酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

朝が好きなのだ (ムーンライダーズ・サエキけんぞう・パール兄弟・宮沢賢治)

朝が好きなのだ

私は本当に朝が好きなのだ。
何もかも新しい、きらきらと木漏れ日の落ちる新しい朝。

そして大切なのはそれが終末感とともにあるというところだ。始まりと終わりが一つのものであるところで世界は完全になり私は解放される。

この構造がずっと好きだった。ほんとうに、たまらなく。
この構造を見つけたところに私は執着していたのだ。

自覚した記憶があるのは高校のときのムーンライダーズ鈴木博文の歌にハマったときだった。朝と終わりを歌う歌の系列があった。一連の。朝と死の組み合わせに私は魅了された。

そしてこのときの気持ちは一体何なんだろうとずっと考えていた。

なんてかなしいのだろう。寂しくて悲しくてせつなくてやりきれない世界や人生の何もかもが無意味に終わってしまったという感覚と、何もかもこれから始まるのだという未来の可能性の朝が新しく新鮮に輝いて見えるその矛盾が一致するところに発生するナニカ。ここにはなにかとてつもなく新しい未知と可能性と無限が輝きと美しさの中に存在している。未来が過去を飲み込んで過去が未来をのみこんで双方が違うものに止揚されるところ。虚無の反転するところ。存在と無が絶え間なく交互に明滅するという矛盾のスタイルを背負った存在としての「わたくしというげんしゃう」(賢治のアレ。春と修羅の序の、曼荼羅やインドラの網を思わせる存在認識の構図「有機交流電燈」な。)

私は体感する。この日常の中に。
場所に飲まれることを自覚する、場所に支配される己の存在のパーツとしてのある種の矮小さを、支配されている、パーツとしての、なのに支配しているものと私が同一である感覚、これはいわゆるマクロコスモスとミクロコスモス、アートマンブラフマンの一致するところとして古今東西の人々が必死で言いあらわそうとした論理、論理を超えたその矛盾のところにある純粋な「感覚」、決して孤独であり得ない孤独の、その幸福感のことをいうものなのではないのか。

何もかもが肯定される場所、人々はあらゆる文化、宗教、学問、物語をもってそれらを言いあらわそうと存在を示そうと存在を確実なものとしてつなげていたいと願って歴史を刻んできたのではないかと思う。日々の中に、些末なひとこまひとこまの一瞬の中にそれぞれが永遠が属しているというその感覚を、それが至福であるという感覚を。

永遠の現在、と西田幾多郎が言ったものの構造のことを考えている。
すべての知は、敬虔で純粋な存在の喜びのために。

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台風一過の青空の朝、夏と秋が行き交う気配がした。
朝のごみ捨てのときマンションの中庭の木洩れ日が揺れるのを眺めその中をゆらゆらと歩くときこんな幸福の構造について考える。

それは、夏の終わりに少し似ている。終焉。世界の終わり。
それが終末感に重心を置いたものか再生の予感に重心を置いたものか。情趣はその振幅の中に揺れる。

ムーンライダーズの「9月の海はクラゲの海」だ。
夏の終わり。ここに再生の予感は読み取りにくいかもしれない。だが歌詞はうたう。このリフレイン。

Everything is nothing
Everythingで nothing
九月の海はクラゲの海♪

そう、「色即是空 空即是色」。

ひとつの世界の終焉、ひとつの存在の終焉は、別の論理の中で新たなる形での存在の再生でもある。たとえばここで己の個としての死は個自体の、アイデンティティ自体の枠組みが意味を成す一つの世界の存在のかたち、その論理基盤をもたなくなるために死すら意味することができなくなるところに意味付けされてゆく。

世界は再生する、存在は永遠。(けれどそこに今のスタイルの自分はいない)

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…これは作詞がサエキけんぞうなんだけど、同じく彼が作詞して歌っているバンド「パール兄弟」の「色以下」にも印象的なリフレインがある。

Less than colour 
色以下 色以下
(本当に欲しかったものは色以下)
(肉眼で見えなかったものは色以下・動いてもとらえきれない快感)

 *** ***

物語をつくるもの、詩人、アーティストたちは皆己の五感を研ぎ澄ましその感覚の源泉をとらえようとする。既成の社会的な枠組みの物語としての五感(視覚が捉えたこの刺激、これは赤色だ。という物語の判断と認識)に捉えられてしまう前のその官能の源泉をとらえようとする。カオスからコスモスが生まれる現場をとらえようとする。五感以前、或いは超・五感。

それは常に現場であり常にオリジナルである意味発生の現場性のところにある。歌われるごとに鑑賞されるごとに読まれるごとに発生する神話的現場。暗喩に満ち可塑性に優れた意味と官能、物語の始まり、ダイナミクスのカタマリ。

賢治の「春と修羅」のカーバイト倉庫にも似た構造が透けて見えるのを私は感ずる。

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まちなみのなつかしい灯とおもつて

いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーペンタイン)との
山峡(さんけふ)をでてきましたのに
これはカーバイト倉庫の軒
すきとほつてつめたい電燈です

     (みぞれにすっかりぬれたのだから
      烟草に一本火をつけろ)

これらなつかしさの擦過は
寒さからだけ来たのでなく
またさびしいためからだけでもない

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これは初版本のものだが、後に賢治自身が徹底した推敲を加えた「宮澤家本」では後半がこのように変えられている。

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汗といっしよに擦過する
この薄明のなまめかしさは
寒さからだけ来たのでなく
さびしさからだけ来たのでもない

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「なつかしさ」と「なまめかしさ」。
この変更を私は非常に興味深く感ずる。感官を擦過するなまめかしさがなつかしさとその源をおなじうするという感覚。官能と精神性の関係性、そのバランス。

分岐以前、「色以下」だ。
始まりと終わりが同期する存在の場所。

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ヤマボウシ(甘くてうまい。小鳥との争奪戦)もほんのり色づいてきたし、大好きな無花果のはしりも店頭に並んできた。昨日は初梨。西瓜や桃とのお別れは寂しいが無花果や栗を希望として今日明日を生きねばならぬと思う。

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