酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

脳足りん (どんぐりと山猫・ほんとうにほしいもの)

脳足りんが嫌いである。
ものすごく嫌いである。大嫌いである。これこそが諸悪の根源であると思っている。

まったく実に切実な話なのだ。実害が酷すぎる。

…だがふと我と我が身を振り返ってみると、己が脳足りんでないとは決して言えないと言う事実に直面せざるを得ない。これでは絶望に至る道筋である。

だってさ、自分が一番嫌いだなんて結局世界全体全てが嫌いだなんてことにもなりかねないではないか。やりきれない。

 

だが。
だがしかし。

 

だがしかし、なのである。

なんかね。つまりね、そうやって決めつけきれないとこがある、っていうのもまた確かなのだ、と思うから。

その「絶望に至る脳足りん」とは、単なる一つの論理地平、論理基盤によって成立するひとつのパーツとしての概念に過ぎない。そう、それは個に属するものでも存在そのものの本質として語るべきものでもない。これも確かなのだ。寧ろ構造として語るべきものである。…ではでは、ということならば。

ここで救いの方向性を探す、ということでがっぷりと考えるべきテーマは「脳足りんとは何ぞ」。

最近心身の弱りとそのお脳の弱りも加速度がついてきたことでもあるし、昨日からずっとこの脳足りんという言葉についてものすごく一生懸命考えていたんである。

私の考える私の憎んでいるその「脳足りん」とは一体何なのか。機能としての脳足りん、精神性としての脳足りん、脳足りんをめぐる考察。

 *** ***

…いや例えばさ、こないだうっかり韓国ドラマを観てしまったんだけどな。そいでヒロイン、というかヒーローの運命の恋人のキャラクタ設定があまりにも脳足りんなんでなんかイライラしてしまってだな、ということがある。

恋敵役の女性の方がずっとかっこよくて一途で魅力的で愛しくて健気で「こっちにしろよ」とかすごいもどかしかったりしてて、まあそういうことで「脳足りん」とは何かというところに思考の焦点が合いましてな。(これではわかりませんな。)(イライラしたのはそのヒロインの、主人公ヒーローの真心も愛情もひととき通じ合ったはずの心のことも周囲の罠によるほんのちょっとした誤解でたやすく疑い裏切りと決めつけ聞く耳も持たなくなる、直接己の心身の、感官の触れた相手を信頼しない阿呆さ。)(こういう人間は怖い。)(己の感官による直観とによる判断からくる知性の基準で人を見ない、周りの拵えあげたイージーな物語の評価と価値基準によって己の頭で考えることなく他者を疑い判断し裁く、オルテガのいう悪しき「大衆」に通ずる脳足りんさである。)(その外側としての「事実」の可能性の存在に「考えが至らない」。)(閉ざされた怠慢な思考スタイル。)(井の中の蛙としての正義の思考)(=外側に対して脳が足りん、なのだ。)(こういう脳足りんは信頼にも愛情にも値しない。)(彼女は賢いというキャラクタ設定だがそれはここでそれはまったく説得力を持たない。)(脳足りんとはここで知能指数的なるものではなく人間性に直結してしまう知性に関する言葉となる。)(そしてそれは韓国ドラマ的なる人間ドラマに必須の、物語をおもしろくするための原型的定型としてナラトロジー的に解釈することが可能となる、個ではなくすべての人間に適用可能な性質としての脳足りん、という概念に至るものなのである。)

→(以下少々蛇足)

脳足りんという言葉自体はワシは結構好きである。(たらふくとかしこたまとかあんぽんたんとかすっとこどっこい、こういうのも好きである。そういう語彙をもっともっと自在に繰り出せるように私はなりたい。豊穣な言語世界へと飛び立ちたいという純粋な欲望。あんぽんたんワールドへの憧れの翼。)(寅さんの口上とかもうほんと尊敬の憧れ。)(思うに、書き言葉《エクリチュール》ではなく話し言葉の中には《パロールの現場ね。》二極の美学があるのではないか。むしろエクリチュールに属するものとしての、訥々と丁寧に選ばれる意志と思惟との「個の知」を示すスタイルをもつ面と、立て板に水、流れるような、既に個の思考をはみ出した伝統や慣習、パラダイムに属したものである定型、「場の知」を示すもの、そのスタイル。《定型》)(そしてこれは人は如何にそれを己と世界の関係性に合わせて「現場を構築」するか、という問題に関わる文法としての美学である。)語彙としてはまあ特に特異なタームであるということではなく、要するに馬鹿(莫迦)とか阿呆とかアホとかバカとか蒙昧とか愚鈍とか、まあ一般に愚かしさ一般のシニフィアンなんであるが。(ノータリンと表記するとまた昭和的な別のニュアンスが加わったりして味わい深いんだが個人的にここでは漢字表記にこだわってみたい。カタカナ表記とのニュアンスの違いを楽しがりたいんである。)

閑話休題

お陰で先日友人と近所の居酒屋で飲んだときの話題は「皮膚感覚としての知性と精神性としての脳足りん」ということになった。大層盛り上がった。これはこれで楽しかった。

そう。私がここで言っている感じているもの「脳足りん」と名付けたその感覚、感じ取ったナニカ、その構造と概念は何か、なんである。この言葉をそのナニカに恣意的にかぶせてシニフィアンとするアプローチ、そのような手法を以ってその正体、シニフィエを突き止めたいと思ったのだ。このイラつき憎しみ哀しみそのわろきものの構造の正体を。

それは、例えば「無能」という概念と対比されることによってその性質をクリアにされることができる、かもしれない。「脳足りん」は「能足りん」なのではない。能が無いというのは脳が無いのとはまったく意味が違う。それは「わからない」のではなく「できない」という感覚を意味する言葉なんである。「無能」はあくまでも「能わざる」、なのだ。能力、テクニック、手足がないのだ。一方、「脳がない」のはシンプルに言って文字通り物理的欠損、障害である。どうにもならんのだ。わからないのだから。…言い換えよう。そもそも自覚できないのだから。そもそも認識できないのだから。換言すれば知らぬこと、できないこと、してしまっていることを自覚していないことを脳足りんというのではないかという仮説が成り立つ。(自分が一体何をしているのか、自分の言動が世界に何をもたらしているのか、…相手をいかに傷つけているのか。罪を犯しているのか。)

だから己の無能さを自覚するとき必ずしもその人は脳足りんではない。むしろ脳があるから己の認識の外側という存在を感覚することができるのだ。世界に対する、或いは他者に対する敬意、そして逆説的だが己の存在に対する敬意、尊厳をも獲得することができる。

宮澤賢治に「どんぐりと山猫」という作品がある。
あらすじとしては、一郎が山猫から裁判に呼ばれ、金のどんぐりたちの「誰が一番偉いか」という争いを調停してくれと依頼を受けて解決する、といったものである。

 ***  ***

「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ。」
 すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。
「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」
「そうでないよ。大きなことだよ。」がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。山猫が叫びました。
「だまれ、やかましい。ここをなんと心得る。しずまれしずまれ。」
 別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山猫がひげをぴんとひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減になかなおりをしたらどうだ。」
「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。
 山ねこが叫びました。
「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」
 別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らし、どんぐりはみんなしずまりました。山猫が一郎にそっと申しました。
「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」
 一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」

 ***  ***

途端にどんぐりたちはみなその生命を失ってただのどんぐりになってしまうのだ。

…非常にさまざまの読み方ができておもしろい話ではある。
ひとつの読み方として、この「価値観の相違からくる、己に都合のいい価値観だけが一番正しいとする心-「金」のどんぐり(『価値』によって成立存在する者)たちが生み出す世界の争いごと」の物語である。

これは、賢治が生涯苦しんだ「倫理の相対性」とも繋がる、賢治作品の通奏低音の一つとしてとらえることだってできるのではないか、と私は考える。

限られた己の認識の姿を想像だにできない「脳足りん」たちはそこ(己のアイデンティティを形作っている論理基盤を超えたもの)を指摘され認識しようとするとその個としての存在を失ってしまうのだ。

「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」
無能者である。デクノボーである。虔十(虔十公園林)である。

 ***  ***

極言するようであるが、ここで脳足りんは己が無能であるとこがわからないことを言う、知らないということを知らない類の、己の認識行為をメタ認知することのできない無知のことを言う、己だけが正義を知る王であり他者に対してどのような暴虐、仕打ちを行なっているかを知ることができない、そのような阿呆っぷりに対する罵詈雑言に類する批判を孕んだ言葉なのである。

だから冒頭で述べたようなその「実害」とは全ての不都合は自分以外のもののせいであり他者を非難攻撃することがこの世の正義であると思い込んでいるところからくる。お近づきになると大変な災害に見舞われる。

脳足りんとは欠損である。己の内側のアポリアを見つめる眼差しを持たず、全ての正義の論理は完結して己の内側にあるという考えの外への視点の欠けた思考スタイルの欠陥、悪気と自覚のないばかりに悲しいほどに痛ましい浅はかさや醜悪さを晒した恥知らずで傲慢な正義の別名である。外部或いは他者という概念を想像すらできないのだ。

(「想像力の欠如」と村上春樹は確かこう言っていた。すべての暴力とわろきものの根源。)

アプリオリに正義と真理が己の中にあるところから始まる演繹的思考スタイル。思考の演繹スタイルにおける欠陥は、その最初の命題、前提としての命題に誤りがある場合、そこから構成されるすべての思考に意味がなくなるところにある。そしてそれはまた必ず他者を損なう力として作用することになる。

「ぼくちゃんが理解できることだけが、ぼくちゃんの正義だけが正しく世界の正義である。ぼくちゃんの正義を同じように信奉しないものは馬鹿で悪」という土台としての命題から始まる議論には全く意味がない。そこに対話はない。他者との対話は成り立たないのだ。

私はこの思考法を脳足りんと呼んでいる。

おそらく。

 ***  ***

で、前述したようなこの構造から導き出される「機能としての脳足りん」ね。
己の自我と正義のステレオタイプの枠組み、自尊心を守る防御の機能、そしてそこに己を閉じ込め蒙昧の牢獄としての機能、人はその中でたやすく権力に操作される大衆と堕することができる。

「防壁」としての脳足りんの、精神性において二つの側面を持つ機能である。

ジャーナリズムとメディア論に通じたリップマンはメディアで操作される大衆のステレオタイプの情緒的世論について著書「世論」でこのように述べたという。(こないだ「100分de名著」の録画「100分deメディア論」観だしたら面白くって。)

『偏見を打ち砕くことは

我々の自尊心に関わってくるために、はじめは苦痛であるが、

その破壊に成功したときは、

大きな安堵(あんど)と快い誇りが与えられる。』

 ***  ***

そしてそれは、銀河鉄道でジョバンニが鳥捕りに問うたあの問い「ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか」或いは「ほんとうの幸」へのその問いとまなざしの欠如と重なるものとして考えることができるものなのではないか。その「脳足りんの枠組み。限界」を超えるというテーマは、現実とされる既成のステレオタイプな価値観に彩られた(例えば経済、例えば名誉、例えば虚栄)日々の生活の中で眼のふさがれた蒙昧としてとらえられるものだからだ。(鳥捕りのエピソード、っては何にしろアンビヴァレンツに満ちたような、なんとも噛み応えのある難しいテーマを孕んでいる。イメージの不思議さも相まって魅惑的なんだよな。)

だんだん風呂敷が広がりすぎてきましたが。

 ***  ***

…ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊こうとして…

 ***  ***

ほんとうにほしいもの。
例えば相手の愛情と信頼が欲しい、尊敬を勝ち得たい。愛されたい。

そのとき、脳足りんのアタマには、脅しと暴力とマウンティングでそれが得られるなんていう阿呆な考えがどうして発生するのだろう。簡単にまず相手を下においてみる、己の力の優位性を確保する、その上で相手をコントロールする、という最も脳足りんでストレートな幼児性を持ったやりかたに走る。方法論に走る。支配したい、優位性を感じたい、屈辱を味わわせたい、という形をとったように見える歪んだ欲望のその深奥にあるピュアなもの、「ほんとう」。ただ、愛されたい、限りなく徹底的に(存在まるごとを)許されたい、自分の思う通りのものであってホシイ…愛らしい、美しい思いではあっても、ここに「他者」は存在できない。「脳足りん」なのだ。「ほんとうの幸」を見失っているひとたちの姿の脳足りんなかなしさは(自分も含め)ただかなしい。

 

これって一般に小学生男子に顕著であり、成人男性においてその精神構造の基本となっている思考法であるように見受けられるんだな、特にね、どうもね。(イエすみません偏見わかってますちょっと今歪んでます、いろんなトラウマとかで。あくまでも人間性と個性の問題なのでひとくくりにすべきではないのですがもちろん。地図が読めないナントカみたいなのとか日本人はこうアメリカ人はこうとかいうステレオタイプの思考停止みたいなカテゴライズもまた脳足りんの一種ではあるんだけどさ。)

 

疲れた。梅雨早く明けてくれお天気人間青空とおひさまがないしおれてしまう。

 

紫陽花ももう終わりだよ。梅雨明けしたっていいと思うんだけどな。
f:id:momong:20190706075651j:plain