酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ジョージ・オーウェル「1984年」

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(先週週末)ジョージ・オーウェル1984年」読了。前半だけ読んで何だかんだほっぽってたんだけど、後半部一気読みしたら衝撃でしばらく茫然自失状態。

ものすごい読後感の悪さなんである。コンディション悪いとこに直撃食らってしばらく立ち直れなかった。…前半部はすごく面白かったんだけどなあ。これは本当に酷い。

これは既にいわば狂気に対する誇張された狂気の対応、読者に投げつけられた作者自身のヒステリックな怒りと絶望の描写。扇情的すぎる。

…おセンスの問題だなあ。なんかな、イメージからいうと西欧人男性の奉ずる知的論理カテゴリに特有な気がするんだけど、そのタイプの残虐さ。

つまりね、それは、まさしく「シミひとつない」(オブライエンの語る究極の完璧なディストピア像の表現)という、いわば彼らの奉ずる唯一神によるのっぺりとした唯一のイデアと真理、その完璧な真理や正義を得たいという希求の裏返しなのではないかと思うのだ。彼らの希求する輝きの光の陰の部分、光の強さに反比例した形で光と同時存在してしまうその闇の深さというのが、この作品における徹底した残虐さ、心身への、魂への拷問のかたちとして表出されている、というような気がする。多様という視点を欠いているための絶望感。

この作品に於いてよく言われている、時代背景によるモデルとされた全体主義、体制への具体的な批判というよりは、寧ろその思想や情報の権力による支配と管理、というその端末の個人内部からのリアリティの恐怖を描いた点では普遍性と文学性を感じるんだけど。

(どのようなスタイルの社会にもその危険があらゆるレヴェルでひそやかに実現されている、この原理を見出すことによって古今東西イマココの中に我々はそれを我々の内部に見出すことができるようになる。個を圧殺するべく入り込む様々なスタイルをもった権力。)(権力が「忖度」や「オトナの事情」や「空気読めよ」とか「自粛しろよ」、或いは公約は「普通」まもられないものなんだよ、或いは恥ずかしげもなく公然と行われるヘイトデモ、匿名の安全圏からのSNS炎上集団リンチ。とかそういうのにすり替わってゆくその人間の愚かしさや浅ましさに入り込み内面化されソフィスティケートされて強化される制度としての権力側、空気の圧力としての権力側に与する正義のかたちをも見抜く原理を見出す知の論理のことね。)

それと、もうひとつものすごくスリリングなテーマ。真実とはなにか。徹底した情報操作、言語操作、心理操作により真実も虚偽もその存在の違い、その差異の現実性を失うこの背筋のぞっとするようなリアリティ。…そして、そうなのだ。ショッキングな形にカリカチュアされてはいるけど、よく考えれば歴史がまるごと勝者のための唯一の真理としての物語に書き換えられるというばかばかしい理不尽と恐怖は、ほんにそれこそこの世界の現実の「普通」「常識」としておこってきたことじゃんネー。(「いだてん」第二部の主人公まあちゃん語が頭にこびりついている。)多様性を圧殺する力をもってさ。…二重思考について考えるためのとっかかりはこんなところにも潜んでいる、おそらく。

だがねえ。
このダークなディストピアファンタジーは後半部、ウインストンの逮捕後、あんまりぶっとびすぎた激烈な「狂」の描写で却ってそのスリリングな現実味を失ってくる。そりゃもともとこれはカリカチュアライズが特徴な作品ではあるとは思うんだけど、それにしても度をこしていて。

完璧な永遠のディストピア。犠牲者の魂の底の底まで叩き潰すというような、既に個人を離れた権力の自律性、その支配欲のみの存在、痙攣的なヒステリー、存在の圧殺、他者の苦しみへの刺激の喜び。徹底した節操のなさと品格のなさをゴリゴリ打ち出す、ひたすら叩きのめすためだけの力技の無理やりな強引さが透けて見える。

…これはせっかくの物語にいささか浅薄さを感じさせてしまうレヴェルの善悪二元論をかたちづくるものになってしまっている、気がする。(あまりにも禍々しい拷問シーンの描写への生理的嫌悪感、このダメージが酷くて立ち直れてないせいの酷評かもしれぬ。)(でも本当はやっぱり読む価値ありな強烈な面白さもあると思うのだ。普遍性がある。とにかく精神やられすぎた。立ち直ってから考える。)

とりあえず今「二重思考」がキイ・ワード。ものすごく難解だと思う。そしてものすごくおもしろい。ずうっと、がしがしとこの言葉をかみ砕こうとしている。自分なりの野生の思考的スタイル、その、なんというか演算子的なる思考モデルを組み立てて落としどころを見つけたいのだ。捕まえられそうで捕まえられない。なんなんだ二重思考。これは何に当てはめられるのか、そしてその適用範囲はどこまで応用できるものなのか。己の中に、社会的コンセンサスの中に、人々の日常の中の言葉のダブルスタンダードのところに、それがどれくらい隠されているのか、そのモデルを確定できればすごくわかりやすく見えてくるように思うのだ。

あと前述したように、ものすごく面白いと思ったのが、情報と記憶と認識と真実の関係、そして「ニュースピーク」。要するに、言葉と世界の存在関係の問題なのだ。(主人公は情報と言語を操り過去を改変する仕事に従事している。)非常にシニカルに逆説的にオーウェルはこれらの主張を表現する。豊かな多様性を孕んだ言葉の意味のふくらみをそぎ落とし世界を貧しくし多様性を圧殺しあらゆる美徳を踏みにじるこのディストピアを描く中に、権力の怖ろしさへの警鐘を打ち鳴らしヒステリックなかたちで悲憤慷慨と警告を叫んでいる。

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だが文学として私はこの作品には決定的なものが欠けている、と思っている。というかそういう立場をとろうと思う。

ウインストンは党の権力、その支配構造について考える。
「その方法はわかる。だがその理由がわからない。」(早川書房文庫p128)

オブライエンはそれにこう答える。
「党が権力を維持する方法についてなら、君はよく理解している。さて、それならわれわれが権力に執着する理由は何だと思うかね。(中略)党が権力を求めるのはひたすら権力のために他ならない。われわれはただ権力にのみ関心がある。富や贅沢や長寿などは歯牙にもかけない。(中略)権力は手段ではない、目的なのだ。(中略)迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力。それ以外に何がある。(中略)権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。(中略)人を酔わせる権力の快楽だけは常に存在する。(中略)ぞくぞくする勝利の快感。無力な敵を踏みにじる感興はこの先ずっと、どんなときにも消えることはない。未来を思い描きたいのなら人の顔をブーツが踏みつけるところを想像するがいいー永遠にそれが続くのだ。」(早川書房文庫p406~415)

…アホか。

これが基盤なのだ。
論理として高度に洗練された精緻なものが描かれているとしても、その基盤が裏返しのディストピアを描くための欠損した人間の一面だけを真理として高度な知性を持った圧倒的権力の象徴、狂人オブライエンのセリフの中にこんな風に詭弁的に仕込まれている。これではこのカリカチュアは一気に現実味を失ったファンタジーになる。高度な理屈自体が色あせる、気分の悪い煽情的なるものにしか感じられなくなる。狂人。ノータリン。

(だけどね、そう。やっぱり作品にもこのセリフにも確かに意味はあるのだ。「本当に」こういう心が人間の中にはたしかにあるのだ、歴史の中に、権力機構のなかにそれは表出している。信じられない恐ろしいことを人間はしてきたし人の苦しみをあえて喜ぶ奇妙な性癖を引き出され或いは仕込まれた部分もあるのかもしれない。

だがそれはあくまでも社会制度の歪みの中で奇妙な化学反応によってうまれてしまったものであって、決して人間の本来として既定されるものではない。人間はそのようなものではない。これによって社会はディストピアに規定されはしない。)(聖書が言うように、義人はいない、一人もいない、というならば悪人もいない、一人もいない、なのである。完全な善も悪も存在することはないのだから。)

いやね、もちろん最もスリリングな最も恐ろしいリアリティはここに示されている、と言う視点もある。そう言ってしまえば確かにそのとおりだとも思う。すなわち、権力の自律性というリアリティ。

個としての己を権力に明け渡したオブライエンは、既に個としてのアイデンティティを失ったがゆえに永遠の権力の一部としての存在になっている。ビッグブラザーは権力の自律性そのものの象徴なのだ。一旦確立され働き始めた権力構造は内部の個という細胞を入れ替えながら「ただそれ自身存続のために」働き続ける。もはや誰のためでもなく何のためでもなく。狂ったリヴァイアサン

このテーマは、大きい。

古今東西、イマココ現実にいつだって現れ続けている普遍性としての寡頭体制はすべてこのような権力の自律性の下に、いつだってアタマをすげ替えながらもはや内部の人間にはどうしようもないかたちで稼働し続けるものとして存在する。ものすごい残虐性がそこには必ず付随している。まさにこの作品が描くような。これがリアルだなんて信じられないほどコワイ。人間かくも愚かだなんて実にコワイ。(誰か嘘だと言って。)


…そしてもうひとつおまけ、作品の落としどころ、ラストのシメかた。ここで男女の性愛、純愛の敗北が決定的な個の魂の敗北とすりかえらえているところに私は一気に物語の定型性と浅薄を感じてしまったんである。個とは何か、という大きなテーマがここで卑近な物語に単純に落とし込まれてしまっている。愛を失った己への絶望が、この敗北感が、さらなる徹底した敗北へ、自発的な二重思考への、思考停止へのウインストンの精神への決定的なスイッチとなっているこの物語構造に対し、広げた風呂敷に比して陳腐であるいう感想を持つ。

こんな浅薄な論理の上に砂上の楼閣を築いている、このつくり自体が戦略で方便であるといえばまあそうなんだけど。好みとしては文学としての深淵「不可知の知」としての「わからなさ」をちいとは仕込むべきであったということで…ううむ、まあねえ、やっぱしまあ戦略的思想書みたいなもんとするんならストーリーとしてはきれいにまとまってるっていうべきなのかな、こりゃ。

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この文章は私のただの忘備録、思いついたままの感想文、殴り書きのメモだ。

もっときちんと冷静に考えた構成の文章にするためにはこの本を読み返さねばならんだろうがちいと無理かもしれぬと思う。少なくともしばらくは。ダメージが大きすぎる。ココロ弱いのよオレ。