酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

100分de名著 マハトマ・ガンディー「獄中からの手紙」

100分de名著、随分昔のを掘り出して観てみた。2月のガンディーである。監獄から弟子にあてたヒンドゥーの求道の教えを説いたもの「獄中からの手紙」を追いながら彼を解釈してゆく趣向。

番組の概要、公式HPはここ。

ヲヤ指南役はオルテガのときとおなじあのかっこいい先生ではないか。
…と思ったら、やっぱりすごく面白いのだ。

第三回までみた。

で、しみじみと考えた。
この番組ではガンディー(教科書やら映画やらでは「ガンジー」って言ってた記憶があるんたけど、発音はガンディーって言った方が近いそうな。ちいと気取ってるみたいで気恥ずかしいよな気もするが。)の「非暴力不服従」を「愛と赦しの論理」で読み解いているんだが、そのラディカルな思想展開について。

暴力には暴力をの論理、近代消費社会の基盤そのものとなっている収奪の連鎖を生むその論理を土台から問い直す可能性をこの番組はガンディーに求める。

同じ「力対力」による限りない弱者収奪のルサンチマンの連鎖につながる論理地平ではなく、そのような「強弱反動」ではなく。…むしろ革命的な新しい超ー近代を目指す思想、或いはゼロに向かおうとする力そのものである論理として読み解く。

勇気を暴力ではなく無畏に求める、それはものすごく崇高で美しいけれど、むしろ美学というよりは知性としてとらえるべきものではないのか。そしてそれが知性であり力でもありうるのだ、という可能性を示したこのガンディーという英雄の起こした奇跡に人類は希望を見出すことができるのではないか、と。

「非暴力」と訳されているヒンディー語は「アヒンサー」。
これは、「簡単にボク手は出さないよ、殴り返したら犯罪だもんね、物理的肉体的暴力は避けるよ」、という意味合いのポリシーとしての「非暴力」というよりも、より深く「愛」或いは「赦し」と訳すこともできるという宗教的な語彙であるとこの先生は語る。「ア」という否定の接頭語、「ヒンサー」という傷つける行為、害する行為、殺生という行為を示す語の組み合わせからくる言葉。

そしてガンディーの思想のキイはこの「否定」であると彼は語るのだ。その教えは「非暴力」「不服従」。その教えの特徴は「非・不・無」「こうしてはならない、ああしてはならない」。

そして独立へ向かうべき国家的抵抗運動としてこのポリシーはあまりにも受け身である、消極的である、という批判に対し、それは違う、と。

よりラディカルに思想の土台を常にひたすら「否定」してゆく行為、己の存在の中の矛盾をも否定してゆこうとするゼロへの動きとしての否定の行為は常にすべての思想を形骸化させず監視し続ける「永遠の微調整」というやりかたを示すものであるというのだ。

永遠の微調整。

これはもちろんレヴィ・ストロースのあの「野生の思考」と直結した思想スタイルである。現場に適応しながら都度形作られてゆく神話的な形をとった独特の思考スタイル。そしてそれは受け身ではなく寧ろ積極性である、と。

で、思った。この指南役の先生のテーマというか思想傾向というのはコレなんだな、と。


研究者にはそれぞれ己自身が投影された思想を過去から汲みだす、そのようなかたちでのオリジナリティがある、と私は思っている。過去の偉人の中の誰の何を研究しても結局己の生きる己自身の時代に適応したオリジナルに生きた思想の可能性をそこから読み取るのだ。(なんかね、春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のこと思い出すんだな。ものすごく引っかかってる謎のシーン。「世界の終わり」側にある不思議な図書館で、主人公の片割れが延々と頭蓋骨からなにかきらめきの信号を読み取ってゆく作業をする、というシーンでね。これはそれと関係あるのではないかなあ。己の現在と響き合う思想を過去の頭脳から生きたきらめきとして読み取ってゆくイメージを持つ、そんな不思議な「世界の終わり」にある廃墟にも似た図書館。)

そう、オルテガのときもこのキイ・ワードを使ったのだ、彼。「永遠の微調整」。そのとき彼はこれを「保守」の思想の神髄とした。(急進と革新、革命という血の流れる熱狂のもつ危険を回避するやり方、ここでそれはガンディーの「よいものはカタツムリのように進む。」という言葉に託される。)

どのように「読む」か。というスタイルの問題である。結局誰もが同じことを違う言葉で言っているということだってできる。根っことしての真理はいつでも同じ。枝葉という具象化されたかたちが違って見えるだけだ。

真理とは万人に万の世界に万の時空にそれぞれ最適なかたちで具象となって適用されるために虚無、空白なものとしてある。その時代その読みとられた現場によって、つまり「読者」との共同作業によって成り立つ「読書の現場」、そのとき思考はその都度形を変えて蘇り唯一の真理と繋がった可変性をもつ生命体として生きた力をもつことができる。

 *** ***

…でね。ガンディー。

何故完璧で素晴らしい理想であると感動したのに、いざそれを自分にあてはめたときシミュレーションしたとき「ムリ~!」になってしまうのか。理不尽な暴力への復讐心やさまざまの欲望や虚栄や利己心やの克服による理想郷。

何故ガンディーにできたことが私にはできないのか。

理由があるはずなのだ。人間性の尊卑であるから当然だ、マハトマ(偉大なる魂)、偉人聖人と凡人の違いであると決めつける前に何か考えるべきことがある。偉人と凡人の違いとは何なのか。

偉人の論理はシンプルで凡人のそれは煩雑で複雑だ。

偉人はそのシンプルさを、凡人が埋没して負けてしまうところである煩雑で複雑な現実をその場に応じたやり方で制覇してゆく実際の政治力をもってシンプルなまま通そうとすることのできる「強さ」をもっている。誰もがわかっているシンプルさが、小さな小さな欲望や保身の積み重なりの絡み合いの大人の事情でどんどん複雑な物語に絡めとられ、にっちもさっちもいかなくなるのが普通なのだ。

そのことを今一生懸命考えてみたけどいろいろやっぱりどうしてもわからない。絶対に何か理由があるはずなのだ。誤った欲望をコントロールするまっすぐでシンプルな力はどのような論理から来るのか?換言すれば、彼の実践した愛と赦しの力の根源はどこに求められるものであるのか?明確な論理を持った。…それを見出すことによって何らかの道は開かれる何かがあるのではないか、というような気がするんだけど。なんとなく。

 *** ***

ここまで書いてから、第四回、最終回を観る。
ヒンドゥー原理主義の若者によって暗殺されたアヒンサー(非暴力、愛、赦し)の偉大なる魂。うっかりじいんと来てしまった。切なく痛ましく悲しく。己の、そしてすべての人間のそのようなかなしい愚かしさと、けれど同時にそれを克服して幸福であろうとする魂の崇高さの存在の共時性。双方は必ず常にともに在る。ひとりの人間のミクロの中に、世界全体のマクロの中に。

キリストは磔刑にされしジョン・レノンは撃たれなければならなかった。漱石「こころ」の先生は己の心臓の血、己の死によって贖われた知を「わたし」へと注ぎかけることでしかそれを伝えることができなかった。

何故だろう。この贖いの物語の必然はどこにあるのか。

そして香港のデモのことを思った。無抵抗非武装の普通のおっかさん風が機動隊に向かって「あんたたちにも子供がいるんだろう、将来子供を持つんだろう、何故子供たちを攻撃する?」と叫び、そうして武装部隊によって顔を催涙弾で撃たれた映像をみちゃったんである。

泣きたくなった。ガンディーの思想は結局通じないのだ。

そして私の心の愚かさはこの絶望という蒙昧に流れようとする実に愚かしさしかない反論を試みる。
時代が、状況が違うのだ。すべての人間の中の「仏性」「善性」のようなものに依拠したものであるガンディーの卓越した哲学、思想はその根幹を否定され失ったとき無力なのだ。世界はもう既に一度腐敗したシステムごとすべて滅びなければ後戻りできないところにまできているのだ。スピード、便利さ、快適さ、失うことを恐れること、損得の計算、倫理と世界全体や過去への畏敬感覚の麻痺。一度踏み外したもの、一度味を占めたものからは逃れられない。

…いや。
否。

こっちに流れきってはいけない。例えばさっき私が考えた善悪の共時性の必然が持つ可能性のこと。

…もっと違うところにあるような気もするのだ。それを見つけなければならない、彼の教えが一般に理解されるように単に欲望は悪として否定する、夢や欲や楽しさの生命力を権威で押さえこもうとする新たな抑圧の暴力としての道徳的理念であるとして把握するのではなく。

それはきっと違うのだ、その思想がイマココで生きることができる、もっと違ったアプローチがあるはずだ。歪んだ自己犠牲や美学なんかではなく。単純なロハスの思想だけではなく。もしも彼のその思想が近代を超克してゆく可能性をもつきわめて現代的なものでありうる、そうであるべきものならば、そしてあの時代あのとき歴史の中であんなにも感動的な実績をもつことができたとするならば、それは何故なのか、どうしてそれが今はダメだなどとおもうのか、背景と戦略とを知によって把握し現在と未来へと活かし照らしてゆくためには、なにか別の理論があるはずなのだ。

何故アレが実効性を持つ「力」として歴史の中で目に見えるものとなり得たのか。

歴史学者や文学者や政治学者や、それぞれがそれぞれの研究分野からの丁寧な資料を読み取ってゆく精緻な分析アプローチでそれを見極め、さらにはそれを統合することで生きた新しい未来というのは拓けてくるものなのではないか。過去をあれこれ言い立てる意味、研究する意味は、たとえそれが些末なことであるように見えても、一旦統合されたとき無意味なものは何一つなく、何かが見えてくる、すべてがその一部である世界のかたちが見えてくる、そのようなところにある。

それが結局はアカデミズムの役割なのではないか。
純粋な知の喜びはもちろんである。それぞれは他の力から守られ独立を守られ保護され、そのことによって、純粋な人間のこころが別種の論理の光の可能性を思いもよらぬところからもたらすことのできるところ。人間の小さな繊細な可能性のタマゴの声をまもる清くあるべき聖地。

だがタマゴはそのまま暖かな巣穴の中で権威の魔力という蒙昧によって濁り腐ってしまう傾向をも持っている。純粋な喜びから生まれうまく育った卵は上手にその外部へと孵らねばならない。十分に成熟したとき外部に向かってその純粋の領域から巣立たねばならない。そのピュアネスの根源の記憶を守っていられる時間がその一つの卵の命の寿命だ。そして限られた寿命は必ずある。

…やっぱりわからないよ。
だけどわかることは、楽しいことや喜びや個々の尊厳を否定するところからはより大きな災害しか生まれない。攻撃し合うところからは決して仲直りや良いものは生まれないってことだ。非暴力、ひたすら否定するという真理への戦略的思考について考える。

 *** ***

…ところでしかし。
この先生はどうもねえ、オルテガの時も思ったんだけど、ところどころ重要なところで、あれ、と上手にごまかしてしまうところがある、ような印象を受ける。それはまあ番組の構成上仕方がないことなのかな、とも思うんだけど。そりゃそうか。100分で偉大な思想お手軽にひとつ、っていう番組だもんね。

例えばさ、ガンディーの掲げた愛と赦しについて語るとき、他人の「自分と同じところ」「自分と違うところ」それぞれを「好きだな」と思うことがあるデショ、と。その矛盾の同時性を「愛」と呼ぶのだ、と。…そんな風にさらりと解釈してみせた。

否定はしないけど、いや軽すぎるでしょうそれ。ダイバーシティの問題。

あれえ、とかわされてしまった印象の所以は、そのとき上手にスルーしてしまったその間の闇の深さの問題。「己の理解できる信奉するものだけが唯一絶対の正義である、違うものは罪であり間違いであるから問答無用に排斥する、許さない、抹殺する、折伏する。」「自分の正義に不都合なものわからないもの無意味に見えるもの役に立たないものは存在しなくていい、抹殺していい、平等でなくていい。」この人間の衝動の黒さ、どうしようもなさの闇という巨大な問題から目をそらしてしまう。諸悪の根源であるその正義への所有欲、というような蒙昧について。

それは否定できない、しちゃいけないし、ただそれはどう認識し処理するか、という問題、そして寧ろ芸術や文学の分野にもかかってくる、っていうようにも思うんだけどね、徹底して追及するべきとこは。だけどとにかくしなくちゃいけないとこだ。ふさいではいけないとこだ。無理やりふさげば必ずもっと恐ろしい暴力や権力という力を帯びたかたちで噴出してくる。闇。蒙昧。


で、シメなんだけど。先生、ガンディーの思想はカントの「構成的理念と統整的理念」の概念に重なるものであると読み取っている。ウン、確かにとりあえずこれだな。とっかかれるとこは。

これは賢治が岩手とイーハトーヴォを、方言とエスペラントを、民俗と宗教と最新物理学や科学を平べったく等価に捉えようとして見せた姿勢と、構造として似ている、とも思う。今できる実現可能な、現実的な手立ての方法論のことと掲げて置くべき理念、完璧なイデア、理想の関係性ね。それは夢と現実、理想と現実、標榜する看板とそのための実質的なツールの関係性だといってよい。嘘も方便とか次善策とか永遠の微調整という具体のレヴェル。

番組もさすが優等生、上手にこっちの方向に落とし込んできれいに終わってくれた。一言でいうと、…よござんしたでございますです、ハイ。

実際重要なテーマはね、「徹底した赦し」なんだっていうことなんだよね。
本当は誰もがわかっているのにわかっていないような気がする、このシンプルで困難な真理に近いところにある感覚の、この不思議。ただこれに至るためにありとあらゆる勇気と智恵が必要なのかもしれない。シンプルな幸福。

 

番組制作に関するコラム。
番外編みたいな裏話みたいな。内なる敵について。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/62_gandhi/motto.html

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いろいろわからなくなるととりあえず不貞寝にすると決めているネコ