酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「某」川上弘美

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ある日突然、気が付いたら存在していた。
病院で気が付く。そしてそこにいた奇妙な医師の指導のもとに、治療と銘打たれた「アイデンティティ確立」という目的に向かってさまざまな年齢性別を「演じながら」生活してゆく。

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2019年秋の新作である。

…やはり川上弘美はおもしろい。どうして面白いか考えるのも面白い。
そして作品ごとにどんどん変容を遂げてゆく、冒険している、という印象がある。己の打ち立てた独自の世界の型の中にすら収まってゆくことなく、つまり職業作家として確立されたスタイルに安住し甘んずることなく、次々と新境地を開拓していこうとする作家としての魂のエナジイ、ライフワークを抱えた人間の、それ。

どの作品の頁を開いても、その文体ベースは確かに川上弘美カラーではありながら作品ごとにそれぞれが非常に手ざわりの違う世界観を以て広がってゆく。

なんと言えば良いのだろう。デビュー時からほぼ長編はすべて追って読んでいると思うのだが、歴史を刻んでゆくごとに作家としての円熟への思いとは別に、彼女の捉えようとする世界の全体像が構造として浮かびあがってくるような気がする。無限の不可知の闇或いはカオスの宇宙に浮かび瞬く沢山のロゴス世界、そのあえかな輝きの曼荼羅網、インドラの網、静かに明滅する有機交流電灯の風景。

で、最近の傾向というのが、それが一つの作品の中にオムニバス的な章立てをされて多数ー総体の関係が凝縮してきている、ということ。つまり、川上作品総体の構造モデルがひとつの作品の中に次元を下げたかたちで顕わになった世界像を示している、というような。

それぞれ個々の作品世界、ロゴスとコスモスから成る世界一つ一つとは、カオスの闇に浮かぶその曼陀羅の一つ一つの灯火。(作品世界《一つの作品に凝縮されている場合にはそれは一つの章に仮託されるスタイルをとる。》)のひとつひとつがその灯火に対応するものとしてある。)それぞれが闇とカオスに深く彩られているからこその健気な光としての生命、存在、コスモスなのだ。

ナウシカのラスト・クライマックスシーンの科白思い出すようだなこりゃ。…人間が浄化の神として未来に向けてプログラムしたもの、すべての人間のあやまち、闇と汚濁、滅びを忌避し払拭しようとする永遠の清浄な光の未来を提案するラスボス・知性体プログラムAIと、闇と光と滅びをともに抱え、すべてを生きようとするナウシカは対峙する。「お前は危険な闇だ。」「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ!!すべては闇から生まれ闇に帰る」)(ちなみに私はナウシカに全面的には賛同しない。)

川上氏の作品は、そのままその世界の個別の光の多様を渡り歩く冒険としての読書行為がしくまれているものであり、すべてがそのあえかな輝きの頼りなさ矮小さそのものを愛しむ祈りに身を浸す行為となっている。(「愛し(かなし)」という言葉は古語においてかわいい、しみじみといとしく思うという意味であった。いとしい、かなしい。この二つの感情はもともとひとつのものであったのか?…その関係性をしみじみと私は考える。)個別世界とその関係性から成るトータルの関係を探る言葉のかたち。

…まあね、とりあえず当たり外れがある、と言ってもよい。初期の方が好き、とかこの路線はあんまり、とか、いろいろ好みも別れてくるだろうと思う。とにかく敢えて文学として様々な冒険、試みをしているような気がする。

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この作品は読み始めて、まず、あ、「大きな鳥にさらわれないよう」の系列に連なる手ざわり、と感じた。(レビュ記事アップしております。こちら。)人間とは、個とは、アイデンティティとは一体そもそもなんなのか、どうして今わたしたちはこのようであるのか?その疑問を、その外部、即ち内部のコモンセンスとして塞がれた限定された視点や感覚をもたない、人間ではない生命を仮定することによってその複数の多様な視座から根本的に問うてゆく。

一見異端であるようでいて、根源的な問題意識としては「私とは何か」という命題に真っ向から立ち向かう生真面目なほどに正統派な文学だ。

文体が鼻についちゃったらダメだろうな、とは思うね、確かに。春樹もそうだから。(そりゃあもう春樹の文体の臭みには定評がある。ピカである。)そこんとこは危うい。個性的な癖にどうしても鼻につかない文体は漱石だけなんじゃないかという気がする、個人的には。そしてだが川上弘美のこの作品の文体はどこか漱石を彷彿とさせるところがあると私は思う。シンプルなのだ。視線がまっすぐなのだ。疑問の抱き方がシンプルにして論理的。何かにおもねる心によって歪められることのない、オブセッション、圧力を伴った論理の物語に惑わされることのない無垢な視点。ついには非論理に至る、禁じられた論理の限界に挑む果てない疑問。言葉はその自己矛盾の露呈する臨界点、前提とされている物語の基盤を探り当てようとただシンプルに問い続ける、ソクラテスみたいにさ。「理屈っぽいキャラクター」にそれを仮託してみせて会話の中で茶化してみせたりするのが一種あざといテクニックだったりするんだけど。

外国人が日本人を不思議がることによってはじめて己の国民性を、その独自性を初めて対象化して知ることができる、というような原始的な構図。その手法として人間以外の生命体の視点を仮定するためにSFやファンタジーの形をとったものが「大きな鳥に…」だった。この作品(「某」)もその構図を持つ。まあね、イマココの現実社会という作られた物語世界にとらわれないために、これを対象化する役割を担った異界設定という構図は幻想文学として割とスタンダードなものではある。

オーソドックスな言い方をすれば、それは異界からの視点を取り入れイマココを「異化する」(ロシア・フォルマリズム)という構図であり、構図の原型としては実は今までの氏の文学のスタイルとまったく変わらないのだが、やはり個別的スタイルとしての冒険を孕み、独自の味わいをもったものとなっている。

…まず大前提として、各章が個々の様々の人間のドラマをあぶりだしてゆく物語としていちいちおもしろい。ミクロの視点からも、それを統合し鳥瞰するマクロの視点からも常に同時に双方から作品を鑑賞する現場が生まれる極めて巧みな構造をもっている。

で、それがふわふわとしたこの独特の文体、ヒューモア感覚に包まれて展開しているものであってだな。そしてその根底にあるもの、致命的に魂を刺し貫く力、抗いがたい氏の作品の魅力とは、だな。

…世界にひたすらに瀰漫する、たまらない切なさ、寂しさ。
存在の持つ原罪のようなかたちをした寂しさ。その不条理の切なさ。

それは、それがここでは存在の痛みを救済する唯一の方法論として提示されているものなのではないかと私は思う。作品世界のその果てた先にどのような生き方を選んでゆくか、登場人物たちの生き方に託して。…なんとも非常に逆説的なんだが。

自己或いは他者の、存在(自己或いは他者、愛する者すべて)としての「個」が失われる死と喪失の寂しさ、恐怖。それを超克してゆく手立てがこの読書行為には孕まれている。非常に切ないのは、耐えきれない、痛ましいほどのあきらめや寂しさが否定されることもできず瀰漫されたまま、ただおおきなものへと止揚されてゆく、矛盾すべてを包摂してゆこうとするこの作者独自の物語スタイルによる。

誰一人として定型化された悪役やつまらない人間はいない。ただ彼らは全員が等しく作品の紡ぐ言葉の中にまっすぐに分析されてゆく。非情なまでに冷徹なまでにまっすぐな知性をもって。さまざまの角度をもった複数の主体の複眼によって。決して作者の超越目線から正邪や真贋を決めつけぶったぎられるのではなく。問い合い続ける対話によって浮かび上がってくるものを読者が掬い取る、「読書の現場」の共同作業がおこなわれる。

そしてこの作品においてその構造とは、主人公が、語り手としての主体自体が次々と変幻するものである、つまり主体そのものがひとつのものでありながら章ごとに切り替わってゆく、年齢性別性格すべてを変化させる力を持った人間ではない存在「誰でもないもの」である、という奇妙な設定という方法論によってなされているのだ。ルーツがない。理由がない。気がついたら既に存在していた、なんの記憶もなくただぽかんとしてそこにいた主人公。…巧みな構成だ。存在の不条理。

そこからすべてが始まり、(彼ー彼女)の物語は各章ごとに平等にひらたく読者の前に開陳されてゆく。投げ出されてくる。次々と名前、性別、年齢、国籍を変えてゆく。嘗て己自身であったものを内面からも裁くことのできるそのときどきの章の焦点主人公、主体。それは個々の章における人間模様の物語、そこに生み出される圧倒的な切なさ、あふれるような熱い思いのエナジイと共にあり、内面からと外面から、双方から語られることとなる。

丹羽ハルカ。野田春眠。山中文夫。
マリ。ラモーナ。片山冬樹。ひかり。みのりーひかり。

作品の章毎に同一でありながらの他者性を帯びながら語り手は変化している。

ラスト。
主人公・ひかりは他者である恋人みのりのために死に、みのり(彼もまた人間ならざる「変化する者」の一族である)は変化して性別を変え、ひかり(に似たもの)となって己の中でさまざまにひかり的なる存在と語り合いながら、眼前の世界を眺めている。

語り合う。その喪失への寂しさとあきらめを喪失ではなく己の中のその「喪失」に見えるものによって自分が自分であることを得たことを、そしてそれが人を愛し己を愛し世界を愛することの同時性として得られたものであることを。

「『ひかりは、しあわせだった?(中略)あたしは今、けっこうしあわせかもよ。』」

嘗てみのりという少年であったものは、存在としてみのりでもなくひかりでもないあたらしい「みのりーひかり」として共に生きるひかり的なるひとりの女性としての存在となり、過去を背負ったままこれから広がるジン・テーゼとしての未来と日常を思いながらただ広がり流れる世界の風景をながめている。そのたくさんの物語を抱えたまま、未来の新しい恋のことなど考えている。

終わりと始まり、いつもながらその不思議な光にみたされた、さまざまな解釈に開かれたラストシーンである。(この読後感が非常に好きなのだな自分。投げ渡されたものは頁から上げた瞳に映る世界を意味で満たす。)

自己犠牲と自己(エゴ)確立の物語を共に否定したところ、…止揚したところにあるのがこの結論としての私・あなた・世界の関係性、その存在のかたちなのだ。お互いの存在、アイデンティティの枠組みが崩壊し溶けあってしまう「あいとそんざいのかたち」。

或いはそれは自己幻想、対幻想、共同幻想。瀰漫する、愛。死によって繋がれる生、受け渡される、愛のバトン、そのかたちの成立する過程を描く物語。

…この構造を見出したとき存在は存在として完成する。同時に、それは「死と他者を内在させることによってしか成り立たない個の生」として描かれている。虚無と闇とカオスの海に浮かぶ意味と光の世界構造の「体感」。他者の中に生きる、他者が己となる、その自己崩壊による自己実現という矛盾。この矛盾を描くことによって表現される愛と存在のかたち。関係性としての存在論、文学的相対性理論とも呼ぶべきもの。…これがこの作品の物語のダイナミクス、主人公としての語り手が「誰でもない者」から「あたしはあたしになった」へのジャンプを成立させた意味=物語である。

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とにかくね、ラスト近く、みのりとひかりの愛の日々の描写は圧巻ヨ。
川上弘美節炸裂。幻想の、夢幻の道行にも似た二人の生活と会話は、かぎかっこをいれない会話体と本文の溶け合いやひらがなの多用、夢の中をゆくような混濁したシーンの明滅の技術によって見事に溺れさせてくれる。時空を飛び越え超越したところにある閉じられた近未来を思わせる世界。死へのお約束フラグたちまくりの世界の果てや終末の予感に彩られた、涙が出そうな切なさに満ち、同時に笑ってしまうほど圧倒的な恋と愛に満たされた日々。 

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タイトル「某」はこの作品のラストにひとことだけひらりと閃く作品読解のための手がかりの光だ。

それは、嘗て同じ「誰でもない者」の仲間であったが、命を狙われたために敢えて器としての肉体を捨て、ただ純粋な認識主体として、VR、ネットの海の中に消えていった津田(ホセ)の呼び名としてひかりが選んだ呼称である。

「誰でもない」「某」であった主人公が「ひかり」となる、その輪郭を得て、すなわち死すべき「有」であることを得て、幸福に「死」をも「得た」物語を際立たせるために対比されるもの、
哀れな、万能の、不死の、究極の「誰でもないもの」。

死をもたないものはアイデンティティとしての生をも持たない。

この津田はもうもちろん、アレだよね。「攻殻機動隊」のアレ、草薙素子。ネットの海に消えていった者。純粋な認識主体としてのみ在る者。計算されうる情報の中のみ存在するAI。

人間存在とは、魂とは、知性とは、両者は一体どのように分離されうるのか、というこのテーマに両者は通じている。どちらも、一見相反する方向性の志向の主張をしているようでいて、訴えてくる問題意識は共通している。(「攻殻機動隊」では素子の言う「ゴースト」がキイ・ワードだ。情報から、計算からどうしてもはみ出すもの。これによってどうしてもどうなっても素子は素子という存在として生きられる存在となっている。他者の中にも。)

…その共通問題意識「私とは、世界とは?」。
それは銀河鉄道のジョバンニが「あなたのほんとうにほしいものは一体なんですか」と問うた問いと実はまったく同じものだ。古今東西、人間の問うものは、変わらない。どうしても、割り切れない、問い続けなければならないものから未来は拓かれる。希望も、破滅も。

じいん。

 

…このレビュは総論だ。自分のためのメモ。読んだ人にしかわからないメモ。
これから各章ごとに各論として構造分析、総論を裏付けしてゆくことはできるはずだ。まだまとまらないふわふわとした綿雲のような考えのカタマリが先に見える。だけどさ、実際プロの研究者でも学生でもないからさ、いつもいつも、おっつかないんだ、いつも。だから、せめてもの深夜の酔いどれ書き散らし。(読みたいもの、読み返したいものだらけだけど、もうその力が自分にはないのがかなしい。)(文学は長く、人生は短い…というより私の生命と魂が枯渇しているのだ。カラッポの魂は生ける時間を持てない。)可能性として私の感じたことの手がかり、標本だ。自分が考えたことをなかったことにしないために。


書くことは、生きること。
読むことは、生きること。