私の母世代のご婦人というのは、(私の母をはじめとして、)得てしてあまり言葉にこだわらない人種が多い、ような気がしてならない。
単に私の周りの環境なんだろうけど。
物の名前にこだわらないというか通じることだけが大切で外側は些末なことであるというか。くだらないことだと思われているというか。
流行語や略語なんかも私なんかよりずっとよく知っていて非常によく使いこなすがその周辺や内実についての拘りがみじんも感じられない。まさにシニフィエに対しまったく透明な立場としてのシニフィアンのその恣意の前提の上に構築された世界にあでやかに生きておられる生活の確かさの不思議をしみじみと感じさせてくれる。
大学時代「言い間違いの科学」というような内容の言語学的な講義を受けたことがある。非常に興味深かった。言語の意味を人間のその言語中枢がどのように処理しているのかを、言い間違いの法則性を見出しカテゴライズしていくことによって分析してゆく講義。意味分野によるイメージのカテゴライズと音韻によるカテゴライズとか。細かいこと忘れちゃったけど。
「ドラッグストアでちょっと買い物して帰りたいのよ、このへんあったわよね、マツキヨとか。」「あそこまで行かなくても、駅の近くにできてるじゃない、ウエルカムとかココナツファインとか。」「そうね、あったわね、たしかウエルカム。」
こういうのって突っ込みたくて仕方ないんだがそれって野暮なんだろな。ウエルシアとココカラファインだよ…。
最近自分もいろいろどうでもよくなってきて人のこと言えないけどな。誤字脱字間違い物忘れ不注意すっころぶぶちまける。悲しいが仕方ない。もうなにもかも仕方がないのだ。
今日はきっぱりと雄々しく潔い梅雨入り。
紫陽花ばかりが慰め。