酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

秋の朝考えること 夢見るメディア空間

朝起きたら静寂の空にうつくしいももいろの光がいっぱいの朝焼けだった。ひんやりさらさらと肌を撫でる秋の風。

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静かな早朝、この世界はすべて私ひとりのものである。

だから私は今日私に与えられた恩寵であるこの一日を精一杯幸せに過ごそうと思う。

 

…でだな、朝のゴミ捨てに行きながら考えたんだけどな、週末お散歩したときの風景を思い出したりしてだな、そんときの楽しげなファミリーや幸せな人の表情、お洒落な女性なんか思い出しててだな、さまざまの物語抱えて歩いてる人たちの流れる風景を思い出しててだな、そういう人々が総合して作り上げてるナニカが街の風景を単純に幸福にしてるんだなあとか、そんな物語世界に参加してなんらかのかたちの役割演技するとかそんな風にきれいなふうの風景に参加したいとかお洒落とか美とかはそういうものだよなあとか、実に観客であり役者である微妙な狭間のところに自分も参加してみたいものようとかしみじみ考えてだな、街で見かけた美麗なるワンピースのことか考えてだな、欲しいなとか考えてだな、でもそれってどうせ着ることないしそれって実は考えるだけでシアワセってことなんだよなあとか考えてだな、でも実際ブツがないとって思っちゃうんだよなとか考えてだな、イヤなんかそれって積んどく本とかあれもこれもいろんななんでもできる最新の電話やiPadとか夢のように美しく思い通りに映るすっごくいいカメラとか欲しいなあってのもみんな一緒だなとか思ってさ…だからさ、本でも洋服でもレコードでもフィギュアでも、収集趣味ってのはおんなじだな、アレだな、夢を買うことに、集めることに意味があるんだな。モノを所有することってのは活用すること自体ではなく。つまり本を読むこと自体よりもファッションを外界に披露すること自体よりもそれの可能性を夢見ること自体に。なんてとこに思い至った。夢見るメディア空間。

音楽聴いて陶酔するよりその手前のメディア、ステレオスピーカーのスペック批評が大切なマニアとか一冊の本の中に入り込むより図書館空間の中であらゆるその可能性の扉のメディア空間のなかにたゆたっている万能感が好きな図書館マニアとか100枚のドレスを並べて夜ひとりの部屋でうっとり眺めて夢見るファッションマニアとか。アニメのレアフィギュアだのプラモデルだの並べてるのと一緒だ。

 

思考は秋空に流れさまざまに展開する。

私は考える。考えることが幸福そのものだからだ。考えられないとき信じられないほど不幸になる。論理がないところ論理が通らないところで私は混乱し錯乱する。(大抵そうだったりするんだけど。)

 

だって世界はテクストであり、読み取られ夢見られなければそこは虚無だ。
そして我々が言語を、ロゴスを、光を得たことで得たもの。そして失ったもの、という構図を連想する。しかしこの構図を描く論理はここではただ小賢しくイージーだ。何故ならば最初から得なければ失うことすらできない。陰すらない。虚無だ。したがって得るものしかないからだ。失ったものさえ得るものなのだ。

従って対象の本質などない。
…しかし存在は主体の恣意のみからなるわけではない。

プラシーボとノシーボという対立項をもつ命題がある。
これに関連し、ホンモノおいしいもの、高級ブランドと安物をブラインドで当てさせるバラエティ番組なんかの実験を思い出す。この「真実」を想定したゲームにはいらいらする。(だから自分では観ないんだけど。)(バラエティ番組自体ダメ。)

対象の、モノの味わいは一生懸命そのおいしさに己の感覚を「合わせる」ところから生まれる。これは真実だ。すべては主体と客体の関係性なのだ。思い込みは真実なのだ。否定してかかるところにその真理は存在できない。

だがその果てには究極の絶対音感や天才としての客観真理としての究極のソムリエとして君臨する人間の存在があるというのもまた真理である。まあそれは「おいしい、まずい」の主体の嗜好という相対性に関わってくるんでまた違う問題にはなってくるが。

TVの笑いのネタっていうのに大抵私は賛同しない。イージーに最高のエッセンスを得ようとし過ぎているポピュリズム。立派なんだけど立派過ぎる。インスタントすぎる。

…物理学者や科学者、天文学者ら自然科学系のひとたちが見出す、決定的な「人類の星の時間」の発見は、ちいさなちいさなその「証拠」「証明」は一生懸命その存在を信じ思い込む要素がないと探し出せないレヴェルのところにあるものが多いという。

真理は思い込みがなければ存在しないが、発見されたとき既にその恣意的な思い込みを超越したところにある。虚無としてある。天才と呼ばれるひとはそこに近いところにいる。あくまでも「近い」ところ。完全な直線がないように完全なイデアはない。名作とそうでない文学の、その違い。その境界はあるのかないのかわからないが確かに違いはある。大人と子供の境界のように。

何もかもが、ある程度真実、なのだ。
読み取られる世界と読み取る主体の相対性の、その関係性のなかにのみ世界存在は仮定される。

これはもしかして人間が個であり個でない、という問題に関わってくるかもしれない。
主体と世界が不可分である問題と。

それは自己幻想ー対幻想ー共同幻想の思想的構造と関わっている。つまり読み解くとっかかりはここにある。共同幻想がつまり真理を作り出すことができる、というようなところに。共同幻想そのものを問い直し新たな論理に適用してゆく可能性でもそれはあると思う。社会や人間を超えたところにその守備範囲を広げたフィールドの可能性へ。

うるうると美しい秋が来て和栗のモンブランがどんどん出てきてものすごく無花果がおいしい貴重な旬になったりしたので私は今朝いろんな思考がとりとめもなく私とこのうつくしい朝の空に流れてゆくのをみたのだ。

わすれないように流れてゆくかんがえをこうやってつづる。心象スケッチモディファイド、のように。

そうそう、「昇華」についてもつらつら考えていたんだけどもな。これってものすごい概念なんだよな、「止揚」なんかとおんなじくらいぶっとんだ飛躍と革命、そんな感動を孕んでいる。いちいち感動しながら使わねばならぬいちいち考えながらいちいち震えながら。