社会人用語」をまきちらすようになった友人やなんかも怖かった。独特の抑揚で独特の権力を絡めた物語を紡ぎ出している人種のグループに属することを主張するターム。壁ができているような気がした。ふざけているのかと思った。人間は使う言葉で己の主体をも変容させてしまっていることを自覚できない。(だがそれが生物としての本来と言っても別にいいような気もする。順応できない者が規格外品なのだ。隣組から排除される。その時どきのその場における正義の絶対を疑ってそこにのっかれない者は不幸だ。)

…だけど、それだけじゃないんじゃないかと思って、ときどき一生懸命その理由を考える。
文学とは言っても、なんというか、童話、詩のジャンル、それから青春小説というかそのあたりまでの匂い。それ以上の成長を拒否する、ということは。

大人になることへの拒否、何かを他者に関わって背負うこと、アンガージュマンへの恐怖と拒否である。

拒否から飛翔、逃避はアドレッセンスの特徴だ。
それはまた分かれ目でもある。ミッション。

で、通常は「オレも若かった。」的な「成長」ルートが成功事例のお約束として用意されている。

…だが、ただそのときの疑問や反発の心を封印しあざ笑う、また次の世代をつぶすためのプログラムを引き継ぐための「大人」へ仲間入りし魂を封印させることなくそこから回帰する、螺旋を描くのが本当の大人、というのかもしれない、と思うのだ。

つまりそのミッションは、ネクストジェネレーションとしての可能性を秘めた卵として用意された年代なのではないか、と。その大量の卵は孵ることなくことなくつぶされるプログラムが社会には用意されている。個をつぶす抑圧に対し、反抗疑問革命を叫ぶ心を保ち続ける不適合型は社会の負け組として排除される、が、そのうちごく少数は天才として開花し、子供のままの鋭さを主として文芸やアートの分野で花開かせる。これは双方テーゼかアンチテーゼかの二者択一の論理地平にある。現行社会を適度に息抜きさせながらキープするシステムの内側である。

だがしかし、そのような特殊なかたちではなく、第三の道があるのではないか。大切なのは、社会対故人、或いは若者対大人という二項対立、その矛盾を引き受けながら否定しながら社会的自己、というようなものを選び取り確立してゆく強さなのではないかと思う。そして目をふさがないままの、魂を外部に半分置き続ける強さを保ち続ける力が知性なのだ。知性とは、目をふさぐことなく耐え続ける強さと優しさの別名であり、人間性の膂力のようなものなのではないかと思ったりする。緩やかな革命、保守としてのリベラル…大人になりたい。

そしてたとえどんな形で年老いていようとも、魂の底には幼いころ頃刻み付けた世界の不思議やうつくしさに満ちた物語を、避難場所として保ち続けたいと思うのだ。生まれたこと祝福され愛されたこと祈ったこと喜んだこと。未来を無限に、世界を無限の意味に感ずる想像と創造の心の源泉。

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居酒屋は大人の楽しみ(近所の居酒屋大変楽しい。)